アキラのランド節 |
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幕末明治は福岡のアイン・ランド゙---高場乱(たかば・おさむ)のこと(その1) [03/31/2007]体調は相変わらず悪いです。「つまりは老化だよな・・・」と、開き直っております。今日は、幕末明治にかけての福岡にいた「アイン・ランドみたいな人」のことについて書きたいと思います。 この話題は、「私はフェミニストだけれども、ある種のフェミニスト団体の人と会うと、その人たちがアホに思えることが多かった。なぜ?」という長年の私の疑問とも関わることであります。 私は、1985年から2000年くらいまで、愛知県の女性研究者の団体に所属していました。随分と、そこで勉強させていただきました。その団体は、1970年代に設立されたのですが、その設立に関わった方々は、素晴らしい方々でした。研究者としても骨太で、教育者としても優れ、かつ組織人としても有能な方々でした。その会に入ったことで、いろいろな分野の女性研究者を知ることができて、私の視野は格段に広がりました。あの会の方々の生き方には、どれほど励まされた、わかりません。 今でも、あの団体を設立なさった方々を、感謝の念で思い出します。特に、水田珠枝先生と安川悦子先生は、私にとっては模範でありました。おふたりとも、学長や学部長、研究科長などを歴任なさって、大学はすでに定年退職なさっておられますが、学問的情熱は全く衰えておられません。 私がこの会に入会したのは、ためしに見学に出かけたこの会のシンポジウムにおいて、あるベビーブーマー世代の女性研究者の発表に対する安川悦子先生のコメントの痛快さに惹かれたからでした。そのベビーブーマー世代の女性研究者は、「無農薬野菜といいながら、そうではない食品が市場を出回っている。農薬漬け食品は癌になる率も高いのだから、もっと厳しく規制していかなければ、いけない」とか話していた。まあ、別に反論しようもない正論だよな。いかにも、いかにも、しょうもない馬鹿優等生的ベビーブーマーが言いそうな正論です。 そうしたら、安川悦子先生が、「環境なんて、いつでも危険で劣悪あったでしょう、人類にとっては。今日まで生き残ってきた人間の遺伝子は、劣悪な環境の中を生き残れた遺伝子でしょう。癌にならない環境づくりは大事ですが、いちいち細かなこと気にしてもいられません。みな忙しいのだから農家が無農薬で野菜や米を作るかどうかなど、いちいち監視していられないでしょう。癌になっても平気な遺伝子の持ち主が、生き残って行くのですよ。人類はそうやって、ここまで来たのです。神経質になってもしかたありません」と、しれっとクールにおっしゃったのです。 きゃあ〜〜カッコいい〜〜!!と私は大いに感心&共感しました。そうなんですよ!!ほんと、「女・子ども&男のオバサン」みたいに、ぎゃあぎゃあ健康食品がどうの、行政がどうのなんて、騒いでもしかたないよな。自分で植物栽培したり、生産したりしない人間は、何食べさせられても、基本的には、文句言えない。現場にいないんだから、何されても、真実はわかりようがない。気にしないで生きていくしかないよ、ほんと。 ほんとうに、あの会にはお世話になりました。ありがとうございました。「愛知女性研究者の会」という名前の団体でした。今でも、あるのかな? その会に私が出席しなくなったのは、その団体が、互いの研究内容を紹介しあって研究者として叱咤激励しあい情報交換する場ではなくなったと、感じたからでした。設立の趣旨からはずれてきたなと、思えたからでした。設立当時のメンバーの方々は、大学や学会の重要な役職のために超多忙で、すでにその会の運営にはたずさわっていらっしゃいませんでした。 そこの団体の活動目標が「セクハラ撤廃運動」になったときに、私は正式に退会しました。私は退会の理由は言いませんでした。研究の現場とか、職場で、女性研究者がセクハラにあうのが由々しき問題だから、女性研究者の団体として、これを第一の問題にすべきだというのは、まあ正論は正論ですからね。まるで、中学の生徒会の議決みたいに、正論ですよ。 しかしですねえ・・・若き女子学生じゃあるまいし、お嬢ちゃんじゃあるまいし、セクハラされたら、即座にギャアギャア抗議すればすむことです。「いい子ぶりっ子」やってないで、凶暴になればいいのです。それで終わりですよ。問題にするほどのことではありません。そんなこと問題にするのは、正しくはありますが、幼稚です。 自分がやりたいこと、進みたい道に苦しいことはつきものです。愚劣な男にも出会うでしょうし、意地悪女にも出会うでしょうし、そいつらから嫌がらせされることも、当たり前にあるでしょう。そんなこと無視して、「私は、これがしたいからやるの!他人なんか、どうでもいいの!」と強烈に思えないような人間が、自分のやりたいことに食い下がれないような人間が、研究者で食っていこうと思うのが間違いです。 うちの桃山学院大学の学生でも、将来は政治家になりたいけれど、可能性がないとか、政治家の二代目じゃないし、金も地盤もないし、とかグダグダ言っていた奴がいましたが、そんなこと気にしているような程度の志と神経ならば、やめたほうがいいよ。ろくなもんじゃないんだから、現実の政治の世界なんて。魔窟なんだから、あんな世界は。悪魔に魂を半分売らないとやってゆけない世界なんだから。それでも、やるの!!と闇雲に思えないのならば、親の死体踏み越えてでも、どうしても政治の世界に入りたい!という激しくも確信犯的な欲望がないのならば、やめたほういがいい。政治学かなんかの、しょうもない学者にでもなったほうが、身のためです。とても退屈ではあろうけれども。政治ジャーナリズム関連のマスコミ界は、嘘の垂れ流しだから、わざわざ行くほどの世界でもないしなあ。まあ、やりたいなら、やるしかないよね。 若い人を見ていると、ほんと、これから先が大変だなあ・・・と思います。まず、ともかく、どうやって食っていくか、仕事は何するのか、その仕事は人生の3分の1の時間を注いで、何がしかの意味があるものなのか、とかクリアしていかなければならない問題が山積ですからね〜いやあ・・・自分自身の来し方をふりかえっても、たとえ平々凡々な人生とはいえ、先が見えなかったからこそ、よくわかっていなかったからこそ、恐れ気もなく歩き続けてこれたのですね〜〜 しかし、みなさん、特に若いみなさん、人生って、結局、若い頃に心配したことのほとんどは起きないものであります!50年以上生きてきて、わかったぞ。この世の中は、「心配産業」が多すぎる!恐怖や不安につけこむ商売が多過ぎる!ある種のユダヤ資本だって、もうこの世界が悲惨ばかりに満ちているみたいな映画を製作し続けているでしょう?まったく、テメーラの歴史が暗かったからって、他民族にまで、自分たちの恐怖を伝染させるな!しょせん、映画も文学も真実じゃない。妄想の産物でしかない。 50年以上生きてきて、私は断言できます!人生は、悲しみより、喜びの方が多い!!年取った人間は、愚痴なんか言ってないで、そういう真実を、もっと声に出して表現しろ!まったく、老後の心配なんかしている暇があったら、深呼吸して、青空を見上げろ!と、桜餅と緑茶をいただきながら、しみじみ思う土曜日の昼下がり・・・って何の話か。 そうそう女性研究者のセクハラの問題でした。あのねえ、女性研究者のみなさん、セクハラされたら、即座に「やめろ、馬鹿!!うるさい!!」と怒鳴りつけることができないような「お行儀のいい」「お上品」で「心優しい」「女らしい女」が、何の不如意もなく、みなさんに愛されて好かれて、軋轢もなく、好きなことやって食っていこうなんて、チャンチャラおかしいの。世間は、別に、あんたに研究者でいてもらいたいわけじゃないんだからさ。「貴婦人」でいながら、かつ「キューリー夫人」でいるのは、無理なことです。 天才でもないし、世界で10の指に入る大学者でもないような凡庸な頭脳の持ち主が、好きなこと勉強して食ってゆきたいと思うのだから、愚劣な人品卑しい人間にうんざりするほど遭遇するなんて程度のことを経験するのは、当たり前です。正当なことです。それぐらいの不如意を引き受けてこそ、まっとうに忍耐力のある人間になれるってものです。 はっきり言って、ろくでもない奴の方が多かったですよ、私が桃山学院大学に来るまでに出会った研究者とか同僚とか学会の人間なんて。名前を思い出せないくらい、くだらない連中が多かったです。私は、軽蔑して関心がなくなった人間の名前は忘れてしまうので、名前を思い出せないです。はい。 私なんか、南山大学という名古屋の無名私立大学の出身ですから、若い頃の状況は、けっこう、きつかったです。南山の教授たちのほとんどが、まず自分ところの院生を馬鹿にしまくっていました。あ、すみません。私は自分の母校の南山大学、はっきり言って嫌いなんですよ。言っちゃった〜〜ははは。それから、その地区の学会の例会になど出席しても、最初は、「南山出?あ、こいつ馬鹿」という前提で扱われたな。ついでに、同窓の男の院生の先輩や同輩からも、馬鹿にされまくりました。馬鹿が馬鹿を馬鹿にしちゃって、馬鹿ね〜〜♪ウンチがオシッコを嗤ってるうう〜〜♪ あのね、若い女性のみなさんに言っておきますけどね。(かなりの数の)男ってのは、女が自分より圧倒的に劣った立場だと、いくらでも親切にしてくれるの。いくらでも優しくしてくれるの。優越感と支配欲から、ね。人間的に優しいわけではないの。 だけどね、少しでも、自分と並び始めると、男は女に、意地悪するもんなの。(かなりの数の)男ってのは、プライドだけで生きている弱い臆病な生き物だから、すっごく嫉妬深いの。でもって、自分が嫉妬しているってことが自覚できないの。馬鹿なの。自己分析できないの。自分の感情を直視できないの。その程度の、他愛ない奴が多いの。ガキなの。お子様ランチなの。 だけど、男のいいところはね、「あ、こいつは、こっちが何言っても駄目。こいつの視野に俺は入ってない。でも、こいつは俺に敬意を払うフリぐらいはするな、ならばOK」と、合点すれば、もう何もしないってところ。そうなると、無関心になってくれて、形式だけの挨拶と社交辞令でおつきあいできます。これぞ、「平和な大人の関係」ですね〜〜そういうところは、つきあいやすいですよ、男というのは、ほんとうに。そういうところは、男はオトナなの。立派なの。豚キムチなの。 ただし、最後まで、「オトナの無関心」になれない男もいます。よきにつけ、悪しきにつけ、人のことが気になってしかたないっていう「お節介オバサンみたいな男」っています。母親とか姉妹とかがあまり質が良くない家庭で育ったとか、(無駄口たたかない男らしい)男がいない家庭で育った奴に多いです。まあこういうのは、口うるさいだけの根性なしのピーター・キーティングだから、捨て置きましょう。 つまり私が何を言いたいかといえば、男に意地悪されて、嫌がらせされるようになったら、女も一人前だってことです。親切にされなくなったり、「かばって」もらえなくなったり、悪口言われるようになったら、喜ぶべきです。私は、先輩の男の院生や教授や同業者に、しょーもない嫌味言われたりするようになったときは、「あ〜〜こいつら嫉妬してる〜〜カッコ悪い〜〜ばっかみたい〜〜貧乏くさい〜〜♪」と思って、喜びました。私は、私的領域で、まともな男をちゃんと確保できてましたから、外の世界で、馬鹿男にどんな意地悪されても、どうでもよかったですし〜〜 まずは、女性のみなさん、結婚でもいいし、不倫でもいいし、同性愛でも、近親相姦でも、その他の各種いろいろ「禁断の愛」で構いませんから、まずは、知的にも情緒的にもサポートしあえる「安定したパートナー」を確保してから、荒波に、嵐の中に、アホ男&アホ女の海に、漕ぎ出しましょう〜〜って何の話か? そうそう、女性研究者に対するセクハラの問題でした。そういえば、セクハラには深刻な被害甚大なものがあって、そのセクハラに抵抗したら、研究者として学会でやってゆけなくなるから、やむなく被害者になるケースがあるので、そういうのは、女性研究者団体として、見過ごせないという意見も、あのころ、やたら聞いたなあ。 当時は、京都大学だかの東南アジア研究で有名な教授が、出張先のホテルで、女性の弟子兼秘書を強姦して、どうのこうのという問題が起きた後でした。その教授は京大を追われ、日本を追われ、ついには東欧の古都で客死しました。 私は、1980年代に、事件が起こるずっと前に、この「東欧の古都で客死した」超有名学者さんの実物を、某国際的団体のフォーラムで見物したことがありました。いかにもお上品な有名スター学者らしい端正な色白の「お公家さん風」顔でしたが、眼が奇妙でした。普通程度に勘がいい女ならば、近寄る気にならない類の奇妙な邪気を、その眼は発散していました。 私は、一応は、この被害者の女性の支援団体に寄付なんかもしたことが数回あったのですが、しかし、はっきり言って、「どっちもどっちだ」と思っていました。あの事件の「被害者」とされた女性は、研究者として出世したかったからこそ、あの気持ちの悪い有名スター学者の弟子&秘書をやっていたのでしょう?ならば、最後まで、計算ずくで、そいつを徹底的に利用してやればよかったのに。それも、ひとつの覚悟の定まった立派な生き方です。 その学者が男としても人間としても素敵なんで、惚れていたとかならば、セクハラされたら、嬉しいようなもんだろうし、そうなれば、それは恋愛であって、セクハラじゃないけれども、でも、事が起きたとき、セクハラだと騒ぎ立てたのだから、好きだったわけじゃないんだよね、この犠牲者の女性は、その大学者さんを。 ならばさ〜〜会社員とかで業務命令で配属されたわけでもないのに、好きでもない男なんかの弟子&秘書なんか、よくやっていられたよ〜〜この女性。いくら相手が学会でスターの、メディアで売れっ子知識人の大学者でも、気がしれないわ。研究調査旅行とか、出張なんかでも、いっしょにいなければならないでしょう、秘書って。この被害者の女性って、人間として以上に、女として強烈に猛烈に鈍感だよね〜〜 打算から、出世欲から、私利私欲から、しょうもない人格で気持ち悪い奴と感じつつも、その大学者のそばにいたのならば、ずっと立派に雄々しく鈍感やっていればよかったのに。ならば、誰も不幸にならなかったのに。その大学者さんも、東欧の古都で孤独に死ぬこともなかったのに。その学者さんにだって、奥さんもお子さんもいたのに。 女性研究者のみなさん、どっちの道を採るか、ちゃんと真面目に選びましょう〜〜いったん選んだら、迷いは捨てましょう〜〜学問の世界を頭脳明晰さと業績の質で生き抜けない場合は、権謀術数と打算と色香で生き抜くか、どうでもいいの!食ってゆければいいの!好きにやるの!と生き抜くか、どちらかです。どちらも選べないような優柔不断で潔くない中途半端な甘ったれた奴が、ギャアギャア騒ぐんだよね。しかも、つるんで。団体で。集団で。あ〜〜カッコ悪い。 すみません。前フリの話題が異常に長くて申し訳ありませんでした。やっと本題に突入いたします。 体調が悪かったこの1ヶ月の間に、私は、いつもならば絶対に読みそうもない本をテキトーに読み散らしておりました。その中の一冊に、『人生劇場』の作者の尾崎士郎が書いた明治の人々を描いた短編集(昭和30年新潮社出版の『明治堕落女学生』)がありました。夫が明治時代が好きなので、我が家には、明治時代に出版された本とか、明治時代を舞台にした大正期や昭和前期の小説の古本が積み重なっています。 で、その尾崎士郎が書いた明治の人々を描いた短編集の中に、戦前の右翼の大物で、大アジア主義を唱え、かつ政治結社「玄洋社」の頭目だった「頭山満」(とうやま・みつる:1855-1944)の若き日を描いたものが2編ありました。「明治壮士節」と「波荒らし玄洋社」です。 頭山満については、中村天風氏の師匠だったということで、その名前だけは知ってはいました。今回、ちょっと調べてみましたが、実質的には何をした人なのか、資料を読んでも、いまひとつ、よくわかりません。自由民権運動に奔走したとか、孫文とか蒋介石と親交が深かったとか、いろいろ影響力が大きかった人物であることは確かです。その人格の大きさで、多くの人々を魅了し、政財界の相談役みたいなことをしていた人物らしいです。 ともかく、あの暴れん坊の中村天風さんの先生だったのだから、とんでもなく痛快剛毅な人物だったことは、間違いがありません。写真見ても、お〜〜と感心するような、「こんな人物、もう日本のどこにもいないんだろうなあ・・」と詠嘆させられるような立派な古式豊かな風貌であります。 なにしろ、外交官で歴史学者のE・H・ノーマンをして、「福岡こそは、日本の国家主義と帝国主義のうちでも、最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」と言わしめたのは、要するに頭山満に代表される福岡出身の国士たちと、その政治結社でしたから。 しかし私が何よりも驚いたことは、この頭山満という人物の師というのが、「女性」だったということでありました。戦前の代表的右翼の大物の先生が「女」だったって、どーいうこと?!私は、仰天しました。 尾崎士郎の短編小説は、18歳か19歳の少年だった頭山満が、漢学者で眼科医でもあった高場乱(たかば・おさむ:1831-91)という男装の女性が自宅に開いている私塾に入れてくれと強引に迫る場面から、始まります。男勝り(おとこまさり)の高場乱さえも、タジタジとなるような大きな男らしさを少年ながら発散する若き日の頭山満と40歳過ぎたばかりの高場乱の、弟子と師の立場を超えた暗黙の淡い恋を、その短編は暗示しておりました。 この高場乱さんが開いていた私塾の名は、「興志塾」でした。「こうしじゅく」と読みます。この塾は、尊皇攘夷の志ある青年たちが共同生活をしながら、男装の女性から、漢学を学び、「君子の生き方」を学ぶ場として、幕末から明治にかけての福岡では有名でした。この塾は、医療用に栽培されていた朝鮮人参畑のなかにあったので、福岡の人々は、「興志塾」を「人参塾」と呼んだそうです。 私は、高校時代から、日本女性史みたいなものは読んでいましたから、学校の日本史では習わないような、歴史に埋もれたパイオニア的女性たちのことは、結構知っているつもりでした。だけど、この「高場乱」(たかば・おさむ)なる女性漢学者&眼科医&教育者である「興志塾」の塾長のことは、聞いたことも読んだこともありませんでした。みなさん、幕末明治の福岡に、そんな女性がいたって、ご存知でしたか?? この女性は、西南の役で死んだ志士や、大隈重信を暗殺しようとして果たせずその場で自害した志士や、後の右翼の大物になった頭山満などの国士の、つまり国の未来を考えて奔走した人々の若き日の先生だったのですよ。この女性の弟子たちは、かなりいろいろやらかしました。 長州の吉田松陰ほど有名ではないにせよ、福岡での志士たちへの影響力からいえば、松陰さんに引けはとらないのですよ、この女性は。先のE・H・ノーマンをして、「福岡こそは、日本の国家主義と帝国主義のうちでも、最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」と言わしめた、その福岡の精神風土、政治風土の母胎になったのは、この女性の私塾だったと考えられるのですから。でしょう? 幕末に勤皇の志士を助けて奔走した女性っていうのは、いないわけではありません。京都の旅館の寺田屋の女主人とか、長州の野村望東尼とか。でも、学問によって、教えることによって、世に人材を送り出すことによって、幕末明治の日本に貢献した女性は、この高場乱さんだけではないでしょうか? 考えてみてください。幕末明治の日本ですよ。男尊女卑なんか空気みたいに当然の時代ですよ。しかも、九州ですよ、九州。福岡ですよ、福岡。今だって、九州の男なんて、えらそうに威張っていそうじゃないですか。そんな時代の、そんな土地で、血の気の多い理屈っぽい下級武士の男の子たちと、いっしょに暮らして教えていたのですよ。もう、どうしようもない気の荒い男の子たちですよ、そんな連中。 この弟子たちは、何事かを決行すると、そのことは語らずに、この先生のところに挨拶に行ったらしいです。この先生は、「これが今生の別れ」と知っていても、さりげなく弟子と会い、黙って弟子の背中を見送ったらしい。いくら頭がよくても、小柄で病弱だったという女性に、そんな激しい男たちの「師」が、なんで務まったのか? お花やお茶やお琴や和歌じゃないですよ、教えていたのは。この女性は、「男たるもの、どう生きるか」を教えていたのですよ。「君子は、国のために、どう生きるか」を教えていたのですよ。『論語』『史記』『左伝』『三国志』『水滸伝』『孟子』などいろいろ、ひとりで教えていたのですよ。 この女性は、『三国志』や『水滸伝』なんか暗誦していたから、講談のように弟子たちに語り聞かせることができて、弟子たちは、先生が語ってくれる血沸き肉踊る物語に、ハラハラドキドキしつつ聞き入ったとか。娯楽の乏しい時代だったから、弟子たちは、喜んで聴いたろうなあ・・・ この女性は、塾費もとらずに、本業の眼科医で生活を支えながら、弟子とともに弟子と同じ貧しい食事で平気だったとか。で、60歳で養子と養子の家族とともに、弟子たちに見取られながら、弟子に交互に痛む背中をさすられながら、亡くなったそうです。 高場さんの写真は残っていません。撮影されたこともないのでしょう。弟子が師匠のことを描いた絵が一枚だけ残っています。その絵に描かれた高場乱さんは、牛の背に腰掛けて、花を一厘手に持っています。華奢な体つきで、細面(ほそおもて)です。実際に、牛の背に乗って往診したらしいです。その絵に描かれた「高場先生」は、茶筅髷(ちゃせんまげ)結った男装ながら、可愛いらしいです。 しかし、女性であろうと、学問があり、尊敬できる人格の持ち主ならば、師として慕い従うことができた当時の福岡の男たちもすごい。実に素直な人々ではありませんか。「真の豪快さ」「真の男らしさ」というものは、そういう素直さにあらわれるのです。九州のイメージが、福岡のイメージが、九州の男性のイメージが、私の心の中で、ぐっとアップしました! ちょっと、ちょっと、ちょっと、なんで、なんで、なんで、この女性のことを、今まで私は知らなかったの〜〜〜〜!!!?? これから先は、続編をお読みください。今回は、長いのですよ。 |