アキラのランド節

問題は階級ではなくてカネではなくて、脳の動かし方だなと思った(その1) [08/19/2007]


おひさしぶりです。8月10日に名古屋に帰って以来、ひたすら休養しておりました。お盆も過ぎたのに、今もって回復していません。ずっと半病人の状態です。しかし、気にしてもしかたないので気にしていません。白内障の手術は来週に受けます。手術後の人工レンズが入った私の目の前に世界は、光り輝くのでありましょうか。

白内障のせいで、教室座席最前列から5列目くらいまでに座っている受講生の顔しか見えませんでした。つまり今年の春学期は受講生の名前と顔を覚えることができませんでした。教室に少数ではありますが、学生の風体で紛れ込んでいる「私語の多い3分間の沈黙さえ達成できない奇妙な地球内生物」を名指しで罵倒できないという不便な状態のまま、週に11クラスをこなすのは、なかなかハードでした。

ともあれ、その無茶苦茶な日々も終りました。そのあとの試験監督&試験採点&成績報告も無事に通過し、大学院のプチ集中講義みたいなものも終えました。来年度の(文学部改組)国際教養学部設立の宣伝広報のための高校訪問も8月分はすませました。興味深い、いろいろなことがありました。しかし、その記憶も連日の猛暑で溶けてしまいました。

ふ〜〜長い悪夢から、やっと眼が醒めたような感じです。悪い夢の中で、必死でもがいたから、目覚めても、くたびれきって、体中に痛さが残っているという趣なのが、今の私であります。悪夢は、サッサと忘れよう〜〜愛用のiPod nanoでMaroon 5の最初のアルバムと2番目のアルバムを聴きながら、悪夢を忘れよう〜〜♪

ところで、このMaroon 5というグループは、地味ながら、すごいですね。アルバムに入っている楽曲にひとつもハズレがありません。普通は、一曲のなかにひとつのサビしかありませんが、Maroon 5の曲には、ふたつもみっつもサビがあります。ハイパー・ポップスですね〜〜♪ポップスの「ターミネーター」です。これでもか、これでもかと、才能をつきつけてきます。どこかで聴いたようなフレーズ&メロディのような気がしますが、実は、聴いたことがないようなフレーズ&メロディです。そこには「爽快さ」と「気の明るさ」があります。ただし、私はメンバーの顔も名前も知りませんが。

それはさておき、何もやる気がないままに、観まくっていたDVDの中で、想定外によかったのが、ソフィア・コッポラ監督で、キルティン・ダンスト主演の『マリー・アントワネット』(Mary Antoinette, 2006)でした。ほら、あの「恋をした、朝まで遊んだ、全世界に見つめられながら」というキャッチ・コピーを耳にしたことがありませんか?

「全世界に見つめられながら」なんて、少なくとも日本人は誰も見つめていなかったぞ〜〜「全世界」にアジアは入ってないのね〜〜なんてつっこみをいれたくなるという点において、このコピーはなかなかうまいです。ちなみに、DVDのパッケージは、ロリータ趣味全開&ピンク色満載です。デコレーション・ケーキみたいに華麗で、おいしそうです。なにゆえか、甘い香りつきの「顔の油とり紙」セットが付録についていました。マリー・アントワネットは、毛穴が広がりやすく油の過剰な分泌に悩んだのでしょうか?

まあ、アカデミー賞を衣装部門で受賞した映画だから、キレイキレイなお衣装を見せてもらいましょう〜〜内容はどうでもいいよ〜〜というノリで、私は『マリー・アントワネット』を見始めました。女性が「洋画」を見る大きな欲望のひとつは、「浮世離れするほど美しい人やものを見て癒されたい」というものです。ですから、私は、日本映画はほとんど見ません。人間も風景も、小汚くて貧乏くさいものなんか、見たくもないよ。『Always 3丁目の夕陽』なんて見て喜んでいる人って、よっぽど余裕のあるお金持ちなのね〜〜昭和30年代の日本の風景かよ、あれが!?テーマパークじゃあるまいし!

(あ、こういう真実を正直に言うから、学生による授業評価アンケートの自由記述欄にメチャクチャ書かれるのだろうなあ・・・「男で馬鹿で性格が悪くて不細工なんか存在そのものが環境破壊だから、授業料だけ払って教室に来るな!」と思っている私の暗黙のメッセージは、ちゃんと伝わっているのね〜〜あの方々に)

ですから、『プラダを着た悪魔』もヒットしました。主役のアン・ハサウエイの可愛い爽やかな容姿や魅力的な声や、ファッションの多彩さや、ファッション雑誌のカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のバッグやコートが、毎日変わって、桁はずれに数が多くて、かつ最高級ブランドで、ゴージャスでした。金と情報さえあれば、若く美しくあり続けることが可能なのが現代アメリカです。金もなければ情報にアクセスできる社会的資源も持たない大多数の女性たちにとっては、中年過ぎてなお美しく華やかで財力もあるカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)は、憧れですね。いくら若くて美しくても金がなければ、面白くもんなんともないよな。アメリカにおいては、老いて醜くて金がないのは、まさにホラーで「呪怨」でしかないよな。『プラダを着た悪魔』は、虚ながら華やかにも「アメリカ」していました。

書店に立ち寄ると、日本でも、(ただでさえ無駄に多い)ファッション&美容系女性雑誌は、まだドンドン増えています(廃刊するもの多いのかな)。増えているってことは、買う人がいるということです。ならば、『プラダを着た悪魔』はヒットするに決まっています。あの映画は、一大産業であるファッション界の競争と厳しさを垣間見させる情報映画でもありました。うちの学生も、アパレル界進出希望者は多いなあ〜

とにかく、その連想で、ヴェルサイユ宮殿を舞台にした「宮廷政治劇つきファッション・ショー」みたいなもんだろうと思って、『マリー・アントワネット』見たのですが、この映画は、喜ばしくも、私にとっては、もっと本質的な問題を扱っていました。

この映画には、宮廷陰謀だの政治だの運命の恋だの何だのと劇的に盛り上がる点がまったくありません。懐かしのコミックの『ヴェルサイユのバラ』や、宝塚歌劇版のそれとはわけが違います。淡々とマリー・アントワネットさんの宮廷での日常を描いていました。スウェーデンのフェルゼン伯爵との不倫も、貴族社会ですから、おおっぴらにならなければ、誰も騒ぎません。そんなことで大騒ぎするのはシモジモの連中だけです。朝起きて食べて寝るまで、おっとりと優雅で淡々としたプロセス・・・その日々が繰り返されていって、その末に、ある日唐突に宮殿に反乱軍や庶民が押し寄せてきました。

マリーさんには、事情がわかりません。ピンときません。非常事態らしいのですが、長年の習慣なので、優雅に静かに美しく着飾りながら食事をします。あんまり外がうるさいので、宮殿のバルコニーに出て、習慣にのっとって優雅に礼をしたら、暴徒たちがびっくりして、アントワネットを称える声を上げたりします。どうも、事態が飲み込めていないのは、王室側だけではなく、革命の主体である(とされる)市民大衆も同じだったようです。というか、この映画には、そのようなものとして市民が描かれています。「自由の女神」は、先頭に立って彼らを導いておりませんでした。働いても働いても、満足に食ってゆけない暮らしに疲れ、怒りに突き動かされて、王権を神授された人々が住む宮殿を襲うという、大胆にもすさまじい暴挙をせざるをえなくなった(主体的な意志から噴出される類の)迫力が、その映画に描出される一般民衆には、まったく感じられませんでした。

こういう表現って、やっぱり意図的なんだろうなあ・・・

この映画見て、「フランス革命って、市民革命じゃなかったんだなあ〜〜やっぱり。庶民たちは、シトワイエンとか呼ばれていい気分にされて扇動されて、大騒ぎしただけだったんだろうなあ・・・貴族や王室への嫉妬と自分たちの生活の不如意への怨念だけで動いたmobだったんだろうな・・・」と、私は、あらためて思いましたです。

大衆というのは、18世紀のフランスでも21世紀の日本でも同じです。日常生活の次元だけで生きていて、狭い感覚的な満足だけを求めています。あくまで頑固にも偏狭にも世界内存在であって、自分自身や人々や社会や世界をつきはなして、上から眺めてみるとか、下から横から斜めから眺めてみるとかする習慣はありません。抽象的な次元に立って、「正直言うと、こういう社会は面白くないのだけど、それはなぜ?」とか「世界の資源は人類全員を食わせることができる程度にはあるはずだよなあ・・・だって食べ残しのゴミが多いよ〜〜」とか「こういうのって、ほんとに必要?思いこまされているだけじゃないの?」とか考えないのが、大衆です。そんなこと、1930年の時点で、オルテガが『大衆の反逆』で書いて久しいです。

「俺たちを食わせろ!俺たちに要求するな、指図するな、保護して面倒みろ!義務など知らん。権利だけちょーだい」と、騒いでも大丈夫なときはギャアギャア騒いでいるガキが大衆社会における大衆です。これ事実ですね。私は、いい悪いとかの問題を言っているわけではありません。事実を指摘しています。

大衆社会における大衆とは、「行くところないから教室に来てる。独りで、なんかする根性ないし、寂しいし。したいこともないし。でも勉強はしたくない。理解できないのは、ボクの脳の問題じゃない!教え方が悪い!でも、ともかく単位は欲しい。欠席も遅刻も私語も試験零点でも許すのが、良き教師だ!事実を指摘して叱る教師の人間性を疑う!」と思っている類の大学生と同じです。

しかし、こういう人々の存在も必要なのです。良質上等の生命は、過剰な無駄という巨大な母胎があってこそ、生まれます。ですから、DNAだけを残すためにだけ生まれ生きる人々は、おびただしく存在しなければなりません。多彩多様な遺伝子の壮大なシャッフルがあってこそ、滅茶苦茶にランダムに組み合わされてこそ、ひょんなことから、救世主も指導者も天才も美女もハンサムも生まれるのですから。

話を元に戻しますが、ともあれ「世界内存在」にとどまる大衆庶民が何万人何億人集まっても、革命なんか起こせやしません。無理、無理。非現実的。

所与の世界のありかたに根源的に疑問を持つ人間、つまり脳内において所与の世界から遊離できる人間でないと、革命など思いつきもしません。また、革命の成就には、気長で静かで隠密で粘着的で構築的な準備が必要です。莫大な金もかかるし、情報分析も必要だし、諜報網も張り巡らさないといけません。やっぱり、そうとうに頭がよくて口が堅くて意思強固で、事の実現に執着した、また執着できるぐらいの大きな欲望を持ち、その実現なくして生きている意味はないと思い込める情の濃い人々から構成される鉄の結束の秘密結社みたいな組織にしか、「革命」は計画、実行できません。「その他大勢」は、そのような結社の構成員のパシリか手足か、せいぜいが背景にしか過ぎません。

だから、「市民革命」なんて存在しません。「市民革命」に見せかけたクーデターとか「国盗り陰謀実行」が、アメリカ独立革命であり、フランス革命であり、ロシア革命であり、中国革命であったのでしょう。もしくは、「市民」とは、古代ギリシャの時代から変わらず、やっぱり「奴隷を所有できる特権的人々」のことなのですね。ならば、まぎらわしいから「市民」なんていう言葉使うなって。「脳と体力と実行力と結束力のエリートの革命」って、言ってちょーだい。

ここらあたりのことは、Victor ThornのThe New World Order Exposed(2003)とか読んでください。これの翻訳が、副島隆彦氏の『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた』上下巻(徳間書店、2005)です。Carroll Quigleyの Tragedy and Hope:A History of the World in Our Time(1966)も読んでください。1311ページある本ですが。これは翻訳出ていません。ただし、この本の概要のような書評が、Alan B. Jones のHow the World Really Works(1996)の第2章ですから、そこだけ読んでおけばいいかもしれません。

(実は、今年の春学期が私にとって悪夢であった理由のひとつは、全学部1年生向けの必修教養科目「世界市民」を担当したということがありました。「世界市民の養成」が桃山学院大学のキャッチコピー(あ、理念?)です。各学部から2名の教員が出て、10クラスほど開講されます。私はこの科目を初めて担当しました。「世界市民なんてさあ・・・冗談は顔だけにしてよ。市民さえ、ほとんどいないのにさあ・・・だいたいの人間は、マスコミや政府や役人に好きに操られて生きていくしかないんじゃないの?犯罪者にならずに、働いて税金払って、家族養って行くのがせいいっぱいなんじゃないの〜〜?偽善は必要だけど、いい加減にしてよ・・・」と思っている教師にとって、この科目を教えることは拷問だったのでありますよ。この科目に関しては、私はかなり苛々しました。あ、また正直に言っちゃったなあ・・・)

ともあれ、「市民革命」であろうが、「脳と体力と実行力と結束力のエリートの革命」であろうが、どんな背景があったにせよ、「フランス革命」は起きてしまいます。アントワネットは、夫のルイ16世と娘と息子とともに、よくわからないままに、長年馴染んだ召使とも別れて、つましい姿をさせられて、つましい馬車に乗せられてヴェルサイユ宮殿を出ます。革命軍から逃亡しようとします。そのとき、マリーさんは、馬車の中から、空を木々を見上げて、淡々と宮殿に別れを心の中で告げます。帰ってくることはないということは、マリーさんにはっきり理解できるのです。なにゆえかは、わからないままに。

ここで映画は終ります。静かな幕切れです。心に残る終わり方です。身の回りで生起することを黙って淡々と素直に受け止めてきたように、唯々諾々と、騒ぎもせずに、淡々と素直に処刑されたんだろうなあ〜〜この女性は・・・と観客は思わされます。つまり、この女性の「愛すべき美しき無垢なる凡庸」に、観客は心打たれるのです。

オーストリア皇帝のハプスブルク家に生まれて大切に育てられた美少女は、14歳でフランス王室に嫁ぎます。着替えから何から全部他人にやってもらう人生です。すべて受身で、やってもらうまで疑わずに待つのが日常ですから、従順です。急いでしなければならない事があるわけではないので、従順に待っていることができます。他人が、自分の世話をきちんとすることは空気のように当たり前ですから、他人に対して悪意を持ちようもありませんし、他人の悪意を感じることもありません。実際、みんなが、自分を大事にしてくれます。何につけても気を遣ってくれます。それが、みんなの仕事ですから。

また同世代の貴族の女性たちが、いつも彼女を取り巻いて、賛美の言葉しか言いませんから、孤独を感じる暇もありません。ですから「空虚」というものを感じる心の襞(ひだ)が育成されません。ふと空を見上げても、「どうかなさいまして?」とかナントカ、誰かが口を挟むでしょう。トイレに籠もってじっと思索にふけようとしても、あまり長居すると、エレガントに誰かがドアをノックするでしょう。「うっるさいな〜〜ほっとけ〜〜!!」と、私みたいに怒鳴り返すことは、絶対にマリーさんは、しません。だいたいが、生まれたときから、そういう状態ですから、「独りになりたいわ・・・」とは思わないです。「なにかが足りない・・・でも、その何かがわからないわ・・・」という思いが、かすかに心によぎっても、目先の刺激に、その感慨もすぐに消えさっていくでしょう。なにしろ、ヴェルサイユ宮殿は、「巨大壮麗なる最高級ブランドばかりのショッピング・モール」みたいなものですから。

こういう育ちがいい美少女は、最初からみんな持っていますから、激しい欲望につき動かされて・・・なんていう情熱とは無縁です。女帝(マリア・テレジア)の娘なのですから、宮廷権力欲とか支配欲もありません。最初から頂点にいますから、他人を動かそうとせずとも、他人のほうが動いてくれます。たとえ、頂点にいても、ブスならば、「キレイに見せなきゃ!」とかの鬱屈とか努力もしなければなりませんが、美人だから何を着ても似合います。そのときの感情の揺れ動くままに、ファッションも化粧も髪型も選んでいればOKです。

一流の教師からあらゆることを勉強させられますが、その知識や技術で食っていく必要などありませんので、訓練などしません。脳や思考力を鍛える必要などありません。マリーさんに脳を鍛えたいという欲望も生じません。そういう欲望を持つことは、前提として「欠損」をかかえていなければなりませんが、マリーさんは、最初からみな持っていますので、他人とはっきり比較されるわけでもないので、序列や点数がつけられるわけでもないので、「自分から強く求める」という心理が刺激され要請される契機がありません。ましてや五感の満足以外の抽象的な欲望を刺激されることなどありません。マリーさんにとって、勉強とは学問と教養のつまみ食いです。ですから、どの科目も面白く楽しく、どの科目も理解できません。

こういう女性って可愛いですよね。話していてワクワクと刺激的に面白いわけではありませんが、無邪気だし、素直だし、いっしょにいても不快ではないし、うるさくないし、言動が予測できるので、つきあっていても気楽で、疲れません。物足りないけれども、美しく可愛い顔を眺めていればいいです。環境ビデオみたいな人間ってのも、いていいじゃないですか。

「パンがないなら、お菓子(cake)を食べればいいでしょ?」というマリー・アントワネットさんが言ったとかで有名な、あの台詞が映画にも出てきますが、従来は、この言葉は、民衆の苦難に無知な貴族の傲慢さの一例として非難される形で引用されてきました。しかし、こういう「愛すべき美しき無垢なる凡庸」の中に閉じこもって生きてきた女性に悪気などあるはずないです。素直に正直に思ったことを口に出しただけです。「希代の傾国の美女」としてのアントワネットさんのイメージは、「革命」を成就したい人々によって捏造されたものでありましょう。そんな、ややこしい複雑な人間ならば、あんなふうに、素直に殺されていないですよ。可愛い素直な、ふつーの女性だったのです、マリー・アントワネットさんは。

私が何を言いたいのか、もうおわかりですね?このマリー・アントワネットさんの存在様式は、現代の先進国の高度資本主義社会の中層中産階級以上の家庭に生まれて育った「ある種のガキたち」に、そっくりでしょう?じゃありませんか?「小奇麗で可愛くて感じもよくて、素直で優しくて不穏当なことなんか言わなくて無難で、こじんまりしていて、お利口さんで、でも何につけても心ここにあらずで、空虚で、うわっすべりで、しょうもな〜〜〜」って、思わされるガキと、そっくりじゃありませんか?「豊かな社会」が生むのは、こういうガキですよね。あ、ガキというのは、私的には、30代の人間も含みます。悪しからず。

食うのに困ると、必死に食える状態を求めて、凡人だろうがナンだろうが、脳をフル稼働させます。「貧乏である」ことは、凡人にとっては、恩寵でもありまして、「恵みの負荷」でもあります。だから、「ブスで馬鹿で貧乏」であること=3Bであることを身にしみて自覚した人間は、幸福で強く健やかです。ですから、私は幸福で強く健やかです。はい。生きていくことに、私は「がっついて」いますので、意味なく馬鹿馬鹿しく、私は気は若いです。

はっきり言えば、私には、自分を追いつめるがための油断回避のための自虐趣味があります。それから、一種の誇大妄想があります。ロックフェラー並みに金持ちじゃなきゃ、貧乏。ハリウッド女優なみの美貌でなければ、ブス。最低でもノーベル物理学賞とか経済学賞の対象になれないのならば、馬鹿。私は、そう考える極端な人間です。私は、いつも欠損ばかりなので、欠損を埋める努力をすることなど、私にとっては簡単です。「向上心」があるというのは、要するに、そういう類の病気なんだろうなあ・・・

私みたいな誇大妄想の自虐趣味の「向上心に富んだ」人間の例なんか、どうでもいいです。私が、問題にしたいのは、とりたてて欠損を感じやすくない、ふつーの素直な優しい感受性の人間は、「世界内存在」にとどまるものだ、ということなのです。

問題は、貴族とか大衆とかじゃないんです。階級的な布置じゃない。客観的にカネがあるかどうかじゃない。意識が、所与の世界の外に出て行かない人間であるか、そうではないかの問題なのですね〜〜

で、もっと問題なのは、「世界内存在」にとどまっていられるほどに、人間は狭い小さな存在なのか?ということなのです。「愛すべき美しき無垢なる凡庸」に閉じこもっていて幸福で面白いの?ということなのです。

やっぱり、こういうところが、私がアイン・ランドの(自称)弟子になったゆえんですねえ・・・

あとは、続編に書きます。明日の早朝に、白内障手術前の説明を受けます。「ありがとう」を10万回言って癌細胞が消えた実例について小林正観氏が書いておられました。じゃあ「ありがとう」を5万回言えば、右目の水晶体も生まれたてのキラキラの透明にもどるかなあ〜〜とか思いましたが、そういう秘策は、とっておきの人生最大最悪のピンチ用にとっておこうと思います。今回は、素直に「日本医療の現場における患者の立場」を、ささやかながら体験観察しよう〜〜と思いました。

続編は、ちゃんと手術前に書きます!書けるかなあ・・・