アキラのランド節

最近出会ったいい男(第1号) [05/01/2008]


おひさしぶりです。みなさまお元気でお過ごしでしょうか。5月の風をゼリーにして私にください。はい、そうです。これは中原中也のパクリです。

怒涛の労働から解放された研究休暇の日々を、私は「砂糖壷にはいったアリ」みたいに過ごしております。好きなものに埋まって窒息しそうです。「研究」はせずに、好きな本ばかり読んでいます。「酒池肉林」の日々です。本って、私にとっては「男」みたいなもんですから。

ああ・・・去年の今頃は、週に11クラス担当して、疲れきりながら、右目白内障でよく見えないままに頑張っておりました。本を読める状態ではありませんでした。「修道女」みたいな清く正しい生活でした。つまらんはずだったぜ・・・

今は、毎日、毎日、どの「男」に手をつけていいのか、次にはどの本から読もうか、あれも読みたい、これは噛み切れんかも、そっちは素直でいいけど食い足りない、あいつは手に負えないけど意外と可愛い、こいつは気取ってはいるが卑しいから最後までつきあうことない捨ててしまえ、この子は退屈だけど他の人にはいいかもしれないからBook Offに譲ろう・・・などと、淫蕩(いんとう)を極める快楽を味わっております。

アメリカに留学中の学生さんから、「なんかお薦めの本はないか。ウエッブサイトの書評コーナーはなにゆえ開店休業か。再開してください」という要望があったのですが、誰が再開するか。学会関係の雑誌とかなんかに書評書いたのをマメにサイトに転載するのも面倒くさいし、オトナだから金にならん文章をきちんと書くのは最小限にしておきたいし、凡百の匿名Blogじゃないから、しょうもないこと無責任にコソコソ書くのはいやだし。

かわりに、特に「これはいい!」と思った本(=男)を、「最近出会ったいい男」として、ランド節で紹介しようと思いました。今回はその第1号です。「愛人28号」まで行くかしらん。

で、最近出会った「いい男」は、D・S・ランデス著・竹中平蔵訳の『「強国」論---富と覇権の世界史』(三笠書房、2000年)(David S. Landes, The Wealth and Poverty of Nations: Why Some are Rich and Some So Poor?  W.W.Norton.,1998)でした。今頃?そう、今頃なんです。

この本は、ずっと前に購入しつつ、訳者の名が気に入らなくて放置していました。自分で訳したわけでもないのに・・・下請けの翻訳者の名前併記しなさいよ〜〜とむかついていました。しかし、何ゆえか、ずっと気になっていたのです。ふと手に取り、めくり、読み始めたら、とまらなくなりました。夢中で読んでしまいました。

題名の示すとおり、世界の諸地域、諸国の栄枯衰退の原因を分析しています。歴史に関する博覧強記の知識が凄いです。とてつもなく幅広いです。宦官の鄭和(ていわ)を派遣して大航海時代のさきがけとなった世界最大の帝国だった中国(明)が、自閉して世界から取り残されたのはなぜか?中国本体は長く混迷を深めたが、その人材=華僑の地球規模的活躍の背景にあったのは何か?スペインやポルトガルの衰退理由は?オランダとイギリスの台頭と、イギリスの突出はなにゆえか?帝国オスマントルコは?ロシアは?石油産出のおかげで食っている中近東諸国は、その資産(いずれは消える幸運)を生かしているのか?イスラム諸国の男たちの不毛なプライドの結末は?同じ植民地だったにしても、アジア諸国は経済的成功を成し遂げたけれども、なんでラテンアメリカとアフリカはずっと駄目なの?アフリカの再生は可能なのか?

もう〜〜読み終わると、10センチぐらい身長が高くなったような気がします。目線が高くなるといいますか、見える景色が違ってくるといいますか。知的に刺激的な本というのは、そういうものですね。アイン・ランドのThe Fountainheadは、20センチぐらい身長が伸びたような気にさせてくれましたっけ。

(まったく話は逸れますが、私がガキの頃、今は亡き長身の父親が、私を眺めて、「お前の背は、170センチぐらいまで行くな」と言いました。私は、それを信じて疑いませんでした。素直に、「身長170センチのデカイ女」としての精神形成を勝手にしてしまいました。そしたら、あなた、なんということ、身長155センチで成長が止まってしまいました!それが判明したときには、「身長155センチの可愛い小柄な女性」意識の形成を、あらためて私が始めるには遅すぎたのであります!未だに「あたいの身長170センチ」という妄想の中で私は生きています。親というものは子どもに対して不用意なことを言ってはいけませんね〜〜)

この『「強国」論』は、日本のことにも、かなり詳しく言及しています。たとえば、次の一節など、「危ない」記述ですが、日本に関して、こういうことを書いて発表したハーバード大学の歴史学(名誉)教授がいるのか!と驚きました。ハーバード大学なんて、日本の国立大学と同じで、類型的文化左翼の巣窟かと思っていましたから。天下のハーバード大学に対して、非常に非常に失礼なことでした。

 (以下は『「強国」論』の376ページから378ページにかけてからの長い抜粋です)

  反事実的条件文として、植民地主義がなければ、経済的後進国は(技術や生産の面で)もっと速く発達したはずだ、とする。賛成論はひとつの仮説にもとづいている。従属国が外国からの開発を受けず自国でも開発しておらず、そのうえ知識を学んで変わることができたら、の話なのだ。反対論は史実にもとづいている。帝国主義下でも、自治の中心として発達し、産業経済の技術を学んだり、開発したりした植民地もある。イギリス領だった北アメリカ、ロシア帝国の一部だったフィンランド、スウェーデン下のノルウェー、イギリス領香港などだ。西側以外の国では初めての例は日本で、独立していたものの、非公式な帝国主義下にあり関税制限を受けていた。とはいえ、周知のように日本は特別なのだ。

歴史から、信託政治は学校のようなものだとわかる。もちろん、多くは教師に頼っている。他よりすぐれた支配者のいる帝国であれば、その植民地は独立後よくなっている。この基準からすると、スペインやポルトガルは悪く、オランダやフランスはそれほど悪くなく、イギリスはもっとも悪くないということになる。というのも、イギリスは社会のインフラ(たとえばインドでの鉄道)に投資する意志と能力があり、現地エリートの独自統治に任せていたからだ。一九〇〇年にインドの鉄道総延長は名目上独立していた中国の三十五倍あり、イギリスの帝権と義務の意識の高さには敬服に値する(この鉄道は、綿花やその他の主だった産物を港に運び、兵士を不穏な地点に送る目的でつくられたのだと皮肉をいう者もいるかもしれないが。だが、インドの市場を繋いだことで、飢饉に弱い地方にも食料が流通しやすくなった)。

(中略) だが、この基準からすれば、時代を通して最高の植民地支配者は日本で、韓国や台湾ほどうまくいった元植民地はなく、一九五〇年から一九七三年の国民一人当たりの年間成長率は先進工業国を上回った(日本自身を除く)。私見だが、この業績は家族構造や仕事観、目的意識といったこれらの社会の文化によるものだと思う。こういった価値観は日本の支配下でも存在し、その一部は支配への反発となったが、それが自分たちの利益となる場合の対応ぶりにもあらわれ、たとえ異国の支配者に働き場所を与えられても、それは同じだった。だが、元植民地に成功がもたらされたのは、日本政府が植民地に残した合理的経済のおかげでもあり、植民地で行われたのは「日本自身も行っていた近代化努力の最高傑作」であった。

たしかに、韓国と台湾の国民はこのことに同意しないだろう。日本軍が行った暴政や拷問、虐待といった記憶は消えない。しかも日本が「公式」謝罪を拒否していることから、ますますその感情は悪化している。しかし、いったい何に対する謝罪なのか?日本の植民地制度はうまく機能していたのである。(中略)世界は分別のしっかりした者が統治すべきであり、その分別は日本にもほぼ間違いなくあった。(引用おわり)

こういう見解自体は、前にもどこかで読んだことがあります。どこかの雑誌にある韓国人女性研究者がコメントしていたのを読んだことがあります。もう5年以上は前のことです。

この韓国人女性研究者は、1980年代に、大学院生のときアメリカに留学して、指導教授に「日本の帝国主義に関して研究したい。韓国における植民地政策について分析したい」と言ったら、そのアメリカ人教授に、「日本の植民地政策は成功例だってことは、すでにはっきりしている。アジアで成功しているのは、日本の支配下にあったところばかり。日本帝国主義批判なんか、いまさら研究テーマにならない」と言われたというのです。他のアメリカ人歴史学研究者にあたってみても、同じ意見だったそうです。この韓国人女性研究者は、自国の言説とは、あまりに大違いな見解を知らされて、非常にショックだったそうです。

つまり、アメリカの歴史学においては、上記のランデス教授の見解は、共通理解事項みたいです。やっぱり、現役の帝国の学者の視野は、酷薄なほどに広く、情緒的なこだわりを蹴飛ばしています。「いつまで被害者意識でグダグダ言ってんの?そういうのは被差別民根性だつーの!どうして日本につけこまれたのか、その原因を自覚して、たゆまぬ努力とinnovationを試みるの!いまさら日本などどうでもいいだろーが!世界は道徳で動いているんじゃない!」と、アメリカの歴史研究は、東アジアから来た若き研究者に暗に喝を入れたようです。

で、この韓国人女性研究者は、公平な成熟した歴史学者として、日本の植民地政策の功罪を分析して、その論文をアメリカで出版しました。それが、M. J. Rhee博士のThe Doomed Empire: Japan in Colonial Korea (Ashgate, 1997)です。もちろん、この本は、日本支配のことを支持しているわけでは全くないです(当たり前だ)。また、ランデス教授のようなことを言っているわけではないです。しかし、鬼畜として日本を叩くというスタンスは、この本は全く採っていません。冷静な歴史研究です。この本を入手するのに苦労しました〜〜みなさんが、探しても簡単に手に入らないと思います。はい。

日本と韓国のこういう「歴史的問題」は、日本人と韓国人が話し合っても駄目なのかもしれないですね。利害関係のない、露骨に政治的な奇妙な後ろ盾がない善意の(?)「真の第三者」の見解と分析が助けとなるのでしょう。いないか、そんなの・・・他人を頼るんじゃなくて、互いに冷静になるしかないな。今度の韓国の大統領さんは話がわかる方のようではないですか?冷静に実(じつ)を取る方のようであります。

このランデス教授が言うところの、日本がかつて持っていたとされる「分別」(原書が手元にないので原語不明。discretionか?judgmentかwisdomか?)を、今の日本が持っているかどうかは知りませんが。ランデス教授は、(かつての?)日本人の頑張りについて、突き放して書いているようでありつつ、かなり好意的に記述しています。日本人は、いろいろあっても、結局は、うまく対処していくだろうみたいな予測もしています。「こいつら、いざとなると非人間的なぐらいに頑張るからなあ〜〜変な連中だよな」という「あきれ感」を正直に表現しつつ。ははは。私もそう思います〜〜日本人の頑張りDNAは継承されてゆきますよ。

ともかく、『「強国」論』最後の言葉は、ぐっときます。また長くなりますが、引用してしまおう。スキャナーがないので、私が「人間スキャナー」やります(みじめ・・・)。

(以下は『「強国」論』の本文最後494ページから495ページにかけてからの抜粋です)

では、貧しい人たち自身はどうすればよいのだろう?有効な治療法は自分たち自身の中にある。歴史は教えてくれる。海外からの援助も有効だろう。だが、それは棚ぼた式に手に入れた富も同然で、かえって害を及ぼす恐れがある。努力しようとする気持ちを削ぎ、無力感を植えつけてしまうからだ。アフリカには次のようなことわざがある。「受け取る手はいつも、与える手の下にある」。いや、重要なのは、仕事や貯蓄、公正さ、忍耐、粘り強さだ。こういう態度は、貧困と飢えにあえぐ人々にとっては、自分勝手な無関心に終る可能性もある。だが実際、外部からどんなに力を与えられても、自分たちで勝ち取った力に勝るものはないのだ。

こうした議論は、お決まりの常套句を並べ立てているようにしか聞こえないかもしれない。−−-かつては家庭や学校で、子供たちを教育し高めることが自分たちの使命だと感じた親や教師が、こうした教えを使ったものだ。今日、われわれはこうした教えを無視し、陳腐な言葉としてはねのける。だが、名言が廃(すた)れてよいはずがない。なるほどわれわれは、デザート時代に生きている。われわれは何でもお菓子のように甘ければよいと思っている。あまりに多くの人々が、生きるために働き、幸せのために生きている。それもよかろう。だが、それでは高い生産性は望めない。高い生産性が欲しい?それなら、働くために生き、その副産物として幸せを得るべきだ。

簡単なことではない。働くために生きる人たちは、恵まれた少数のエリートたちだ。だがこうしたエリートは、新入りに寛容で、自ら選んだ道を生き、前向きな考え方を力説するタイプの人間だ。この世界でそうした前向きな考えを持っているのは、楽観主義者たちだ。彼らは正しいから前向きなのではない。ただ前向きなのだ。間違っているときでさえも、前向きだ。そしてそれこそが、達成と公正、改善と成功への道なのだ。教養を備え、目を見開いた楽観主義は報われる。悲観論者はただ、正しいことをいっているという虚(むな)しい慰めを得るだけだ。

ここではっきりいえるのは、たゆまぬ努力が必要だということだ。奇跡など起こらない。完璧などありえない。千年王国も、天啓もありはしないのだ。懐疑的な信念を持ち、独断を避け、注意深く耳を傾け、目をこらし、目的を明らかにし、手段を選ぶことが大切である。(引用おわり)

なんという心に響く結論でしょーか。そーなんです。この本は、歴史書であると同時に、「成功哲学本」であり、「自己啓発本」でもあるのです。まあ、歴史研究というものは、人間社会の盛衰を説明するのだから、当然、人間研究になるのでしょうが。

ちなみに、この本は、T・バトラー・ボードン著の『世界の成功哲学50の名著---エッセンスを解く』(宮原育子&牧野千賀子訳。Discovers社、2005年)という本の中に、紹介されてもいます。しかし、著者のボードン氏の要約では、この本のすごさは、ほとんど伝わりません。あれだけ言及してある日本のことに全く触れていないのもよくない。明らかに故意に無視しているよ〜〜

それにしても、この『「強国」論』のような、長年の研究の蓄積である膨大なる知識を駆使して織り成し、かつ「生きる糧」ともなるような本を、一般読者が十分に理解できるような平明な記述の啓蒙本を書ける学者って、真の学者ですね〜〜学者もここまで来ると、カッコいいですね〜〜

この本は、すっごく「男前」ですから、女性読者にはもちろんのこと、男性に是非とも読んでいただきたいです。より「男前」になるために。資質は悪くないくせに、育ちが悪くて生育暦の中でまっとうな女性に会わなかったせいか、不細工なために女性に邪険にされてきたせいか、理由は何であれ、どうにも女性蔑視(=女性恐怖)から抜け出せない男性には、特にお薦めします。資質の悪い男は読まなくていいよ。「2ちゃんねる」に、せっせと書き込みしてなはれ。もてないまま僻(ひが)んで生きていきなはれ。加齢臭を漂わせながら。

 (以下は『「強国」論』の356ページから366ページにかけての抜粋です)

性差別と経済との密接な関係は非常に重要である。女性を否定することは、国から労働力と才能を奪うことであるが、さらに一層悪いことに、男性が何かを成し遂げようとする意欲を傷つけることでもある。若者を育成するのに、彼らの半数が生物学的に他の半数よりすぐれていると考えているようでは、意欲を鈍らせ、成功の価値を低くしてしまう。男の子を軍司令官(パシャ)と呼んだり、イランでそうしているように、男の子は黄金のペニスを持っていると教えるようでは、彼らが何かを学び、実行する必要性を限定することになってしまう。念のためにいうと、社会が仕事やその成果に関して独自の制限を加えていても、それなりの成功を収める者は出てくるだろう。しかし、全国民からの成果を期待できる他の社会と競合できるはずがない。

ある国が成長し、発展する可能性があるかどうか見るのにもっともよい鍵は、女性の地位と役割である。これこそ今日の中東イスラム社会にとっての最大のハンディキャップであり、これらの社会の現代化を妨げている欠点である。たしかに、女性を蔑視し、男性にへつらう社会は他にも存在する。純粋な社会はどこにもない。ラテンアメリカにおけるマチズモ(男っぽさを誇示すること)や、日本における男性の絆と父親不在の家庭を考えてみるといい。いわゆる西洋先進諸国でも、この点においては改善の余地がある。

しかし、性差別の程度を、最悪の状態をゼロとして完全な平等まで秤に表示すると、イスラム国、特にアラブのイスラム国は最低の数値を示すだろう。(引用おわり)

強国の国民でいたいのなら、人材が必要ならば、性差別なんかしていちゃいけないんだよ!性差別は、負け犬国家の男がやることなんだよ!!自爆テロしかやること考えつかないほど、迷信と非合理と妄想の集積である宗教(宗教はみなそうだけど)で脳を侵されて思考停止した偏狭貧乏男がやることなんだよ!

え??ひょっとして、『「強国」論』は、西洋近代中心主義思想、特にアングロ・サクソン中心主義なんじゃないかって?はい、そうですよ。それが何か問題でも?

あなた、「多文化主義」なんて、本気で信じていますか?「多文化主義」なんて、コスプレみたいなもんですよ。一律みんないっしょは画一的で面白くないから、ちょっと「お里」ぶりを出し合って面白がりましょうよ〜〜って程度のことですよ。そのあたりでとどめておかないと、危ないです。特に女にとっては、そうなのです。

基本線は、やっぱり西洋近代の路線で行くしかないでしょう。この期に及んで、21世紀にもなって、サティ(suttee:インドの田舎にまだかすかに残っている寡婦の殉死の強制的風習。亭主の親族が遺産を独り占めしたいから)だの、クリトリス切除(アフリカに残っている女性性器の陰核切除の風習。不倫防止らしい。ならば男のも切っちゃえ)だの、女は文盲でいいだの、一人で外出禁止だの、ノースリーヴはいかんだのと、グチャグチャと馬鹿なこと言っている文化なんか尊重する必要などありません。

「多文化主義」とは「国連の会議」であります。偏狭無知蒙昧国にもプライドはあるから、敬意を払って、礼儀正しく聞きましょう〜〜という身振りなのです。少なくとも、アジアやアフリカの女にとって、自国の伝統的(性)文化に対する多文化主義的尊重など、ろくなもんじゃない。

まあ、私も「脱英米文化中心主義」を考え試みたこともありますが、公平に見て、英米文化のほうがまし(lesser evil)だと、思うのです、やはり。少なくとも理念レヴェルにおいては。ただし、この英米文化が達した思想水準と、個々の個人の英米人の水準とは、別の問題です。英米の思想がすぐれているからといって、個々の個人の英米人の知性や精神がすぐれているとは限りませんから。でも、読むかぎり、やっぱり英国やアメリカの本は面白いものが多いです。自前で考えるより、翻訳したほうがまし・・・という日本の知的後進性は、まだまだ続かざるをえないのではないでしょうか。

と、思っている私には、『「強国」論』は、非常に説得力があり痛快でした。この方の『ダイナスティ---企業の繁栄と命運を分けるものとは』(中谷和男訳・PHP研究所、2007年)も面白かったです。さっそく、未訳の著書なんかも注文しました。会えてよかったなあ、ランデス教授。太平洋越しにお慕い申し上げます。

ところで、5月の最後の日曜日にある学会のシンポジウムの準備が、全くできておりません。やる気になりません。あ〜〜だんだん頭が痛くなってきた〜〜時よ、とまれ。私は、まだ「砂糖壷の中のアリ」でいたい。