アキラのランド節 |
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2008年私的10大ニュース(その1) [12/11/2008]みなさま、おひさしぶりです。2008年も最後の月になりました。時代が大きく激しく変化しつつあることを示す騒々しい年も、最後の月になりました。みなさま、ご無事でしょうか? 私は、眼科クリニックでの定期健診で、左目の白内障も進行しているとかで、(右目の白内障の手術後によく見たら)私よりうんと若くて男前のお医者さんが、手術したそ〜〜な感じで「両目とも人工レンズって方は沢山おられますよ・・・」とおっしゃいましたが、ギリギリまで天然の水晶体を死守いたします! 私は、日記も手帳もつけてないし、そのくせ記憶力はメチャクチャに悪い。冗談でなく悪い。7年か8年以上前のことは前世のように遠くぼんやりしています。時に自他の区別も忘れます。夫に「かよちゃん」と呼びかけ、あ、ごめん、間違えたと言って、妹の名前で呼びかけ、若年性認知症を疑われております。去年の今頃ってどうだったっけ?と思っても思い出せません。「ランド節」を読んで、おお、そうだったと思い出します。だから、ちゃんと「ランド節」を書いておかないと、私の過去は私にとって「闇」になります。 今年は勤務先から研究休暇をいただいて「天国の黄金の感謝の歓喜のルンルンの2008年」だったので、(私的)10大ニュースを書いておきましょう。私にとって、意義が大きい順番に書くというわけではありませんが、ほぼ、そんな感じです。私の人生は、平々凡々で波乱万丈とは縁がないですから、ニュースといっても、ほとんどは、ささやかなものでありますが。
<第1のニュース:『利己主義という気概』出版!>
『水源』の分量の20%もないのに、翻訳するのに時間がかかったのは、はっきり言って、アイン・ランドの記述が難解で退屈だったからです。内容が難解で退屈なのではありません。書き方が、かなり生硬なのです。推敲が足りません。じっくりと考えて書いていない。自分が書いた文章を、他人の目で冷たくチェックしていない。アイン・ランドは、『水源』を書くのには7年間、『肩をすくめるアトラス』を書くのには14年間の時間をかけました。ですから、小説は面白いです。人間が生涯に一度か二度くらいしか出会えないほどの面白い小説を、アイン・ランドが創ることができたのは、粘り粘って思考と推敲に時間をかけたからでもあります。 私は、相当にラディカルな人間でもありますが、いいものを創るには、時間をかけないと駄目だと思っている保守的な人間でもあります。しょーもない冗談言われたり、軽口たたかれるのは、実は大嫌いな生真面目な人間です。世間一般の遊びにも社交にも世間話にも関心ありません。なんか文句ある? カレーだって、シチューだって、弱火で煮込んだもの、余熱でじっくり煮込んだもののほうが、おいしいに決まっています。私は、電子レンジは持っていません。だいたい電磁波を食べ物に関与させるのは、まずいと思うよ〜〜味も、栄養上も。電子レンジは危ない!という私の若き日の直観は55歳の今も揺るがない。 若い頃から、大化粧品会社のコマーシャルなんかに騙されずに、素肌に負荷をかけない最低限の成分しか使用していないスキン・ケア剤を探し求め選び使用し続けないと、へたすれば90代まで保たねばならない肌も、30代半ばでボロボロになります。頭皮マッサージを長年励行しないと、髪は少量になり切れやすく細くなり、女性でも禿げてきます。時間は、蓄積は、一番の敵であり一番の味方です。 時代に逆行することを言いますが、ともかく、いいものは時間をかけないとできません。ところが、このエッセイ集は、弟子の発案で会員を募って定期的に出版するようになった『客観主義会報』にランドが書いた文章を集めて、サッサと出版したものです。小説ほどの時間をかけていません。アイン・ランドひとりだったのならば、こういう雑なことはしなかったでしょうに。性格の悪い霊格の低い波動の低い弟子なんか、いくら男前でもはべらせちゃ駄目! アイン・ランドはロシアの名門大学サンクト・ペテルブルク大卒ですから英語は読めましたし、ある程度は書けましたが、本格的に英語を学んだのはアメリカに移民した21歳からです。その移民の女の子が、アメリカの国民作家になったとは、まさに奇跡に近いものがありますが、やはり彼女の英語そのものには、奇妙に回りくどい変なところがあります。ホラーの王様スティーヴン・キングが、「文章が下手だけど、真実を書いているからいい」とランドのことを、On Writingという一種の自伝の中で評しています(キングだって、あんまり上手とは思えないけど・・・)。 私は、わかりやすい訳文を心がけましたが、私の日本語そのものも、かなりおかしいところがあります。いささかでも外国語を学んだ人間の日本語はおかしくなります。だからといって、外国語を学習しないわけにはいきません。日本は「世界支配的言語所持国家」ではないので、世界の支配的言語のひとつを学ばないと情報摂取で遅れをとります。 アメリカやイギリスの大学あたりでPh.Dなど取得してきた人は、日本語がおかしい傾向があるし思考も浅く、だから人格も薄っぺらの傾向があるということは、私が属していた英米文学系学会業界で、私が観察した範囲においては、事実です。脳も心も英語に売り渡さないと、英米圏の大学で博士号など取れません。言語というのは、それぐらい怖いものです。 文学研究は言語がすべてですから、脳がほんとにやられます。日本語と印欧祖語系言語は違いすぎます。その違いを超える過程で喪失するものが多いのです。日本人が英米文学を研究するということは、アメリカ人がフランス文学を研究するのとは、わけが違うのです。日本人が韓国文学を研究するのとも違うのです。 だいたい、英米の文学研究者は、ふつーの平凡な学者でも、ラテン語を始めとして印欧祖語系言語ならば、数ヶ国語は読めます。桃山に留学しているヨーロッパからの留学生の多くは、普通に数ヶ国語ができます。もともと記憶力のチップの容量が違うというより、やっぱり言葉の壁が低いのだろうなあ〜〜いいなあ〜〜♪ (とは言っても、私は日本以外の国に生まれたかったと思ったことは一度もないです。そういうものですよ。どんなに欠点だらけの親でも、別の人間が親だったら良かったのに・・・とは、子どもは思わないです。そういうものです。永遠の片思いみたいなもんですね、国と国民の関係も、親と子の関係も。最近、私は鏡を見ると、自分の顔の中に亡き父の顔を見るときもありますし、亡き母の顔を見るときもあります。鏡を見れば両親に会える。) 面白いことに、日本英文学会でも日本アメリカ文学会でも、第一線で長く、真に研究活動をリードしてきている方々は、外国の大学に長居はしていなかった方々です。意外かもしれませんが、ほんとうなのです。ここが文学研究と、他の社会科学や自然科学の研究とが大きく違う点です。 何が言いたいかといいますと、要するに、翻訳本というのは、ほんとうは、翻訳者とともに、その訳文を明解達意の日本語にrewriteする翻訳文の翻訳者を必要とするということです。 ありがたいことに、私は校閲者に恵まれました。拙訳を担当してくださったプロの優秀な校正者&編集者の方々のおかげで、私のおかしな日本語はかなり訂正され是正されました。しかし、それでも、私としては、ランドの英文の生硬さ、息苦しいくらいの超生真面目な硬派な声音の趣は、大事に残したかったのであります。ですから、そーいう日本語になっています。悪しからず、お味わいください。玄米ご飯のように何度も何度も何度も噛んでください。短気に飲み込んだり、吐き出さないでください。 みなさま、できますれば、アイン・ランドの小説の『水源』や『肩をすくめるアトラス』をお読みになってから、『利己主義という気概』を読んでいただきたいのです。ランドのエッセイ集は、ランドの小説の根本になっている思想の彼女自身による説明と具体的援用例集ですから。 最初から、『利己主義という気概』をお読みになると、「なに、このオバハン?むきになって何を言ってんの?」ということになりかねません。せっかくのアイン・ランドとの貴重な出会いを無駄にしかねません。やはり、3冊セットで、お読みいただきたいと、私は切に切に切に願うのであります!って選挙演説か。
<第2のニュース:『水源』三刷!『肩をすくめるアトラス』重版!>
実名さらして批判できないような人間は、生涯黙っていろ!中国や北朝鮮じゃないんだから、まだかろうじて「言論の自由」は日本にはあるのに、にも関わらず、小心で卑怯な奴は、匿名Blogにチマチマと矮小な批判を書き込んでいます。いっそ、韓国に行って、ネットに中傷嫉妬書き込みして、綺麗な女優さんを自殺に追い込んできたら?その報いを受けて、玄界灘で溺れてプランクトンに食われろ! ベンジャミン・フルフォード氏の『暴かれた「闇の支配者」の正体』(扶桑社、2007)によりますと、日本人を3S(sports, sex and screen)によって愚民にし、何につけても「考えない人間」ばかりを生産するように教育改革(?)をして、絶対に二度とアメリカに刃向かわないような奴隷に日本人を教化する「日本人クルクルパー計画」を、アメリカは第二次世界大戦後の日本で密かに大掛かりに展開したそうです。 これは、日本属国論の元祖、副島隆彦氏も指摘するところです。確かに、アメリカが「日本人クルクルパー計画」による成果を手にしたかに見える21世紀初頭の日本の世相であります。 ではありますが、1000ページ以上の政治思想小説を読む人々は、まだまだ日本に健在なのです。みなさん、アメリカのふつーの高校生や大学生は、高校の課題図書で、こういう長い小説読んで世の中に出て行くのですよ。それぐらいの国語力は、ちゃんと身につけて社会に出るのですよ。今の若い人々の中には、漫画のネームでさえ、かったるくて漢字が多いから読めないのがいるそうです。字を読む速度が遅くて、洋画の字幕を読みながら映像を見ることができないので、「吹き替え版」上映に人気があるそうです。なんだ、それ?日本語を話すロバート・ダウニー・Jrなんか見たくないね!私は、彼の声と、彼が話す英語の響きが大好きなのだ!ぞくそくするぞ〜〜♪ しかし、『トロピック・サンダー』は、よほどハリウッド映画を見てきた蓄積がないと、1970年代の『地獄の黙示録』や『ロッキー』あたりから、ず〜〜と、いっぱい見てきた人間じゃないと、あの業界ネタ&ギャグ満載おふざけ映画は楽しめないんじゃないかなあ〜〜まだ見てない人に言っておきますね〜〜あの映画にトム・クルーズが出ていますよ〜〜すぐにわかった人は偉い!って何の話か? ともかく、知的劣化はなはだしいらしい日本にも、そんな現代日本にも、1000ページ以上の政治思想小説を読む人々はいる。 映画化もされた長編コミックの『20世紀少年』と『肩をすくめるアトラス』が似ていると指摘した人が複数いました。あの漫画は、読み出すととまらないほど面白いです(Book Offにしては高く売れたな)。しかし、『肩をすくめるアトラス』とは似ていません。あの漫画は、根本的には子ども時代のトラウマの物語です。あの漫画の「ともだち」のキャラの、成人に達しても、なお子ども時代の怨念を引きずる奇形的なほどに超未成熟なありようが、あの漫画の持つ不気味な面白さのかなりの部分を占めています。 ガキの頃の仲間はずれのトラウマを、いい年こいて引きずって、何が世界の終りだ!ガキの頃に受けた傷なんかに、いつまでもこだわっているような質の人間だから、仲間はずれにされるんじゃ!何がトラウマだ!自分のこと仲間はずれにするような馬鹿な連中なんかに用はないだろー!いくらでも良き出会いはあるんだぞ!自分を信じて「ひとり」になるエネルギーもないくせに、世界支配を目論むとかなんて、しかも、そのシナリオは自分を無視した同級生が考えたやつとは、どこまで情けない奴なんだろうか、「ともだち」って。ほんと、こいつ、『水源』のエルスワース・トゥーイーにそっくり〜〜って、またも何の話か? 以前から、ネット言論とか、最近では、日本人の著者の単行本などにおいても、アイン・ランド批判を見かけます。まるで、今の恐慌や金融破綻がアイン・ランドのせいであるかのように書いています。なんという短絡的な。馬鹿じゃないの?どちらも、アイン・ランドの小説もエッセイもまともに読んでいないのが、よくわかる雑駁な批判です。その方々の文体、口調は、極めて暗く邪気を放っています。 ついでに、この種の人々は、アイン・ランドがフィリップ・ロスチャイルドの愛人だったとか証明できないこと(アメリカのお金持ちのオタクのどら息子がネットで書いたことだけが根拠だ!)を前提として書いています。著述に必要な基礎的訓練を受けたことがない類の言論人は、憶測や妄想でファナティックに書くことと、客観的な論証に基づいて冷静に事実を記述することを、混同して平気でいます。そんな書き方が通用したのは、せいぜい1980年代までだよ!そんな馬鹿の居場所は、21世紀にはないよ! 偏狭な思い込みが強い気質で、事実と憶測(妄想)の区別をつけるのが苦手な類の人々は、小説を書くべきなのです。社会的責任を考えたら、そうするべきです。これからの日本人は、事実と憶測(妄想)の区別がつかないような、自分の実人生の不如意の投影と社会批判の区別がつかないような、前近代的エトスの持ち主ではサヴァイバルできません。 ただ、以下のようなことは私も思います。アイン・ランドって、読む人間の気質や志向によっては、正反対の解釈をされる可能性が極端に多くなるタイプの作家かもしれないと。私は、『水源』からアイン・ランドを知って、彼女の思想の肯定的エネルギーに魅了されましたが、彼女の思想から、否定的なものしか受け取らない人々もいるのかもしれません。『利己主義という気概』だって、アイン・ランドが言う利己主義は、ほとんど利他主義に近いような理知的で互恵的な利己主義ですが、頭と心の不自由な人だと、ほんとに「お馬鹿自傷加害エゴイスト」をやりかねません。 同じ風景を見ていても、受け取り方は人いろいろなのでしょう。風景はひとつで、現実の風景は、それそのものとしてしか存在しないのに、その風景をじっと観察するのではなくて、自分の内部を投影してしまうような人々も多いのでしょう。何を見ても、見えるのは自分の鬱屈と歪みだけ・・・みたいな人々もいるのでしょう。ま、好きにやりなはれ。おきばりやす。 どんなに辛くても悲しくても、朝の光は清々しい。冬の青空は突き抜けるようにキッパリと清冽でカッコいい。見上げる木々の緑は冬でも瑞々しい。眠りは甘い。トマトジュースをレトルトのパスタソースに利用すると、レトルト臭さが抜けて、おいしい。三浦春馬君の写真集めくると、にんまり微笑が浮かんでくる。「七三分けのお尻!」と言われると、爆笑してしまう。パシュミナ(本物がこんなに安いはずはないと思いつつ)のショールをぐるぐると首に巻きつけて歩く街角には恩寵があふれている。 私が大学時代に繰り返して読んだ本の一冊は、V.E.フランクル著、霜山徳爾訳の『夜と霧---ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房)でした。あんな極限状況でも、強制収容所のユダヤ人たちは、拷問にさらされた無残な夜が明けた朝の太陽の光に照らされた風景を見て、「世界は、なんて美しいのだろう」とつぶやいたそうです。このエピソードは、あまりにできすぎています。だからこそ、私は事実だと思います。人間は、死に瀕しても、そう感じることができるだけの偉大さと明るさを持った生き物なのです。 『水源』や『肩をすくめるアトラス』は、そういう人間の中の偉大さと明るさを祝福した小説なのです。世に、人間の卑小さを描く小説は多い。でも、そんなもの、わざわざ小説から教えられなくてもいいでしょう。そんな例は、新聞の社会面に満載ではないですか。そんなもの、もう十分私たちは知っています。これ以上は知らなくていいのです。知るべきは、人間の可能性です。 ともかく、私は、『水源』の「あとがき」の最後に、「この小説が日本でも受け入れられるのならば、日本にも未来がある」というようなことを書きました。少しずつではありますが、遅々たる歩みではありますが、『水源』も『肩をすくめるアトラス』も、受け入れられつつあるようです。日本に未来があるということですね!読者のみなさま、ありがとうございます!
<第3のニュース:Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)開始!>
毎週日曜日に更新です。おかげで、ただでさえ少ない「ランド節」の更新がさらに少なくなりました。私は筆力も体力もないので、いろいろ書けません。すみません。 Ayn Rand Saysは、長くとも50回で終ります。大学の仕事が再開されますと、なかなか書けなくなりますから。ただいま第25回目まで書きました。今、峠の頂(いただき)です。このサイトの本分としては、そちらの方がメインですから、お読みいただければ、大変に嬉しく存じます。 やっぱり、私の10大ニュースって、アイン・ランド関連が真っ先に来ますね・・・しかし、何年ぶりかなあ、年賀状を年内中に書いて出せる暮れを迎えるのは。 |