アキラのランド節

お釈迦様とアイン・ランドの接点  [12/26/2008]


年末も押し迫ってきました。私は、まだ年賀状は一枚も書かず、するべきこと山積状態で、あわてております。研究休暇をいただいた本年2008年は、ありがたくも素晴らしい年だったので、例年になく、早く過ぎつつあります。楽しい時間は、あっという間に過ぎます。美味なメロンは、あっという間になくなります。中年混乱しやすく、仕事もダイエットも成り難し。

昨日のクリスマスは、2008年最後の白髪染め&カットに美容院に行きました。入り口の壁に金色の枠で縁取られた八角形の鏡が飾ってあったので、「あ、風水鏡ですね〜〜通販で買いましたか〜?」と美容師の先生に言いましたら、「フジモリさんが初めてですよ、これに気がついたのは!」ということで、髪を染めていただいたり、切っていただいている間は、「商売と風水」の話で盛り上がりました。

この先生はグルメで旅行好きです。40歳ちょっと過ぎのスタイルのいい長身美人です。年に一回はパリに行って、美容技術講習を受けてくるほど勉強熱心です。先生のお話によりますと、最近の京都は、日本人観光旅行客が欧米系観光旅行客みたいになって、合理的といいますか倹約志向といいますか、食事はコンビニで買ったものですませるようになってきたのだそうです。せっかく京都に来たのだから〜〜と京都ならではの料亭とか高級レストランに行く客が減ってきたそうです。

アジア系観光客は京都土産購入ついでに、ブランド品などいっぱい買ってくれるので、京都のみならず、今や日本の大都市のデパートには「免税コーナー」(免税品コーナーじゃないよ)が設けてあって、買いっぷりのいいアジア系お客さんがお買い物で支払った消費税を返却するサーヴィスをしているのですが、これも世界恐慌でどうなるんでしょうね〜〜とか、こういう世の中になったのならば、運だけが頼りだから、「運が良くなる方法、特に金運の良くなる方法ってないかしらん」という話になります。

美容師の先生は、金運を良くするためには、「カード入れ」と「小銭入れ」と「札入れ」は分けて、札入れを最初に使うときに100万円とか入れておくといいと聞いたので、実行したそうです。札入れの長財布さんが、「あ〜〜私は100万円入っているべきお財布なんだわ〜〜♪ならば、いつも、そうでなくっちゃ!」と勘違いして、どんどんお金を呼んでくれるそうです。最初に、うっかり1000円しか入れないと、「どうせ、私は1000円がふさわしい財布よ・・・」と僻(ひが)んで、お金を呼んでくれないそうです。

健康雑誌『ゆほびか』の付録の「黄金の一億円札」とか、小林正観さんグッズ販売店の「うたしショップ」で売っている「ありがとうお楽しみ一兆円札」をお財布に入れておくのも効果があるのではないかと、私は提案しました。しかし、美容師の先生は、「話のわかるお財布さんならば、いいですけどね・・・」と懐疑的でした。

風水によると、家の北の位置に金庫など置いて、そこに「1キロ金地金(きんぢがね)のバーを数本」しまっておくと、金運を呼び、かつ呼ばれた良い金運がキープされるそうです(金庫持っていて、数キロ分の金地金を入れて置ける人ならば、それだけで結構な金運の持ち主なんだから、それ以上は心配することないと思うが・・・)。

そういえば、つい最近、私はずっと使用していた写真も撮れない古い機種の携帯電話を海外でも使用できるタイプのものに変えたのですが、そのときドコモ・ショップからもらった景品(?)が、金地金10キロ(?)延べ棒の形の黄金色ティッシュペーパー・ボックス2箱だったことを思い出しました。本物のかわりに、それを北の位置にしまっておくのはどうだろうか、金運の神様がうっかり勘違いしてくださって、お金を呼んでくれるのではないでしょーか。私はまたも提案しました。

「そうですねえ・・・私の友だちは、財布に最初に入れておく100万円がなかったので、表紙が印刷した一万円札で、100万円束と同じ厚さのメモ帳を代わりに入れましたからね。通販で買えるそうですよ、そのメモ帳。何もしないよりは、いいんじゃないですか?誠意は認めてくれると思いますよ〜〜」と、美容師の先生はテキトーに賛意を表明してくださいました。どーいう誠意か?

ともあれ、トイレを綺麗にして、トイレの蓋は閉めて、玄関と水周りは綺麗にして、水晶の玉をナデナデして、お墓参りも神社参拝もして、喜捨ならず寄付もテキトーにして厄落としして、感謝の言葉は惜しまずに、陰日向なく働き、貴重な食べ物を大量に食い散らかして糞便にして垂れ流しているような罰当たりなことは控えて小食を保ち、愚痴は言わず、無駄口たたかず、大橋智夫氏の『流すだけで運気が上昇する魔法のCDブック』(ビジネス社、2008)のCD「水琴(みずごと)」の、脳にも身体にも心にも良き影響を与えるとされる高周波音を常に聞き流し、お風呂の浴槽のお湯の中には、天然ラジウム鉱石5キログラムを袋に入れて(http://www.rokujo-radium.com/)湯冷めしないようにして、若い人々の人生を圧迫するほど無駄に長生きせずにテキトーな時期に元気に死ねるように、自分に大きな負荷かけて、いろいろなことに挑戦して生きるしかないですね〜〜♪

「不思議研究所」の森田健さんの新刊『あの世はどこにあるのか』(Ameba Books,2008)によると、魂というのは、人格でも性質でもなく、情報の蓄積そのもの。転生のときに得た情報が搭載される記録保存エネルギーみたいなものらしいです。見えないエネルギー状フラッシュ・メモリーかな。

魂は、物質界に行かないと、学べないので、物質界のこの世に生まれてくるんだそうです。肉体がないと何も体験できない=何も学べないので、物質の中に入るのです。輪廻転生を繰り返せば、ドンドン勉強できるから、辛いのに、生まれてくるそうです。天国も地獄もなくて、時空があるだけだから、そこに存在しているだけでは、魂さんも退屈らしいです。

「性質」ってのは肉体に付随しているものだそうです。性質(=肉体)の記憶は肉体の腐敗消滅とともに消えても、肉体(=性質)が体験したことが本質的に伝えるもの=情報は保存される。転生したときに、前世で記録保存した情報(技術&知識)はダウンロードできるらしいです。

「死んだら終わりじゃない」というのはこの意味らしいです。保存した情報(技術&知識)は消えない。だから、生きている限り勉強したほうがいいのですよ〜〜次に再利用可能ですから。秀才とか芸術の才があるとか、技術の習得が早いとか、みな前世からの蓄積なんだそうです。語学の天才なんてのは、輪廻転生したプロセスにいろんな外国語を勉強してきた魂に、たまたま入り込まれただけなのだ!

私が頭が悪くて不器用なのは、私が悪いのではありません。私の肉体の中に入り込んだ魂が、さぼってきたんですよ。保存記憶量が圧倒的に少ないのですよ。

魂が人間の中に入る場合も、誰の肉体に入るかなんて、別に吟味して選んでいるわけでもなく、たまたま生まれた瞬間の産道から出てきたばっかりの赤ちゃんの中に入るだけのことだそうです。親を選んで子どもが生まれるっていう考え方はロマンチックな伝説で、実際は偶然。テキトーに、テキトーな赤ちゃんの中に入り込む。で、その赤ちゃんが生きて成長する過程で得る情報(知識、知見)を、魂が保存していく。

何度も何度も輪廻転生して、いろいろいろいろ体験して、保存してきた情報を適宜自由自在にダウンロードできるようになると、輪廻転生って面白いなあ〜〜人として生きるって面白いもんだな〜〜世界って面白いもんだな〜〜と思えるようになり、ついには生きることにも死ぬことにもこだわらずに、生きることを楽しむに至る。これが、「解脱」だそうです。

こういう「魂」観&「解脱」観って、面白いですね。インターネットとかパソコンが一般的になってきたからこそ、理解しやすい「魂」観&「解脱」観です。あなたも、私も、永遠を旅し学ぶフラッシュ・メモリー!生きることを笑って楽しむフラッシュ・メモリー!

ところで、飯島愛さんが亡くなりました。美人で気が優しくて頭の回転が良くて、私は好きだったのになあ、愛ちゃん。

愛ちゃんは、抗うつ剤を飲んでいたらしいです。自分の生命力よりも、凡百の医者や製薬会社や世評や通説を信じると、ろくなことになりません。愛ちゃんは、随分と他人にお金を貸して、踏み倒されてもきたらしいです。「カネを貸して」と安易に言うような奴は返さないに決まっているから、関わってはいけないのではないでしょうか。「返せないけど、カネ下さい!こいつにカネを出した甲斐はあったと、あなたに思ってもらえるような生き方をしますから!」と、無謀で厚かましいことを抜けぬけと堂々と真心こめて言える奴でないと、貸してはいけないのではないでしょうか。

愛ちゃんみたいな気のいい美人には、よきにつけ悪しきにつけ、他人が寄ってきます。気のいい美人こそ、冷酷に「利己的に」気概を持って、自分の弱さと他人の狡猾さを観察測定しないといけません。36歳なんて青春の真っ只中です。私の経験から言って、45,6歳くらいまでは青春です。体力の衰えもない。でも、ほんとうに心や脳が作動しだすのは、50歳くらいからだと思います。愛ちゃんは、これからが面白くなる時だったのに。愛ちゃん、今度生まれてくるときは、魂に保存された知識をダウンロードして活用し、もっともっと面白い長い人生を創ってください。合掌。

みなさん、この世界が宇宙がどれほど広かろうと、それに比較すれば自分がどれほどちっぽけだろうと、その世界や宇宙の広がりを意識するのは、あくまでも自分自身ですからね。まずは、自分自身のアンテナ3本しっかり立てて、いつも充電していないと、広い世界や宇宙とも交信できません。広い世界や宇宙の面白さを感じ学ぶのは、あなた自身ですから、まずは、自分自身を大切にしないと。愛ちゃんに、『水源』を読んでもらいたかった。合掌。

前置きが長くなり過ぎました。本日は、是非とも、みなさまに、ある実に興味深い御意見を、紹介させていただきます。それは、2001年正月以来毎日ずっと、私がチェックしている『副島隆彦の学問道場』のなかの「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」の番号<1094>と<1093>に書かれた、ハンドルネーム「庄司誠」さんの書き込みです。この方は、30代の男性です。

一挙に、ここに独占転載させていただきます。もちろん、ここで、取り上げさせていただくことについては、庄司さんの御快諾を得ました。

庄司さんの書き込みは、拙訳『利己主義という気概』(ビジネス社)に関する感想だったのですが、それだけにとどまらず、「アイン・ランドの思想を考えることは、東洋と西洋をつなぐ大きな思想の胎芽を掴むことになるのか?」と私に、静かな興奮を感じさせてくれました。

庄司さんは、非常に明快かつ明解に書いてくださっていますので、私がとやかくコメントする必要はありません。みなさま、じっくりお読みください。アイン・ランドが言う「現実の客観性」は、マルクスが言う「疎外」と同じものだということは、私も理解していましたが、お釈迦様の思想の根本も、そうだったとは!

そうだよな、現在の元気なインド人の先祖のお釈迦様が、陰気で物静かな世捨て人のはずがない!王子様時代は、精力過剰で、さんざん贅沢三昧&酒池肉林を徹底的にやらかして、「あ〜飽きちゃった〜〜しょうもなあ・・・つまらん・・・もっと本質的に面白いことないかな?」と思って出家した方ですからね、お釈迦様は。まさに、「生の哲学」を説いた人だったに違いない!

(以下転載始め)

  <1093>
「アイン・ランドはお釈迦様の夢を見たかもしれない?」
投稿者:庄司 誠投稿日:2008/12/17(Wed) 21:43:02

みなさん、こんばんは。庄司誠です。私は、いま実に爽快に生きている。

なぜなら、先日発刊された、アイン・ランドの哲学・思想随筆集『利己主義という気概 -エゴイズムを積極的に肯定する』(アイン・ランド著/藤森かよこ訳 ビジネス社2008年12月)を読み終えて、なんとも気分がいいからだ。

ランドの小説『水源』(アイン・ランド著/藤森かよこ訳 ビジネス社2004年7月)については私は既に読了していたので、ランドの持つ正直さと誠実さについてはわかっているつもりでいた。しかし、『利己主義という気概』を読んで、自分の中でランド像がさらに鮮明になった。以下、私が本書を読んで強く感じたことを書きつらねてゆく。

ランドはごく当たり前のことしか言っていない(書いていない)。そして、彼女は読者に対して一切の妥協をしない。彼女は常に直球勝負だ。彼女は語る。「ヨーロッパ近代の理想はまだ達成されていない」と。

  自由、個人主義、個の尊厳、資本主義、これらはまだ未完成なのだ。だから私たちが完成させる、完成させてみせる。途中で力尽き倒れるかもしれない。それでも、私たちは人類の未来を信じる。人類が、必ず、善や美や真実をこの世に実現させるであろうことを信じる。

ひとりひとりが銘々に持つ可能性を信じる。個の可能性を信じる、いや、それしか信じない。「個」は「個」であることを徹してのみ「全」に通じることを私は知っている。だから、真理は「個」にのみ秘められていること私は疑わない。

だから、私が語りかけるのは「あなた」だ。 曖昧模糊(あいまいもこ)とした集団ではない。聴衆などと言う不確かなものではない、大衆などという実体のないものではない。
私が話しかけたいのは、まさに「あなた」だ。「あなた」自身なのだ、この私の言葉を読む「あなた」自身に私は直接話しかけているのだ。---- ランドはそう言っているのだ。

私は『水源』を読んだときも、本書『利己主義という気概』を読んだときも、これは自分のために書かれた本だと強く感じた。いや、私だけではあるまい。アメリカでも700万人以上の読者がそう感じたのだ。これはキリストの言行を記した聖書を熱心なクリスチャンが読んだときに受ける感銘とほとんど同質のものであろう。

そんな、ランドを笑うのは簡単だ。また、ランドが高らかに謳(うた)うヨーロッパ近代そのものが持つ限界をあげつらうのもたやすい。カネカネカネの資本主義はいずれ崩壊するのだと、なにか他人事のようにうそぶくのも勝手だ。

しかし、それでは私たちはランドの理想に変えうるべき理想をもっているだろうか。自ら誇るべき信条があるだろうか。自分の生を輝かせるに足る、なにか信ずべきものがあるだろうか。 しかし、ランドが、ときに痛々しいまでに瑞々(みずみず)しく、切実なまでにまっとうであるのは、彼女が読者をナメていないからだ。

  彼女は嘲笑されることも承知の上で、読者のひとりひとりに語りかけたのだ。あなたの人生はあなただけのものなのだ、と。あなたは自分が本当に生きたいように生きるべきなのだ、だから自らを誤魔化(ごまか)すことなく真剣に直視しなさい、自らの生を、欲望を、もっとリアルに把握しなさい、と。

訳者の藤森かよこの解説によると、ランドの提唱したオブジェクティズム(客観主義)とは、「人間の生は、客観的実体である現実に対処して、生き延びることに利益になることを選択し実践するという合理的な思考と行動の蓄積であり(あるべきであって)、それ以外のものではない(本書p.274から)」という。

つまり、人間のそれぞれの願望や希望や思惑とは、まったく関係なしに客観物つまり現実そのものとしての世界があるのだから、人間は現実という客観物をしっかりと頭で把握して、自分の生を利するように生きなければならないということだろう。

そう。つまり、ランドのオブジェクティズムとは、まさにヨーロッパ近代の思考法であり、アダム・スミス唱えた「神の見えざる手」「神の予定調和」「市場(マーケット)」という概念とまったく同じものなのである。

個人の主観や願望で現実は変わらない、現実は冷酷な自然法則や社会法則によってのみ動くのだ、という考え方だ。付け加えるなら、カール・マルクスはこれを「疎外」という概念で表している。だから、「市場」=「疎外」=「オブジェクティズム」なのだ。このあたりの話は副島隆彦の熱心な読者なら周知の基本事項である。

それで、唐突なのだが、この「市場」=「疎外」=「オブジェクティズム」という近代ヨーロッパの思考法を今から2500年以上も前に理解した聖人が、お釈迦様ことゴータマ・シッダルタなのである。

ゴータマ・シッダルタはなにを悟ったのか。それは「縁起(えんぎ)の理」だ(「縁起の理法」ともいう)。禅では釈尊の悟りは言語で表現できるものなどではない、としているらしいが、ここではそういう異論は省いて話を進める。

つまり、ゴータマ・シッダルタは「個人の意志や願望で現実(という客観物)は成立していない。現実は原因と結果からなる法則、つまり縁起によって成立している」と悟ったのだ。「市場」=「疎外」=「オブジェクティズム」=「縁起」だ。

現実というのは、たしかに、やっかいで自分の思い通りにならない。それで思い通りにならないからといって、いらいらしたり怒ったり嘆いたりしてはならない、そんなことをしても無意味なのだ、それよりもあるがままに冷静に現実をみつめなさい、移ろいゆく現実を科学者のように観察しなさい、そうすれば縁起の理が見えて知恵がうまれるから、とお釈迦様は説いたのだ(ちなみに「オブザーブ」の訳語である「観察」とは、本来、仏教用語である)。

またそれは、そもそも客観物たる現実や世界をどうにかしようと無駄な悪あがきをするより、自分の考え方を変えなさい、心のありようを正しくしなさい。それが幸福に生きる道だ、という説法にもつながってくる。

仏教学者の宮元啓一によると、ゴータマ・シッダルタが開発し、初期の原始仏教団において実践された瞑想法とは、無感情に徹して、思考をやめて心のはたらきを停止させるものではなく、「経験的な事実が構成している因果関係の鎖を徹底的に観察、考察しなければならない(『ブッダが考えたこと』春秋社2004年)」、とするものだったという。

つまり、経験的事実をもってよく考えよ、生きてるうちに頭を使いなさい、なぜなら自分の人生は自分の頭脳と力を使って切り開かねばならぬからだ、私の人生は私のものであなたの人生はあなたのものなのだよ、と語ったのがお釈迦様であって、また、私の心がつくりだす現実や世界が私のすべてで、あなたの心がつくりだす現実や世界があなたのすべてだ、と高らかに宣言したのがやはりお釈迦様だったということになる。

後世の大乗仏教においても、ひとは銘々それぞれが三千世界(=何億という銀河系宇宙)を持ち、内包していると説いている。

そんなゴータマ・シッダルタが当時のインドの支配層であるバラモン階級に喧嘩を売って、従来の身分制度や権威を否定し、あるがままのナマの個人の尊厳を謳(うた)ったのはあたりまえの話なのだ。

  原始仏典『ダンマパダ』の「第26章バラモン」は激烈なバラモン教(当時のヒンズー教)批判である。今の日本でいうなら、東大法学部を頂点にした官僚支配、そして教育界や宗教界(神社仏閣、新興宗教もふくめて)のありかたを、全部まとめて、静かに、しかし徹底的に否定しているようなものだ。まるで副島隆彦だ。

つまり、お釈迦様の思想は、約2500年以上も前にインドかネパールで生まれた「近代」の思考法だったというべきなのである。 (続く)

*****なんか、時間がなくなってきましたので(いろいろと用事があるので)、続きは後日書いて投稿します。中途半端で申し訳ございません。

<1094>
「アイン・ランドは人間を、人類を、この星に生きる私たちを、徹頭徹尾、愛したのだ。アインランドの思想の中心にあるのは、生命(いのち)の讃美だ」
投稿者:庄司 誠投稿日:2008/12/19(Fri) 22:32:03

みなさん、こんばんは。庄司誠です。 [1093]「アイン・ランドはお釈迦様の夢を見たかもしれない?」の続きを書きます。

ゴータマ・シッダルタ、つまりお釈迦様の思想に「近代」を見出した学者のひとりに、天才・小室直樹がいる。 小室は『日本人のための宗教原論』(徳間書店2000年)において、「【仏教】は近代科学の先駆けだった」と題し、一章分約80ページを設(もう)けて、仏教がもつ近代性を論じている。

ただ、小室が仏教を説明する際にその中心として用いているキーワードは「空」であり、これは大乗仏教の中観(ちゅうがん)派の開祖、龍樹(りゅうじゅ・ナーガールジュナ)が生み出した概念にすぎない。龍樹は、ゴータマ・シッダルタの死後およそ600年後に活躍した知識人である。だから当然のことながら、ゴータマ・シッダルタ自身は自らの考えを「空」などという言葉では伝え残してはいない。

そういう意味においては、小室の仏教論にはわずかながらに不備がある。それでも、小室の仏教論には納得できることばかりで、十分に説得力があると私は思う。また、小室は仏教思想が近代性を秘めていることを多角的に証明しているが、私はこれにも多くの示唆を受けた。

特に印象的だったのは、「縁起(えんぎ)の理」を説明する際に、ロシアの数学者ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学を持ち出して、「真理」とされてきた科学上の公理などというものはすべて仮説にしか過ぎなかったのだと論じ、その論法でもって、仏教の因果律(いんがりつ)の構造を解き明かしたところだ。

「縁起の理」の内実は、直線形因果律(リニアコーザリティー)ではなく、相互依存型因果律(スパイラルコーザリティー)で捉えるべきだ、と指摘しているのを読んだとき、私は、ゴータマ・シッダルタの考えたことの先駆性と、大乗仏教哲学の緻密さ、そしてこんな難しいことを簡単に説明し切ってしまう小室直樹の頭脳に、まとめて驚嘆せざるをえなかった。

しかしそれよりも、私にとって一番重要だったのは、ゴータマ・シッダルタつまりお釈迦様の思想が、およそ2500年以上も前にネパールかインドでうまれた(個人主義を核とした)「近代」思想であったということだ。

やはりゴータマ・シッダルタの思想は、本質的に、個人主義なのである。

なぜなら、仏教の最終目標は、悟りをひらくことだからだ。「善因楽果(ぜんいんらくか)、悪因苦果(あくいんくか)」という言葉がある。これは仏教の基本にある「業(ごう・カルマ)」の説明理論で、要するに、「いいことをしたら楽しいことがかえってくるし、悪いことをしたら苦しいことがかえってくる」ということだ。 この因果律は、ひとりひとりの個人単位で機能する。

つまり、悟るためには各人ひとりひとりが自力で善業(ぜんごう)に励むしかなく、他人から善行を譲り受けることもできなければ、他人に悪業を押しつけることもできない。
他力本願で救われるわけにはいかないのが、本来の仏教であり、これは基本中の基本の話なのだ。

自分の行為については自分が責任を持つ。

このように決然たる意志をもって、現実を切り開き、自らの生をまっとうさせ、最終的には悟りを目指すのが正しい僧侶、正しい仏教徒なのだ。

成仏とは、それで、悟りをひらいて完成に至った人間であり、死人のことではない。 仏(=ブッダ、ほとけ)とは、生きて、悟りをひらいた人間のことなのだ。死んだぐらいで「仏」に成れてたまるか。もう一回生まれ変わって人生をやり直せ、だ。

さあ、いよいよ、本題に戻る。アイン・ランドの『利己主義という気概』についてだ。
本書においてランドは気高く宣言する。

*******(引用開始)*******
客観主義という倫理の基本的社会原則とは、生というものは、それ自身が目的なのだから、あらゆる人間は、その人間自身が目的であり、他人が目的を果たすための手段ではないし、他人の福祉のための手段ではないということです。人間は自分自身のために生きなければなりません。自らを他人の犠牲にしてはいけませんし、他人を自らの犠牲にしてもいけません。自分自身のために生きるとは、自分自身の幸福の達成こそが人間の最高の道徳的目的であるということを意味します。
*******(引用終了。『利己主義という気概』p.57から。)********


庄司誠です。

あらゆる人間は、銘々がそれぞれ自らのために生きることによってのみ、幸福を達成することができるのだ、それが私たち人間の最高の善なのだ、とランドは説く。

ゴータマ・シッダルタは、「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難(えがた)き主を得る」と、説いた(『ダンマパダ』第12章 自己、から)。

私には、ランドの言葉が、お釈迦様の教説に似た響きを発しているように思えてならない。 (続く)

(後日改めて、次回の投稿にまた続きを書きます。なかなかアイン・ランドの魅力を書けるところまで進みませんが、頑張りますので、よろしくお付き合い下さい。庄司誠。)
(以上、転載終り)

 いかがですか?面白いでしょう?いまどきの日本人の若い男性が書いたとは思えないほど、活きがいい文章でしょう?

庄司さんから、「お釈迦様とアイン・ランドの接点」を教えていただいて、私は非常に嬉しかったのです。いわば、本日のランド節は、その私の喜びの「おすそ分け」であります。こうやって、従来の既成の思想の内実が、あらためて正確に明確に文節化され、現代と未来の思想として再生再復活されてゆくのですね。

勉強したいことが、また増えました!ありがとうございます、庄司さん。