アキラのランド節

2008年私的10大ニュース(その2)  [12/29/2008]


前の前のランド節で、2008年の私にとっての10大ニュースのうちの3つを書きました。うかうかしていると、2008年が終ってしまうので、あとの7つを書いておかねばいけません!2008年最後のランド節であります。

<第4のニュース:小食実行開始!>
最近の私は、ソファで寝転がってウダウダしなくなりました。食後はソファで寝転がって・・・が普通だったのに。読書も、ソファで寝転がって・・・が普通だったのに。今はちゃんと机の前で椅子に腰かけて読んでいます。まるで大昔の学生時代みたいです。

理由は簡単です。小食実行&間食なしを実践して、体重が減ってきて、出腹の度合いが小さくなってきたら、椅子に長時間腰掛けていられるようになったのですね。デブだと、椅子にきちんと座ってもいられないです。お腹の重みが姿勢を崩します。疲れやすいのです。

また、小食だと、頭がぼんやりしないので、食後でも、すぐにデスクワークできます。前日の夕食から、ずっと断食で飲む人参ジュースのおいしいこと!甘いこと!生姜湯の温かくも濃厚なこと!昼食になって、やっとありつく固形物食糧のありがたいこと!

研究休暇をいただいたので、読書する時間が増えて、甲田光雄氏(今年の8月にお亡くなりになったとか)の一連の「小食」本を、きちんと読み直して、「やっぱり、食べすぎているんだ・・・身体の健康な維持に不必要なほどに食べると、身体に負担がかかって病気になるんだ」と、納得しました。

「身体の維持に不必要なほど食べても、糞便となって体外に出るだけだし、体外に出ないと体内に溜まるばかりだし、溜まっても利子がつくわけでなく、毒になるばかりだし、不必要にこの地上の富を食い散らかすのは、この世界への冒涜なんだ・・」と、本気で思うようになりました。

そうしたら、苦もなく、私の食べる量は減ったのです。やはり人間は精神的生き物らしいです。心が奥底から納得すると、身体がそのように反応します。

50歳前には、1回の食事で、餃子を100個くらい作って40個ぐらいは平らげていた私が、パスタ200グラムは簡単に食っていた私が、お好み焼きなら3枚は焼いて食っていた私が、就寝前にはインスタント・ラーメン食っていた私が、並みの男性よりは間違いなく多く食っていたに違いない私が、お肉も乳製品も大好きだった私が、野菜中心となり、クリームスープは豆乳で作るようになり、普通のレストランのオムライスのご飯の量が、やたら多く感じられるようになりました。

外食するときは、もともとが「食いしんぼ」ですから、結構食べますが、そのときは、翌日の食事はお粥だけになります。夜を徹しての仕事があるときでも、間食せずに、蜂蜜入れた紅茶だけで、すましていることができます。家計に占める食費の割合は、菓子類スナック類などの間食費が消えたので、幾分か小さくなりました。

デブでいるってことは、そのことだけでも、ストレスになります。既製品だとサイズがない。何を着ても似合わない。みっともない。少し長く歩くと膝の関節が痛くなる。自分で自分が嫌いになる。私は、もうデブでいることに飽きました。そろそろ、自分で自分のことを好きになりたい。

林真理子さんがお書きになった『RURIKO』っていう女優の浅丘ルリ子さんの伝記を読んだら、面白い記述に会いました。浅丘さんは、生来食が細いので、第二次大戦直後の配給制の食糧不足の時代でも、特に苦にならなかったそうです。みなさま、来るべき食糧危機の時代に備えて、小食に慣れておきましょう!

私は、仕事の最中にぶっ倒れて死ぬか、「もう、ここらで、今回の私の人生はいい。やるだけやった!」と言って、身辺整理してから、確信犯的に主体的に食事量を激減させて衰弱死することに決めています。「もう、ここらで、今回の私の人生はいい。やるだけやった!」と、心底から晴れ晴れと思えるように生きることができるかどうか、それが問題です。前向きに納得して死ぬことができるような濃厚な生を生ききることに比較すれば、主体的に衰弱死することなんか簡単だと思う。

あ、すみません。私は、自分が天変地異とかテロとか戦争とか犯罪で死ぬことは、全く想定していないのです。地震にあったときの自分のイメージってのは、避難場所で配給の食糧を率先して配っているか、「自警団」組織して仕切っているか、自分にできることを精一杯している、というものです。ははは〜〜能天気ですね〜〜♪

ただし、小食を実行してはいますが、私の体重が激減したわけではありません。たまにはチョコレートも食いますし。相変わらずデブの部類に入っています。まあ、30年近くかけてデブってきたのですから、半年ぐらいでスッキリするはずないです。それでも希望は見えてきました。どーいう希望か、よくわかりませんが。

<第5のニュース:文学系学会を全部退会した!>
急に思い立って、退会しました。あ〜〜る〜ひ、とつぜん〜〜♪って感じです。恋の終りみたいなもんです。プツンと切れて、振り返りもしない。解放感があるだけ。さあ、また別の恋に出会おう!そんな感じです。

<第6のニュース:民事裁判を初めて傍聴した!>
副島隆彦氏が国を訴えておられます。ウエッブサイト「副島隆彦の学問道場」(http://www.soejima.to/)の運営者は、副島氏のお弟子さんたちが立ち上げた「副島隆彦を囲む会」です。この会は、ウエッブサイトの会員を募って会費によって運営されていますが、それだけでは赤字なので、副島氏の書籍を出版社から特別に8割掛けで仕入れて定価で売って、その差額を収入にしています。副島氏の講演会を企画して得る収入もあります。それで、ナントカ事務所の経費をまかなってきました。

ところが、2004年に税務署が、この「副島隆彦を囲む会」事務局の収入を副島氏の個人収入と判断して、2300万円の追徴金を副島氏に科したのでした。「副島隆彦を囲む会」事務局の収入を副島氏の個人収入と判断するのも理不尽なことですが、もっと理不尽なのが、副島氏が「副島隆彦を囲む会」事務局から得た収入は、「雑所得」ではなく、「事業所得」として判断されたことです。

個人の所得には、給与所得とか雑所得とか事業所得とかいろいろありますが、「事業所得」として判断されるのは、一戸建て賃貸住宅ならば5棟より多い家作からの所得、賃貸アパートメントならば10室より多い家作からの所得です。「副島隆彦を囲む会」事務局の収入額は、どう見ても、個人の「事業所得」として判断されるべき額をかなり下回ります。にもかかわらず、「事業所得」として判断されて、追徴金が計算されました。

法の下の平等が法治国家の基本であるのに、税務署は恣意的に税法を適用しています。わけがわかりません。2003年に副島氏の『預金封鎖』(祥伝社)が版を重ねて売れたので、「こいつ稼いでいるね〜〜じゃあ、こいつから取ろう〜〜理由はなんとでも作ろう〜〜♪」ということで、税務署が動いただけのような安易さです。一種の税務署版「国策捜査」ですね。「お上」(おかみ)が、お上の観点から、こういう犯罪をでっちあげることが公益にかなうと判断したら、犯人はこいつにしようと決めたら、事実は何であれ、そうなる!という「国策捜査」に似ています。

12月5日に東京地方裁判所であった副島氏が原告の租税裁判の公判は、副島氏の口頭弁論(?)が予定されていましたので、私は生まれて初めて、「裁判所」なるところに出かけて、裁判の傍聴席というところに座り、3時間にわたる公判を傾聴しました。傍聴席は、副島氏の愛読者の方々で満席でした。

「被告」のはずの国=検察官が、「原告」を被告扱いにしているのは、実に異様な感じでしたが、それよりも私が驚いたのは、裁判官や検察官なる人々の「軽さ」でした。

TVドラマの裁判官や検察官を演じているみたいに、類型的な態度に、類型的な言葉使いに、類型的な声音に、類型的な慇懃無礼さ。すべてが、あまりに芝居がかっていました。1980年代に『存在の耐えられない軽さ』という映画がありましたが、裁判所や裁判官や検察官や裁判所職員たちの発散する空気は、威をはっているわりには、軽い。実に軽薄で他愛がない。私は、がっかりしました。

だって、裁判所ですよ・・・霞ヶ関にある東京地方裁判所ですよ・・・もっと重厚でもいいはずでしょう?

私人の個人が裁判に訴えるというのは、よほどの切実な事情があるわけです。ましてや国を訴えるなどというのは、よほどの事情や覚悟が背景にあるのです。しかし、なのに、裁判所とか、そこに従事する人々が、「司法ごっこ」しているかのように、いかにも芝居がかっていて軽薄な風情であるというのは、実に気味の悪い光景でした。

私の生まれて初めての民事裁判公判傍聴体験は、私の「お役所嫌い」に拍車をかけました。この民事裁判公判傍聴体験によって、私は、生まれて初めて、「国」と呼ばれる人間集団の一部、エリート(司法)国家公務員の姿を直接に見ることができましたが、その人々は役割を遂行している身振りをしているだけに見えました。真似事で演じているだけで、何のための役割なのかを常に心に問う当事者意識は限りなく希薄であるように見えました。

きっと、太平洋戦争を起こした当時の政府の人々も、こんな感じだったのでしょう。320万人の国民が死のうが、飢えようが、ピンとこない人々だったのでしょう。

まあ、それが、凡百の人間というものかもしれません。

私自身が、教師という役割を遂行できす、「センセイごっこ」をしているだけなのかもしれません。教師としての当事者意識などなく、生活費のために、センセイの真似だけをしているのかもしれないです。でも、私は「国家公務員」じゃないからなね〜〜国民から収奪した金で、「ごっこ遊び」しているわけではないからね〜〜

さて、次は7番目のニュースなのですが、詳しく書くとなると、ランド節を年内中に、もう1回書かなくてはなりません。でも、このウエッブサイトの管理人さんにも年末&お正月休みを、楽しんでいただきたいと思います。ご実家でご家族の方々と、のんびり過ごしていただきたいと思います。本日で「仕事納め」にして差し上げたいです。ですから、あとの4つのニュースは、覚え書き程度にとどめておきましょう。

<第7のニュース:トニー・ブザンのマインド・マップを知った!>
この件に関しては、書くのに時間がかかります。やっぱり、最低50枚くらいのマインド・マップを作成してみないと、書けないです。いつの日にか、きちんと書いてみたい題材です。マインド・マップについて教えてくれた年下の友人に感謝。あの講習は、面白かった!

<第8のニュース:タイに行った!>
ほんとに変な国だった・・・変な人々だった・・・どーいう風に変なのか、私の中で、まだ説明できません。説明できるようになったら、タイについては、また書かせていただきます。

<第9のニュース:いろいろな出会いがあった!再会もあった!>
本ウエッブサイトの読者の方々と、お会いする機会に恵まれました。また、読者の方々から、いただいたメイルも嬉しかったです。ありがとうございました。

その中には、母校の南山大学の後輩の方もおられました。なんと、この方は、15年ほども前に、The Fountainheadをお読みになったそうです。アメリカ人の同僚の方が、「面白いよ」と教えてくれたからだそうです。で、2006年の暮れの『AERA』の記事をお読みになって、拙訳の存在を知って『水源』を読んでくださったのです。で、訳者は6年ほど年上の同窓生だと知ったわけです。この方が、The Fountainheadを翻訳しようと、お思いにならなかったのは、私にとって幸運でした。この小説だけは、私は絶対に私自身が訳したかったから!もう、絶対に誰にも譲ることのできない私の恋人ですから、『水源』は。

ほんとうに、いろんな方々がいらっしゃいます。それぞれにかけがえのない人生を創造しておられます。

出会いの喜びもあれば、再会の喜びもありました。留学して帰ってきた教え子の著しい成長を見ることができました。某国立大学大学院入学試験合格の朗報を待っていますよ!その前に、ちゃんと卒業してくださいね〜〜あなたたちが今の私の年齢になる頃、世界は日本は、どうなっているのかなあ。

<第10のニュース:旭さんの実物を見た!>
これは、ランド節で、すでに書きましたよね。1970年代初頭の、傑作TV時代劇『木枯らし紋次郎』の衣装を身につけた中村敦夫さん(私の初恋の方です)の写真が載っていたので購入した『週刊文春』新年特大号に、旭さんがらみの記事を見つけました。

あの田中角栄氏の秘書(愛人?)を33年間勤めた「佐藤昭子」女史が、田中角栄氏の後援会というか政治団体の「越山会」の統括責任者だった「佐藤昭子」女史が、旭さんの大ファンで、昔から熱心な旭さんの「タニマチ」だと、書かれてありました。旭さんのディナー・ショーのチケットは、いつも、かなりお買い上げくださるそうです。

「お〜〜い、お茶」のCMの伊藤園の社長さんも、旭さんの「タニマチ」だと、旭さん自身がコンサートで話しておられました。ついでに、「越山会の女王」のことも話してくだされば、よかったのに〜〜♪旭さん、自民党から立候補なんて話もあったそうではないですか〜〜♪ 今までは、まったく関心のなかった「佐藤昭子」女史でしたが、ぐっと親近感がわいてきました!ははは。角栄さんと旭さん?男の趣味の幅が広いですね・・・

みなさま、2008年、ありがとうございました。本ウエッブサイトにご来場、ありがとうございました。「アキラのランド節」をお読みいただき、ありがとうございました。

良いお年をお迎えください。ああ・・・年賀状、1枚も書いてないなあ・・・