アキラのランド節

「あいつら」と貧乏な大衆をわける、DNAの0.1パーセントの違い  [09/07/2009]


うかうかしていたら、9月になりました。9月25日締め切りの論文がありますが、一字も書いておりません。書評もありますが、その本はどこに行ったのか。小さな講演会も東京でありますが、何を話すのか。秋学期開講の国際教養学部の新設科目「メディアと芸術表現」の準備など、まったくできていません。

しかし、56歳ともなると、焦燥にかられる元気もありません。「まあ、ナントカするんじゃないの?いつだって、辛くてきつかったし・・・ラクな時ってなかったし・・・」と自分のことなのに、他人事みたいです。

こういう状態を、「開き直り」と呼ぶのでしょうか?居直り?まあ、何でもいいよ、匍匐前進(ほふくぜんしん)するしかないのだよ。

ところで、政治や経済や社会の様々な現象の背後にいる「この世界を動かす人々」に関する「真実暴き系言論」華やかな今日この頃でありますね。

今回のランド節においては、その支配層の人々に操作される世界に生きる貧乏な大衆のひとりとして、私にできることは何かについて、考えてみます。

例の(そろそろ旧聞だな)ノリピー事件は、実はもっと大きなスキャンダルを隠すために、急遽意図的に「起こされた」ものなので、だから報道が異様にしつこかったという情報が、一時、ネットの中を飛び交いましたね。

なんか、あの押尾学っていうタレントが東京都内のマンションの部屋に置き去りにした全裸の銀座ホステスさんというのは、マンション内の別の部屋で、自民党の国会議員とか、国会議員の息子とか、タレントとか、モデルとか、ヒルズ族とかが開いていた「セレブ限定乱交麻薬パーティ」の参加者であり、押尾さんと特に懇意の女性ではなかったとか。

このホステスさんがパーティ中におかしくなったので、これはまずいということで、別の部屋に運ばれて、そこに麻薬で前後不覚の押尾さんも運ばれで、目覚めたら、「え、ここはどこ?この人は誰?」ということになったとか。

みなさん、クスリというのは、風邪薬でさえ、効き目が人によって大違いです。私は、めったに薬品を飲まないので、飲むと効きすぎます。一度、咳があまりにひどいので、咳止め用シロップを1本一気飲みしましたら、もう・・・ラリッてしまって、数日間困りました。私みたいな体質の人間が麻薬などやったら、亡くなった銀座ホステスさんと同じく、すぐに死んでしまうでしょう。

しかし・・・「乱交麻薬パーティ」とは・・・もし、この噂が事実だとしたら、参加者は、よほど暇つぶしの能力のない低脳な方々なのでしょう。その種の会合(?)に国会議員も参加していたとしたら、日本の国会議員とは、よほど暇な職業なのでしょう。実は、国会議員って、ほんとは、誰にでも勤まる程度のものなのかもしれません。

だからさ、政治家志望の某桃山学院大学OBさん、あなたが国会議員に本気でなりたいのならば、なればいいの。別にご大層なことじゃない。ただし、国家議員になる前から、なった後に備えて、下半身系にしろ、金銭系にしろ、スキャンダルを掴まれないように、あらかじめスキャンダルの種を作らないようにしておきましょう〜〜♪

各種災難は、「身から出たサビ」というのは真理です。各種災難を回避する最上の方法は、気持ちがとがめることはいっさいしないこと、これに尽きます。正々堂々、天空海闊(てんくうかいかつ)でいること。そうあろうとすることが、最強最高の「教養」&「自己防衛」ですわ。

「セレブ限定乱交麻薬パーティ」というもがあるとしたら、その目的って、どこか質(タチ)の悪い組織による、セレブの弱み製造&弱みつかみ、なのだろうなあ。セレブって大変ですね。

話を押尾学事件に戻しましょう。衆議院議員選挙投票日が近いときに、自民党議員やそのジュニアが関わった事件が表沙汰になったら、ただでさえ劣勢の自民党が困るから、押尾事件を目立たなくするために、酒井法子事件を起こしたとか。酒井さんを、わざと、ややこしく、あちらこちら移動させて時間を稼いだとか。すべては選挙が終るまで・・・

確かに、8月30日の衆議院議員選挙が終ってから、ノリピーの事件報道も鎮静化しました。あの押尾学っていうタレントが保釈されたのは翌日の31日でした。保釈金400万円は友人たちのカンパだそうですが、「黙っててくれて、ありがとうね〜〜♪」の意味の麻薬フレンド・ネットワーからの謝礼だったのでしょうか。口止め料と言うべきか。

よくできた話です。衆議院議員選挙と、ノリピー事件と押尾学事件。これで押尾さんが自己反省のすえに「自殺」でもしたら、「セレブ限定乱交麻薬パーティ」疑惑は藪(やぶ)の中になりますね〜〜事件は闇に葬りさられますね〜〜

押尾さん、殺されちゃ駄目ですよ〜〜お子さんがいるんですからね〜〜ちゃんと生き抜いて働いて、お子さんの養育費と奥さんへの慰謝料を払いましょう〜〜♪

この「衆議院議員選挙のために押尾学のかわりに酒井法子が出てきた」説が事実なのかどうかについては、私は関心がありません。私が感心したのは、日本の人々がマスコミ報道を鵜呑みにしなくなったということに対してです。奇妙な事件の現象の背後を、日本人が疑うようになったということに対してです。

素晴らしいではありませんか!騙されやすくて洗脳されやすくて付和雷同しやすくて、自分たちでは何ともならんことに無駄に騒いで一喜一憂するガキのような存在様式から、かなりの日本人がじょじょ距離を置くようになっているということですからね。たとえ、まだネットの世界という限られた場所でしかないとしても。おめでたいことです!

いつまでも、日本人だって、マスコミの背後にいる人々の好きに動かされっぱなし、騙されっぱなしではないのだよ!「この無意味にしつこい報道って・・・何が目的なんでしょうねえ・・・?」と遠巻きに淡々と事件を眺める姿勢ぐらいは、できあがりつつあるのだよ!

この現象は、明らかに、副島隆彦氏をはじめとした多くの方々の「真実を暴く」言論活動のおかげです。成果です。

特に2009年は、この「真実を暴く言論」活動に、トーマス・ウッズ著『メルトダウン--金融溶解』(副島隆彦監訳解説、古村治彦訳、成甲出版)と、中田安彦著『アメリカを支配するパワーエリート解体新書』(PHP研究所)と、吉田祐二著『日銀--円の王権』学習出版社)が加わりました。

3冊とも、私が今夏に読んだ本の中でも、出色に面白いものでした。奇しくも、みな副島隆彦氏のお弟子さんによって翻訳されたもの、もしくは書かれたものです。さすがに、師匠の副島氏ほどの、最近作の『あと5年で中国が世界を制覇する』(ビジネス社)にも発揮されているところの、柄の大きい視点とか、大つかみに世界の動向を言い切る大胆不敵さとか、読者の心をグサリとつかむ活力ある血の通った文章とか、予言力(?)までは、まだ備わっていないようですが、それでも、ほんとに面白いです。

トーマス・ウッズ氏の『メルトダウン--金融溶解』の趣旨を簡単乱暴にフジモリ流で言えば、「金融危機、経済恐慌の原因について、資本主義の終焉だの、自由主義経済がいけないだの、規制緩和がいけないだの、イロイロ言うけれども、こうなることを、ちゃんと資本主義の自由市場を支持するオーストリア学派の経済学者は警告していたでしょーが。恩人を悪役にでっちあげてんじゃないよ!いったい、今までの経済のどこが自由主義だ?資本主義のルールなんか守られてきていないだろーが!どこに自由市場があるか?悪いのは政府の介入なの。政府が規制して公的支援をすればするほど、経済は駄目になるの。人々のモラル・ハザード(moral hazard)は進行するの。問題はワシントンの政治エリートというアホたちなの!」となります。

翻訳書ですが、非常に読みやすいです。訳文がいいです。また、訳注が充実しているので、私のような経済に無知な人間にでも理解しやすいです。実際の翻訳をなさったのは、古村治彦さんというまだお若い方ですが、原書が出版されてから、まもなくすぐの翻訳出版です。英語力&日本語力あるなあ!

  しかし、このトーマス・ウッズさんは、本気で、ワシントンの政治エリートたちのオーストリア経済学の知見に対する認識不足(=怠慢)とか、権力志向とか、社会主義経済とか全体主義への傾きが、経済恐慌の責任だと思っているのでしょうか?そんな他愛ないことが原因だと思っているのでしょうか?

今の私は、このような本でさえ、ほんとうの原因、ほんとうの犯人隠しの言論ではないか?と疑うようになっています。はい。

中田安彦氏の『アメリカを支配するパワーエリート解体新書』は、オバマ政権誕生と政策を事例にした、アメリカのスーパークラス(superclass)の誕生と生成と維持と、その戦略を分析したものです。

要するに、オバマ大統領のみならず、アメリカの大統領ってのは、世界を動かす超上流支配階級の人々が選び育てて「指導」するものなんであって、アメリカの政策は、オバマさん個人ではどうにもならんのだよ、しかも、その超上流支配階級の人々だって好きにはできないような世界政治経済の潮流の変化が起きているよ〜〜ということを、確かな調査に基づいて、読者に伝える本です。

情報満載です。よく、ここまで調査したものだと感心します。まさしくアメリカ合衆国の核心にいる人々の塊を解体しています。ほんとうにアメリカの虫垂じゃあない中枢を覗いてしまったような生々しさがあります。あ、「虫垂」でいいのかもしれないな。アメリカの「内臓」の解体なんだから。

読み通すと、マラソンしたような疲労を感じます(中学以来マラソンしたことないけど)。読者でさえ読み通すと、その情報量に疲労困憊する本を書いてしまったのですから、著者の中田さんも、書き終わって、さぞお疲れになったことでしょう。体重20キロは落としておられるのではないか?こういう超上流支配階級の人々について書くと、その人々の毒気に(間接的とはいえ)あてられて生気を吸い取られるんじゃないか・・・??と、心配になるほどの力作です。

(そうか、私も本を書けば痩せるのかもしれない・・・)。

吉田祐二氏の『日銀--円の王権』が、これまた力作です。カネは世界を動かす。これは真理です。事実です。しかし、そのわりには、カネがどう世界を動かしているのか、私たちは知りません。カネの不足によって満たされない自分の欲望については、よくわかっているのですが。

以下は、吉田氏の御本のフジモリ流まとめです。

カネが世界を動かすとは、どういうことか?要するに銀行がカネを貸せば、人々はそのカネを元手に起業したり、事業を継続したり、住宅購入したり、経済活動が動きます。銀行がカネを貸すことを控えれば、世間の経済活動は鈍ります。インフレだの、デフレだの、バブルだのは、全部、銀行が貸すカネの量次第。

じゃあ、銀行はなぜカネを貸さないか?それは中央銀行がカネを各銀行に出さないから。じゃあ、銀行はなぜやたらカネを貸したがるのか?それは中央銀行が各銀行にカネを出すよう指令するから。各銀行は、中央銀行の指令どおりに動くしかないシステムになっている。要するに問題は中央銀行。アメリカならばFRB。日本ならば日銀。

日銀って何?なんで、そんな権限があるの?財務省ではなく、日本銀行がカネの流通量を決めるとするのならば、景気後退だの、恐慌だの、インフレだの、デフレだの、バブルだのを作り出すのが中央銀行(国立銀行のような顔をして税金もたっぷり使う株式会社である民間銀行)である日銀ならば、人間の生活の要であるカネを支配するのが日銀ならば、日本の指導者とは、実は首相でもなければ、もちろん天皇でもない。日銀総裁こそが、日本の真の国王だ!

そういう類の国王は、もともとは日本にはいなかった。江戸時代にはいなかった。では、どういう経緯で、そのような国王は生まれたのか?そりゃロスチャイルドとかモルガンとかロックフェラーとかの財閥が背後にいたのではあるが、その西欧の財閥たちは、どのように日本を傘下に組み込んでいったのか?そのような財閥たちは、いかにして「代々の真の日本の国王」たる日銀総裁を選んだのか?

また、「代々の真の日本の国王」たる日銀総裁とは、どのような人々だったのか?どのように日本を動かしたのか?いや、どのように、日本を動かすように命じられてきたのか?今でも、日銀総裁から次の総裁へと伝わる秘儀といいますか、カバラといいますか、カネの流通を支配する技術があるそーです。日本銀行の密教ですね〜〜

ということが豊富な資料をもとに書かれた本が、『日銀--円の王権』です。読み応えあります。私は一気に読んだぞ。

晩夏から初秋にかけて読んだ面白い御本の紹介は、ここまでにして、ここからが今回の本題です。

真実を暴き系言論本は、調査や分析がよくできているものほど、読後、世界が違って見えます。「この世界は、全てが、その支配階級に利益が出るように作られているんだなあ・・・そういう仕組みの外に出て行くことはできないんだなあ・・・私なんて、nobodyですねえ・・・」と思うと、確実に世界が違って見えてきます。

世界が、よそよそしく見えるといいますか、TVや新聞で報道される事柄も、他所の星の出来事に思えるといいますか。だって、そんな世界は、私には何ともならないのでしょう?私が、どうこうして、なんとかなる世界ではないのでしょう?

中央銀行を操作できるような人々の支配下にある世界って、外国と同じです。市民権も何もない世界。異界です。別の惑星です。私は、永遠にその惑星の居候。旅人。

世界に対する洗脳が解けると、夢とか怖れとかの感情を持つほどにもコミットメントできない世界が、コミットメントしようもない世界が、そこに茫漠と広がっているだけになります。

日本の政治家を怒ったりしても、しかたないではないですか。官僚に怒ってもしかたないではないですか、ほんとうは。彼らだって、所詮、国家エリートのつもりでも、「あいつら」の手駒(pawn)にしか過ぎないのだから。

『日銀--円の王権』の著者の吉田祐二氏は、この世界の対立とは、煎じ詰めれば、「貧乏人対支配階級」の対立だけだと言います。中央銀行という隠れ蓑を身につけてカネの量を操作して世界を支配する人々と、そうではない人々との対立であると言います。

そうですね、実は、国会議員も高級官僚も、そのあたりのお金持ちも、企業主も、東京大学教授も、病院長も、人間国宝も、みな貧乏な大衆です。中央銀行を操作して世界に流通するカネの量を加減したり、「信用」だけで、とんでもない巨額の金をヴァーチャルに生み動かして世界経済を撹乱(かくらん)させたり、戦争を起こしたりすることは、とうてきできない大衆です。

この世界は、すべて他人が仕組んだもの。そう、あなたも、私も、その仕組みに翻弄されて生きるしかない大衆。そのあたりのエリートも、ニートも、フリーターも、ホームレスも、みんな貧乏な大衆。この仕組みにがんじがらめにされた世界以外に生きる世界がない貧乏な大衆。新しい世界など構築できない頭の悪い大衆。

しかし、ほんとうの共通の敵を見ないで、貧乏な大衆同士で足をひっぱりあっているのが世界の実相です。吉田氏は、貧乏な大衆同士で足をひっぱりあうのは、典型的な支配のやり口=分断して統治するやり口に乗せられているようなものだと言っておられます。同感。

大衆って、中央銀行を作るような祖先を持てなかったんだから、DNA的に、何か足らないのでしょう。だから、真実がわからずに、瑣末なことに翻弄され、憎んでもしかたない人間を憎んだりするのでしょう。共通の敵を見定めるのではなくて、自分だけ損しているのではないかと被害妄想にかられるのでしょう。不安に翻弄されて無意味に疲れるのでしょう。ただただ無知なままに食べて寝ているだけで、人生という一度しかない時間をウカウカ過ごしてしまうのでしょう。共闘するよりも、仲間内で足を引っ張ることぐらいしかできないのでしょう。苦しむこともないのに苦しみを生み出して無駄に消耗してしまうのでしょう。

そう、私たち大衆は、DNA的に何か足らない。何が足らないのだろう??

人類のDNAって、99.9パーセントは、いっしょだそうですよ。ロスチャイルドだろうが、ロックフェラーだろうが、モルガンだろうが、99.9パーセントは、あなたや私と同じDNAらしいですよ。少なくとも、彼らも、あなたや私と同じ人類です。腸に口と肛門がついた生物です(あとの内臓は、みな腸の派生物ですから、省いていいです)。

「ならば、残りの0.1パーセントが、ものすごく違うんでしょうねえ、きっとお〜〜」と言っている、そこのあなた!だから、あなたは単なる貧乏な大衆なのです。その「あいつら」と貧乏な大衆をわける、DNAの0.1パーセントの違いとは何かって、考えないから、あなたは単なる貧乏な大衆で終るのです。

あいにくと、私は諦めが悪い。すっごく悪い。私は貧乏な大衆。それは事実。だからって、たった1度の人生を、いかにも貧乏な大衆らしく、無意味に無駄に消耗して、自らを傷めて、人を憎んで生きるわけにはいきません。生まれ変わりとか前世とか、証明できないような類のことに構っている暇はありません。人生は、この人生一度きりです。次に生まれ変わったら、幸せな人生送りたいわ・・・なんて、そんな悠長な怠惰なこと言っていられるか。

「あいつら」と貧乏な大衆をわける、DNAの0.1パーセントの違いとは、何か?

ひょっとしたら、ここらあたりに解答があるのかもしれないな〜〜と思う点がないわけではありません。

たとえば、「あいつら」って、ものすごく自己肯定能力があるのではないでしょうか。より正確に言えば、自分の人生の幸福を前提として人生を始めるでしょう?どうなっても、自分が零落するなんてありえないという前提で人生を始めるでしょう?これって、とてつもない強みですよね。

彼らは負ける自分、不幸な自分、弱く惨めな自分、孤独で孤立した自分、社会の動きに翻弄され襤褸(らんる=ボロのこと)のように疲弊する自分など想像できないのですよ。自分の人生の支配者としての自己確信が意識できないほどに内面化されているので、彼らにとっては、失敗や挫折なんて想像する習慣がないのですよ。そんな否定的なことが、自分の人生に起きるはずないと信じて疑わないというより、そんなこと考えたこともないのだから、何か不運が自分を襲うのではないかなどと、取り越し苦労することもないです。

彼らは、また、傷つきません。多少の不都合が起きても、すぐに修復がついて、ついでにその不都合がより大きな利益を持ってくるという前提で生きていますから、何が起きても平気です。だから、愚痴を言っているような時間の浪費はしません。何だって、結局は、自分にとって都合よく進むと思っています。だから、テキパキ動くけど、気は長い。焦燥というものとは縁がない。

「あいつら」は、元気です。陽気です。体力あります。細胞が生き生きとしています。免疫力あります。毎日快食(でも小食)快眠です。ついでに快便です。一日に2回は便が出ます。90歳過ぎてもサッサと早足で歩きます。膝が痛くないです。老いても顔の色艶がいいです。血色いいです。皺が少ないです(かなあ)。眼も生き生きと光り動きます。デイヴィッド・ロックフェラーみたいに。

94歳のこの人物を東京の一流ホテルのロビーで目撃した吉田祐二氏が、「矍鑠(かくしゃく)としているのに驚いた」と、『日銀--円の王権』の中で、書いておられましたよ〜〜

しかし、貧乏な大衆は、デイヴィッド・ロックフェラーではないので、ついつい老後の自分の姿を否定的にイメージしてしまいます。みなさん、94歳にして、外国のホテルのロビーをサッサカ早足で歩く自分を生き生きイメージできますか?「私も、オオハラレイコかしら・・・」と思ってませんか?

貧乏な大衆ってのは、負ける自分、不幸な自分、弱く惨めな自分、孤独で孤立した自分、社会の動きに翻弄され襤褸のように疲弊する自分を想像するほうが、94歳にして現役の自分を想像するより、簡単なのです。

なんでかっていうと、貧乏な大衆は、貧乏な大衆の家に生まれて、貧乏な大衆とつきあい、貧乏な大衆の発想しか知らずに生きるからです。負ける自分、不幸な自分、弱く惨めな自分、孤独で孤立した自分、社会の動きに翻弄され襤褸のように疲弊する自分(しつこいね)を想像することが、「人生に備えること」、「人生について考えること」であると、学習してしまっています。

ついでに、その学習内容を疑わないくらいに、無駄に無意味に素直です。そんなもん、単なる「世にはびこるものの考え方」でしかないのに。真理でも何でもないのに。少しは、疑え!どうでもいいことには猜疑心の塊なのに、肝心要のことは信じて騙される。まったく、貧乏な大衆は、やることがチグハグです。

つまり、「あいつら」と貧乏な大衆をわける、DNAの0.1パーセントの違いとは、まずは、「94歳にして足腰が丈夫で、リッチで、健康で、陽気で、明るい自分は、あたりまえであり、実現して当然の既定のこと」と思い込めることができるかどうか、にあるようです。

「94歳にして足腰が丈夫で、リッチで、健康で、陽気で、明るい自分は、あたりまえであり、実現して当然の既定のこと」と思い込めることができるかどうか?

これぐらいのことならば、できるでしょう?

このさい、「あいつら」の真似してみればいいのではないでしょうか?

中央銀行システム(国際金融資本とも呼ぶ)を創った人々とその子孫は、恐慌が起きようが、大地震が起きようが、戦争が起きようが、トイレが断水しようが(これが一番困るが)、絶対に心を傷めないでしょう。無駄に無意味に否定的な考えで自らを消耗させないでしょう。心配や取り越し苦労しないでしょう。自分の不安や恐怖を他人に反映して転移して、他人を恐れないでしょう。憎まないでしょう。ただ、ひたすら、自分たちの幸福を増強させるために、ああもできる、こうもできる、ああしよう、こうしようと、打つ手をドンドン繰り出すでしょう。

ならば、そうしてみればいいのですよ、私たちも。どう見ても、「あいつら」の方が楽しそうならば、「あいつら」のやっていることで、私たちが真似できることから真似ればいいのですよ。

自分の一度だけの人生だから、自分にとって快適なことしか思わない!と決めてしまっていいのですよ。非常識だろうが、妄想だろうが、思い込みだろうが、自分自身を傷めるような想像なんかしないし、自分自身を消耗させるようなことは考えない!と決めて実行しても、誰にも迷惑かけません。

負ける自分、不幸な自分、弱く惨めな自分、孤独で孤立した自分、社会の動きに翻弄され襤褸のように疲弊する自分など、確かに、ほんとに、想像してもしかたないです。そのときは、そのときで打つ手があるでしょうから。打つ手がなくたって、だから何?どうってことない。

打つ手がなくて途方にくれた自分を想像したら、すぐに、その自分が、立ち上がり、白馬にまたがって中央アジアの草原を疾走するシーンを想像すればいのですよ。遠い惑星めざして宇宙船の操作ボードに指を置いている自分の横顔のアップのシーンを、想像すればいいのですよ。想像するくらいタダですから。

ところが、貧乏な大衆は、自分の人生が信じられず、必ず不幸や災難はやって来るものと信じて疑わず、不安や恐怖にかられて、入る必要のない生命保険や医療保険に入ります。無駄な健康診断を受けます。悪いことを想像することだけが上手いです。 自分の非力ばかり過大視して、誰かが何かが(国が?)自分を守ってくれるのではないかと物欲しげにキョロキョロします。

まったく、「あいつら」の子分や一族郎党や、その末端は、貧乏な大衆の不安と恐怖と悲観主義につけこんで儲けるのがうまいよなあ・・・

貧乏な大衆が、自分自身の不安と恐怖と悲観主義のために、あいつらの財産を増やすなんて、ほんとに、アホらしい。

貧乏な大衆にできることは、この世界に中央銀行システムを代々かけて構築してきたような人々に対して革命を起こしたり、テロをしかけたりすることではありません。そうやって「あいつら」に勝つことではありません。「あいつら」に関係なく幸福でいること、です。権力も地位もカネも何もないのに、幸福でいるってことです。平気で堂々と、幸福でいるってことです。世界を、人々を、社会を、「あいつら」を無駄に無意味に恐れず、憎まず、そんなのどーでもいいと思うような晴れ晴れとした人生を生きることです。

「あいつら」が繰り出す現象を眺めつつ、その現象に浸食されない自分を創り、生き切ることです。

民主党が自民党と同じでも構わない。世界恐慌が来ても構わない。天変地異が起きてもいいの。きっと大丈夫。世界から、男らしい男が消えて、草食系男子ばかりになっても構わない。女だけで楽しく雄々しくやってゆきますから大丈夫、大丈夫。体重が増えて、またも17号が着られなくなっても、大丈夫、大丈夫。絶対にあと5キロは痩せるぞ!!論文が書けなくても大丈夫。絶対に書くから大丈夫。恐怖の秋学期?大丈夫、大丈夫。徹夜してでも、講義の準備はするから大丈夫!死んだって休講にしないから大丈夫!

要するに、幸福でいればいいのでしょう?「あいつら」であろうが、「貧乏な大衆」であろうが、幸福であるのならば、同じです。幸福な人間は、幸福な人間だ!同じだ!

要するに、『水源』のハワード・ロークでいればいいのです。

そう思えるかどうか、そう思って実践して習慣にして、それにこだわることもないほどに、それを忘れてしまうまでに、それを自分の生き方にできるかどうかが、「あいつら」と貧乏な大衆をわける、DNAの0.1パーセントの違いならば、この際、身を持って人体実験してやろう〜〜♪と、私は思いました。

でもまあ、貧乏な大衆である私の56年間ではあったが、そこそこ幸福であったし、元気で陽気で、ギャアギャアうるさい94歳の自分も十分に想像できるので、このまんまでOKか・・・特にややこしい実験をすることもないか・・・と思い返す初秋の私でありました。