アキラのランド節

最近むかついたこと(助走編)  [11/03/2009]


爽やかな秋の日々です。とはいえ、本日の文化の日は、寒波襲来的に風が冷たいのですが。

最近は、ふかした薩摩芋をランチ用に大学に持って行って、お昼休みに、かぶりつくのが幸福であります。私は、薩摩芋が好きだ!

先日は、卒業生が、評判の「ねんりん家」のバームクーヘンを私の研究室宛てに送ってくれましたので、それを一度に全部食べて夕食にして、研究室で、残業しました。外側(皮?)がフランスパンみたいにカリカリで、そこにパウダー・シュガーがまぶしてあって、中身は、しっとりやわらかなバームクーヘンです。残念ながら、通販はしていないのですよ、ここのお店は。

「届いたら、すぐに開けて食った。夕食がわりに全部食った」、では、あまりに教師としての沽券にかかわるので、「2日かけて、ゆっくり賞味していただきました・・・ほんとに、おいしく・・・」みたいな見栄はって嘘を書いたお礼メイルを、私は、その卒業生に出しました。ははは。

なんか、今って、ロールケーキとバームクーヘンが流行しているのだそうですね。まだまだ体重60キロの目標には達しておりませんので、おいしいお菓子情報は私に流さないでください・・・・

と、言いつつ、金沢の古書店のDuckbillさんが送ってくださったお庭の栗の実をゆでて、一心不乱に皮をむいて食った私。栗は収穫してからサッと湯がいて、4週から6週冷蔵してから、ゆでていただくと、甘味が増すんだぞ〜〜私は、栗が好きだ!ケーキは、定番モンブランが好きだ!

秋に痩せるのは無理やね。

怒涛の労働の日が続き、更新作業が滞っております。週末にも、ナンヤカヤと仕事が入り、なかなか更新ができません。申し訳ありません。

そこに加えて、つい最近も、アイン・ランドの評伝が、立て続けに2冊もアメリカで出版されたので、それを読むのにも忙しいです。Jennifer Burnsの Goddess of the Market: Ayn Rand and the American Right (Oxford University Press, 2009)と、Anne C. Hellerの Ayn Rand and the World She Made (Doubleday, 2009)です。

今まで書かれたアイン・ランドの評伝は、あまりにランドに近すぎた弟子たち(バーバラ・ブランデンと、ランドの愛人でもあったナサニエル・ブランデン)が書いたものだったり、短いものだったりでしたが、今回の2冊は、まさに初めて部外者によって書かれた評伝です。

前者の評伝『市場の女神--アイン・ランドとアメリカの右翼』の著者のジェニファ・バーンズさんはヴァージニア大学の准教授です。専門は、経済学だったか、政治学だったか・・・アイン・ランドの遺稿管理機関であるThe Ayn Rand Institute所蔵のアイン・ランドの自筆の原稿や日記やノートやメモ(Ayn Rand Archivesと呼びます)を駆使しています。

『市場の女神--アイン・ランドとアメリカの右翼』というタイトルが、実にそそるではありませんか。が、中身は、特にアメリカの右翼の問題でもなさそうな・・・

これも、またつい最近、アメリカ合衆国の外には送ってくれなかったamazonのKindleが、注文すれば、書籍みたいに日本でも手に入るようになりました。私も、早速、この「3000冊収納可能携帯電子図書館」を購入しました。3万円くらいやね。

で、早速、この『市場の女神--アイン・ランドとアメリカの右翼』をダウンロードしました。書籍の形としても持っているのですが、お気に入りはキンドルにも入れておきたいです。寝床で読むには、キンドルのほうが軽くて楽だし、字の大きさも自由にできて便利です。

かたや、後者の『アイン・ランドと彼女が作った世界』の著者のアンヌ・ヘラーさんは元編集者のジャーナリストです。この女性は、40代で初めてアイン・ランドを読みました(私と同じですね)。今のアメリカで最も人気のある金銭問題評論家(?)のスージ・オルマン(Suze Orman)女史の担当編集者になったことが、そのきっかけでした。

スージ・オルマンさんのことは、今年のランド節の1月16日号にも、少し書きましたね。「山っ気はよして、借金整理して、堅実に生きよう〜〜カネは使わなければ貯まるよ〜〜それから、女性は、自分のこと犠牲にしてまで家族や男のためにカネを使っちゃいけないよ〜〜あなたの稼いだカネは、あなたのもの!あなた自身が稼いだカネを守ることと、他人への愛は両立します!きちんと正直に自分の経済状態を子どもに語れ!!子どもを私立学校にやることない。公立で十分。見栄張っちゃ駄目!」と薦める本を書いて、女性ファンの多い金銭問題評論家です。いや、ファイナンシャル・コンサルタントと呼ぶべきか?

アメリカのセレブの女性がそうであるように、オルマンさんも綺麗で、かつとても若く見えますが、私と同年輩でした〜〜同世代だと思うと、ちょっと嬉しい。

やっぱり、アンチ・エイジングと美貌維持は、美容情報と美容実践にかけることができる金銭の量次第なんだよな〜〜同世代だと思うと、ちょっと寂しい。

オルマン女史は、シカゴに育ち、地元の州立大学に入学してソーシャル・ワークを専攻にしたのですが、語学の単位が足りなくて留年が決まった時に、サッサと退学して、レストラン(ダイナー。大衆食堂ね)のウエイトレスを何年も続け、25セントのチップを集めるような暮らしをしていました。

ある日、客の一人が彼女に夢はないのかと質問し、ちょっとまとまった額のオカネを手渡してくれました。このオカネを運用して増やしてごらんなさいと、言ってくれました。これがきっかけで、彼女の金銭管理と投資の才能が花開いたのです。

その後、いろいろあり、オルマンさんは、超一流の証券会社のメリル・リンチにスカウトされて、ついには全米随一の売れっ子投資アナリストになりました。特に、女性とお金の問題に関しては、何冊ものベストセラーを書いています。彼女のオーディオ・ブックも大人気です。私も持っていますが、声が面白いです。テレビの冠番組も持っています。一種のself-made womanですね。

オルマンさんの、この異色の独学庶民派系経歴も、彼女がアメリカ人に人気がある大きな理由です。草の根のアメリカ人は、生え抜きエリートを信じていないから。

オルマン女史は、著書を読めば、すぐにわかりますが、その金銭哲学は、アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』から得たものなのです。名前から判断しても、彼女もユダヤ系なのでしょう。

それで、オルマン女史は、自分の担当編集者になったアンヌ・ヘラーさんに、アイン・ランドのことを語ったのでした。このヘラー女史も、もろユダヤ系だよなあ。ユダヤ系ドイツ系アメリカ人だと思います。顔つきも名前も。

で、ヘラーさんは、40代の出版社勤務の編集者時代に、ランドの小説を読み始めたのです。といっても、ヘラーさんの思想的立場は、ランドのものとは違って、ニューヨークのユダヤ人インテリに多くあるように左翼系のようです。

『市場の女神--アイン・ランドとアメリカの右翼』の著者のジェニファ・バーンズさんと違って、アンヌ・ヘラーさんは、The Ayn Rand Instituteとは関わっていません。ヘラーさんは、ランドが書いたものからではなく、ランドに関する資料から、特に、アイン・ランドの関係者の話した彼女に関するインタヴューや証言の膨大な数のテープ記録から、ランドの人生の軌跡を明らかにしています。

どちらが読んで、面白いかといえば・・・今の段階では、アンヌ・ヘラーさんの『アイン・ランドと彼女が作った世界』です。

ジェニファー・バーンズさんの『市場の女神--アイン・ランドとアメリカの右翼』は、学者が書いたものだからなのか、文章が、ちょっとかったるい。いい子ぶりっ子気味。焦点も絞りきれていない感じです。

しかし、あくまでも、この感想は今のところのものでしかありません。2冊とも、まだ読み終えていません。去年アマゾンに予約してから、出版が遅れ、待ちに待っていた評伝2冊です。大事になめるように読んでいます。このことについては、また、あらためてランド節に書きます。

今まで知られていなかったアイン・ランドに関する事実は、とても興味深いです・・・

ランドって、書くことに集中したいがあまりに、休日なしで、睡眠時間も極度に切り詰めて、ぶっ続けで執筆したいがために、医師に頼み込んで、アンフェタミンなる「中枢神経刺激剤」を処方してもらって、ほとんど中毒状態だったそうです。30代の終わりあたりから。

とうとうドクター・ストップがかかり、いっさい書いちゃ駄目!と数ヶ月間の完全休養を命じられたそうですが、アンフェタミンの副作用はずっと続いたようです。彼女の激変しやすい気分に超過敏な神経というのは、この薬品投与の影響もあったらしいです。

激変しやすい気分と超過敏な神経をコントロールするつもりの薬品投与であったのかもしれませんが、それが、かえってもともとの彼女の過激な集中力を一層先鋭にしたのですね。

つまり、アイン・ランドは、一種の「ヤク中」でした。このアンフェタミンというのは、太平洋戦争中の日本軍が兵士に投与した覚醒剤ほどの粗悪なものではなかったのでしょうが、まあ、似たりよったりでしょうね。

そこまでしないと、あれだけの長編小説2冊『水源』と『肩をすくめるアトラス』は、書き上げることはできませんでした。あれだけのスケールの小説を完成させる、というのは、とんでもない力業(ちからわざ)ですからねえ〜〜

人間って、何かの中毒にならざるをえない生き物かもしれません。ましてや、絶対に完遂させなければならない大きな仕事を抱えた人間は、集中力維持のためには、エネルギー傾注のためには、何らかの大きな欠損を抱えざるをえず、その欠損を埋めるために何らかの依存症になるのでしょう。ヤク中にせよ、アル中にせよ、セックス依存症にせよ、買い物依存症にせよ、過食症にせよ。

仕事依存症を維持して仕事するために、他の別の依存症になる。アイン・ランドは、そのパターンでした。

弟子の25歳年下のナサニエル・ブランデンとの不倫関係の性交渉という「神経の弛緩&肉体の解放」がなければ、『肩をすくめるアトラス』におけるクライマックスであるジョン・ゴールトの演説の部分を、アイン・ランドは書き上げられませんでした。

勝手な男みたいです、アイン・ランドは。愛人の扱い方も、配偶者への甘え方においても。正直にも自分本位。真の利己主義の発露とは呼べない姿勢ではあるが。

実は、これら2冊の評伝は、アイン・ランド賛歌ではなく、「アイン・ランドを暴く!」風の趣のものです。

ともあれ、これら2冊の評伝についての内容紹介は、次の機会にさせていただきます。なにしろ、2007年に白内障の手術をしてから、長時間ぶっ通しで読書すると頭が痛くなります。前に比較すると、一冊の本を読み通すのに時間がかかります。

それでも、読めれば幸せ。私は、読書しか楽しみないもんな〜〜♪

ところで、月曜日に祝日を持ってきて、やたら3連休にするって、誰のアイデア?どこの馬鹿のアイデア?「下手な考え、休むに似たり」なんだよ。大学が、カレンダーどおりに月曜日を祝日にしていたら、月曜日の授業日数が足りなくなるでしょーが。

だから、月曜日に祝日がきたって、ちゃんと授業がある大学は多いのですよ。こんな時代に、3連休やっていられる会社って、どーいう会社?よほど仕事がないとか?倒産しかけとか?3連休なんか、やっていられるのは役所ぐらいなもんだろ〜〜あ、そうか、公務員が休みたいから3連休にしたのか。

ほんとに、ろくでもないことばかり考えつくんだよな、くっだらねえ。

それより、祝日が一日もない6月に祝日でっちあげてよ。今の祝日は、実は、こっそり、ほとんど今までの天皇の誕生日とか何からしいですが、歴代天皇の中で6月に生まれた人はいないの?いっそ6月9日を祝日にしたら?「原始女性は太陽であった日」というのは、どうでしょうか?「良妻賢母&国母の日」とかもいいですね。

なんで6月9日か、ですって?いやですわ〜〜この日は、もちろん現皇太子&皇太子妃のご結婚記念日でございますわ。6と9の数字の並びから、尾篭(びろう)で卑近で不埒(ふらち)なことは考えないように!(私が、一番尾篭で卑近で不埒だな・・・・)

いろいろ世界も日本も危機的状況らしいですが、まだまだ安穏は続いているようです。だって、特に頭が良さそうなわけでもないし超美人でもなさそうな女詐欺師に簡単に騙され殺される男性たちのニュースを聴くと、ほとほと感心します。

「そんなに簡単に騙され殺される程度の頭のオッサンたちでも、ちゃんと職を得てカネを貯めてこれたんだね〜〜うわあ、日本って生きるのに苦労のいらない国なんかしらね〜〜男にとっては」と思ってしまいます。こんな程度の男たちが、エラソーな顔して食ってこれた日本って、素晴らしく安穏な国ではないでしょうか?日本万歳。

この事件の被害者の男性たちって、すっごい他愛ない・・・

この種の詐欺というのも、一種の「富の再分配」です。経済的自立を果たすことが、まだまだ女にとっては簡単ではない類の社会には、この種の男からの女への富の還流が、あって当然です。金持ちの頭の悪い子どもや孫が、詐欺で騙されるのも、一種の富の再分配。息子を引きこもりのニートにしちゃった役人が定年後も、自分の年金や天下りの退職金で子どもを養うのも、富の再分配。その役人の死後に、奥さんが「振り込み詐欺」で騙されるのも、富の再分配。めでたし、めでたし。

世の中って、よくしたもんだよね〜〜♪それなりの努力も苦労もしないで稼いだカネよ、どんどん還流せよ〜〜♪本来届くべき人々の手に渡れ〜〜♪ あの雲越えて風に乗れ〜〜♪

色香と恋の手練手管に自信のある、馬鹿だけど狡猾で冷血でタチの悪い類の女性のみなさん、コミュニケーション能力の育成を怠り、教養もつけず、自分の孤独の原因を思考する能力もなく、女と見れば、一方的に自分をお守りしてくれるものだと期待して疑わないノータリンの小汚い幼稚なオッサンたちを、どんどんガンガン騙してください。カネを巻き上げてください。

詐欺という犯罪は、被害者が恥ずかしい唯一の犯罪です。騙されるほうが悪いんじゃ。安易に生きてきた罰だよ。どのみち、わたしら、カタギの者には関係ないことだもんね。勝手に殺しあってろ。

ところで、昨日の月曜日、私は珍しく休講させていただきました。ふたつのクラスを休講にしました。目覚めたら、もう身体が、「動かない!」とストライキを起こしていました。ひたすらダレダレ眠りこけておりました。

ずっと忙しく、週末も、なかなか名古屋に帰ることができませんでした。土曜日の10月最後の日に久しぶりに名古屋に帰りましたが、翌日の日曜日の11月1日に、愛知県の親戚の法事に出席せざるをえませんでした。

たまっていた疲れの上に、法事のあまりの無為なる空しさへの疲労感が重なり、ついでに風邪をひいてしまったのでありました。

エディット・ピアフの歌のタイトルじゃないけど、暗い日曜日?

朝から座敷に正座で、坊さんのしょうもない読経を聞いてお焼香して、そのあと会食して、会食後は雨の中を墓参りして、そこでも坊さんのしょうもない読経聞きながら焼香して、それからお寺の本堂で正座して、またもや、しょうもないお経を聞きながら焼香して、それからお茶しながらの、これまたどーでもいい世間話につきあって日が暮れて・・・故人の思い出など誰もしない。

長患いで家族や周囲を疲労困憊させて死ぬと、思い出してももらえないとか?いや、これも一種の恩寵なのでしょう。生きて残る者が悲しまないように、思いっきり迷惑かけて死ぬのも、死者の深い思いやりかもしれません。かなあ。

しかし、今どき、こんな行事につきあっていられるのは、よほど暇をもて余している類の老人だけだよ。現役で働いている人間を、こんなもんに狩り出すなよ、もう。

その法事は、禅宗で執り行われました。尾張の禅宗の檀家というのは、私の実家の浄土真宗の檀家とは違って、葬式から49日までの間に毎週、お布施とお供え物をお寺に持って通うのが慣習だそうです。49日間だから7回か。

で、その親類もそうしたわけですが、果物を持参したら、「ご飯のおかずになるもの持ってきて」と坊さんが言ったそうです。何様のつもり?まあ、正直な発言ではあるが。ついでに、その坊さん、「米はあるから、米はいいから」と言ったそうです。ご飯に塩かけて食っとけば?マヨネーズもあるでよ(下層階級用名古屋弁)。

葬式の読経の御礼というかお布施に、100万円(これが相場だそうです)を持っていったときには、その場でサッサと中身を確かめて、こう言ったそうです。「20万円足りないね」と。

どこから、そういう計算になるんだよ?明細書は?領収書は発行したのか?お布施って、葬式費用に含めて、経費で落とせるのかな?

こういう横柄な態度の、檀家の寄生虫状態の、その坊さんは、痴呆になりかけた年配者じゃありません。まだ40歳前です。7年ぐらい前までは、革ジャン着て750ccのモーターバイクを乗り回していたそうです。一丁前に、はねかえっていたくせに、結局、家業を継いだというわけです。根性なし〜〜へたれ〜〜あかんたれ〜〜♪

読経後に、気の効いた法話とかするわけでもなく、檀家の人々を笑わせようと漫談や手品をするわけでもなく、もちろん男前でもなく、仏壇の位牌の置き方がどうたら、遺影の飾り方がどうたら・・・何、こいつ?線香の煙の吸いすぎで、脳がいかれたんじゃないの?

いい加減な葬式の読経に120万円の謝礼を欲しがる僧侶も僧侶だが、素直に支払うほうも支払う方だよな。だから、なめられるんだよな。

そのわりには、寺の中の墓地は清掃も行き届いていませんでした。木々の伐採もせず、暗くて小汚くて廃墟みたいでした。こんなに陰鬱では、幽霊も寄りつきたくないだろう〜〜その寺の僧侶の心の荒廃が、そのまま寺や墓地全体に伝染しているかのようでした。

いやあ〜〜21世紀になっても、世間には、まだまだろくでもない慣習が残っているものでありますね。いい加減な坊主なんか、無用ですわ。お経がないと気分的に乗れないのならば、お経のCDを流しておけばいいのだ。祝詞(のりと)のCDもあるぞ。モーツアルトのミサ曲でもいいのだ。「君が代」でもいいのだ。ColdplayのViva La Vidaとか、稲垣潤一の「クリスマス・キャロルの頃には」もあるでよ。

死者への敬意と追悼の意を表現する葬式は必要だが、何周忌だの何だのなんかは、無用だ!!やりたければ、好きに自己流に楽しくやればいいのだ。お墓だって、ないならないで構わない。死者を記憶している人間が死ねば、その死者は真の意味で死ぬのだからさ。墓なんかあってもなくても同じです。たまに思い出して、空に向かって祈ってくれる人がいれば、それでいい。そんな人がいなくても、どうってことない。私や、あなたの生ききった人生が無駄になるわけではない。

私は、亡き父の一周忌の法事を、しきたり無視して、うんと簡略化して、「しゃぶしゃぶ」専門店で開きました。肉食い放題の賑やかな宴会にしました。親類の食べ盛りのガキたちが喜んで肉を食い散らかして騒いでいました(躾悪いよな・・・)。しきたりどおり行った49日の法事に、とことん、うんざりしたので、そうしました。母の一周忌は、焼肉店でやりました。そこの石焼ビビンバがおいしかったから。ははは。

その後の法事は、私と夫だけでお寺に行って、ご住職さんとお話して、お経を上げていただくだけで、すませています。それでいいのだ(そうだ、来年は母の13回忌だな)。

古い暗い家の座敷での正座&雨の日の長々と墓地での立ちっぱなし&寺の暗い寒々しい本堂&親戚連中の悪意を秘めた退屈な(故人のことだけは語らない)世間話&寄生虫みたいな坊主の横柄な態度&日本社会の実相の観察の苦々しさ&食べ残さざるをえない会食の無駄に無意味に多い料理の数。もったいない・・・テイク・アウトもできなかったぜ・・・

こういう、心のこもらない形式&浪費を、日本人はどれだけ繰り返したら飽きるのだろうか。こんなふうに、心を使わないことばかりしているから、心がなくなって、鈍感で無神経で無知で傲慢で軽薄で浅墓で無自覚な悪意と邪気ばかりが便秘の腸にたまって、腐敗臭を発する人間になるのだよ、みんな。

人間は、ゾンビーに生まれるのではない。ゾンビーになる。油断して頭も心も身体も使わないから、俗世間にまみれて負けて、ゾンビーになる。

本来は、この種の法事は、生きている人間が、死者を思うために集うことで、生きていることの凄さを、人間の絆を、あらためて考えるためのものだったのに。

僧侶は、そのことを檀家の人間たちに語るべきものなのに。僧侶ってのは、村落共同体の唯一の知識人だったはずなのに。

ねえ、お坊さん、なんで、あんたたちに有閑が許されてきたか、わかっている?何で、お布施が与えられてきたか、わかっている?労働に追われる人々が考えないことに思いをはせるために、心を日常に閉じ込めて矮小にしないために与えられた有閑なんだぞ。そういう浮世離れした人間が共同体にいないと、これまた、まずいんだよ。

馬鹿にされつつも、人様(ひとさま)の労働の糧を恵んでもらいながら、知識人というのは、ものを考えていくんだよ。それが僧侶階級の仕事であり続けてきたんだよ。

(大学の教員は、副島隆彦氏によると現代の僧侶階級だから、これは私自身への戒めでもあります・・・立派な尼さんでいないといけないのです、私も!)

何が、「ご飯のおかずになるもの持ってきて」だ。何が、「20万円足りないね」だ。緩みっぱなしの肛門みたいな口をしやがって。下唇が上唇に比較してかなり分厚い片面強烈タラコ口(くち)は、長年の口呼吸の結果だぞ。口から侵入する雑菌のために、きっと扁桃腺は、いつも腫れっぱなしだろう。

今回のランド節は、最近むかついたことを、いくつか書かせていただきます。今回は、その助走編です。やっと本題かよ。と思ったら、まだ助走かよ。すみません。

あ・・・また熱が出てきました。明日は出勤できるかな。