アキラのランド節 |
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作文しかしてこなかったことに気がついた2009年 [12/31/2009]2009年最後のランド節を書きます。本年最後の日を、私は無茶苦茶に悪い体調で過ごしています。別に気にもなりませんが。 12月が忙しかった・・・ともかく忙しかった・・・仕事以外に、会合や会食の機会も多くて、食べ過ぎて胃も疲れました。去年から、私なりに小食に務めてきたので、会食すると必ず過食状態の不調に陥ります。 ある日曜日などは、昔の教え子の女性&その夫君のチベット系中国人の方と名古屋市内のホテルで美味なるフランス料理のランチをいただき、夕食は、いただきものの高級和牛肉を、すき焼きにしていただきました。悪魔的に超美味なすき焼きでした。その日曜日は、いわば天国でありました。 しかし、その後が地獄でした。その夜は、内臓が大量のご馳走の消化活動にフル稼働したので、私は安らかな眠りが得られませんでした。翌朝は、寝不足状態で、自宅から3時間半以上かかる大阪の勤務先に行く羽目になりました。新大阪までは新幹線のぞみで40分だから近いけれども、勤務先のある和泉市までが遠いのだよ! ともかくも、勤務先での年内の仕事を終えて、23日に名古屋に帰宅して、翌日のクリスマス・イヴには疲労でへばりながらも、ケーキを食っていたら、82歳の伯父(亡き母の兄)が亡くなったという知らせが入りました。25日は友引だから葬式不可。だから26日に通夜。27日に告別式。告別式&納棺&火葬&初七日法要(先取り)までこなすと、朝から夕方までつぶれます。 おじちゃん、冬休みに入ってから亡くなってくれて、ありがとうね。そろそろ死ぬのにテキトーな年齢にさしかかってきた親類のおじ(い)ちゃんたち&おば(あ)ちゃんたち、亡くなるときは,私の休暇中にしてね。 そのあわただしさを縫って、期限切れ近いパスポートの更新(って言うのか?)用写真を近所の写真館で撮影。そのとき、今年9月に東京であった講演会を聴いてくださった方のおひとりからいただいた助言を思い出しました。「パンフレットに載ってたセンセイの顔だけどね・・・あの・・・写真映りがハンパじゃなく悪いみたいだから、ちゃんとプロに撮ってもらうといいよ」という助言を。 ですから、ついでに「著者近影」用写真も撮影してもらいました。それをデジタル・データにしてもらうことも依頼しました。「著者近影」用写真は、かなりの枚数を撮ってもらいました。今は、写真館もデジタルカメラで撮影し、パソコンで写真を見せてくれます。その中から、選べるのです。 成果は、「プロが撮ってもやっぱり駄目みたい・・・ひょっとして私って動画向き?」と思う程度のものでした。思いっきり修正してくれるよう頼むことを忘れなかった私。ともかく、これでいつでもOK。準備万端。「著者近影」用写真も用意したから、あとはなんか作文するだけ。 「あ、そうだ、2009年も元気で無事だったから、熱田さん(熱田神宮のこと)と産土(うぶすな)の川原神社に御礼を言うべ」と、神社回りもしました。シャカシャカ携帯電話で神社内を撮影しました。私の写メのデータは神社写真ばっかりです。デジカメのデータも神社写真ばっかり。まれに、晴れているのに霧が写るぞ。柱みたいな霧もあれば、一陣の風のような霧もある。あれは神気かしらん。 「あ、ご先祖様にも御礼を言うべ」と、名古屋市内最大の墓地公園である平和公園に行き、実家のお墓参り。墓石をスポンジで噴き洗いながら、冬の青空を仰いで感謝。 かつて、この平和公園のあるところに競技場を建設し、名古屋にオリンピックを・・・という運動がされましたが、誘致大失敗。そのとき、私が知る限り、ほとんどの名古屋人は喜びました。平和公園は、永遠に静かな緑豊かな墓地公園でいいの!私の骨も、そこでお世話になるの!オリンピックなんか、どーでもいいの! 「あ、一応、年賀状も年明けには出すべ」と、年賀状を作成&印刷もしました。私の年賀状は、毎年、私の自筆似顔絵つきだぞ。描きあがった私の可愛い似顔絵を見て、夫が「なんで、今年は皇太后の顔にしたの?」と訊きました。どーいう意味か? 皇太后ってわかりますか?昭和天皇のお妃様のことですよ。2010年1月から、とうとう浅田次郎原作の『蒼穹の昴』が日中合同製作で放映開始されますね〜〜田中裕子さんが西太后を演じますね〜〜微妙〜〜って、何の話か? ドタバタしていたら、すでに大晦日でありました。 去年の暮れには、「私の10大ニュース」なんて、ランド節に書いていましたが、今年のニュースは、ひとつだけです。私は、覚醒しました。私にとっては、大きな覚醒です。 2009年、私が好きでやりたいことは、「作文」だけだということを自覚しました。これからするであろうことも、生活のための労働以外は、「作文」だけだろうと自覚しました。これが、私の2009年の覚醒。なんか文句ある? 言い換えれば、2009年、私が心に抱いてきた学問なるものへの幻想が全部ぶっ壊れたのであります。「研究」なんて、ご大層なもんじゃないな、あってもなくてもいいようなお遊びだな、作文だなと、しっかり認識してしまいました。 同時に、自由になりました。解放されました。作文を研究と呼んでいた迷妄から。長い間、乗船していた船が、学問の海を航海する帆船ではなく、お風呂の湯船に浮かべる玩具のボートだったと気がつきました。 価値観大崩壊。買い込んできた本の山が、ゴミの山に見えるとまでは言いませんが、「こんなの全部読んでも、賢くなんかならんのだよな・・・」とぐらいまでは思うようになりました。 だから、2009年の私は、ふつーに労働しながらも、ふつーにいつもと同じように暮らしながらも、幽霊のような頼りない、地に足が着いていない頼りない空虚な気分になっていたのでありました。その幽霊状態は、長く続きました。やっと、2009年も終わり近い今となって、人間としての覚悟が、また戻りつつあります。 私の覚醒の中身を理解していただくために、私淑する副島隆彦氏が、『ザ・フナイ』の2010年1月号において、書いておられることを、ここで紹介させていただきます。 『ザ・フナイ』に連載中の「誰も書かない世の中の裏側22回 科学も宗教の一種である---アインシュタイン物理学という世界宗教」において副島氏が書いておられることは、超平たく書くと、以下のようになります。 科学は事実に基づいたもので、宗教は信仰に基づいたものだから、科学の方が信じられるというのは嘘だよ〜〜科学も宗教と同じだよ〜〜宗教が支配や洗脳の道具であるように、科学だって洗脳の道具だよ〜〜実は宇宙のことなど何もわかっていないのだよ〜〜相対性理論とかビッグバンとか、みなデタラメだよ〜〜我々人類は、まだまだ科学などというものにはたどり着いていないのだよ〜〜月に人類が行ったなんて嘘だよ〜〜宇宙旅行なんかできるわけないよ、今の人類の程度では〜〜ということであります。 科学が宗教と同じで、イデオロギー伝播・強化の道具だというのは確かです。科学が政治の道具になるのは、ソ連時代の「ルイセンコ主義」の例が有名ですね。 革命前のロシアの遺伝学の水準は大変に高いものだったのに、ソ連になってからの遺伝学者たちは、品種改良による農作物の増産を試みることをせずに、大量の餓死者を生み出すことに寄与(?)してしまいました。なぜか? それは、ソ連の科学者(遺伝学者)が、マルクス理論を生物学にあてはめて、農作物の増産法を決定したからです。社会が弁証法的に発展して最後には共産社会が実現するように、生物も弁証法的に進化する=後天的獲得形質は遺伝するという学説を信奉したからです。変異の蓄積=累進的進化説を否定したからです。 アホか。美容整形してブスから美人になった女性の顔は、ちゃんと美人のまま子どもに遺伝すると言い張るようなもんです。それが正しいのならば、人間なんか、とっくに今頃、神様みたいになっとるわい。あなたがいくら勉強しても、その知識は、あなたの子どもに遺伝子的には伝わりません。子どもという個体が、最初から学ばなければなりません。 ルイセンコとは、政治に科学を従属させた遺伝学者の名前であります。トロフィム・ルイセンコは、1920年代から30年代にかけて、トップ科学者として、政府御用学者として、ソ連で名誉栄達を欲しいままにしました。「ルイセンコ主義」とは、イデオロギーによって科学を歪めることを意味します。 マルクス理論に適合しない学説を指示する科学者は、1920年代から30年代のソ連においては、しっかり粛清されてしまいました。 詳しくは、藤岡毅著『ルィセンコ主義はなぜ出現したか---生物学の弁証法化の成果と挫折』(関西学院大学出版、オンデマンド版、4725円)をお読みください。この文献は、もともと著者の藤岡氏(同志社大学非常勤講師)が桃山学院大学に提出して審査をパスした博士論文(論文博士の。昨今の大量生産の課程博士論文じゃないよ)です。なんで関西学院大学が出しているのか知りませんが。 アイン・ランドは『肩をすくめるアトラス』において、政治家の要請に応じて、立身出世と保身から、科学的事実ではなく、「科学風言説」を広める科学者を登場させています。アメリカ人になってからも、彼女はソ連の出版物などを取り寄せて、ルイセンコのことなども知っていたのでしょう。 (一応、ソ連とアメリカの間で郵便は自由でしたから。郵便物の中身は検閲されたとはいえ。アイン・ランドは、ソ連の検閲にはねられない(集団主義的全体主義的)内容のアメリカの小説などを実家にセッセと送りました。なんでか?家族が、その小説を翻訳して売りに出して、生活の糧を得るようにと、ランドは気遣ったのです。実際に、それでソ連に残った家族は随分と助かったそうです。ランドの家族を思う心が切ないなあ・・・) 昨今の温暖化説とかエコロジーとか二酸化炭素排出規制問題も、科学が政治や資本の道具となっている好例らしいですね。レジ袋が非難されて、エコバッグなんかを、私たちも買う羽目になったのですが、しかし、レジ袋の原料は石油ではなく、石油の精製のときの残りかすで、レジ袋こそ立派なゴミのリサイクルであって、レジ袋製作をやめても石油資源依存が是正されるわけではないとか。 そういえば、第二次大戦後の日本で慶応大学の教授が、アメリカに利用されて、「米は脳によくない。米食ってるから日本人は馬鹿で戦争に負けた。パンが脳にいい」とか「科学的風に」言い立てたので、当時、過剰生産で余っていたアメリカの小麦粉が、日本の給食のパン用に日本に輸入されたという話もあります。 ば〜か、米食ってたから、小国日本が大国のアメリカ相手に4年間も頑張れたのだ。地球の乾燥化を防ぐために、世界中が水田になって米栽培してもいいぐらいだ。おむすび、おいしいよ! ところで、副島氏の文章の中で、特に私が納得したのは、次の文章です。引用させていただきます。 <引用始め> 私自身は、根っからの文科系人間である。卒業したのは法学部である。政治学や経済学は自分で勉強した。私の専門は、アメリカ政治思想(の諸流派)の研究である。文科系の諸学問を、40年、習得し研究し続けてきた私が腹の底から分かっていることは、それは文科系の学問である政治学・経済学・政治思想・文学研究・社会学などの学問の大半は、学者たちの自分勝手な作文であるということだ。それが文科系である。この中にあって、おそらく本当の学問は歴史学(ヒストリー)だろう。歴史とは人間の過去の悲惨な体験の蓄積である。だから歴史(学)だけが本当の人間の知恵だ。学問だ。歴史(学)とは、「人類という愚かで罪深い生物の記録」である。(p.55) <引用終わり>言うまでもなく、新資料や発掘によって、歴史的事実と思われてきたことが間違っていたと判明することはあります。何らかの政治的配慮から、故意に、歴史的事実が歪曲されるということはあります。でも、歴史は、あくまでも事実の探求ですから、研究者の憶測や希望的観測を「作文」にして、「研究」とは呼びません。 しかし、政治学・経済学・政治思想・文学研究・社会学などは、副島氏が書いておられるように、確かに、大方は「作文」かもなあ・・・ 特に日本の学者の仕事は、欧米の一流研究者の書いたものを翻訳するか、いかに読みやすく理解しやすく解説するか=作文し直すか・・・であります。翻訳だって、一種の作文ですからね。 そうなのであります。私がやってきたことなんか、ちょっとは努力したつもりでいたけれども、どうでもいいような作文を書いてきただけのことです。16000字程度の作文を10本ほどテキトーに書いて、地方の公立短大に職を得て生活の糧を得ることができた私は、とんでもない「やらず、ぶったくり」でした。 これから私がするであろうことも、まあ、客観的には書く必要もない作文を書くことでしかないのでしょう。 大学という私の職場も、幻想製造再生産に与しているだけの洗脳機関、もしくは高等幼稚園か、遊園地機能つき「通いの刑務所」の類にしか過ぎないのであって、その中で私が学生さんに伝えることなど、伝えても伝えなくても大差はないような文化与太話であります。 だって、ほんとうのことを伝えたら、事実を伝えたら、質のいい類の若い人々にはショックが大きいでしょう(そうでない若い人々にはサッパリ理解できないことでしょう)。56歳の私でさえ受け止めるのは、かなり辛くて不快なことなのですから。 私たちは、嘘で固めた巨大な洗脳機構の中で生まれて生きるのであり、その矮小な機構を支える嘘を鵜呑みにできるような脳の持ち主のほうが生きるのは楽であって、考えることができる人間だと、生まれてきたことを悔いることになりかねないという事実などは。 私がしてきたことで、少しは意味があることと言えば、他の分野の研究者である同僚には軽視されがちな、馬鹿にされがちな、「英語教員」であることだけかもしれません。少なくとも、語学の習得というのは実際の行動であり習熟作業ですから、学生のそれに関与し助力することは、嘘の伝播よりは、ましなことかもしれません。 しかし、これも、すでにe-learningのような、学生個人がコンピューターで自学自習する方法に取って代わられつつあります。文部科学省も現場の英語教員もできなかったことを、ALC(アルク)とか成美堂とかの英語産業系民間会社が達成しつつあります。独立行政法人になってから、人件費を削減したい国立大学などでも、どんどん、e-learningは浸透しつつあります。 ということは、私にできることは何もないと・・・あらかじめ、何もなかったと・・・ 今の私は、はっきりこう言えます。 私は人生を無駄にしました。作文だけしてきた人生でした。しかし、その無駄は、頭の悪い私では、また私が生まれた日本という環境では、いえ世界では、通過せざるをえない無駄でありました。その無駄を経験しないと、今の認識には至らなかったのです。私は、どうあがいても、このように生きることしかできませんでした。他の生き方は、ありえませんでした。 あ、これは愚痴ではありません。後悔でもありません。自己卑下でも、自虐でもありません。単なる事実の指摘です。 作文しかやってこなかったのですから、他に何ができるか模索しながらも、これからも、私は作文をしていくのでしょう。ならば、今までの作文よりは、まだましな(lesser evil)作文を書いていくしかないのでしょう。自分の人生という歴史から、自分の体験と観察という事実の蓄積から、ましな何かを掬い出していくしかないのでしょう。 みなさま、2009年も、アイン・ランドの翻訳という作文や、他の様々な私の作文をお読みくださり、ありがとうございました。良いお年をお迎えください! ランド節の2010年元旦号には、ちょっとした、しかし大きなお知らせがあります!また、すぐに読んでやってください! |