アキラのランド節

ひとりでも寂しくない人間---まだ助走です頭山満編  [02/21/2010]


前からの続きです。「ひとりでも寂しくない人間」についてです。すみません、今回でも完結しません。どうしても、本題に入る前に書いておきたいことがありまして。

人間は、「ひとりでも寂しくない人間」にならなければ駄目だ!と言ったのは、頭山満(とうやま・みつる:1855-1944)です。

私は、それを知ったとき、びっくりしました。なぜならば、頭山満って人は、もっとも、こーいうことを言いそうにない立場にいた男性だからです。ぶっちゃけて言えば、「右翼のボス」だったから。だから、男の中でも、もっとも男っぽくしていないといけない立場にあった人です。

頭山満は、ランド節の3/31/2007号と、 4/6/2007 号においても言及したように、第二次世界大戦前の日本において最大の政治結社「玄洋社」(げんようしゃ・1881年創立1946年解散)の頭目(総師)であった人物ですね〜〜

だいたい男性というのは、自分の感情を直視せず、自分の感情を抑圧することに長けているからこそ、女房子供抱えて働き、仕事や「大義」に生きることができます。真面目で優秀な男性ほど、そうなりやすいです。自分の感情を受け入れるより、よくも悪くも社会の中での自分の立場が優先します。

だから、過労死したり、退職すると元気をなくしたり、会社組織の中の闘争で負けると意気消沈し病気になったり、失業したり多額の借金を抱えると、自殺してしまったりします。

そんなんいいじゃん、私自身が気持よければいいじゃん、他人にどう思われたっていいじゃん、落ちこぼれでいいじゃんと、チョコレートかじって大空眺めているような図太さを持つ男性は数少ないです。まれにいても、兵隊の位で言えば・・・・と言いながら絵描いてる人ぐらいで。

頭山満の話に戻します。玄洋社は、福岡で設立されました。「社員」の中心的メンバーは、高場乱(たかば・おさむ:1831-1891)という男装の女性眼科医&漢学者(儒学者)の弟子でした。

高場乱は、福岡藩で先祖代々から藩医である眼科医の家に生まれて、才能のない長男よりも娘に家を継がせたかった父の意を汲み、眼科医となり、ついでに1873年(明治6年)に、自宅に私塾「興志塾」を開きました。高場乱の医院&自宅は、ニンジン畑の中にあったので、この「興志塾」は、人参畑塾とも呼ばれました。

高場乱は、多くの弟子たちを居候させながら、同じものを食べながら、指導したのですが、彼女の弟子たちは、幕末から明治にかけて、いろいろ騒動を起こしました。

西南戦争で西郷隆盛たちが決起する前年の1877年(明治10年)には、弟子たちの多くが「福岡の変」という不平士族の反政府暴動に加わったので、彼らの先生だった高場乱自身も疑われて一時は獄につながれました。

明治維新により新しい時代が来るかと思ったら、サムライたる特権はなくなり、薩長の藩閥政治が始まり、西洋列強に対する従属政策ばかりだし、自分たちが学んだ倫理や美意識が極東の島国の遅れた風習であるかのように軽んじて世の中が進んでいくことに、高場乱の弟子たちである旧福岡藩の元武士の家の出身の青年たちは苛立ちを募らせます。

女の漢学者の私塾に居候になっていたくらいですから、高場乱の弟子たちは、ラインから真っ先にはずされがちな貧乏な下級士族です。武士社会の中心にいた上級武士たちは、早々と変わり身早く、西洋の学問を志したり、薩長藩閥政治に適応したりします。彼らは、ニッポンのサムライの価値観や美意識に硬直的に拘泥(こうでい)しません。

上流階級ってものは、だいたいのところ、保身のためには、何だってやります。何やってでも、既得権益を手放す気にはなりません。既得権益が保証されれば、国だって自分だって売ります。その既得権でさんざんいい思いをしてラクをしてきたのだから当然です。

既得権益をなくす恐怖のほうが、自分自身をなくす恐怖より大きいのです。たくさん持って生まれると臆病になるのですよ。なんで、自分の国が外国に好きにされねばならないか、あほくさ!という素直な怒りなんぞ、上流の武士たちには希薄だったのです。それよりも、自分の持っている特権の保持が大事です。

ところが、中心ではなく、周辺に位置する者ほど、周辺であるからこそ、中心の正当性を支える思想、価値観を深く内面化します。サムライ階級の下層に属する人間のほうが、サムライの価値観、倫理、美意識を本気で学び、実践しがちです。

何も持たない下級武士たちは、武士であるということだけが、そのことだけが頼みです。ですから、ニッポンのサムライの価値観や美意識を捨てることはできません。カネも名誉も権力もないのだから、ニッポンのサムライの誇りを生きることしか、他にやることもありません。農業や商業に本格的に転身をはかるには、肥大した士族のプライドが許しません。

高場乱や、その弟子たちに、世界基準からみた当時の日本の水準や布置が見えるはずもありませんでした。いくら聡明でも、情報がないことには全体は見えません。

日本は、はっきり幕末において、西洋列強の植民地になったのです。徳川時代に培われた日本独自の文化というものは、浸食されるしかなかったのです。植民地は、宗主国の指示通りに、宗主国の利益通りに動くしかないのです。独立するまでは。

島国の中で、いかに洗練を極めようと、世界基準からすれば、日本は、極東の未開の島国であり、英米の世界戦略の手駒となり、いずれロシアに喧嘩を売る羽目にさせられる運命でした。中国大陸への侵略を誘われ、太平洋戦争を始めるように追い詰められ、国家滅亡の淵を日本が進むことは、すでに幕末あたりで見通していた天才もいたかもしれません。夏目漱石なんかは予感していたようです。

それぐらいに、あの時代の世界状況に入り込んでいくということは、とんでもなく危険で困難なことでした。よく、やってきたよな日本。よく頑張ってきたよな日本人。今の私たちが、日本語を話している状況を、よく保持できてきたよな。

同時に、そのために無理に無理と横暴を重ねて、随分とアジア諸国には大迷惑をかけてしまったので、そのツケを払うためには、まだまだ日本の苦難は続きます。それでいいのです。借金は返済しなければなりません。

日本が(似非)近代化する過程における無理と苦難と虚栄と国民の奮闘の歴史はさておき、志は高くとも聡明でも情報がない高場乱の弟子たちの中でも、特に、来島恒喜(くるしま・つねき:1860-1889)は有名です。1889年(明治22年)に時の外務大臣の大隈重信に爆弾を投げつけ暗殺しようと試みました。

大隈重信は、幕末に締結された不平等条約(西洋列強の人間が日本で犯罪を犯しても裁けないなど・・・)の改定を目指していましたが、判事に外国人を導入することを改定案に入れたりしたことで、国家主義者たちの怒りを買いました。で、来島のテロにあったのです。

右足を切断するという災難にあいましたが、幸いなことに大隈重信外務大臣の命は無事でした。テロリストの来島は、暗殺失敗を知って、現場近くですぐに自害しました。高場乱が病に伏せて亡くなったのは、この事件が起きて弟子が自決したこと知った後まもなくのことでした。

でもって、師匠を心労させた国士来島よりも、はるかに大物になったのが玄洋社の頭山満です。玄洋社を通して頭山満は、いったい何をしたのか?要するに、亡き友であった来島の気持ちを、より前向きに実践しようとしました。

基本的には西洋列強の手駒にならないこと、自主的にアジア諸国と結びつくこと、アジア諸国の独立を支援すること、です。

単に、十把一絡げに「右翼」といいますが、街宣車で走り回っているような胡散臭い、誰が出資しているのか(CIAか?)出自の疑わしい類の右翼もありますが、まっとうな右翼というものもあるのです。あった、と言うべきか。

まっとうな右翼とは、なんで、自分の国が外国に好きにされねばならないか、あほくさ!という素直な怒りを決して忘れない人々のことです。

玄洋社のスローガンに「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)というのがありますが、実際に、玄洋社は、朝鮮の改革運動家金玉均や朴泳孝を支援しました。

玄洋社は、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボース(Rash Behari Bose:1886-1945)を庇護しました。ボースさんは、銀座の中村屋にカレー・ライス教えた人ですね〜〜日本で日本人と結婚して、インド独立の陽の目を見ずに、日本で亡くなりました。

玄洋社は、アメリカと独立を賭けて戦うフィリピンのアギナルドへ武器と義兵を送ろうとしました。実現はしませんでしたが・・・エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo: 1869 -1964)は、フィリピンのフィリピン共和国の初代大統領になりましたね〜〜

1901年(明治34年)には、内田良平らが、玄洋社の海外工作を担う支社の黒龍会を設立しました。黒龍会は、孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの社員(社中とも言う)が、中国で清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦ったそうです。ほんまかいな。中国の秘密結社と連携でもしたのかなあ?「黒龍」なんて、それっぽいネーミングだ。

日露戦争中、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの戦争継続を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した陸軍参謀明石元二郎(あかし・げんじろう:1864-1919)も玄洋社の社員であったそうです。この人は、第7代台湾総督になっていますね。だからその縁で、お孫さんが、「日本李登輝の会」の理事をなさったそうです。

陸軍参謀本部参謀次長の長岡外史(ながおか・がいし:1858-1933)は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評したそうです。

また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」といって称えたそうです。ほんまかいな。

ご興味のおありになる方は、野村敏雄著『明石元二郎---日露戦争を勝利に導いた「奇略の参謀」』(PHP文庫、2005年)をお読みください。

私の大好きなダンディ男前中村天風氏(1876-1968)も玄洋社の社員でした。中村氏も軍事探偵としてロシア近い蒙古あたりで諜報活動をしていたそうです。ほんまかいな。

私なんかは、そういう諜報活動&敵国政情不安画策工作をするカネの出所はどこだったのか?彼らに献金する人々が多かったのか?そうとも思えんが・・・そんな諜報活動には巨額の金が必要だろ〜〜右翼の政治結社って、企業じゃないから自分で富は産出できないから、誰かから出資してもらうしかないだろ〜〜やはり、ロシアを弱体化させたい外国の勢力からカネが出ていたんだな〜〜大アジア主義の大義のために、敵から得たカネも利用していたんだな〜〜もしくは、カネの出所を知らなかったのではないかな〜〜知っていながら知らぬふりしていたとか?とか、つい考えてしまいます。

それにしても・・・活動資金の問題はさておき、どうも、戦前の日本人と戦後の日本人が同じ民族とは思えないですね。国民性というものも歴史的に構築されるものなのね。普遍的日本人なんていないのよね。普遍的な大和の魂なんて存在しないのよね。

日本人性って、自分たちで創って保持していかなくてはならないのだよね。勤勉で誠実な(?)日本人性なんか、油断していたら、さっさと消えて、馬鹿で軽薄なのが日本人性になりかねないのだよね。

前述の黒龍会の内田良平は、大アジア主義の信念に沿って、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動したそうです。「合邦」って何?「がっぽう」と読みます。『大辞泉』によりますと、「国家を合併すること」と書いてあります。 朝鮮から兵を引き、朝鮮を独立国家に戻すことではありませんから、このあたりの内田良平の認識には歴史的限界があります。

しかし、頭山満と親交のあった神道家の葦津耕次郎(あしず・こうじろう)は、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張したそうです。この人は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張したそうです。おお〜〜こういう人物もいたのであるか。 と、喜ぶのは早い。

日本政府は、天照皇大神を祀る神社を、朝鮮のあちこちにも建立して、朝鮮の人々に神社への参拝を強要しましたが、葦津耕次郎は神道家として、それに反対しました。ただし、それは朝鮮の主体性、朝鮮の人々の信仰に敬意を払ったわけではなくて、アマテラスを祀るのではなく、ダンクン(檀君=朝鮮の始祖神)」を朝鮮の産土神として朝鮮神宮で祀れと主張しました。余計な御世話焼いてますね〜〜。このことは、同僚の日帝支配の時代の朝鮮の歴史の研究者である同僚から聞きました。

内田良平と同じく、葦津耕次郎も、朝鮮独立を唱えたにせよ、それは、「もう独り立ちさせても、いいじゃろ〜〜」というノリですから、そのスタンスには、やはり歴史的限界があります。

それでも、朝鮮独立や、日本との対等な合邦を主張したということは、玄洋社と、それにゆかりのある人々は、まっとうなほうであったと言えるでしょう。

同様に、玄洋社と関係の深かった中野正剛(なかの・せいごう:1886-1943)は、大日本帝国憲法を朝鮮・台湾にも施行して、日本と朝鮮の法律上の平等を実現するべきだと主張したそうです。

当時の参政権は属地主義でした。日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があったのです。それは、おかしい、日本併合したのならば、台湾人も朝鮮人も同じ日本人じゃないか、なんで選挙権と被選挙権がないのか、変じゃないか〜〜同じ天皇の赤子(せきし)だろ〜〜というわけです。

もっともです。ただし、台湾の人々も、朝鮮の人々も、天皇の赤子になりたいわけではなかったと思うけど。この意味で、やはり中野正剛の認識にも歴史的限界はあります。

それでも、やっぱり中野正剛は立派です。

この中野正剛は、「国は経済によりて滅びず,敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し,国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである」と、「戦時宰相論」(『朝日新聞』昭和18年1月1日)の中で書き、東条英機を激しく批判しました。

東京憲兵隊は同年の10月26日午前6時に中野正剛が代表を務める右翼団体東方会改め東方同志会の幹部を検挙しました。もちろん中野正剛も逮捕されました。罪状は、東条内閣打倒工作と、ある青年に「日本は負ける」と話したことだったそうです。その青年が、ちくったのか?その青年、ろくでもない人生をその後送ったろう・・・ 憲兵隊により中野は「自白」させられました。どうせ、憲兵から拷問を受けたに違いない・・・中野正剛は、釈放されたのちに、自宅の書斎で割腹自決しました。隣室には見張りの憲兵2名が休んでいたそうですが、ほんとに自決だったか疑わしい・・・介錯する人物がいない切腹なんて・・・非道の極みだな。自決の理由は、徴兵されていた息子の「安全」との交換条件だったとも言われているそうです。そうだとしたら、卑怯〜〜〜醜いな日本の憲兵。

長々と何を私が言いたいかと言えば、要するに、朝鮮併合や植民地化についてだって、太平洋戦争のことだって、その認識に歴史的限界はあれ、自分の感情に素直に、「これはおかしいだろ〜〜西洋列強から屈辱を受けた日本が、なんでアジアに同じことを強いるんだ?どこの国だって、外国に好きにされたくないんだよ。勝手なことしちゃいけないんだよ。自分がされていやなことを、他人にはするなよ〜〜そういう卑怯な日本でいると、ついには亡国になるぞ〜〜英米の帝国主義なんか真似するとやばいぞ〜〜」と考えた日本人は、少なからずいたということです。

戦前の日本だって、一枚岩であったわけではないのです。私が調べた限り、玄洋社の人々とか、ゆかりの人々がしたことは、一貫しています。ブレがない。スローガンに反していません。一筋に反骨だ。アジアの反骨だ。儒学を本気で学び血肉化した下級士族の若者の反骨だ。素直で正直なまっとうな日本人だ。

だから、外交官で歴史学者で情報将校でもあったE・H・ノーマン(E. Herbert Norman:1909-1957)は、「福岡こそは、日本の国家主義と帝国主義のうちでも、最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」と言ったのですね。だから、玄洋社は、解散させられたのでありますね。

このノーマンさんは、軽井沢で生まれ育ったカナダ人です。軽井沢のメソジスト教会の宣教師の息子さんです。カナダの大学を卒業して後にハーバード大学で日本研究に携わりました。丸山眞男とも親交が深かったそうです。

だから、まさか、「極東の黄色いサルに甘んじて素直に俺らの言うこと聞けばいいのに、一丁前に主体性なんか持ちたがりやがって、黄色いサル同士で連帯しようなんて生意気至極だ!その代表の玄洋社なんか徹底的に壊滅させてやる!二度と日本人が、そんな気を起さないようにしてやる!」と思っていたわけではないと思いますが、どうだか。

このノーマンさん、後にカイロで自殺していますが、日本で生まれ育ったから、アジア支配の手先に徹することができなかったのかも。

こういうことは、私たちは学校では教わりません。ですから、私たちは、日本の歴史を自前で学ぶしかありません。特に明治以降の歴史は、自分で何とかするしかありません。近現代史に関しては、日本人100パーセント卑怯で駄目という趣の自虐史観しか日本の学校は教えません。というよりも、歴史そのものを教えません。文脈のある歴史というストーリーを教えません。出来事の羅列を示すだけです。文脈というものは、どうしても政治的立場を採らざるをえませんから、歴史を非政治的に教えようと思えば、年表を見せるだけにしかなりません。

自分で本読まないと、自分の国の歴史を知らない人間になるんだよ、この国で生まれて育つと。

そんな国民が、外国の歴史を、まっとうに学べるはずもない。自分のスタンスもないんだから。知らないのだから。

じゃあ、教科書的枠組みから自由なフィクションを利用して、歴史に対する関心を喚起するのがいいんじゃないかと思っても、玄洋社あたりがからむ日本の近代の歴史については、NHKも大河ドラマ化しないし、映画にもなりません。『坂の上の雲』なんて、スカスカの似非近代化日本粉飾歴史小説なんかTVドラマ化されてもなあ。

日本の歴史小説ってジャンルも、あまり近現代史は扱いません。漫画は頑張っているのかな。村上もとか氏なんか頑張っておられますよね。『JIN-仁』は、幕末に現代の医者がタイムスリップする話だったが、幕末から現代にかけても変わらない日本人の魂を描こうとしていますから、大雑把に見て、明治以降の日本の近現代史を描いているといえますよね。

『JIN-仁』はご存知ですよね?去年のTV番組で唯一素晴らしかったですよね、TBS日曜劇場の『JIN-仁』のTVドラマ化は。毎回見ながら私は泣いていました。あんないいドラマが作れるのだから、日本のTV界も大丈夫かもしれない・・・中村敦夫さんが新門辰五郎を演じておられました。年取っても男前は男前だな〜〜と、あらためて思った私。何の話か?

ともかく、まだまだ近現代史に関しては、出版に関してタブーが多いんだろうなあ・・・資料も膨大だしなあ・・・流行の「歴女」の間でも、近現代史は人気なさそう。 戦国時代や幕末を扱うドラマとか映画は多いですが、幼稚で単純な偉人伝に近い。あんなもん本気にする奴は馬鹿だと言っても、ああいうのも見て歴史だと思う頭の足りない人間を増やすのが、どこかの国のひも付きの日本のメディアの目的であるようですから、馬鹿はどんどん増加蓄積されるのでしょう。

馬鹿でいたくないならば、メディアに脳を汚染されたくないのならば、自分で勉強するしかありません。自分たちが現在こうして生きていることの背景に、先人たちのいかほどの努力と奮闘があったのかについて知ると、今の自分の状況に生々しい歴史性を感じることができるようになります。年表の出来事の羅列の背後に、想像力を働かせることができるようなになります。

ともかく、私は納得しました。頭山満という人が、なんで、「ひとりでも寂しくない人間」にならなければならないと、言うことができた人だったのか。

玄洋社のやったことを眺めると、この結社のメンバーの方々は、まことに素直で正直で自分の感情を誤魔化すことがなかった人が多かったようです。

馬鹿かもしれませんよ、そりゃ。だけど、こーいう馬鹿がいないと、面白くないよ。この世界がつまらなくなる。

だからこそ、この結社がGHQによって解散させられたときに、結社の人々の生活の面倒をみたのが、福岡は博多の花柳界の女性たちだったのでしょう。

「博多の花柳界の女性が玄洋社解散後の男たちを食わせた」という美談は、年下の畏友で、優れた国文学者の女性から、教えられました。

彼女は、今、江戸から近代にかけての日本の女性漢学者や教育者の列伝を執筆しています。それを読ませてもらうのを楽しみにしている私。その彼女が、取材がてら九州大学に出張したときに、この玄洋社社員の解散後の状況について耳にして、私に教えてくれたのです。ありがとうございます。

花柳界の女性たちが、なんもなくなった男たちの面倒を見たということは、戦後に「右翼」の男たちの面倒を見たということは、玄洋社の男たちが、いかに可愛げのある魅力ある男たちだったかということの証拠ではないでしょーか。

自分の芸で食ってゆける女は、可愛げと魅力で男を判断できるのでしょう。学歴や社会的地位や金銭の多寡で男を判断するのは、自分の保身しか考えていない、寄生できる獲物が欲しいだけの狡猾で気概のない女だよ。

ともかく、「ひとりでも寂しくない人間」にならないといかん!言った頭山満という人は、並みの人ではありません。並みの男性ではありません。

「ひとりでも寂しくない人間」にならないといかん!と言った頭山満は、なぜ自分は寂しいと感じるのか?寂しいって何だ?この感情は何を原因としているのか?と素直に、自分の感情を直視して、誤魔化さずに、その感情の寄って来る原因を深く考えて、なんだ、だから寂しいと感じるのか、そうか、ならば、そういうものに翻弄されないことこそ学ぶべきことだよな・・・・と考えることができた人です。

これは稀有なことですよ。実に大きく素直な正直な男性だ!!さすが、中村天風氏の師匠だっただけのことはある。

こういう男離れした素直さ、正直さは、やはり女性の師匠の薫陶を受けたからでしょうか?学識ある人格者ならば、男だろうが女だろうが関係ない!と思って、高場乱に弟子入りした男たちは、人として素直でまっとうであったと私は思います。

だからこそ、明治に乗り遅れたのかもしれない。しかし、乗り遅れてもどうってことないようなもんだったかもしれませんよ、明治の似非近代化なんてものは。

アイン・ランドが示唆するように、ほんとうの近代は、世界基準でも、未完のプロジェクトですからね。これからだもんね。

話をもとに戻します。「ひとりでも寂しくない人間」についての話です。と、思ったら夜も更けてまいりました。あとは続編に書きます。

追伸です。みなさま、福岡にいらしたら、もしお暇がありましたら、福岡市の官庁街と九州大学病院の間の区域にある福岡藩主だった黒田家の菩提寺である崇福寺(そうふくじ)の墓地にお寄りくださいませ。入口に「頭山満の墓所」っていう石碑が建っています。

寺の敷地の奥の左側に墓地があります。この墓地に入って、左に曲がって少し歩きますと、玄洋社と彫られた石碑が建っております。それが、玄洋社の社員の墓地が建てられている広い一角の入り口です。

その広い一角の奥には、大きな三つの石碑が建てられています。これらは、大きな自然石を加工もせずにそのまま墓石にしたものです。向かって左が「高場先生の墓」です。真ん中が「頭山満先覚の墓」です。右側が「来島恒喜の墓」です。

高場乱の墓は、「高場乱の墓」ではなく、「高場先生の墓」と彫られています。墓といえども、先生の名前を呼び捨てにはできない弟子たちの心情&真情。いいなあ〜  なんで知っているかって?去年の10月の末の日曜日に仕事で福岡に行ったときに、早めに福岡市内に到着して、崇福寺(そうふくじ)に行って、高場乱女史のお墓にお花を手向けてきたからです。

関西空港から福岡空港に午前10時ごろに着き、地下鉄で中州まで行き、そこから先は、どうやって行ったらいいかわからなかったので、タクシーで崇福寺(そうふくじ)に行きました。前もって、お花を用意していなかったので、お花を買いに、お寺から徒歩で20分くらい先のスーパーマーケットまで行って戻り、お寺の前のお店で線香を購入し、お墓周りのゴミを取り、水を運んだりしました。秋なのに汗をかきました。

何やってんだか・・・

墓参のあとは、寺の前にあったお店で、おこわ飯セット380円をいただきました。おいしかった!炊きたてのおこわ(赤飯)のおむすび二つに、お漬物とお味噌汁がついて380円です!感動&感激。

そのあとは、急いでタクシーで、本来の目的であるところの、大手民間英語教材開発教育会社ALC(アルク)が開催するe-Learning(コンピュータによる自学自習英語教材)の説明会&実践紹介報告会が行われる会場に急ぎました。到着したのはジャスト午後12時45分で、開催開始の午後1時には間に合いました。

あの日は、くたびれた・・・他大学の英語教育の最前線を見せつけられて大いに刺激を受けましたが、機械に負けるのか・・・と無力感にも襲われました・・・ALCって、現場の大学の英語教員のこと馬鹿だって思っているよな。確かに、日本の大学の英語教育は失敗しているけど・・・

ともあれ福岡に行く機会があり、高場乱のお墓参りができて嬉しかったです。しかし、隣の頭山満のお墓には会釈しただけでした。時間が足りませんでした。

再び、崇福寺に参拝するときは、頭山満のお墓にもお花を手向けてきましょーぞ。あなたは、ひとりでも寂しくない人間にならないと、いかん!と考えて生きたからこそ、多くの人々に慕われたのですよね?だからこそ、玄洋社という熱い人間関係の要として長く生きたのですよね?でなければ、あんなでっかいお墓、誰が建ててくれる?