アキラのランド節

「カネ」に関する女性必読の書3冊(その2)  [04/18/2010]


新年度の授業が始まって2週間経過しました。またも今年度も必死の怒涛です。

受講生が250名近くいる講義科目の受講生数人が、出席票兼ねたコメントペーパーに、「周りの私語がうるさくて、先生の話が聞こえなかった。ちゃんと注意して欲しい」と書いていました。

私は、授業中の私語は許しません。しかし、大教室だと,教壇でマイクでしゃべっている私からは、後方の席にいる受講生の顔は見えないし、私語されても、よく聞こえないです。だから私語を見逃すこともあります。そういう状況の中に置かれた受講生には同情します。静かに抗議を聴く権利が、彼らや彼女たちには、あるのだから。

だけど、それでも、この種のコメントペーパーを読むと、私は、すっごく、むかつきます。「なんだ、こいつは?」と思います。ほんとに私の話が聞きたいのならば、前の座席に座ればいいのです。最前列に座ればいいのです。自分自身で、自分がもっとも講義に集中しやすい「環境」を確保すればいいのです。サッサと席を移動すればいいのです。なのに、大学生にもなって、幼稚園児みたいに、やいのやいのと他人に要求して、ひたすら不快さと不便さを我慢して、愚痴を言っている、こいつは、いったい何なのだ?

なぜ、こいつは、周りの受講生の私語がうるさいと思ったら、「静かにしてもらえませんか?」と抗議しないのだろうか?私は、学生時代に、周りがうるさい場合は、「うるさいから、静かにしてください!」と抗議していました。長じても、学会のシンポジウムや、講演会などで、周りの私語がうるさいと、礼儀正しく抗議してきました。

そりゃ、そういうことすれば、嫌われます。「何様のつもりか?」と悪口言われます。しかし、授業中や講演会や学会の発表のときに、ベラベラ世間話しているような連中というのは、頭も悪いし、気も小さいです。彼らや彼女たちには、私語を注意されたからといって、「切れる」ような度胸はありません。だから、私は、私語を注意して、危害を加えられたことは、今までありません。

だいたい、注意されて「切れる」元気(?)のある奴は、教室には来ないのです。学外で遊んでいるのです。もしくは文学研究者になど、ならないのです。もしくは、覚醒剤所持などで刑務所にでも滞在しているのです。だから、どんどん、注意すればいいのです。

それにしても、「テストである程度の点をとれば、単位は出すから、馬鹿は教室に来るな!」とか「私語されて、うるさかったら、前の座席に移れ!もしくは自分で注意せい。教師が見逃すこともあるから、自分で対処せい!それができないならば、泣き寝入りしていろ!そんな臆病な奴が一丁前の口をきくな!」なんて、こんな当たり前のことを、なぜに、いちいち私は、教室で、アナウンスしなければいけないのか?

しかし、これが、数年前からの桃山学院大学のリアルな状況ですね〜〜♪「ゆとり教育」の成果でしょうかね〜〜?「教職員の給与を20パーセントほどカットして、その分、学生定員を削減して、入学者数を厳しく制限すれば、教育活動しやすくなるよねえ?」と言ったら、近場の同僚に「そんなの、組合が絶対に承知しないって。私は、もう学生のことは諦めた。フジモリさんも、諦めよう!」と嗤われました。

少数のアホ馬鹿クズ学生のために、残りのまともな学生たちを諦めていいのか?私は、諦めつつ授業できるほど器用じゃない。

と、ここで、1袋100グラム入り購入を我慢して、1袋50グラム入り亀田製菓「ハッピーターン」の袋を開けて、ダイエット用「加圧エクサパンツ」(履いているだけで下半身の筋肉強化&贅肉削減スパッツ)を身につけて、ゆっくり賞味する私。このパンツの定価は14800円(14200円だったかな?)でありますが、楽天で、ちょっと安く買った!日本製です。類似品の安価な中国製にご注意。さて、一ヶ月後、ほんとに痩せているかな?

前回の続きです。大屋政子(おおや・まさこ:1920-99)さんの『女は度胸--女は泣いたらあきまへん!』(KKロングセラーズ、1987)についてです。すでに入手して、お読みになった方もいらっしゃるかもしれませんね。

大屋政子さんが、よくTV出演なさっていた1970年代から1980年代は、私の人生においては、TVを見ている余裕がない時期でした。大学生になり、大学院生になって、昼は高校の非常勤講師をしながら、夜は家庭教師や塾の講師しながら、大学院を修了してからは大学や短大の非常勤講師しながら就職活動に勤しみ、やっと専任の職を得たものの、就職した公立の女子短大が、教員への嫌がらせばかりに勤しむ無能な事務職員の巣窟だったので、市役所で使えなくて市立短大に送られてきた精神障害者ばかり(事実だ!)だったので、冗談じゃねーよ、やってられるか!というわけで、また就職活動に勤しみ・・・という時期にあたります。

にもかかわらず、超ショートカットの髪に、頬を赤く塗った厚化粧して、赤とかピンクのミニスカートはいて笑っている「中年の変な大阪のオバチャマ」大屋政子さんの印象は鮮やかに、私にも残っています。大屋政子さんが、当時の「帝人の社長夫人」で、ご主人について「うちの、おとうちゃんが〜〜」と高い声で言及していたことは、ちゃんと知っています。確かに、大屋政子さんは、ある時期「一世を風靡(ふうび)した」女性でありました。

その大屋政子さんのことを久しぶりに思い出したのは、今年の3月最初のあたりにTVで取り上げていたからでした。「ああ〜そういえば、こういう人いたなあ・・・そうか、亡くなっていらしたのか・・・」と思い出しました。で、好奇心に任せて、検索したら、思いがけなくも、著書(聞き書き)とか対談集とかが、いっぱい出版されていました。今では、絶版になっているものばかりです。で、テキトーに古書店から、数冊ほど取り寄せて読んでみました。

で、びっくり仰天したのでした。「ええ??あの人、こんな立派な女性だったの!?」と。いやあ〜同時代人というのは、同時代の天才を認知できないものですね〜〜

大屋政子さん関連の本は、いろいろ各種ありますが、私がお勧めするのは、これ、『女は度胸』です。なぜならば、この本には、一番あけすけに事実が書かれているからです。26歳年上のご主人の大屋晋三(1894-1980)氏が1980年に亡くなられた後に、書かれて出版されたものですので、もうご主人の女性関係やら何やら、洗いざらい全部話しているからです。

亭主とか女房が死なないと言えないってこと、あるよなあ・・・いや、いや・・ははは・・・

1972年に二見書房から出た『帝人の大屋政子社長夫人はダンプ型外交官といわれるものすごいトップレディー』は、これはお勧めしません。執筆者の、(当時)『週刊朝日』の記者だか編集者だかの人物の語り口が不快です。お前みたいなマスゴミのカスが、偉人のことを上から目線で、したり顔で書くんじゃねーよ!猫のウンチみたいな奴が黄金の観音様のこと評してんじゃねーよ!いくら1970年代という後進的な野蛮な時代といえども!と、つっこみたくなるほどの、実に人品卑しい不快な書き方です。

いや〜〜1970年代の「朝日新聞」とか、その系列って、ほんと威張っていましたからね〜〜電子書籍よ、Kindleよ、iPadよ、出版システムをガンガン変えていいよ。あの種の傲慢大手出版社の編集者をガンガン駆逐していいよ。

それはさておき、大屋政子さんのことを知らない若い方々のために、この方の経歴を説明させていただきますね。長いですが、面白くて傑作な人生の軌跡ですから、退屈しませんよ。

政子さんは、弁護士の森田政義氏の長女として、1920年(大正9年)、大阪で生まれました。その後、森田氏は「政友会」所属の代議士になりました。「政友会」ってのは、今の自民党の前身です。正式には「立憲政友会」ですね〜〜1900年(明治33年)に、伊藤博文が初代総裁で結成されました。「立憲民政党」と並ぶ戦前の二大政党のひとつでした。1940年(昭和15年)には「大政翼賛会」(たいせいよくさんかい)に吸収されました。

政子さんのお父さんの盟友には、現鳩山首相のおじいさんである鳩山一郎(はとやま・いちろう:1883-1959)氏や大野伴睦(おおの・ばんぼく:1890-1964)氏がいました。大野伴睦さんって知らない?この方がいたからこそ、新幹線が、岐阜の「羽島」(はしま)に止まるのですよ。いや、ほんと。新幹線のぞみが、広島県の福山市に止まるのと同じ理由ですよ。新幹線が止まる駅には、戦前から続く政治勢力の系譜あり。

政子さんの上には、8歳年の離れたお兄さんがいました。政子さんのお母さんは、大阪の旧家の大地主のお嬢さんです。つまり、政子さんは、掛け値なし正真正銘「いいおうちのお嬢さん」としてスクスク育ったのです。

ところが、1939年(昭和14年)に、お父さんの森田代議士が狭心症で急死します。お葬式後、たくさんの来客や、お父さんの部下の方々で、いつもいつも賑やかだった広大な御屋敷が、すっかり寂しくなります。お母さんが大地主のご実家から受け継いだ家作(貸家とか)がありますので、生活に困るということは全くありませんでした。お兄さんは、軍医として戦地に派遣されています。母と娘だけで寂しかったので、生前に、お父さんがおカネを与えたりして、非常に親身に面倒をみた大阪の府議会議員のお宅に遊びに行きます。そしたら、門前払いを食わされました。

お父さんが亡くなったあとも、お付き合いをしてくれた人は大阪でも数人だったそうです。鳩山一郎氏と大野伴睦氏は、命日には大阪にいつも来てくださったそうです。こういうお祖父様の遺徳のおかげもあって、お孫さんは日本国首相におなりになったのでしょう。あなたが、ろくでもなく人様に迷惑かけていると、あなたの子や孫がろくでもないことになるんだよ〜〜♪

19歳だった政子さんは、この境遇の変化から学びます。「人間は、絶対に落ちぶれたらいかんのや!」と肝に銘じます。自分に冷たくした人間を恨むのではなく、「これが人間の正体なのだ。こういう連中に傷つけられない自分でいなくてはいけない!」と決心した政子さんは、立派です。すぐに学習します。「地頭」(じあたま)がいい人は違います。

次に1940年(昭和15年)に軍医であったお兄さんが28歳の若さで戦死します。1941年(昭和16年)には、政子さんの婚約者であった軍医の方が戦死します。メソメソしていても、しかたないので、大阪音楽学校(今の大阪音楽大学)に入学しますが、小さいころからピアノも声楽もやっていたので、ぶち抜きですぐに本科に入ります。

ところが、戦時中のことですから、政子さんが素敵な衣服や着物を持っていて、毎日着替えてくるのが、同級生の勘にさわります。お金持ちのお嬢さんでしたから、衣装はいっぱい持っています。政子さんは、新調するわけではなく、単に、それを着ていただけだったのですが、教師にまでヤイノヤイノと非難されます。うるせーな。

世間は嫉妬深いものであるから、反感買わないように、わざと地味にして、おとなしくするなんていう貧乏くさい慮(おもんぱか)りは、政子さんにはありませんでした。綺麗な派手なオベベ着るのが、どこが悪いんじゃ、です。そうだ、そうだ、余計な御世話じゃ。

そんなウザイ日々のときに、亡きお父さんの知人であった作曲家の服部良一さんに出会います。その縁で、コロンビアの歌手に応募して採用されます。戦時中ですから、うかうかしていると、女子挺身隊として軍需工場に徴用されますからね、プロの歌手になれば、軍隊の慰問団の一員として軍の嘱託となり、「軍属」となり、高給取りになれます。ついでに、肉や野菜や砂糖やチョコレートまでもらえます。うわお〜〜

ですから、政子さんは、あの厳しい物資不足の戦時中でも、なかなかいい暮らしができました。戦時下といっても、人それぞれなのです。政子さんは、政治家の娘ですから、機を見るに敏であります。度胸もあります。戦時下の母と娘だけの暮らしにも心細くなどならずに、政子さんは、しっかり稼ぎます。このあたりから、男勝(まさ)りの資質が光り始めます。

政子さんの人生が本格的に波乱万丈になったのは、大屋晋三(おおや・しんぞう:1894-1980)に一目ぼれされて以来でした。23歳の女の子が、49歳のオッサンに毎日ラヴ・レター攻めにあいました。このオッサンすごいです。49歳で、仕事の傍らに毎日ロマンチックなラヴ・レター書けるのですから。人間、いくつになっても、やはりこれぐらいのロマンチックなスケベ心がなくてはいけません。

もちろん、お母さんは大反対です。政子さんは、占い師に晋三さんとの相性を調べてもらいます。結果は、大吉でした。実は、政子さんは、お父さんが亡くなる前に、お父さんやお兄さんや婚約者の死を占いができる尼さんに予言(?)されていたので、八卦というものはあたるものと思っていたのでした。で、政子さんと晋三さんは駆け落ちして、既成事実を作ります。お母さんも、やってしまったのならば、しかたないと、ふたりの結婚を認めざるをえなくなりました。

ところが、この晋三さん、とんでもない人でした。政子さんは24歳で結婚したつもりでしたが、正式に結婚できたのは、実は30歳のときでした。なんと、晋三さんには奥さんがいたからでした。この奥さんとの間にはお子さんもいました。ついでに、この奥さんの前にも奥さんがいました。最初の奥さんは、晋三さんより9歳年上で、病気で亡くなっていたのですが、この最初の奥さんの連れ子の面倒も晋三さんは見ていました。で、最初の奥さんとの間にも子どもたちがいました。

それから、晋三さんは、最初の奥さんの友だちだった女性と愛人関係にありました。晋三さんの愛人さんは、彼女だけではなく、他にもウジャウジャといたのでした。また、晋三さんは、そのいわゆる2号さんだか、3号さんだかの間にも、しっかりと子どもを作りました。この方は、実に見事にハチャメチャな「肉食系男子」です。

つまり、晋三さんは、食わせて面倒を見なければならない人間をおびただしく抱えていたのです。晋三さんの給料は2号さんと2号さんの母親とか親族が全額使っていました。神戸の灘に住んでいた最初の奥さんの連れ子たちや、お子さんたちに、2番目の奥さんや奥さんの子どもたちは、晋三さんがあちこちから借りたカネで暮らしていました。ついでに、晋三さんの弟さんというのが、いつもカネをせびりに来るのでした。

要するに、晋三さんには、新婚の政子さんに渡すおカネは一銭もないのでした。どころか、たくさんの借金しかないのでした。勤務していた会社からの借入金も半端な額ではなかったのでした。晋三さんは、毎日ラヴ・レター書いて送って駆け落ちまでしてゲットした若い奥さんにおカネを渡さず、「稼げえ稼げえ、ワシの100倍稼げえ」(99)と口癖のように言うのでした。「内縁の妻」の政子さんとお母さんが住んでいた家に転がり込んで、政子さんのお母さんの家作による収入の上に、胡坐をかいて平気なのでした。「家庭というものが、こんなに暖かいものとは今まで知りませんでした」(63)と、政子さんやお母さんを泣かせる言葉を、ペロッと言って、たかるのでした。

なんちゅー奴じゃ、この晋三さんという人は。

この人、そもそも、政子さんになんで会ったかといえば、政子さんのお父さんの地盤を引き継いで参議院選に出馬したいので、政子さんのお母さんにご挨拶に出向いたからです。そこで、お茶を持ってきた政子さんに一目ぼれしたのでした。で、その日のうちに、またやって来てプロポーズしたのです。別居中とはいえ奥さんがいるのに。ガキもウジャウジャいるのに。愛人ちゃんも複数いるのに。東京にも、2号さんもいるのに。26歳も年上で、頭もはげているのに。

ほんとに、晋三さんというのは無茶苦茶な人物です。政子さんは、「おとうちゃん」(=晋三さん)と結婚してからが、ウチの人生は地獄だったと書いておられます。

ちょっと晋三さんの経歴も紹介しましょう。ネット情報によりますと、大屋晋三氏の誕生年が1884年になっているものが多いですが、それは間違いです。晋三さんは、1894年(明治27年)生まれです。群馬県産です。お父さんは、小学校の校長先生だったのですが、酒びたりだったので、家は貧しく、親せきの援助で、なんとか東京商科大学(今の一橋大学)を卒業し、1918年(大正7年)に鈴木商店に入社します。

鈴木商店というのは、当時の大手総合商社です。戦後に三井財閥に吸収されましたが、一時期は三菱や三井をしのぐ勢いがありました。1874年(明治7年)に開業し、樟脳(しょうのう)と砂糖貿易商としてのし上がりました。製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業も展開して、世界に拠点を築きました。保険・海運・造船などの分野にも進出して、ロンドン・バルティック海運取引所(Baltic Exchange)で日本企業としては2番目のメンバーとなりました(1番乗りは、調べましたがわかりませんでした。岩崎弥太郎の三菱かなあ?それとも三井かなあ?)。

晋三さんは、「帝人」の社長を、1956年から、亡くなる1980年までの、なんと24年間も務めたわけですが、もともと「帝人」というのは、鈴木商店が拡大するにつれて買収した数々の会社のひとつ「帝国人造絹糸株式会社」のことです。「人造絹糸」(じんぞうけんし)というのは、人絹ですね〜〜今でいうビスコースです。ちょっと昔は、レーヨンと言いましたね。1925年(大正14年)に、晋三さんは、鈴木商店からこの会社に派遣されたのです。で、1945年(昭和20年)には、この会社の社長になりました。

それから、晋三さんは会社を辞めて、政界に乗り出します。戦後の1947年(昭和22年)に、民主自由党から参議院議員選挙に立候補して当選します。1948年(昭和23年)には、臨時内閣の大蔵大臣を務めました。同年、第二次吉田茂内閣のときに商工大臣を務めました。1949年(昭和24年)には、第三次吉田茂内閣で運輸大臣を務めました。当選して、すぐ大臣になれたのは、政子さんのお父さんの政友会の仲間が後押しをしてくださったからです。政子さんのコネで、晋三さんは、大臣になったのでした。

ところが、業績不振に陥った帝人が、1956年(昭和31年)に晋三さんを社長として呼び戻しました。晋三さんは、イギリスの会社に研究員を送り込み、ポリエステル繊維の製造法を学ばせ、テトロンと名づけた合成繊維を販売しました。1958年(昭和33年)のことです。このアイロンいらずのテトロンが大ヒットして、帝人は一挙に業績を挽回しました。

その後、1980年(昭和55年)に亡くなるまで帝人のワンマン社長として、晋三さんは、石油開発や牧畜やレストランや医薬事業など、どんどん事業を拡大しました(そのために、帝人は、大屋時代の拡大に次ぐ拡大のために重ねた借金返済のために、非常に苦労をしたそうです)。

こうして政子さんのご主人の経歴を見れば、政子さんは、若くして参議院議員夫人で、大臣夫人で、大企業の社長夫人なのですから、まったく何の苦労もないセレブの奥様に世間からは見えました。しかし、内情は、亭主の作った借金返済と、自分と娘ふたりの生活費と、ややこしい亭主の親族(2号さんたちも含む)たちの生活費を稼ぐのに追われる生活を送っていたのでありました。

政子さんは、戦後の一時期は、キャバレーで歌を歌って稼いでいたこともありました。ご主人の晋三さんが、テイチク・レコードに勤めていた知人に、「政子を使ってやってくれ!」と頼み込み、政子さんはコロンビアからテイチクに移り、キャバレーで歌って稼ぎます。なかなかいいおカネになったそうです。

ご主人の晋三さんは、楽屋口で両手を広げて、迎えに来てくださったそうです。「なんぼ入ってるねん」(100)とか言って、政子さんの出演料の袋の封を、嬉しそうに切ったりしたそうです。ほんとに、けったいな人ですわ、この晋三さんは。だいたい群馬県生まれなのに、なんで大阪弁なのか?

しかし、いくら政子さんが稼いでもカネは、どんどん出ていきます。先妻さんたちの子どもの学資や結婚費用や住宅購入費用や、2号さんの子どものカネの無心やら、3号さんのカネの無心やら、いつでも火の車です。「来る日も、来る日も、仕送り仕送り」(80)だったそうです。仕送られる方の人々は、そのカネは、政子さんが働いたり工面したものとは思わず、政子さんに礼を言うこともないのでした。まあ、寄生虫とは、そういうもんだ。自分が何もしていないので、何でも自然に出てくると思っているのですね〜〜想像力のカケラもありません。

ご主人からは、相変わらずカネは出ません。ご主人が参議院議員になったので、政子さんはキャバレーで歌って稼ぐこともできなくなりました。しかし、ご主人の晋三さんは、政子さんには「働けえ、稼げえ、銀行にも一人で行けえ」(101)と言うだけです。

政子さんは、このご主人の言葉を、「おとうちゃんは、ウチを一本立ちにすることこそ、ほんとの愛情やと思ってたの」(101)と、あくまでも前向きに解釈します。で、本格的に仕事をしようと、決心します。

政子さんは、「おとうちゃんが一分たりともウチを離さないの。海外旅行するのにもウチを連れていく」(101)というわけで、仕事は自分がその場にいなくてもカネを稼いでくれるものでないといけないということで、不動産業に目をつけます。で、六法全書を暗記するほど読み、不動産について独学しました。それから、「五菱土地建物株式会社」を設立します。会社名には、三菱より大きくなれ〜〜という希望を込めました。

なんと政子さんは、1948年(昭和23年)に、まだ戦争の記憶が生々しい頃に、いずれ別荘時代が来ると見込んで、軽井沢の土地を少しずつ買い集めておこうと考えました。その資金を借りるために、帝人のメインバンクの三和銀行(今は三菱東京UFJ)ではなく、住友銀行の本店に3カ月毎日毎日通い、ご主人の名前は一切出さずに、粘りに粘って、当時の額で500万円のおカネをやっと借りました。そうして、不動産業を軌道に乗せました。

政子さんは言います。「そうやってしんどい目をしながら、お金貸してもらいに行くのは、前にもいったと思うけど、おとうちゃんの七光とか、会社社長夫人の威力とか、元大臣夫人の肩書とか、そんなもの使うてお金借りたら、怖ろしいことになると思うから。・・・(略)・・・そんなイージーなお金をポンポン使って、苦労のない仕事やってたら、第一、仕事に力が入りません。仕事いうものは、自分一人の力で、苦労に苦労を重ねてつかむ取っていくからこそ、身も力も入るものだと思います・・・(略)・・・たとえばね、苦労に苦労を重ねた女中さん上がりの女将さんがやってる料亭は、たいてい成功している。その反対に、ベッピンさんがとりえだけで顔売った芸者さんが、旦那にポンと金出してもらって作った料亭は、たいてい五年ももたないでポシャるの。古今東西、みんな同じ」(127)と。

軽井沢の土地集めの次には、政子さんは、まだ焼け跡が残る大阪市内に高級アパートを建設しました。次は、土地の物色だけにも3年かけて、理想の土地が見つかるまで粘り粘って、不動産屋に「だから女はいやなんや、さっさと決断できんから」と嫌味を言われながら、苦難と忍耐のすえにゴルフ場を建設しました。

なんでゴルフ場かって?昔は、女性がプレイできるゴルフ場が日本になかったので、じゃあウチが作ろう〜〜と思ったからでした。それも当時としては破天荒な1000坪あるクラブハウス付きの。政子さんは、ご主人のお供で、1950年代のアメリカで、会員制の名門ゴルフ場でプレイしたり、ふつうの人々が楽しむゴルフ場でもプレイしたりと、ゴルフについては、グリーンの質や、コースのことや、マナーについても、非常に詳しいのです。政子さんにゴルフを教えてくださったのは、亡きお父さんの盟友の鳩山一郎氏でした。

あの、政子さんのトレードマークのミニスカートは、ミニスカートが世界的に流行する前から、政子さんがゴルフ場で履いていたものです。昔のゴルフ場では、女性がスラックスとかズボンを履くことは下品とされ許されなかったので、女性たちは長いスカートを履いてプレーしていたそうですが、ある日雨に降られて、雨に濡れたスカートが脚にからみついてプレーの邪魔になったので、政子さんはスカートをキャディさんから借りたハサミでジョギジョギ切りました。それから、ゴルフのときはミニスカートだったそうです。

ご主人の晋三さんは、「イヤ、なかなか似合うで。その格好で日本のゴルフ場どころか、外国のゴルフ場でもやってみい」(166)と言ってくださいました。お前の脚は見れる脚だ、とも言ってくださったそうです。晋三さんは、とんでもない人でしたが、あくまでも、政子さんの味方であり、政子さんをほめて励ますことには長けていました。いつもいつも、政子さんの才覚を認め肯定し励ましてくれました。

政子さんは、座高より脚が長いし、O脚でもありません。お母さんがハイカラな方でしたから、脚の形が悪くなるからということで、政子さんを畳の上に座らせなかったからです。政子さんのミニスカート姿は突飛ではありましたが、みっともないということは、全くありませんでした、確かに、そういえば。

政子さんは、ミニスカートの創案者のマリー・クワント(Mary Quan:1934-)は、英国のゴルフ場でウチを見たからじゃないかしらん、と言っています。ついでに、政子さんは、映画『ローマの休日』で、オードリー・ヘップバーンが演じるアン王女が髪を短く着るのは、ウチのヘアスタイルを真似たからだとも言っています。あの映画の撮影現場を政子さんは見学させてもらったことがあったそうです。1953年のことです。身支度がすぐにできるので、戦後まもなくから、政子さんは、あの超ショートカットだったのです。

個性的とはこういうことをいうのです。雑誌に掲載されているファッションを、TPOをわきまえずに着ることを個性的というのではないのです。どうでもいいことにギャアギャア騒ぐのを個性的というのではないのです。創造性と勇気こそが個性だ!!黙って実践できる生き方こそ個性というものだ!

私は、マリー・クワントさんとヘプバーンさんは、政子さんの真似をしたと思います。

さて、ゴルフ場が出来上がると、今度はゴルフ場の会員を集めなければなりません。政子さんは、知り合いの大阪はキタの高級クラブのママさんにお願いして、そのクラブのお客さんである大阪の名士の人たちに直談判するために、赤いロングドレス着て、「年増のホステス」みたいな顔して、クラブに出勤(?)することもしたそうです。大きな御屋敷のそばを通ると、車を止めてもらって、飛び込みセールスもしました。そうやって、ちゃんと会員も集めることができました。

そうこうするうちに、政子さんの収入はご主人の晋三さんの収入の10倍となりました。納税額が10倍になりましたから、そういうことになります。テレビに登場するようになっていた1970年代には、すでにゴルフ場をいくつも経営し、レストランをロンドンやパリに経営する女実業家として成功を収めていたのです。「おとうちゃんが社長でも大臣でも、関係ないの。ウチはウチでスッポンポンの真っ裸でガンバルの。ずーっといままでそうやって生きてきたの」(111)なのでありました。

では、なぜ、ただでさえ忙しいのに、TVになぞ出ていたのか?それは、VIPとして海外に出かけていたときに知り合った様々な芸術家たちとの親交から、日本に海外のバレー団を招いたり、国際バレー・コンクールを開いたりしたかったからでした。その資金稼ぎのためでした。政子さんは、寄付も集めないし、自分が理事長をしているゴルフ場から資金を出させることもなく、タレント活動で得たカネによって、国際バレー・コンクールを開きました。

この個人の篤志家(とくしか)の奮闘に対して、文化庁も、外務省も、冷淡でした。政子さんいわく、「日本では、寄付集めて補助金もらって、つまり人のフンドシで相撲とったら、“公”ということになるの」(19)であります。政子さん、リバータリアンです!

日本の「芸術家」というのも、困ったものでした。政子さんにたかるだけたかって平気な「東京バレー団の主催者の佐々木忠次」という人物もいたようです。政子さんにさんざん嫌がらせをした本野盛幸という駐フランス大使もいたそうです。

政子さんの大奮闘を、その内実を知らない人々は、帝人の社長夫人の派手な我儘(わがまま)と思っていました。ご主人の晋三さんの拡大路線の放漫経営は、奥さんの政子さんの差し金であるとか、会社の人事にまで政子さんが口を出すとか、会社のカネを流用しているとか、あることないこと、政子さんは言われ、批判の的になりました。

政子さんは、自分で稼いだカネで、ご主人が社長を務める帝人の株を少しずつ購入して、ついには個人筆頭株主になりました。そのことさえ、まるで乗っ取りを図っているかのように、やいのやいのと非難されました。自分の夫が社長を務める会社の株を、自分で働いて購入するなんて、美談でありこそすれ、責められるようなことではないのですが。

政子さんの事業の成功は、すべて帝人社長夫人だからであるかのように言われましたが、それだけ政子さんの活躍が、もうやっかむしかないほど、すごかったからでしょう。フェミニズムという言葉も日本にはなかった時代ですから、女性の成功した実業家というのは、それだけでスキャンダルであったのかもしれません。無能男たちにとっては。

政子さんが、こういう嫉妬や嫌がらせにあったのは、政子さんが、ご主人の生前には、ご主人の名誉を考えて、ややこしい親族や2号さんたちのカネの面倒などのために、自分が稼ぐしかないという事情について黙っていたからでした。そのような苦労を政子さんが他人に見せなかったからでした。いつも派手に、あっけらかんと明るく、大阪の良いところのお嬢ちゃん育ちらしく物怖じせず、歯に衣着せず、やりたいことはみんなやる!の精神で世界を闊歩していたからでした。

凡人にはわからないのですよ。「いつも派手に、あっけらかんと明るく、大阪の良いところのお嬢ちゃん育ちらしく物怖じせず、歯に衣着せず、やりたいことはみんなやる!の精神で世界を闊歩」できるのは、それが実際にできているということは、そういう生き方を可能にするほどの努力や奮闘や気配りを、その人物がしているからだということを。

世の中というものは、甘くないです。ただのでしゃばりの我儘を長年許してくれるような世間というものはないです。ある人物が世間で通用しているということは、それだけのことを、その人物がしているということなのですよ。やるだけのことをやっていないと、誰も、その人物についていきません。当たり前じゃないですか。

政子さんは、海外旅行もすべて仕事がらみであり、ただの観光やリゾートの海外旅行は、ついぞしたことがなかったのでしたが、大きなノートに知り合った人々のことを記憶して、忘れないように努めていました。政子さんは、非常な勉強家でもありました。やるだけのことを、やるべきことを、それ以上に、やっている人でした。

ただ政子さんは、「みんなのご機嫌うかごうて、イイ子になって」(110)をしなかっただけです。「『あの人、ええ人や』いわれるのはね、本人は気持いいかもしれんけど、ええ人やと思われたいがために、あっち向いたりこっち向いたりして、自分の人生をまっすぐ生きられないの。よう『ホトケのような人や』いうけど、そういわれるに越したことはないけど、あんまり周囲の思惑ばかり考えてたら、つまらん人生になると思うよ、ほんと」(110)と、思い、自分が信じることを実践してきたので、臆病で卑屈で暇な凡人たちからは、煙たがられてきただけなのです。

1980年にご主人が亡くなったあとに、政子さんは、「帝人社長の後ろ盾がなくなったから、もう大屋政子もおしまいだ」とか言われましたが、実は解放されたのでした。一層に事業を拡大し、成功させたのでした。政子さんの実業家としての才覚はご主人のそれをはるかに上回るものであったことは、明らかです。

海外にも拠点をどんどん設けて、そこに出かける時も、秘書以外にシェフを必ず連れて行きます。パーティを開くときに、60人分くらいの料理を用意できるようにするためです。うっかり現地のホテルにケイタリングなど依頼すると、とんでもなくカネがかかるからです。

政子さんは、亡きご主人の下着のパンツやステテコを履いて、仕事に頑張ります。男性用のパンツの前の空いている部分は縫いつけて、身につけます。亡き「おとうちゃん」に守られている気がして、いいのです。いつもいつも自分を励まして肯定してくれた「おとうちゃん」は下着となって、政子さんを温かく包んでくれていたのでした。いや〜〜すごい信頼と愛情です(でも、男性が亡くなった奥さんの下着を身につけていたら、変態と思われますね・・・)。

政子さんは、19歳のときに心に刻み込んだ、「人間は落ちぶれたら駄目だ!」の戒めを、決して忘れませんでした。決して油断しませんでした。実業家として成功しても、生活は奢(おご)りませんでした。衣服も体重の増減に左右されないようなデザインにして、リフォームして、長く着ました。派手にみえても、生活は質実剛健でした。

大阪の自宅は、いつでもアパートメントに改装して賃貸収入が得られるように、各室にバス・トイレ付にしました。この家も、政子さんが稼いだカネで建てたのです。晋三さんは、「政子、家建ててくれえ」とねだるだけでしたから。

美食は健康のためにはならないので、パーティや晩さん会出席以外は、粗食です。ふたりのお嬢さんも甘やかさずに、小さいときから、しっかりとお母さん(お嬢さんたちにとってはお祖母さん)に、家事と始末(堅実に倹約すること)を仕込んでいただきました。

67歳にして借金600億円かかえながら、確実着実に返済しながら、なお一層の事業への夢を政子さんは実現させようとします。「この本はこれで終わりやけど、この瞬間が『フロム・ナウ・スタート』。ウチはウチの信じる道を、また一歩新しい出発をする。そしていつも、『ネバー・ツー・レイト』。遅すぎるなんてあきらめない。『ネバー・ギブ・アップ』。それがウチの生き方」(198)と、政子さんは、『女は度胸』の最後に語ります。

この本(聞き書き)は、1987年に出版されました。その後12年たって、政子さんは胃癌で亡くなられました。お嬢さんに「こんな弱い母を許してね」とか、言い残して亡くなられたそうです。この情報源は、平山亜佐子さん著の『20世紀破天荒セレブ―ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会、2008)です。最後まで、傑作な女性です。

政子さんの事業家としての成功は、戦後の高度成長期の日本の経済成長の波に乗ったことによるものですから、時代が政子さんに味方したことは確かでしょう。バブルが崩壊したあとは、ゴルフ場経営などで、政子さんもなかなか難儀をなさったようですから。しかし・・・それにしても・・・・なんと、すごい女性でしょうか・・・私のこの紹介ぐらいでは、政子さんの「ものすごさ」は、その半分も伝わりません。この稀有な日本人女性について、皆さんご自身でお調べになれば、私の言っている意味が、よおくおわかりになることでしょう。いずれ、将来、NHKの連続TVドラマのヒロインとして政子さんは蘇ることでしょう。ただし、NHKの将来によりますが。TVドラマ、そのものの将来にもよるな・・・

ここで、長々と、大屋政子さんの人生をフジモリ流に紹介してきましたのは、「みなさん、政子さんのように事業に乗り出しましょう〜〜♪銀行に毎日3カ月、お弁当持って通って、資金を借りましょう〜〜♪」と言いたいからではありません。

この『女は度胸』を、女性のためのカネに関する必読書として、ここで私が紹介したのは、なぜかといいますと、政子さんの人生は、苦闘は、私たちに、以下のことを教えてくれると、私が思うからです。何を教えてくれるのか、以下に箇条書きに書いてみます。

(1) ハチャメチャな男でもいい。狡猾でもいい。カネなくてもいい。ハゲでもいい。女作ってもいい。隠し子いてもいい。ともかく、徹頭徹尾、根本的に自分を肯定し、賛美し、励まして、背中をぐんぐん押してくれる男ならば買いだ。そういう男を確保できれば、カネかせぐ気力はいつでも湧いてくる。他の女なんか何人いても、どうでもいーわ。

(2) どんな人格者で頭脳明晰で立派な男でも、あなたが伸びようとするのを抑止するのならば、あなたを矯正しようとするのならば、そいつは、あなたにとって無用だ。自分の女を徹底的に肯定して、かつ、それをはっきり表現できないような気の小さい男など、いらんわ。女の才覚に嫉妬して邪魔する男というのは、インテリやエリートと目される男に結構いるぞ。

(3) ある程度ガンガン損をしないとカネは稼げない。アホ馬鹿クズ寄生虫にカネとられるのはむかつくことであるが、また自分の落ち度でもないのに強いられる出費は、理不尽なものであるが、カネで処理できるのならば、カネ出しておこう。喜捨(きしゃ)しないと、カネは入ってこないから、テキトーに「お人好しの馬鹿」になって、損を引き受けよう。その欠損は大きな災難を小難にしてくれるし、生きる意欲を駆り立ててくれる契機になる。アホ馬鹿クズ寄生虫は、あなたが手を下さなくとも、いずれ自滅する。たとえ、その実態が私たちには見えないものであろうと、「結果」というものは、誰もが引き受けなければならない。大きく見れば、公平なもんだ、この世界は。

(4)稼いでいるのにカネが残らないというのは、自分の労働の質が低いのに、もらいすぎているから。無意識が(魂が?)、「こんなのもらいすぎ」と判断して、あなたに浪費させている。浪費させて、あなたを守ってくれている。自分の労働の実質を高めれば、その自覚を強く持てば、カネは、あなたのもとにとどまってくれる。志半ばの死とか急逝(きゅうせい)とか立ち上がれない挫折なんてのは、言語道断にもらいすぎていたんじゃないの〜〜〜?カネのみならず、いろいろと・・・晋三さんは、帝人を再生させた功績はあるにはあったけれども、放漫経営をしがちで、社長としての高給取りのお金持ちに見えて、カネは、どんどん複数いる愛人の生活費などに流れて、経済的には政子さんに依存していたけれども、だからこそ、86歳まで長生きして、社長をやっていられたのかも。そんな亭主を抱えていたからこそ、政子さんも、途中、大病せずに頑張ることができたのかも。

(5)愛は、カネを稼げるということも含む有能さのあとから付いてくると肝に命じよう。ただそのままの自分でいて他人に愛されるなどという特権は、生まれた時の赤ちゃん時代にちゃんと享受している。その時に十分愛され、ケアされたからこそ、育ったのだから。長じたら、人様の役にたたない人間でいるのは恥ずかしいことだという身も蓋もない事実を受け入れよう。私たちが、家庭の中でも、職場でも、受け入れられているとしたら、それは私たちが家庭の維持、職場の運営に、有効に機能しているからだ。それ以外の理由などない。無償の愛とか、友愛とか、何とか、わけのわからん情緒的な言葉で思考を誤魔化すことはやめよう。

(6) だからといって寂しいと感じるとか、ありのままの裸の自分を受け入れてほしいと思うのは、思考不足だからである。もしくは、頭の悪い言説に洗脳されているからである。こうやって生きて呼吸して、物が食べられて、排泄できて、頭の上に屋根があり、水道の蛇口をひねれば水が出て、携帯電話は通じるのだから、私たちは、すでに、とんでもないほどの恩寵の中で生きている。私たちはもう十分に無条件で愛されている。今度は、ガンガン何を自分が与えることができるのが楽しいか、考えよう。カネは、テキトーに大切にして感謝していれば、「こんにちは〜〜」と、またやって来てくれる。

(7)「遅すぎる」ことなどない。生きている限り、気づいたら、今から学び始めればいい。今から実践すればいい。今から働けばいい。だいたい、人間の生なるものが、どこから始まり、どこで終わるかさえ、ほんとうは解明されていない。少年とか少女とか、成人とか中年とか老人とか、テキトーに線引きしているだけだ。人間の能力の可能性だって、明らかになっていない。まあ、ひがみ、そねみ、嫉妬がはびこる類の世間向きには、線を引いたような顔をして諦めて悟ったような顔をしておけばいいけれど、自分で勝手に自分の人生に線を引いて、ここからは高齢者だからとか、ここからは女だからとか、ここからは極東の島国の黄色い土人だからとか、私は今まで何もきちんとできなかったからとか、私は金運がないからとか、自分を小さな(目に見えない)線の囲みの中に閉じ込めることはない。将来の心配などすることない。老後なんて来ない。いつだって、「今」しかない。だから、「立ちあがれ日本」党さん、The Sunrise Party of Japanさんも、頑張ってちょーらい。

さて、ランド節の続編も書きましたから、明日のクラスの準備をします。だいたいは、すませてあるのですが、念のため〜〜ちゃんと自分の労働の質を高めておかないと、 「もらいすぎ!」と私の無意識が判断して私を浪費に駆り立てるかもしれませんからね〜〜ちゃんと働こう〜〜

ところで、唐突に話は変わります。「眠り製作所」(株式会社プレジール)という会社の「アーチピロー」って枕が、すっごくいいです。人間は睡眠中も、腕の重さで疲れる そうです。肩が凝るそうです。そういえば、そうだ。なんで眠ったのに、筋肉痛があるんだ?とか。腕は重いそうですよ〜〜と、いうことで、腕を託せるアーチ型の枕が開 発されたのです。いや・・・これは、ほんとに安眠できる枕です。

やっと、ベッドに入る時、嬉しいような枕を、手にすることができました。私が何もし なくても、ちゃんと、どこかのどなたかが、私をふんわり優しく抱きしめてくれるような、朝起きてベッドを出るのが惜しく感じるような新型枕を開発してくださいました。ほんとに恵まれているよな〜〜私って。1個9900円ね。カバーは1枚2500円くらい。22世紀の世界における枕はアーチ型が常識になっているよん。

着実に、人類は、進化している。