アキラのランド節 |
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脳萎縮促進性習慣としてのポジティヴ・シンキング (その1) [05/04/2010]連休も終わりました。お墓参りや食材買出し以外は外出もせず、本を読んでいるだけの連休でした。明日の5日には、大阪に戻ります。 唐突ですが、『ゲゲゲの女房』は、NHK朝の連続TVドラマにしては珍しく非常に面白いですね。主演の松下奈緒さん(?)を始めとして、俳優さんたちも、すっごくいいです。「貸本屋」さん懐かしい〜〜♪私もガキの頃は、貸本屋さんには一時期大変にお世話になりました。漫画家の水木しげる氏の奥様の自伝が原作だそうです。アマゾンに注文したぞ。 ところで、連休の真ん中の5月2日の朝に、私は、Twitterに、テキトーに書き込みました。「60歳過ぎたら医者にはかからない。病院に行かない。若い人の時間とエネルギーをただで使わない。一人遊びして、ひとさまに迷惑かけない。くだらない長メイルは忙しい人に出さない。無為に長生きしないように自分に負荷をかける。そういう老人に私はなる」と。 そしたら、とたんに、フォロワーが10人ほど増えました。みな、若い人ばかりです。なんで? どうも、高齢者にむかついている若い人が多いようです。失業中とか、派遣社員とか、契約社員であることが多い若い人とかは、終身雇用制の年功序列の既得権を享受してきた高齢者たちを眺めていると、むかついてくるようです。 正社員になっている若い人も、かなり年上の同僚たちを眺めて、こう思うらしいです。「こいつら、きっちり働いていないのに、俺たちより給料はうんと多い・・・年金もちゃんともらえる・・・俺たちが毎月払っている社会保険料は、こいつらの老後の暮らしのために支払われるのであって、俺たちの老後のために積み立てられているわけではない・・・」と。 まったく、真昼間(まっぴるま)から、スタバの座席に座り込み、ダレダレと長々と、面白くもなさそうに、くっちゃべって過ごしている老人集団を見ると、57歳の私でさえ、むかつきます。「いい年して暇つぶしの方法も知らないのかよ。働いている若い人の休憩の場をいつまで占拠してるんじゃ!」と、公憤にかられます。 地域の公立図書館も朝から、老人たちが占拠しています。といっても、頭を使う読書をしているわけではなさそうです。嘘ばかり垂れ流すマスゴミ新聞を広げているだけです。TVや新聞などのマスゴミ報道を疑いもしない「期待される大衆」というのは、暇でアホな類(たぐい)の高齢者のことでしょうか? 支配層にとっては、まことに都合のいい「選挙民」とは、ある種の高齢者なのです。TVや新聞や検察がグルになって、なにゆえか眼の敵にしてバッシングする政治家たちを悪の手先と信じ込んで、マスゴミの誘導に素直に従って投票するのは、暇でアホな類の高齢者でありましょう。ネット情報などで、マスゴミ報道の裏を読もうと務め、かつ真実を追究する人々の言論を求めて、乏しい収入から書籍代や講演参加費を捻出する若い人の数は多くはないので、老人票に負けるよなあ・・・ 心ある若い人々よ、だからこそ、ちゃんと投票に行ってください。さもないと、あなたたちが産み出す富は、高齢者に搾取され続けます。 医療界&医療保険界&製薬業界にとって、最上最高のカモこそ、暇でアホな類の高齢者でありましょう。彼らや彼女たちは、自分で考えず、情報も集めず、(生と死について真剣に考えてこなかったので)死を恐怖するあまり、ただただ長生きしたがり、自分の健康を守るのは自分の仕事であることを忘れて、どうでもいいような症状に大仰な病名つける類の&患者を殺す抗癌剤をガンガン投与する類の医者や病院に、過剰に貢献します。 ついでに、銀行や証券会社や投資会社にとっても、最高のカモは。暇でアホで、ついでに強欲で虫のいい類の高齢者でありましょう。副島隆彦氏の新刊『お金で騙される人、騙されない人』(幻冬舎、2010)をお読みください。実例がわんさか、であります。 あ、ひどい言い方?すみません。前にも、ランド節で書きましたが、私には「敬老の精神」がないのですよ。はい。 なぜならば、私は事実を直視するからです。高齢だから、さぼっていいという理由はないです。高齢だから、無用心でも守られるべきだ、ということはないです。高齢だから、未成熟さが許されるってものじゃないです。高齢者であることは、なんの言い訳にもなりません。他人(若い人)の親切と寛容と忍耐を、当たり前に享受していいということには、なりません。 言うまでもなく高齢者といっても、いろいろです。きちんと生きている高齢者の方々の方も多いです。成熟した老年期は、若い頃からの思考と、人格の陶冶(とうや)と、訓練の蓄積であり、絶え間ない自己教育の成果であるということを、身をもって示している方々も実際におられます。 しかし、ではあっても、はっきり言いますが、今の日本の「困ったなあ〜〜」現象の元凶は、「臆病で怠惰で暇でアホで強欲な老人たち」だと、思う気持ちが私にはあります。 ま、しかし、高齢者問題も問題じゃなくなる日が来ます。老人は弱者だから守らなきゃ〜〜なんて偽善でも言っていられなくなる時代は、すぐそこに迫っています。 一般的真理として、数が多くなると大切にはされません。あのウジャウジャと数だけはメチャクチャに多い「団塊の世代」(1946年から1949年生まれの人々)が老人になると、「敬老の精神」は一挙に日本から消滅します。現在かろうじて残存しているところの「高齢者の既得権」を守る余裕など社会になくなるのです。 はい、高齢者無視時代が来ます。高齢者狩り時代が来るかも。老人受難虐待時代の始まりでい〜〜♪ そうなったら、老いても油断せずに、注意警戒を怠らず生き抜くのみです。無頼で、かつ自己防衛に秀でた老人になるだけのことです。脳にも身体にも、ガンガン負荷をかけて、生き抜きましょう〜〜♪生き抜いた末に力尽きてそのへんで倒れ死んでOKです。孤独死でOKです。 ただし、1週間後ではなく「翌日」か「翌々日」には死体が発見されるぐらいの近隣や友人知人とのお付き合いのメンテナンスは、しておきましょう〜♪人間は、どうしても、人様(ひとさま)のお世話になるしかない社会的生き物ですから、せめて、自らの遺体ぐらいは、処理するのに厄介迷惑な腐乱死体にしないように気をつけるぐらいのことはしておきましょう〜〜♪ 以上のことは、まだまだ死ぬ気のない高齢者の方々および、(私を含む)高齢者予備軍は、覚悟しておくしかないことなのでありますよ。 なんてことを思いつつ、美容院に白髪染めに出かけて、美容師さんに渡されるままに、中年女性向けファッション雑誌をパラパラめくり、「いつまでも女として輝いていたい!なんて、お馬鹿なコピーが氾濫するファッション雑誌を熱心に読んでいられる程度の知能のオバサンは、ろくでもないバアサンになるんだろうなあ〜〜超美女の女優のシャロン・ストーンでさえ、50歳でセミヌードさらしている姿は、見づらいものがあるぞ〜〜」なんて思いつつ、白髪染めをしていただきまして、帰宅したら、以下のようなメイルを、東京の某大企業で契約社員として働いている桃山学院大学OBさんからいただいておりました。 (以下、メイル転載始め)ノンワーキング・リッチ(NWR)とかいって働かないのに若者の3倍以上の給料もらっていくのに、「ボーナスが減って生活がくるしいんだよね」って若者にいう無能なおっさん’sはいつまで高度経済&バブル感覚がぬけないんだよってつくづく思いますね。政府も企業のトップも、自分世代の既得権益を守るのに必死で、それを若い世代になすり付けようと日々奮闘してますもんね(笑)定年まで、或はあわよくば死ぬまで逃げ切ってやろうという腐った根性が丸見えなのが癪に触ってもう・・・ (以上、メイル転載終わり) で、私は、その教え子さんに、以下のように書いて返信しました。「逃げ切るなんて、できやしないのでございますよ。逃げ切ったつもりで、ちゃんと<結果>は出るものでございますよ。搾取してきた類の老人は、もらいすぎてきた類の老人は、振込み詐欺で騙され、銀行や証券会社や投資会社に騙され、ニートや引きこもりのガキや孫に殺され、あるいは年金を食い尽くされ、死んでも年金目立ての子どもに死を隠され、葬式してもらえず、男の老人はお水のネーチャンに騙され殺され、女の老人は新興宗教や訪問販売に騙されるのです〜〜あなたも、いずれは確実に老いるのですから、心しておくように」と。 ははは。私の返信は励ましになったかしらん。ならんか・・・ といっても、今回のランド節のテーマは、現代日本を侵食しつつある高齢者と若者の対立構造、もしくは山野車輪氏が『「若者奴隷」時代』(普遊舎、2010)で描くところの「若肉老食社会」到来の危機ではありません。まあ、最後には、結びついてくるのでありますが、若者の高齢者に対する反感・敵意・怨念そのものがテーマではありません。 今回は、最近読んだバーバラ・エーレンライク(Barbara Ehrenreich:1941-)著&中島由華訳の『ボジティブ病の国、アメリカ』(河出書房新社、2010)を読んで考えたことを、書きます。 なんで、この本を読んだかというと、「副島隆彦の学問道場」の「今日のぼやき」の1123号(2010年4月29日号)に、『ジャパン・ハンドラーズ---日本を操るアメリカの政治家・官僚・知識人たち』(日本文芸社、2005)や『世界を動かす人脈』(講談社現代新書、2008)や『アメリカを支配するパワーエリート解体新書』(PHP研究所,2009)の著者である中田安彦氏が、この本に関する面白い書評をしておられたことに刺激されたからでした。 書評のタイトルは、「『引き寄せの法則』に潜む宗教的ないかがわしさと自己啓発業界という騙(だま)しの構造。行動科学で人生を変えるには限界がある。自己啓発業界を痛打(つうだ)する一冊だ」(http://www.snsi-j.jp/boyaki/diary.cgi)であります。みなさま、是非とも、お読みくださいませ。 といっても、「副島隆彦の学問道場」の会員じゃないと読めませんよ〜〜前にも書いたことですが、タダで貴重な情報を得ようとする学生根性はやめましょうね〜〜いい年こいて、いつまでも「奨学金少年根性」でいるのは、やめましょうね〜〜人の褌(ふんどし)で相撲とるのはやめましょうね〜〜そういう貧乏臭さって、大学教員っぽくて嫌い。 ところで、『ボジティブ病の国、アメリカ』の原題は、Bright-Sided: How the Relentless Promotion of Positive Thinking Has Undermined Americaであります。この現代の逐語訳は、『明るく生きよう---ポジティヴ・シンキングの容赦なき扇動は、いかにアメリカを駄目にしたか』であります。 このタイトルが示すとおり、この本は、19世紀からキリスト教の一別派として生まれ、20世紀にじょじょに浸透し、大衆化し、今やアメリカ合衆国の国民的強迫観念になり、現在の経済恐慌の要因のひとつともなったpositive thinkingの弊害を論じたものです。 そうなんですよ〜〜positive thinkingって、単なる「前向きなる心性」のことではなく、アメリカ合衆国においては、ある種のキリスト教会が広める「(似非)信仰」なんですよ。このことは、アメリカ研究者なのに、迂闊にも私も、よく知りませんでした。そこまで、アメリカの、ある種の教会が「劣化」しているとは知りませんでした。 日本では、positive thinkingってのは、危機に直面したら、それをチャンスととらえて、前向きに対処しよう〜〜的なものだと思われているではないですか。愚痴や不平を言っているだけでは問題は解決しないので、自分にできることから始めて現実に働きかけていこう〜〜的なものだと思われているではないですか。あくまでも、「心的態度」でしかないではないですか。 たとえば、脚が短くて曲がって毛深くて何着ても似合わなくて、もてないけれども、おかげで、容姿で女を判断する馬鹿男の接近を難なく回避できて、若き日の貴重なる時間を費やすに値するだけ充分に意味あることに、青春を費やせる私って幸福だわ〜〜ありがたいわ〜〜と強引に自分に都合よく考えるとか。 あるいは、アダム・レボー 著&副島隆彦監修&古村治彦訳『バーナード・マドフ事件---アメリカ巨大金融詐欺の全容』(成甲書房、2010)に描かれているような、日本円で換算すれば何億円とか何百億円とかの金融資産を、自らは労せずに増やそうと、投資の訓練なんかしたことのない、正式の投資コンサルタントの資格のない、愛嬌だけはたっぷりと、ハッタリは巧みな「ねずみ講」の専門家のマドフさんに、全額まるまる預けて破産した強欲ユダヤ系アメリカ人富豪家たちって、他愛ないよね〜〜ほんと、才あれど徳のない人々だよね〜〜その点、私みたいな貧乏な人間は慎ましく生きてゆくしかないからこそ、大災難から守られているし、友を裏切ることもなく、裏切られることもなく、夜はぐっすり安眠できるのよね〜〜よかった、よかった・・・とか。 これが、日本で解釈されているところのpositive thinkingであります。というか、私のpositive thinkingですが。なんか文句ある? ところが、アメリカ合衆国では、positive thinkingは「信仰」なのです。そこが困るのです。「信仰」となると、自由な精神と思考に対する抑圧になるだけではなく、思考停止=前頭葉萎縮になりかねません。 ついでに、positive thinkingは信仰ではなく、無自覚で無教養な(似非)信仰なので、まっとうな信仰者に対する迫害になりかねません。 「信仰」としてのpositive thinkingというのは、どーいうものかというと、起きることはすべて神の御業(みわざ)だから、起きることに関して、いっさい不平愚痴を言っちゃいけないし、不満を抱いちゃいけないという教義です。何が起きても、従容(しょうよう)として、受け止めていれば、いつか、それがまさに神の贈り物だったと、あなたは知ることになるでしょーという教義です(守護霊さんから教えてもらったとかで、同じようなことを書いている日本の自己啓発本ライターもいますね〜〜ひょっとしてアメリカのpositive thinkingから拝借したのかな?)。 そうなると、宗教的教義としてのpositive thinkingは、「抑圧的」に作用するのです。たとえば、バーバラ・エーレンライクさんが自らの闘病経験から語る例をあげますと、乳癌になった女性は、乳癌にかかったのですから、嘆き悲しんで当然です。しかし、positive thinkingという信仰が普及したアメリカ合衆国において、大病になったことを嘆き悲しむことは、神への冒涜になるのです。乳癌になったことを神に感謝して、学ぶ契機にしなければならないのです。 大病が、あらたな学びや認識の契機となることは、大いにありえるでしょう。その可能性があるからといって、「その病気は、あなたが罹患してふさわしいものなのです。すべては神の御業ですから。だから愚痴っちゃいけません。感謝しましょう」と、患者に言うのは、余計なお世話を通り越して、嫌がらせです。前向きに解釈しないことが「神への冒涜」となると、患者さんは、必死に自分の感情を抑えて、前向きに明るく振舞うように、暗黙に強要されます。 宗教的教義としてのpositive thinkingが抑圧的に作用する、というのは、こーいうことです。ただでさえ落ち込んでいるのに、その落ち込みさえ我慢せえでは、余計に病気が進行します。あげくのはてには、「乳癌になったことを感謝しないあなただからこそ、乳癌にかかったのです。当然の報いです。信仰が足りないのです」と、患者は、言われかねません。 乳癌は、更年期障害対策とか婦人科系病気の対処のためにエストロゲン(女性ホルモン)補充された女性の罹患率が高いから、乳癌は医療ミスの産物だ!と、科学的に考えてはいけないのです。乳製品の摂取量が高い女性に乳癌の罹患率が高いから、乳製品をもっと研究分析しないといけない、動物性タンパク質こそが、ひょっとして病気の元凶かもしれないと考えてはいけないのです。 positive thinkingが浸透した現代アメリカにおいては、あらゆる社会的問題、社会的不公正が、なるたけ早く軽減されるべき問題とか、解決されなければならない問題ではなくなるのです。宗教的教義としてのpositive thinkingは、結果として、大衆支配に有効な脳萎縮促進性習慣となるのです。どんな理不尽も神の御業であるという教義ほど、支配者に都合のいいものはないですからね〜〜消費者の健康を損ねても構うもんか、売れりゃいいんだと考える企業にとっても、都合がいいですよね〜〜 つまり、宗教的教義としてのpositive thinkingの伝播者たちは、現代アメリカの「エルスワース・トゥーイー」なのです!うわお〜〜〜 ひょっとしたら、宗教的教義としてのpositive thinkingの形成と浸透には、アメリカ独立革命やフランス革命や、ふたつの世界大戦を引き起こした某秘密結社が関与しているのかしらん?イルミナティ〜〜〜♪ さらに、この宗教的教義としてのpositive thinkingは、とんでもない方向に、発展(?)増殖されていきました。なんと、「あなたが必要とするものは、すべて神によって与えられている」という教義へと。だから、「あなたが必要とするものを持っていないのは、あなたの神への信仰に問題があるからだ」と。 さらに、「神の創造した世界は豊かさに満ちているのだから、あなたはあらかじめ豊かなのだ」と。「神の祝福を信じて、この宇宙をあまねく満たす富を、あなたも手にしよう!それはできるのだ!」と。「あなたが豊かでないのは、あなたの信仰に問題があるのだ」と。 ふ〜ん、貧乏なのは、あたいが悪いってこと?私が500億円持っていないのは、私が悪いってこと? 「あなたが必要とするものは、すべて神によって与えられている」?? あなたが必要とするもの?みなさま、あなたは、あなたが本当に必要としているものを認識できていますか?私は、57歳になっても、自分に何が本当に必要か、よくわかっていませんが?それが、何か問題でも? あなたが必要とするものって、「ふつーの平凡で通俗で軽薄な」あなたが必要とするものって、「ふつーの平凡で通俗で軽薄な」あなたが欲望する、「ふつーの平凡で通俗で軽薄なもの」でしかないのではないでしょうか? 「ふつーの平凡で通俗で軽薄な」あなたが欲望する、「ふつーの平凡で通俗で軽薄なもの」を、あなたにもたらす存在が神なのでしょうか? いえいえ、それは、神様ではないでしょう。それは、あなた自身でしかありません。もっと正確に言えば、あなたの欲望そのものでしか、ありません。あなたは、自分自身の影を拝んでいるのと同じことなのです。少なくとも、それは、キリスト教が言うところの神への信仰ではありません。だから、positive thinkingは、(似非)信仰なのです。 現世利益は、ですから、みな(似非)信仰が求めるものです。現世利益を求めることが悪いと言っているのではありません。それを信仰とか宗教と呼ぶ迷妄と自己欺瞞は、いい加減にしてちょーらいと、私は言いたいだけのことです。 神は、あなたの願望や欲望の外部にあるものです。あなたの願望や欲望など全く関与できない何かです。あなたは、そもそも神から疎外されているのです。それでも、なおかつ神の御業を信じることが信仰です。 なんて書いても、ほとんどの日本人には、ピンとこないかもしれません。ここは、どうしても、カルヴィニズム(Calvinism)の話をしなければなりません。信仰としてのpositive thinkingの源流の源流は、17世紀前半に北米大陸に渡り、アメリカ建国期の中心的メンバーであった清教徒(Puritan)たちのカルヴィニズム(Calvinism)です。 要するに、アメリカ合衆国を侵食し、内から掘り崩してきた(undermined)ところのpositive thinkingは、カルヴィニズムというキリスト教の一派の思想の、俗化大衆化による歪曲化&矮小化なのです。 さらにフジモリの解釈を付け加えれば、キリスト教伝播によってヨーロッパはアニミズム(animism)から決別したはずなのですが、キリスト教が切り捨てたはずのアニミズムなくしては、キリスト教(カトリック)は伝播されず、そのカトリックの中に忍び込んでいるアニミズムを、プロテスタントの中でも特にカルヴィニズムは否定したのに、そのアニミズムが、やはり、カルヴィニズムを侵食したのですが、しかし、そのアニミズムは、正真正銘のアニミズムではなく、似非(えせ)アニミズムだったという話なのですよ。 まあ、世にはびこっているのは、だいたいが似非(えせ)アニミズムです。ほんとうのキリスト教にしろ、ほんとうのアニミズムにせよ、もっと厳しいもんです。人間の身勝手な、しょうもない欲望の彼方(かなた)にあるものですよ。 そんなことは、アメリカ人の知識人にとっては当たり前のことだから、いちいち分析することないと判断したのか、面倒くさかったのか、紙幅(しふく)が足りなかったのか、『ボジティブ病の国、アメリカ』の著者のバーバラ・エーレンライクさんは、positive thinkingの(私が求めるところの)根本的な哲学的&心理的起源までは、言及していません。positive thinkingの表面的起源&変遷と、その弊害を指摘するだけです。 読んで面白いのだけど、なんか分析不足ってのは、バーバラ・エーレンライクさんの書くものの傾向のひとつです。まあ、それはしかたないか。私だって、かなりいい加減だもんな。 バーバラ・エーレンライクさんは、もともとが、スタンフォード大学で生物学を学んだ科学者ですから、ダレダレ「文化与太話」をして、アホな読者にも、とことんわからせようという気はないのか、ジャーナリストの一番の義務は事実の提示だから、根本的なことまでは指摘することないと思っているのか。 だったら、positive thinkingってのは、実はこういうことだ!的なことを、私流に書いてしまおう、というのが、今回の3回連続予定のランド節の趣旨であります。だって、この問題は、アイン・ランド的テーマに繋がるのですから、見逃せません。 と、書いてきましたが、ここまででも充分に長くなってしまいました。あとは続編に書きます。 いよいよ、昨日あたりから、夏っぽい日差しになってきました。農作物の出来は悪くなって困りますが、4月の春らしくない気温の低さは、秋&冬大好きの、高温多湿大嫌いの私にとっては、実に快適でありがたかったのですが・・・さようなら、2010年の長い長い早春の冷気よ。愛してたよん。 |