アキラのランド節

狼さんに告ぐ  [05/16/2010]


本当は、「脳萎縮促進性習慣としてのポジティヴ・シンキング」の続編を書くべきなのですが、本日は、金沢市で古書店を営む友人から贈ってもらった絵本について書きます。

私は、子どもがいないので絵本には縁がありません。でも、10年間ほど(かなあ?)、日本児童文学会の会員だったので、「絵本」というものが、ものすごい文化生産物であることは、もれ聞いたことがあります。芸術のレヴェルに達している絵本は、とても多いらしいです。

私自身が子どものころの絵本というのは記憶がありません。親に枕元で絵本を読んでもらった記憶もありません。と、今は亡き母に言ったことがあります。すると、母は私の顔をじっ〜〜と複雑な表情で見つめて、こう言いました。「あんたって、してもらったことは、みんな忘れるんだね・・・」と。ははは…申し訳ないです。

子どもって、生まれてから物心つくまでに、親を始めとして、周りの人々にしてもらったこと(もしくは、してもらわなかったこと)は全部忘れてしまうのかなあ。特に、私は忘れっぽいし。でも、その忘れてしまっていることが、その人間の基礎の基礎になっているのだろうなあ。巨大なる無意識が、膨大なる忘却された記憶が、人間の根本を形成しているのだろうなあ。こういうのを、「運命」と呼ぶのだろうなあ。

だから何?だからといって、何でもかんでも、生い立ちのせいにしても、しかたないよ。「生い立ち」が形成した巨大なる無意識&「生い立ち」に関する忘却された記憶なんかに、こだわっていても、しかたないよ。意識していなくて、忘れているのならば、存在しないのと同じなんだからさ。物心ついたら、もう自分で自分を創っていくしかないのだよ。「運命」なんか、知るかや。

なんの話か。また話が逸れます。絵本の話に戻ります。

私には記憶がないのですが、母は幼い私の枕元で絵本をよく読んだものだ!と、言い張りました。ただ、私は絵本よりも、「ちんぶん」の方に関心があって、夕刊が届く音を聞くと、真っ先に玄関に、チョコマカ駆けて行って、「ちんぶん、ちんぶん」と嬉しそうに持ってきて、読めるわけでもないのに、畳の上に広げて、めくって、手のひらを新聞紙のインクで汚して、喜んでいたそうです。そんなことも全く覚えていません。

なんで、私が枕元で絵本を読まれた記憶がないと思うのかといえば、母が妹の枕元で絵本を読み聞かせていた姿を見た記憶がないからでもありました。だから、私も絵本を枕元で読んでもらったことはないのだと決めつけていたのでした。

で、そのことを私が、長じてから母に指摘しましたら、母は、「いろんな子どもがいるの。あの子は、枕元で絵本を読んであげたら、うるさくて眠れんがね!と怒って嫌がったの。だから、あの子には絵本は読まなかったの。あの子が、いまだに本を読まないのは、私が悪いんじゃないの!私のせいじゃないの!」と、怒って言いました。

いや、いや、誰も責めておりませんがな、お母さん。でも、概して、(まともな)お母さんというのは、お母さんから見ると子どもの欠点(に見えるところ)とか悪癖(に見えるところ)を、自分の育て方が悪かったからかな・・・とクヨクヨと考えてしまうようです。

いやいや、いろんな子どもがいますから。いろんな人間がいますから。生い立ちが同じでも、似たような人間ができるとは限りません。「持って生まれたもの」ってのは、受け容れるしかない。本日は、そーいうことを教えてくれる絵本の話です。

友人から贈ってもらった絵本は、ささき まき作・絵『やっぱりおおかみ』(福音館書店)です。「3才から小学校初級向き」です。初版が1973年で、2008年5月で29刷目です。これだけのロングセラーぶりは、この絵本が、いかに子どもたちに愛されてきたか、という事実を物語ります。

絵本界では傑作の誉れ高い、この『やっぱりおおかみ』という絵本の要(かなめ)である「絵」を紹介できないのは残念ですが、絵も素晴らしいです!!とてもとてもいいです!!下に、表紙の写真のみ入れておきますね。

baby

『やっぱりおおかみ』の内容は、簡単にいえば、こうです。

狼が絶滅している世界です。どういうわけか、一匹だけ生き残った狼は、ひとりぼっちです。「どこかにだれかいないかな」(3)と思って、狼は毎日うろついています。仲間が欲しいです。寂しいです。

ウサギたちの中に入っていくのですが、なんか、狼はつまらないです。ウサギさんたちは狼を怖がります。ウサギさんたちの、やたら神経質な臆病な様子に、狼は、うんざりしてしまいます。つい「」(6)とつぶやいてしまいます。

羊さんたちは、どうだろうか。教会の中にゾロゾロと並んで入っていく羊さんたちを、狼は眺めます。そのいつも群れてあっちこっちと動き回っている姿を見ると、やはり、ピンときません。

次に、狼は、豚さんたちが集まる市場(豚が売られている市場ではないよ)に行ってみます。市場は、とても賑やかです。豚さんたち、みんな、とても楽しそうです。狼は、いいなあ〜〜と思います。でも、豚さんと同じことしても、なにか馬鹿馬鹿しい感じがします。

鹿さんたちが集まる遊園地にも、狼さんは行ってみました。大きな綺麗な遊園地です。森の中に作られた素敵な遊園地です。鹿さんたち、ほんとに寛いで、楽しそうです。狼は、自分に似た鹿さんはいないかと探しますが、見つかりません。

そのうち夜が更けてきます。狼さんは、夜になっても帰るところもありません。待っていてくれる人(?)もいません。

夜の街をひとりで歩きながら、狼さんは、とある家の窓の外から、牛さんの一家が夕食のテーブルを囲んでいる姿を、覗きこみます。牛さんの一家団欒です。牛さんがフォークとナイフで切り分けているのはビーフ・ステーキでしょうか。

狼は、「おれに にたこは いないんだ」(22)と、あらためて思います。

泊るところもないので、狼は墓場で寝ることにします。お化けさんが、いっぱい出てきて狼を迎えますが、狼には、もうどうでもいいです。どうせ、お化けさんたちの仲間に入っても、狼にとっては退屈でしょうから。

狼は、ある日、街の建物の屋上に出てみます。そこには気球がつながれていました。狼は、思わず、気球がつながれているロープをはずします。自由になった気球は、大空に向かって、高く高く高く、飛んでいきます。

狼はこう思います。「やっぱり おれは おおかみだもんな おおかみとして いきるしかないよ」(28)と。

大空に放たれた気球は、どんどん空の彼方に飛んで行って、小さく小さく小さくなっていきました。気球の行方を見つめていた狼は、ふと、「」(29)と、つぶやきます。

そうおもうと  なんだかふしぎに  ゆかいな  きもちに  なってきました」(30)という言葉で、この絵本は終わっています。

いかかでしょうか? 

ね、ね、すごい絵本でしょう?え?すごいとは思えないですって?多分、あなたは家畜系生物なのでしょう・・・

私は、この絵本を読んで、驚愕(きょうがく)しました。なんという深みに達した絵本でしょうか。57歳で読んでも、「う〜〜ん」と胸に迫ります。私の外見は、狼ではなく、どう見ても、豚であります。しかし、私には、この狼の気持ちと、「悟り」(?)が、よくわかります。その解放感にも似た諦念のような清明な気持も。

作者の「ささき まき」氏は、よくぞ、このような絵本を創作してくださったものです。この絵本の英訳とか外国語訳とか、あるのかな。ないのならば、是非とも、出版なさればいいですよ、福音館さん。「ささき まき」氏の絵柄も、国籍不明のコスモポリタンで、輸出向けですよ。Maki Sasakiで、作者のお名前も、韻(rhyme)を踏んでおられます。関係ないか。

私は、この絵本を贈ってくれた20歳くらい年下の友人に感謝しました。異世代の友人というのも非常にありがたく貴重ですね。同世代の友人からは入手できない情報をいただけます。

ほんとに、こんな高度な内容のものが、「3才から小学校初級向き」なのでしょうか。3才のガキが、この絵本を読み聞かせてもらって、この絵本の主人公に共感できるのでしょうか。

それよりも、この絵本を選んで、お子さんに読み聞かせるお母さんがたくさん日本に存在してきた、ということに驚きます。だって、そうでしょ?でなければ、1973年の出版以来、29版もされてきたはずがありません。絵本って、まずは親が子どものために選ぶのですから。今どきの日本の多くのお母さんが、この絵本をよっしゃ!と選択判断して、お子さんに読み聞かせるとするのならば、いや〜〜日本の未来も明るいでっせ。

あれっ?ひょっとして、この絵本は、「誰でも個性があるから、大事にしましょう〜〜」的な、しょうもない寓話として解釈されているのかな?この絵本は、「個性大事童話」だと思われてきたからこそ、多くのお母さんが子どもに読んできたのかな?そういう可能性はあるな。こんな危険な深い絵本の意味を把握できるような、若いお母さんが、この日本に多いとは思えないもんなあ。

多分、この絵本は、読者を選ぶのでしょう。「わかる読者にしかわからない」&「わかる読者にしか伝わらない」密教的絵本なのかもしれません。「わかんない読者」は、この絵本のテーマを、「誰でも個性があるから、大事にしましょう〜〜」だと思ってればいいよ。

この絵本を贈ってくれた友人(若きママだ)によりますと、この絵本を読んでもらった子どもは、目に涙をいっぱい溜めながら、「僕が、お友だちになってあげる!!」と言うのだそうです。この狼の孤独に共感し、涙できるのですね〜〜3歳児ともなると。3歳児、恐るべし。

が、しかし、その3歳児に言ってやろう。あんたごときでは、この狼のお友だちにはなれんのだよ、と。あんたみたいな偽善的な甘ったるい奴は、狼は一番嫌いなんだよ、と。

もしくは、この狼の孤独を通して、これから自分が生きていく道のりに不可避な孤独を、幼心にも予感できるのか、ただただ、圧倒されて沈黙する子どもも、いるようです。おおお〜〜〜3歳児の沈思黙考、恐るべし。

こっちの3歳児の方が、見込みはあるな。

3歳児なんか猿みたいなもんだろ〜〜と馬鹿にしてはいけません。その辺の、精神的成長の止まった類の生きている死体みたいな大人よりも、はるかに「人間存在」をしているのも、います。

しかし、いくら良質な感受性の豊かな(類の)3歳児でも、なんでこの狼が、「やっぱり おれは おおかみだもんな おおかみとして いきるしかないよ」という気持ちに至るのかまでは、わからないでしょう。ましてや、狼が、なぜ「そうおもうと  なんだかふしぎに  ゆかいな  きもちに  なってきました」になるのかは、わからないでしょう。

たまたまウサギさんや、羊さんや、豚さんや、牛さん、など家畜系気質に生まれた人間は、つるんでいるだけで、みんなと一緒で居るだけで、楽しいです。みんなと同じことしていると安心です。しかし、狼気質に生まれたら、そーいうのは楽しくないのです。たまにはいいけれども、ほとんどの場合は、自分のペースで動き回りたいのです。そーいう非家畜系気質というものもあるのです。あるんだからさ、しかたないわさ!

たとえば、私の例で行きますと、子ども時代を振り返りますと、幼稚園にしろ、小学校にしろ、中学校にしろ、高校にしろ、なんだか、えらく「荒っぽい世界」だったな・・・という感慨しかありません。まったく懐かしくないです。二度と、あのような日々はすごしたくありません。通いのゆるい刑務所みたいなもんですよ、「学校」というのは。

「学校」というのは、周りと同じことをせい、という圧力が大きい世界といいますか、ぼんやりとボケっと自分自身でいられない世界といいますか、ほっておいてもらえない世界といいますか、いつもいつも、集団で、仲間内で、つるんでギャアギャアしていないといけない世界といいますか、集団の退屈で面白くもないおしゃべりに付き合わざるをえない世界といいますか、ガキ集団内の闘争に、巻き込まれざるをえない世界といいますか。

ともあれ、集団の圧力が強い世界が「学校」です。大学とかになりますと、「学級」というものがありませんから、「時間割」も各自勝手に作りますので、集団の圧力は低くなりますので、過ごしやすくなります。しかし、高校までは、どうもいけません。

「学校」が、そういう類の場所であることは、しかたないです。誰が悪いのでもありません。「学校」というのは、管理監視教育更生機関ですから、集団的にならざるをえません。フリー・スクールなんて言葉の矛盾じゃ。

混沌としたハチャメチャなエネルギーがいっぱいつまった人間という、ややこしい生き物を、生まれっぱなしのまま、そのまんま解放釈放して大丈夫であるような社会をイメージすることは、今の人類には、まだできません。イメージできれば、実現できる可能性もあるのですが。

私たちが持っている社会のイメージは、「社会のルールや掟をしっかり身につけていない人間や、社会に貢献して、その貢献分の報酬を得ることができるくらいの技術なり知識なり能力を身につけていない人間は、排除するしかない」というものです。

「社会のルールや掟をしっかり身につけていない人間や、社会に貢献して、その貢献分の報酬を得ることができるくらいの技術なり知識なり能力を身につけていない人間」を隔離して管理して教育更生させるのは、「刑務所」という機関です。ですから、「学校」というのも、一種の「刑務所」です。「刑務所」という場所は、刑務官のもと、みな同じ行動をとらされる場所です。しかたないです。

だから、たまたま狼気質の人間は、この刑務所(みたいな学校)時代には、特に不幸感を持たざるをえません。ひとりで、ふらふらしているのが好きか、同じタイプの人間とつかず離れずの関係が好きな狼気質の人間は、学校みたいな「仲間意識」を暗黙のうちに強制する類の場所が、うっとうしくてたまりません。TVの学園ドラマなんか見ると、うんざりします。「しょうもな・・・こんな馬鹿集団とお仲間ごっこなんか、したくもないわ」と思ってしまいます。

でも、ほんとはクヨクヨ考えてしまいます。自分だけがおかしいのだろうか?みんなと同じことをしていても面白くないなんて・・・・みんなができることをできない私って劣っているんだ・・・みんなが楽しいことを楽しいと感じない私は、ひねくれているのかも・・・・だけど、みんなのしていることを眺めると、馬鹿にしか見えないのだけど、でも、こんなふうに人を馬鹿にしちゃいけないんだわん・・・謙虚に生きないと駄目だって、どの本にも書いてあるもんなあ・・・・と、クヨクヨいじいじ・・・

まあ、でも、正直に正直に自分に問い詰めたすえに、自分への問い詰めを重ねた長い月日のすえに、みんなと同じことしていても楽しくないし、退屈だし、馬鹿馬鹿しいなあ・・・「け」と思うのならば、しかたないです。そう思うのが、掛け値ないあなた自身なのですから、そう思うあなた自身を認めて、受け容れるしかないです。

だって、あなたには、あなた自身しかないのですから、あなた自身を受け容れることができないのならば、あなたが生きていく術(すべ)がありません。周りを眺めて、正直に「け」と思うのならば、ひとりで街をうろつくしかないのです。

そうしてみると、実は、ウサギさんや、羊さんや、豚さんや、鹿さんや、牛さんたちのことが、ほんとうには羨ましいわけではないんだなあ、自分は・・・ということも、わかってきます。どんなに寂しくたって、お化けさんたちの仲間に入りたいわけでもないな・・・ということも、わかってきます。

だって、ほんとうに寂しくて寂しくて、しかたないならば、お化けさんであろうと、仲良くしてもらいたいはずです。だから、狼は、自分が、さほど寂しいわけでもないということに気がつきます。ひとりでいても、どうってことないな・・・ということも、狼は気がつきます。

だって、空は青いし、雲は流れているし、歩き回る街もある。どうってことない。狼は、自分が怖がっていることや、辛いなと思っていることが、実は、どうでもいいようなことだなと、気がつきます。なんだ・・・「け」。

そのうち、狼は絶滅したなんて言われていたことけれども、狼ではなくとも、狼みたいな生き物がいることに、狼は気がつきます。

狼は、自分が寂しくて仲間が欲しくてうろついていた月日が長いですから、自分に似た生き物の気持ちがわかります。だから、「共感しながら、相手の独立を尊重する」ってことが、狼にはできます。狼は、図らずも、とてもいい友人になれる訓練をしてきたのです。

そのうち、ウサギさんや、羊さんや、豚さんや、鹿さんや、牛さんたちの中にも、実は、自分に似た子がいるのにも、気がつくようになります。ひょっとしたら、狼の生き方を見て、自分の中の非家畜性に気がついてしまうウサギさんや、羊さんや、豚さんや、鹿さんや、牛さんたちも、出てくるかもしれません。

『やっぱりおおかみ』をお母さんに枕元で読んでもらった子どもで、たまたま狼気質に生まれた子どもが、この絵本の狼の最後の気持ちを理解するまでには、何年かかるのでしょうか。その日にいたるまでに、刑務所時代を長々と送らねばなりませんし、学校という刑務所を終えても、さらに、もっと大きな、社会という刑務所が待っています。

それでも、あなたは、狼として生まれた。ならば、狼として生きるしかありません。「け」とつぶやきながら、街をゆくしかありません。大きな刑務所であるこの世界の、そこかしこに解放区を創って、刑務所の破れ目、裂け目を広げてゆくしかありません。

この巨大な刑務所の刑務官や刑務所長や、刑務所の最高経営者たちは、解放区や、壁の裂け目や、破れ目や、壊れた場所などを、やっきとなって修繕するでしょう。狼や、狼気質の生き物を絶滅させることには、彼らは悪魔的な知恵を働かせます。しょうもない知恵ですが、彼らは必死です。だって、彼らが怖いのは何よりも、自由ではあるが、責任のある生き方ですから。自分たちが家畜なので、自由な生き物が目障りでなりません。自由な生き物が存在することは、自分の家畜性奴隷性を意識させられますから。ただし、彼らは、自由な魂がないので、自分たちの恐怖や不安を直視できません。脳や心まで家畜化されていますから、なんともなりません。

それでも、そんなマトリックスが張り巡らされた世界においても、狼は、ウサギさんや、羊さんや、豚さんや、鹿さんや、牛さんにはなれません。必要とあれば、ウサギさんや、羊さんや、豚さんや、鹿さんや、牛さんの着ぐるみで自分を偽装します。しかし、狼は、狼として生きてゆくしかありません。やっぱり狼は、狼です。

この『やっぱりおおかみ』という絵本は、「自分というのは、どうしようもなく自分だから、自分を受け入れて生きていくしかないのだよ、そうなって、初めて自分の人生が始まるんじゃないかな。けっこう、それは清々しいことなんだよ」と、教えてくれます。

同時に、この絵本の狼は、「自由な人間」の比喩でもあります。人類牧畜化が促進されつつある世界のなかで、どうしても家畜になりきれない人間の比喩でもあります。マスゴミが報道しない事実や真実を求めて、情報を求めて、ネット世界や言論界や書店や図書館をさまよい、たとえ稼働性が低い旧式のパソコンみたいな、もしくはVistaみたいに頻繁(ひんぱん)にフリーズするばかりか、メモリーも最低のMB数しかない脳でも、必死に動かして考える人間の比喩でもあります。

狼は、狼として生きていけないのならば、死んだ方がましなのです。狼って、そういう奴です。

ところで、この狼がつぶやく「け」というのは、英語ではどう言えばいいのでしょうか?

英国人の同僚に質問したのですが、ぴたりとした英語が思いつかないそうです。この絵本を贈ってくれた友人は、”Rats! ”なんじゃないかと言います。これは、Shit! とか、Crap!とかの婉曲表現ですから、ちょっと違う気がします。狼は、「ねずみめ!」と、ウサギさんや、羊さんや、豚さんや、鹿さんや、牛さんを罵っているわけではないですから。ましてや、「くそ!」と、罵倒しているわけでもない。

「しょうもな!」とか「どうでもいいやん!」とか「なんやねん」というニュアンスから、私は、”So what?”かなあ・・・とか友人に答えましたが、これは、説明的に過ぎます。「け」の簡潔さと哀愁がないです。

さてさて、どなたか、いい英訳を思いつきませんか?思いついた方は、是非とも、私に教えていただけないでしょうか。