アキラのランド節

脳萎縮促進性習慣としてのポジティヴ・シンキング (その2)  [06/13/2010]


日々の怒涛の労働にくたびれて、またまたランド節の更新が滞っております。そのわりには、Twitterには、しょうもないことを書き込んでいるじゃないか・・・と、つっこまないでくださいまし。

Twitterってのは、140字以内にコンパクトにまとめられた意見交換&情報交換&情報収集の巨大な広場みたいなものです。どんなに疲れていても、そーいう広場には、1日に1度くらいは、立ち寄ってみたいでしょーが!「うわあ〜〜いろんな人がいるなあ〜〜」と感心したいじゃないですか。

で、もって「kayokofujimori 正直に言うと、今度の内閣に関しては、早く倒れてちょーらい、という気分です。この内閣ほど、何も期待できないという暗澹とした思いにさせられた内閣はない。でも、今度の参議院選も、民主党に投票するけどね・・・lesser evilしか選べないもんなあ・・・どちらが、まだ、ましか・・・」とか、つぶやきたくなるでしょーが。

しかし、7月の参議院選挙で、民主党に投票する気は喪失しつつある今日この頃。投票するために、大阪から住民票のある名古屋に帰る気は、どんどん薄れる今日この頃。

今朝、そのTwitterという広場で、ひとりのフォロワーさんから「脳萎縮促進性習慣としてのポジティヴ・シンキングの続編は?」と、プレッシャーをかけていただきました・・・はい・・・すみません・・・書きます。

では、ストレートに核心に行きましょう〜〜

アメリカのポジティヴ・シンキングの源流は、19世紀に起きたニュー・ソート(New Thought)っていうキリスト教の新解釈です。1860年代からアメリカに広まりました。新しい解釈を提示したのは、フィニアス・パークハースト・クインビー(Phineas Parkhurst Quimby:1802-1866)です。

クインビーさんは、もともとは時計職人(clock maker)でした。今で言う、(徒弟制で学んだ職人的)ハイテク技師みたいな感じでしょうか。そのうちクインビーさんは、肺結核になっているよ、と医師に診断されます。で、医師の指示通りに静養し、おとなしくしていました。が、一向に状態が良くなりません。結核は、あの当時の医学では根治不能でして、空気のいいところで、滋養のある食べ物摂取して、静養しているぐらいしか対処法がありませんでした。

19世紀前半といえば、ヒステリーになった女性に対する医学療法が、「瀉血」(しゃけつ)だった時代です。ヒステリーは、19世紀の女性の代表的な病気でした。ヒステリーとは、不自由で抑圧的な性差別満開の時代社会状況に対する女性たちの暗黙の無自覚な抵抗でした。女が自由になれば、そんな症状は霧散するのは明々白々なのですが、フェミニズムの夜明け前の19世紀の半ばあたりでは、そんなこと医者も患者もわかりませんでした。

瀉血ってのは、血を抜くことです。ヒステリーの発作中の女性から血を抜けば、当座は平静になります。そりゃそうですわ、血を抜けば、おとなしくなりますわ。治ったのではなく、貧血になっただけのことですわ。

私なども、若い頃は、献血で100cc抜かれたぐらいでも、ぼ〜〜として疲労感がひどくて、何ともならなかったですからね〜〜吸血鬼に噛まれたら、こんな感じになるかなあ〜と、ちょっとロマンチックな気持ちになっていましたからね〜〜って、何の話か。

で、クインビーさんは、医者の言うとおりにしていても、しかたないな、もうどうでもいいわい・・・と開き直りました。友人と田舎に出かけ乗馬しまくったりして、好きにしました。そうしたら、結核の病状がおさまってしまったのです(ほんとに結核だったの?)。この体験から、クインビーさんは、「病は気からじゃないかなあ〜〜」と、思い始めます。

30歳過ぎたあたりで、クインビーさんは、催眠術(mesmerism)のデモンストレーションを見ます。19世紀のアメリカって、こういう類の似非科学がすごく流行しました。「この薬は効きますよ〜〜」と言われて飲めば、小麦粉でも効果があるというプラシーボ効果(placebo effect)を目の当たりにしたクインビーさんは、ますます、「病は気からだ!」と確信します。心の問題を解決すれば、病気は治ると確信するようになります。で、自分も、「治療師」になります。治療師は、医者ではありません。あくまでも「催眠術師」(magnetizer, mesmerist)であります。

で、クインビーさんは、催眠術で、多くの人々の心の葛藤を知り、その解消に努力するようになりました。そのうち、だんだんと、多くの人々が、カルヴィニズムの影響で、恐怖や自己不信にとりつかれていることに気がつきました。で、クインビーさんは、人間を幸福にしないカルヴィニズムに代わるキリスト教に関する自分自身の解釈を提唱したのであります。それが、ニュー・ソート(New Thought)と呼ばれたのでありました。

このキリスト教新解釈のニュー・ソートは、どこがどう、キリスト教の新解釈だったのでしょうか?ニュー・ソートの何がニューなのかを理解するためには、キリスト教のカルヴィニズム(Calvinism)を、ある程度は理解していないといけません。

カルヴィニズムのことは、ヨーロッパの宗教改革から、話していかないといけません。これから、授業で、学生さんに説明しているのと同じノリで書きますから、うざくて、退屈かもしれませんが、読んでやってください。常識とは思うのですが、念のため、であります。

宗教改革ってのは、ドイツで1517年からマルティン・ルター(Martin Luther:1483-1546)によって始まりました。ここらあたりから、バチカンの法王を頂点とするキリスト教(旧教=Catholic)組織のやり方が、イエス・キリストの精神とかけ離れていることを告発非難する改革運動がヨーロッパに吹き荒れたのですね〜〜宗教改革とは、本来のキリスト教に戻ろう、原点に還ろうとする精神復興運動だったのですね〜〜カトリックに対する批判抵抗勢力を、文字通り、プロテスタント(Protestant)と呼びます。

プロテスタントが生まれるきっかけは、聖書の翻訳と、印刷の発明だったということになっています。15世紀にはいったあたりから、ヘブライ語版とか、アラビア語版とか、ラテン語版しかなかった聖書が、主要ヨーロッパ各国の言葉で翻訳されるようになりました。その翻訳された聖書が、1445年(もしく1450年)ごろに、ドイツのグーテンベルグ(Johannes Gensfleish Gutenberg:1400?-1468?)によって発明された活版印刷術によって、流通するようになりました。そうなると、バチカンに代表される教会のやっていることと聖書に記されていることは違う、という事実がだんだん知られていくようになりました。

ゲリラ的なネット言論によって、既成の大手新聞社や大手テレビ局の流通させる情報が、国民愚民化を意図しているのではないかと疑われてもしかたないような悪質なものであることが、知れ渡りつつある現在みたいな時代が、ヨーロッパ宗教革命時代だったのですね〜〜♪

また聖書を読むことができれば、教会や神父などを介在させなくても、神の教えに触れることができます。となると、教会の権威は墜ちていきます。真に神を求めるタイプの知識人ほど、教会のやり方に批判的になっていきます。「プロテスタント」になっていきます。

これも、既成の大手新聞社や大手テレビ局の流通させる情報なんかに依存しなくても、個人がインターネットで直接に情報を収集できる今の時代状況に似ていますね〜〜♪

ともかく、プロテスタントは、唯一絶対男性神を奉じるキリスト教には、あるまじきカトリック教会の慣習を否定します。だって、マリアなど拝めるはずないのです。聖母マリアは、イエス・キリストのおかんであって、神様ではありませんから。というか、そもそも、正統キリスト教徒ならば、マリア像とかキリスト像なども拝みません。十字架も拝みません。彫像や十字架は、モノでしかありません。神様ではありません。

「踏み絵」を拒んで殉教した日本のキリシタンは、ほんとうにはキリスト教を理解していなかったということは、よく知られる史実ですね〜〜「踏み絵」なんか、いくら踏んでもいいのだ。オシッコかけてもOKです。遠藤周作の『沈黙』は、宗教といえば、アニミズム(animism)しか、ほんとうには理解できない日本人キリシタンの一途な見当違いなピュアな信仰と、その根本的勘違いを指摘できない外国人神父の物語です。あれは、へんてこな小説です。遠藤周作氏は、どーいう意図で、あの小説を書いたのか?

それはさておき、アニミズムってのは、広辞苑によりますと、「宗教の原初的な超自然観のひとつ。自然界のあらゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし、諸現象は、その意思や働きによるものと見なす信仰」のことでございますね。

日本人キリシタンは、キリスト像が刻まれた板を踏めなかった。その心情は、私たちが、仏壇に納まっているお位牌を、雑巾として「払い下げて」使用している元(古)パンティで拭くことは決してしない心情と根っこは同じです。お位牌にこめられた(と感じている)ご先祖様の魂を、自分がさんざん穿き古したパンティで拭くのは、あまりにも申し訳なく恐れ多く罰当たりな気がリアルにするからですよ。また、さんざん穿いてお世話になったパンティさんの魂も、お位牌を前にして、きっと怖れおののいているんじゃないか・・・と思うからですよ。

ユダヤ教や、ユダヤ教から派生したキリスト教や、イスラム教は、アニミズムを否定する唯一絶対一神教ですが、なんで、アニミズムを否定したかといえば、そりゃ、アニミズムは、信仰から簡単に逸脱する類のものだからですよ。万物に霊を、魂を感じで敬意を払うというのではなく、万物に自分の感情や欲望を投影することになりがちだからですよ。万物に自分の感情や欲望を投影することは、あくまでも自分中心、人間中心の行為です。信仰とは言えません。

アニミズムは、すぐに似非(えせ)アニミズムになります。いや、厳密に言えば、似非アニミズムしか存在しないのです。アニミズムとは、あくまでも(あるべき)概念なのでしょう。

ユダヤ教や、ユダヤ教から派生したキリスト教やイスラム教が生まれた自然環境は、アジアやヨーロッパのそれとは違い、苛烈な砂漠と荒野です。人間を痛めつける砂漠と荒野です。砂漠や荒野なんかに感情移入できるわけないです。砂漠とか荒野の妖精とか地母神なんか想像できません。砂漠や荒野に感情移入して、いかに話しかけても、砂漠も荒野も答えてくれません。アニミズムなんか吹き飛ばすのが、つまり人間の感情や欲望や思惑なんか徹底的に無視するのが砂漠であり、荒野です。

こうなったら、もう苛烈冷酷な砂漠とか荒野みたいな自然環境なんかメじゃないような大きな幻想を持たないと、砂漠や荒野に(心理的に)勝てません。うんとうんとうんと目線を高くして、砂漠や荒野を凌駕し圧倒する何かを想像しないと、砂漠や荒野と戦い抜くことができません。「おまえらなんか、征服してやるんだからな」と人間に敵意と憎悪を抱かせるのが、砂漠や荒野です。

キリスト教やイスラム教を産んだユダヤ教を産んだ自然環境は、人間が巨大絶対なる存在と結びつくことを邪魔する何かです。巨大絶対なる存在をリアルに感じるからこそ、人間は、その邪魔物である自然環境を否定し超えることができます。人間をして、それを超えさせるのが天上の神への信仰です。

砂漠と荒野から生まれた(ユダヤ教経由)キリスト教は、しかし、ヨーロッパに伝播されるにつれて、自らが否定したアニミズムに侵食されていきます。それは、やっぱり、中近東の苛烈な自然環境を持たないヨーロッパ人は、アニミズムで動いていたからです。自然や万物に霊魂を感じるアニミズムで動いていたからですよ。

アニミズムは、根源的な原始的な宗教感情です。だからこそ、根強い。抽象的なことはわからない大衆に布教するためには、信者を増やすためには、教会は、アニミズムを布教に利用するしかなかったのですよ。聖母マリアとかイエス像とか十字架とか、モノにマリアやイエスの魂がこもっているかのように振舞うしか、なかったのですよ。

人間の、すぐに自分の欲望にひきずられる性向に汚染されないがために、(似非)アニミズムを否定し、唯一絶対一神教を立ち上げたのに、皮肉にもアニミズムなくしては、キリスト教は広まらなかったのですね〜〜

ポジティヴ・シンキングの源流のニュー・ソートは、カルヴィニズムへの批判、反発から生まれたのですが、カルヴィニズム自身は、本来は自らが否定したはずの(似非)アニミズムを巧妙に取り込んだカトリックの安易さに対する批判、反発から生まれました。「それは、信仰じゃないだろ〜〜ほんとうの信仰に戻ろう〜〜」という本来のキリスト教に戻ろう、原点に還ろうとする精神復興運動から生まれました。

フランス生まれのスイス人ジョン・カルヴィン(Jean Calvin:1509-64)が、「予定説」(predestination)という考え方を提唱したのですが、この予定説を肯定する類のキリスト教を、カルヴァンの教えだから、カルヴィニズムと呼んだのです。

「予定説」とは、「誰が救済され、誰が救済されないかは神が一方的に意志決定する。そして、必ず神の意志どおりになる。神のこの意志決定は天地創造のときになされ、人間がこれに関与することも変更することも不可能である。人間の偉業、行為の是非善悪は少しも関係しない。人間が神の意志決定を知ることは不可能である」という思想であります。

宇宙を支配しているのは全知全能の神ならば、人間のような小さい存在が、何を悔い改めようが、努力しようが、その神の摂理(Providence)を左右できるはずがありません。神は人間で対応できるような存在ではありません。祈ろうが、改心しようが駄目!祈って動く神様ならば、それは全知全能というような、すごい存在ではありません。

これは、一見とんでもない考え方のように思えますが、唯一絶対一神教のキリスト教からすれば、当然です。現世利益(=ごりやく)を望むのは、あくまでも人間中心であって、人間の都合ばかり言い立てるのであって、真の信仰とは言えません。「予定説」は、キリスト教の根源的必然的論理です。ラディカルでも極端でも何でもないです。

しかし、人間は、このような予定説をほんとうに受け入れることができるのでしょうか?自らの思惑の彼方にある神を信じるとは、現世利益をいっさい望まないということです。なのに、なおかつ神を信仰するということです。こんなことできるほど、人間って抽象的な生き物でしょうか?

さて、ここから先は、マックス・ヴェーバー(Max Weber:1864-1920)著、梶山力・大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』上中下巻(岩波文庫)からのパクリです。と言いますか、フジモリ流解説です。

確かに、カルヴィニズムの信仰としての正当性は理屈から行けば揺るぎないのであります。しかし、正しいから受け入れられるものではありません。人間には、(自分の状況を否定する)欲望というものがありますから。

この「予定説」を本気で信じたら、自分が神に救われることが決まっているものと考えなければ、生きることに耐えることができません。自分が救われているという証が欲しくなります。

どうすれば、自分が神に救われた存在だと自分で納得できるでしょうか?まず、人間は、「神に選ばれた人間ならば、神に選ばれているように行動するに違いない」と考えるでしょう。もしくは「神に救われる予定の人は、いかにも救われる予定の人間に見えるはずだ」と、考えるでしょう。

ならば、自分が「神に選ばれている人間」であることを、自分にも他人にも納得させるには、自分自身が神に選ばれている人間にふさわしい行動をすればいいんじゃないかと、考えます。で、それを実践します。

そうなると、自分の言動、生活、人生を、神に選ばれた人間にふさわしいものに徹底的に変えていくことに駆り立てられます。神の教えが全生活を規定し、人間は自分で自分の行動全体を律していきます。寝てもさめても、人間は神の教えにとり憑かれ、自分の人生や心を徹底に管理していきます。

<以下、引用始め>
現世に与えられている使命---しかも唯一の使命---は神の自己栄化に役立つということであり、選ばれたキリスト者にあたえられている使命---しかも唯一の使命---は、現世において、それぞれの能力に応じ神の誡めを実行することによって神の栄光を増すことである。ところで、神がキリスト者に欲したまうものは彼らの社会的仕事である。けだし、神は人間生活の社会的構成が彼の誡めに適い、その目的に合致するよう編成されていることを欲したまうからである。カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な働きは、「神の栄光を増すため」の働きにほかならぬのである。だから、現世全体の生活のために役立っている職業労働も、また同じ性格をもつことになる。
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』下巻、岩波文庫、p. 36)
<以上、引用終わり>

ところで、人間の社会で、「神に選ばれし人間にふさわしいありよう」とは、具体的にどんな、ありようでしょうか?

それは、人間が考えることですから、人間の価値観に沿った人間のありようでしょう。人さまや社会のために役に立つ能力があり、技術があり、勤勉であること、となるでしょう。つまり、「労働できること」が神様に選ばれた証拠になるでしょう。

ここに、人間の活動の中で、もっとも重要なのが労働、となるのです。「労働それ自身が救済である。人間の価値は労働能力で決まる」という思想が、ここに誕生するのです。そういう労働観から、「天職」(calling)=「召命」(しょうめい)という概念が生まれます。

ここに、「行動的禁欲」が生まれます。目的合理性が生まれます。「行動的禁欲」というのは、ただの禁欲ではありません。「他のすべてのことを断念して(禁欲して)、神に選ばれたように見えるようことに全エネルギーを投入して生きていくこと」であります。

「目的合理的」とは、「ある目的を達成するために、すべての手段を整合させるということ」です。手段の選択や実践の手順が間違っては、目的が達成できないから、目的達成のためには、運とか偶然に頼るのではなく、徹底的に合理的に考える。こうなれば、こうなるという因果関係を明確に把握して(=論理的に考える)行動するから目的合理的と呼びます。

プロテスタントのカルヴィニズムの「予定説」を信じると、人間は、行動的禁欲になり、目的合理的にならざるをえなくなるのですね〜〜

でもって、勤勉に労働して禁欲すれば貨幣は蓄積される。貨幣が蓄積されれば独立独歩!つまり、金を持っているということは、他人に頼らずにすむ恒産があるということは、社会に役にたっているということで、美徳があるということになる。金を得ることができるだけの、神から与えられた職業(につける能力)を持っているということになります。

要するに、「神に選ばれし人間にふさわしいありよう」とは、労働を通して、行動的禁欲を実践し、目的合理的に生きて、有能になり、カネ稼いで、カネを蓄積できている状態だ、ってことになるのです。

この予定説を信じた人々の一部が、北米大陸に殖民したイギリスの清教徒(WASP: White Anglo-Saxon Protestants/Puritans)でした。アメリカ合衆国建国は、このWASPたちによってなされました。この人々は長くアメリカ合衆国の主流となり、アメリカ合衆国の精神風土を形成しました。

だからアメリカには、この意味で、「清貧という美徳」がありません。カルヴィニズムの「予定説」を内面化した人々が主流となって形成したアメリカ合衆国においては、貧乏であるってことは、労働できないこと、無能であるということで、かつ、神に選ばれていないことの証となるのでありますよ。はい。

カルヴィニズムは、人間をいつもいつも、耐えざる自己省察と自己否定と、他者との比較に駆り立てます。神に選ばれていることを自ら証明し、他人に見せつけることができるような状態を達成し、保持しなければならないのですから、ウカウカしていられません。「ありのままの私でいていいのだわん・・・」なんて油断していられません。

17世紀の開拓時代や建国期に比較すれば、主流アメリカ人のメンタリティを決定づけたということになっているカルヴィニズムも、19世紀には、かなり俗化し、形骸化していたはずです。俗化し、形骸化したからといって、その影響力が弱まったということにはなりません。

で、前に書きましたように、19世紀半ばのフィニアス・パークハースト・クインビーが、催眠術を利用して患者さんの心を覗いたところ、多くの患者さんの心が、神への怖れ、神に選ばれていないような自分自身のあり方への不安に、蝕(むしば)まれているのを発見するのでありました。

それで、クインビーさんは、これではいかん!と思いました。で、時計職人だったクインビーさんは、実際的な時計職人らしく、実際的に考えます。現実の人間を現実的に幸福にしないカルヴィニズムは間違っている、と。イエス・キリストは、愛の神なのだから、愛をもって人間のことを考えていたはずだ、と。今までの伝統的なキリスト教の解釈が、人間を幸福にしないのならば、ここで、きちんと、あらためて解釈し直さないといけない、と。で、とうとう、クインビーさんは、以下のような「教義」を提唱することにしました。

<以下引用始め>
人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。
正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。
人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。
あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。
原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。
全人類に、喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。
愛の力は神の意志の地上的表現である。
<マーチン・A. ラーソン著, 高橋和夫&木村清次&鳥田恵&井出啓一&越智洋訳『ニューソート---その系譜と現代的意義』(日本教文社、1990年)より>
<以上、引用終わり>

この、ニュー・ソートの教義を、簡単に言いかえてみると、次のようになるのではないでしょうか。

「この世界は神が創造したのだから、完全無欠です。人間も神が自分に似せて創造したのだから本来は完璧なはずです。基本的に祝福されています。世界も人間も、どんどん進化、発展していくのです。あなたが不幸なのは、そのことへの認識が足りないからです。人間社会に不幸が絶えないのは、神の恩寵に満ちた宇宙や世界への信仰が足りないからです。神に似て創造された自分自身を信じていないからです。あなたの信仰の不確実さが、あなたや社会の不幸を生むのです。原罪なんて、ありません。要するに、あなたの心が明るければ、運命は開けます。世界は繁栄します。それだけの世界を神は用意しています」と。

あらあ・・・なんて明るい考え方。あらあ・・・ほんとに、ポジティヴ・シンキングに似てるわあ・・・

というわけで、このニュー・ソートは、同時代の一流の知識人たる高名な哲学者ウイリアム・ジェームズ(William James:1842-1916 )や、これまた高名な文学者のラルフ・ウォルドー・エマソン(Ralph Waldo Emerson:1803-1882)に影響を与えるまでに、アメリカで、広く受け入れられました。

「全知全能の神が、貧困と悲劇と不正に満ち満ちた世界を創造なさったはずがないではないですか。人間は、神の姿に似せて、神に創造されたのですから、本来は完璧なんであります。病気になるのが、おかしいのであります。みんな120歳まで健康に生きてしかるべきです。この世界ができそこないに見えるとしたら、神が間違えるわけはないのだから、それは私ら人間が悪いんですよ。私らのマイナスの心が世界に映し出されてるんですね〜〜」という説には、説得力があります。

ニュー・ソートは日本にも影響を与えました。1930年(昭和5年)に設立された「生長の家」(創始者は谷口雅春:1893-1985)は、日本最大のニュー・ソート派宗教団体(会員85万人)です。谷口氏は、New Thoughtを「光明思想」と訳しました。なるほど、ぴったしです。「新しい思想」は、確かに「光明思想」でした。

「生長の家」の基本的二大教義は、以下のとおり、まさしくニュー・ソートです。

「人間はみな神の子であり、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものに満ちた永遠不滅の生命である」および 「現象界は心の現れであるから、人間の実相は神の子であるという真理を悟れば、現象世界においても幸福が現れる」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AE%B6

創始者の谷口氏は、若き頃に(大正時代だ)外資系石油商ヴァキューム・オイル・カンパニーに勤務していたので、英語ができたので、アメリカで流行のニュー・ソート系文献を読んだのだと思われます。

となると、戦前から現在にいたるまでの、日本の自己啓発界のスーパースターであらせられる中村天風(1876-1868)氏も、ニュー・ソート派ということになるかもしれません。中村氏は、全く、どこにも言及しておられませんが、中村氏の著作内容から判断すると、明らかに中村氏もニュー・ソートから影響を受けておられます。

中村氏は、アメリカはニューヨークにいたとき、中国人留学生の替え玉としてコロンビア大学の医学部の授業を受けていたそうです。きっと、その頃に、ニュー・ソート系文献などを読んだに違いありません。そこに、インドで体験したヨガと、呼吸法、能力開発法などを加味して、独自の自己啓発哲学を打ち立てたに違いありません。

そう断言する実例を出せ?すみません。今、手元に中村氏の著作がないのですよ。みな大阪は和泉市に借りている部屋に置いてあります。まあ、ここは、テキトーに、ご興味のある方は、中村氏の言葉などをネット検索でもしてください。そうすれば、私が、書いていることに賛同していただけるものと思います。 

ニュー・ソートに話を戻します。このような、キリスト教新解釈ニュー・ソートからは、キリスト教別派として、アメリカでは、「モルモン教」や「エホバの証人」と並ぶ勢力を誇ってきた「クリスチャン・サイエンス」(Christian Science)も生まれました。

クリスチャン・サイエンスってのは、メアリー・ベーカー・エディ(Mary Baker Eddy:1821 - 1910)によって、1879年に設立された宗教結社です。基本的には、その教義はニュー・ソートと同じです。

このメアリー・ベーカー・エディさんは、日本では無名ですが、アメリカの高級インテリ月刊誌として知られるThe Atlanticの2006年12月号の”They Made America”という特集の「アメリカで最も影響のあった人々」Top 100のリストでは、84位に選ばれています。ニュー・ソートの元祖クインビーさんより、ニュー・ソート系宗教教団「クリスチャン・サイエンス」の教祖となった女傑のメアリーさんを、『アトランティック』誌は選んだのですね〜〜(http://www.theatlantic.com/magazine/archive/2006/12/the-top-100/5384/

ちなみに、この”They Made America”のTop 100の第1位は、エイブラハム・リンカーン大統領でございます。我らが、アイン・ランドは選ばれていません・・・許せんわ・・・

アイン・ランドが無視された悔しさはさておき、このメアリー・ベーカー・エディさん、通称エディ夫人は、夫に先立たれるなど不幸が続いた後、1866年に事故で負傷しました。そのどん底状態のとき、新約聖書に記されているイエスの癒しの一つを考えるうちに、エディ夫人の傷は回復に向かいました。

エディ夫人は、その体験から霊感を受けました。で、聖書の研究会を立ち上げて、1875年にScience and Health with Key to the Scriptures(『科学と健康と共に聖書の鍵』)という本を書き、発表しました。内容は、全ての病気の原因は心的なものであり、人間の病気の本質は心の中の虚偽や幻想から起る、というものでした。

エディ夫人の教えは、北部の工場地帯マサチューセッツ州の、主として工場労働者の間に広まりました。南北戦争前あたりから急速に発展したアメリカ北東部の工業は、労働者に過酷な重労働を強いましたが、工場労働者や、その家族たちにとって、このエディ夫人の教えは、心の支えとなったのであります。伝統的な教会は、富裕層や中産階級のための社交場のように形骸化し、庶民の現実の切実な悩みや苦しみに応えることをしませんでした。

1892年、ボストンに「母教会の第一科学者キリスト教会」(The First Church of Christ, Scientist)が設立されて以来、世界各地に「クリスチャン・サイエンス」の支教会が設立されました。日本では1907年(明治40年)にアメリカ人による礼拝が横浜で始まっています。1920年(大正9年)に東京でも礼拝が開始されています。

1940年(昭和15年)に解散したのは、日米間に戦争が起きることが予期されたからでしょうか。戦後1946年(昭和21年)に京都で米兵による礼拝が再開しました。1947年(昭和22年)に東京の教会が再建されました。現在にいたるまで、東京と京都のクリスチャン・サイエンス教会は存続しているそうです。

さて、クリスチャン・サイエンスは、今でも、あのジョン・トラボルタも熱心な信者だと言われるほどの根強い人気を保持していますが、ともかく、アメリカのポジティヴ・シンキングの源流が、時計職人から催眠術師になったフィニアス・パークハースト・クインビーが提唱したニュー・ソートであったことと、そのニュー・ソートがカルヴィニズム批判から生まれたものであったことを、今回は確認しました。

みなさま、すでにお気づきのことと思いますが、カルヴィニズムが、「近代資本主義の精神」と結びついていく過程で、すでにカルヴィニズムの「予定説」が、変質してしまっていましたね。人間の欲望や思惑の外部にある神の意志への絶対的従順が忘れられて、「神に選ばれている人間ならば、こうなるはずだ。だから、そうしようか」という人間の思惑や推測や欲望が、入り込んでいましたね。

人間は、どうしようもなく、自分の欲望からしか物事を考えられないのでありますよ・・・

カルヴィニズムは、「人間の欲望や思惑の外部にある神の意志」を、あらためて認識させたのではありますが、その教えの純粋なる過酷さゆえに、最初から、掘り崩されるはめになったのでありますね〜〜

神中心というのは、ありえんわけよ。人間世界は、どこまでいっても人間中心よ。人間の欲望に引きずり回されるのよ。

でもって、そのカルヴィニズムに対する批判として生まれたキリスト教新解釈のニュー・ソートは、「この世界は神が造ったのだから、もともと完璧なのに、不幸や悲劇が存在するのは、この世界の完璧さを信じないあなたのせいだ。あなたの心の影が、あなたの病気や不幸を生み出すのだ」と言ったのですから、もう、神様は遠景に遠ざけてしまいました。臆面もなく人間が前景化されております。あからさまに人間中心です。

「あなたの心の影が、あなたの病気や不幸を生み出すのだ」とは、「人間の思うことが、現象になっちゃう」ということです。つまり、「戦争が起きるかもしれない」と口に出したり、思ったりすると、戦争が起きる、という発想です。「こっちが何とも思ってなくても、状況によっては戦争に巻き込まれる可能性もあるから、安全保障については準備しておかないと〜〜」と言うと、そんな準備したら、ほんとに戦争に巻き込まれるから準備もしちゃいけない!と言う発想です。

思うとは、心の中で言語化するということです。言葉にすると、口に出すと、実現するというのは、言葉には霊魂があるから、その言葉を発すると、その言葉が物質化されるということであります。そーいうのを言霊(ことだま)信仰と呼びます。

まさに、アニミズムですね〜〜正確に言えば、似非アニミズム。純粋アニミズムは存在しない。寂しいときに見る月が寂しそうに見えるようなもので、人間がモノを見る場合は、どうしても自分の欲望や心象をモノに投影してしまいます。モノ自体に、自分の感情を超えた思いを持つことができません。純粋な透明な眼差しで、モノを見て、モノに敬意を持つなんてことは、できません(と、思う)。だから、アニミズムは不可避に似非アニミズムにならざるをえません。

口に出したことが、物質化するならば世話ないですわ。「私の身長170センチ〜〜〜」と私が言い続ければ、身長155センチの私が身長170センチになるのかよ。「私の体重58キロ〜〜」と私が言い続ければ、私の体重が58キロになるのかよ。私の細胞が、私の言葉を聞いて変質するのかよ!するか、そんなもん!

「世界から戦争と飢餓と拷問と貧困と冤罪と搾取が消えた!」といい続ければ、この世界から戦争と飢餓と拷問と貧困と冤罪と搾取が消えるのかよ。消えるか、そんなもん!いやいや・・・そんなことない。私がスリムになるよりは、まだ、こっちのほうが実現可能性はある。駄目でもともとだから、もっともっと言い続けよう・・・

こーいう、言霊信仰的(似非)アニミズムの恣意性、主観性、混乱を排して、厳密なる客観性を保持すべく、世界を混乱から守る掟(おきて)を立てるべく、唯一絶対一神教を立ち上げたのかもしれないのにねえ・・・人類に、客観性なんて、掟なんて、まだまだ早い?永遠に早いのかも。

では、次回は、このニュー・ソートが、ポジティヴ・シンキングへと変化し、さらにさらに通俗化し、ついにはアメリカ合衆国の知的劣化を促す脳萎縮促進性慣習となっていったプロセスを見ていきましょう〜〜♪

なんて言って、続編、いつ書けるんだか・・・

そういえば、今朝、変なメイルが来ていました。アメリカのAtlas Societyっていうアイン・ランド研究系団体からのメイルです。なんと、そのメイルは、私が2001年4月に、その団体に問い合わせたメイルの返信だったのです。

2001年4月というのは、私がアイン・ランドの小説The FountainheadAtlas Shruggedをんで、お〜〜と仰天して、アイン・ランドに関してネットや文献で調べまくっていた頃です。ついでに、ネットで検索したアイン・ランド系団体とか研究所に、かたはしからメイルで問い合わせしていた頃です。アイン・ランドの著作の日本での版権取得状況について調べていた頃です。

その返事が、本日2010年の6月13日に届いたのです。2001年4月に送信したメイルの返信が、2010年の6月13日に届いたのです。

内容は、「お問い合わせ、ありがとう。うちの団体は、アイン・ランドの著作について、全く権利がなくて、情報も持ち合わせていないです。申し訳ないです。でもAnthemは、合衆国では版権がないから、これは、あなたが自由に訳していいです。うちのサイトのアイン・ランドに関する文章も好きに訳していいです。そのかわりに、あなたの翻訳文をうちのサイトが掲載してもいいよね」というものでした。

文面は、フレンドリーでした。感じ良かったです。それにしても、どーいうこと? さっぱり、わけがわかりません。

初夏の梅雨入りの日曜日の朝の不思議でありました。