アキラのランド節 |
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「共生の思想」に御注意!(その2) [12/19/2010]今回から、ランド節はもっと短く、もっと頻繁(ひんぱん)に書く!ということにしました。断じて、そうするのだ!かなあ。 前回からの続きです。その前に、前回のランド節で言及した「主婦の方々12、3人の集まり月1回開催自主ミニ講演会」について報告させていただきます。 先週の土曜日11日の午後に行ってきました〜〜集まった方々は、16名でした。思いっきりお話させていただきました。脱線が多くて、用意したハンドアウトに書いてある事柄の半分しか話せなかったので、2月にまたお話しさせていただくことになりました。 その主婦の方々の自主運営ミニ講演会は10年も続いているそうです。私は仰天しました。10年も?!毎月必ず1回のミニ講演会を開くには、講師の探索手配交渉接待に、会場の手配に、会場を借りる費用や講師謝礼や講演会での茶菓代の費用徴収(会計)と、会員への連絡網形成が必要です。それを10年続けてきたのです! 講師謝礼は、必ず1万円で、交通費は出ませんから、講師の選択の条件も厳しいです。「この人なら、気楽にヒョコヒョコ来るんじゃないかなあ〜〜」なんて、見定めないといけません。 会員の方々の強い意志と向上心と知的好奇心と、何よりも互いの協力がなければ、こんなことできません!プロの研究者同士の勉強会だって、毎月1回10年続けることができるのは、稀有なことでしょう。 私は、その会のリーダー格の女性に、根堀り葉堀り、結成の経緯や運営法を訊(たず)ねました。会費はいくらか?とか。仲間割れとか派閥とかできないのか?とか。適当な講師をどうやって探し出してくるのか?とか。ろくでもない講師はいなかったか?とか。 もともとは、みなさん、某大学の市民講座参加者だったそうです。互いに見知らぬ30人ほどの女性たちが市民講座で出会い、市民講座終了後も、その某大学の教授の方のお話をうかがう勉強会を始めたのだそうです。その教授の方は、折に触れて、いろんな研究者の方を紹介し呼んで下さったそうです。それが3年ほど続いたそうです。参加者のほとんどは、大阪や大阪近辺在住の、ひとまず子育てを終えた主婦の方々でした。 そのうち、中心になっていた教授の方が一層にご多忙になり、その勉強会が解散しそうになりました。その時に、「いつまでも先生に甘えていてはいけない!これからは私たちでやりましょう!」ということになり、自主的に運営していくことになりました。 それから以降は、人間集団ですから紆余曲折があり、じょじょに固定メンバーが、30人から14人に絞り込まれていったそうです。自然淘汰ですね〜14人の勉強会は、毎月第3金曜日の午後に講師を呼んでの勉強会という今の形式に、次第に落ち着いていったそうです。 年会費は7000円。毎回の参加費が700円。飛び入り歓迎。飛び入りさんは参加費700円のみ。私がお招きいただいたときも、2人の飛び入りの方が参加しておられました。おひとりは書道家。もうおひとりは、25年間パリで通訳をなさっていて帰国したばかりだそうです。メンバーのなかには、50歳過ぎて某公立大学の大学院に入学し、映像文化の研究をしている方もおられます。うわお、大学院生か。大変だ〜〜♪ この会に男性も入会できますが、今のところ男性会員は80歳(最高齢)の方のみです。紅一点ならぬ白一点、ハーレム状態だなあ〜〜♪と思うのは、下司(げす)のかんぐりであります。 女性ばかりの勉強会だからといって、自分が仕切りたがったり、威張りたがったり、するタイプの男性は、この会では相手にされません。そんな男は、カネ払って、難波(なんば)のキャバクラでお守りしてもらえって。タダで、努力もしないで、不細工なまんまで、マナーが悪いまんまで、女からお守りされようと思う根性が貧乏くさいわ! 会の結成以来、今年で10年が経過したので、会員の方々は、プロのカメラマンに「結成10年記念写真」を撮ってもらったそうです。ピンクのウイッグをかぶり、プロにメイクをしてもらい大変身しての記念撮影。ついでに、その写真を切手にしたのです。さすが、大阪の女性です。遊び心あります。 メンバーのみなさんは大変に気持のいい方々ばかりでした。熱心に私のいい加減な話を聴いてくださいました。ミニ講演会の終わったあとに、会場近辺のカフェでお茶したときは、私は、しっかりとアイン・ランドの宣伝もさせていただきました。ははは。だって、アイン・ランド伝播(でんぱ)こそが、私の魂胆ですがな。 正直言いますと、その「主婦の方々12、3人の集まり月1回開催自主ミニ講演会」で、私がお話したことは、ふつうの当たり前のことばかりです。既成の大手メディアからの情報には飽き足らず、ネット言論や書籍から情報を得ることを習慣にしている方々にとっては、当たり前の常識ばかりです。 ですが、参加者の方々は、かなり驚いておられました。フリーメイソンリーやイルミナティから、CIA(アメリカの中央情報局) は、スパイ映画に登場する「よくわからんもの」ではなく、日本の政治資金、活動資金の出資先でもあったし、日本国内の騒乱(安保闘争とか)の筋書きを描いたこともあるし、TVで活躍するデヴィ夫人の夫であるインドネシア(元)大統領スカルノ(これでフルネーム。1901-1970)を失脚させた軍事クーデター(1965年)の黒幕でもあったし、CIAの活動資金(陰謀工作資金)は、税金では全部まかなえないので、南米各地で作らせているコカイン密売から得ている、なんて話から、最近のWikileaksのジュリアン・アサンジ(Julian Paul Assange:1971-)氏逮捕事件や、北朝鮮の韓国砲撃事情に関してまで、いろいろ言及しましたが、みなさん大いに食いついてくださいました。 私たちが、当たり前の前提としている「日本はアメリカの属国だから、自前の政策なんか実行できない。日本の政変は、覇権国を中心とした世界情勢の派生物だ」という常識は、10年間もミニ講演会という自主勉強会を続けてきた聡明な主婦の方々にとってでさえ、未知の情報だったらしいのです。まだまだ情報格差があるようです。 ところで、ミニ講演会から数日経った日に、私がリーダー格の女性にお礼がてらお電話したときに、その方がおっしゃいました。「センセイ、私たち交通費はお支払いできないんですう。福山から大阪に来ていただくとき、センセイ、どうしましょう?」と。どうしましょうって・・・・ 思わず、私は、「福山から名古屋に帰るときに、新幹線を新大阪で降りますから、大丈夫です」と、答えていました。来年の4月に、広島県は福山市立大学に私が転出した後も、「私たちの勉強会」に来て、なんか話しなはれ、ということかな? 講師は、毎回違うというわけではないそうです。講師によっては、定期的に依頼することもあるそうです。この「大阪主婦グループ毎月1回自主運営ミニ講演会」とは、ひょっとしたら、おつきあいが長くなるかもしれません。おもろ。 素直で育ちのいい女性ほど、無駄に優雅な(似非)インテリ高級文化与太話に騙されやすいです。既成の大手メディアの威光に弱いです。女性は、ほんといいカモになりやすい。女性にこそ必要なのですよ、真実は。私の話をきっかけにして、数は少ないが、この日本でもちゃんと発信されている良質の「真実暴き言論」にアクセスしていただきたい! さて、やっと本題です。「共生という思想」にご注意!です。 最近、やたら「共生」って言葉を聞きます。よく耳にしたり、目にするようになったのは、ここ10年くらいかな? 「共生」とは、「共に生きる」ということです。共に生きる。ともにいきる。トモニイキル。なんか、いい感じですよね?前提として、肯定的で前向きで、100パーセント善きことの感じ。 でも、違うのです。甘いもんじゃないのです、「共生」というのは。 ある日本語の言葉の意味を明らかにしたい場合は、頭のゆるい前近代的な傾向が濃厚に残る日本人のテキトーな定義よりも、英語とかの世界基準語(?)に頼るしかないので、まずは、そこから始めましょう。 共生の意味に対応する英語はsymbiosisです。『ブリタニカ百科事典』(The Britannica Encyclopedia)によりますと、このsymbiosisは、「ふたつの違う種に属する生体間にある生き方の取り合わせのことで、その種類には片利(へんり)共生と相利共生と寄生共生がある」(Any of several living arrangements between members of two different species, including commensalism, mutualism, and parasitism)と説明されています。 はい。「共生」symbiosisというのは、もともとは生物学用語です。 片利共生(commensalism)つーのは、例でいえば、サメとコバンザメの関係です。コバンザメは吸盤でサメの背中かなんかにくっついています。サメが餌を食べるとき、食い散らかしたり、食い損ねたりした餌の食べ残しとかの破片を、コバンザメは食って生きています。コバンザメは、自分で餌になるような生き物を捕まえることはできません。サメにくっついていないと餌にありつけない。 一方、サメにとっては、コバンザメと共生しているつもりなんか、なんもない。どうでもいい。意識もしていません。でも、コバンザメにとっては死活問題。これが片利共生です。片方にとっては利益があるが、もう片方にとっては利益もなければ損もない関係です。 相利共生(mutualism)つーのは、相互扶助のことです。これは、ふつーの助けあい、協力関係です。ぶっちゃけて言えば、共依存ですね〜働き者で、勤務先では出世コース驀進(ばくしん)中の御亭主と、子を育て家事に勤しむ家庭を守る奥さんの関係。互いが互いにとって利益があり、互いが互いに依存している。互いがいなければ生きていけない関係。 でもって、驚くのが寄生共生(parasitism)。宿主―寄生体関係です。これも「共生」なんです。意外でしょう? 進化の過程を長く経た違った種の間にある「宿主―寄生体関係」だと、寄生体も進化して賢くなっているので、宿主がなるたけ長生きするように寄生度を加減します。宿主にあまりに害がない程度に寄生します。宿主が死んだら、もともこもないから。なるたけ宿主が長生きしていた方が、寄生体にとって都合がいいから。別の宿主を探すのも面倒くさいし。 たとえば、稼ぎのいい御亭主をもった金使いの荒い奥さんは、ちゃんと御主人を大切にして、御主人の健康管理に留意しないと、金づるが早く死にます。かなり保険金をかけておかないと! 種としての歴史が短い経験の蓄積のない寄生体だと、壊滅的に宿主に害を与えて、自分で自分の首を絞める。アホや。 たとえば、これは、常時失職中の家庭内暴力の亭主ですね。自分の無能を直視せずに、自分の劣等感や負け犬意識の鬱屈(うっくつ)を、奥さんにぶつけて、殴り蹴り倒して、ついつい奥さんを死に至らしめちゃったというような。 もしくは、引きこもりの30代の息子が、「いい加減に働いたらどうだ!いつまで親の寄生虫やってるつもりだ!」と父親に怒鳴られて、頭に来て、父親を金属バットで殴り殺して、刑務所に入って、国家に寄生して、出所して、今度は母親に寄生して、ついに 母親が亡くなったことを秘して、年金を受給し続け、ついにはそれが発覚しても、人権弁護士さんの尽力と精神科医師の証言により無罪となり、釈放後は生活保護を受けて、また国家に寄生していたら、ある日、小さな女の子に出会い、ささやかな光が心にともったのではあるが、幼女に触れたら、その幼女が大きい声を出したので、びっくりして首締めたら、すぐにグッタリして幼女は死んでしまい、それで逮捕されたのだが、やはり理解ある人権派弁護士と精神科医師が・・・・しつこいわ! ともかく、「共生」には、「宿主―寄生体関係」も含まれるのです。さきのブリタニカ百科事典の説明によれば、「共生」というのは、「ふたつの違う種に属する生体間にある生き方の取り合わせ」なのだから、いろんな生き方の取り合わせの中には、宿主―寄生体関係があるのも当然なのです。 「共生」というのは、単に文字通り「共に生きている」ことであって、それ以上でもないし、それ以下でもない。「共生」にしろ、「共存」にしろ、ただ、「同時に生きている」という意味でしかない。単に時間と空間を、いっしょにしているという意味でしかない これが、本来の、ほんとうの「共生」の意味です。 ところが、なにゆえか私たちは、「共存」とか「共生」というと、あらかじめ前提として、文句なく良きこと、ウィン・ウィン・ゲーム(win-win game)だと思い込んでしまいます。「共に」ということ字面に、何やら情緒的な一体感みたいなものを感じてしまいます。「共生」というのは、「相利共生」しかないと無意識に思いこんでしまいます。 しかしながら、これは日本人によくある類の頭のゆるい現象ではないのです。なんとなれば、Oxford Dictionary of Englishを調べてみますと、symbiosisの意味はふたつありまして、ひとつが、『ブリタニカ百科事典』に書かれている意味であり、もうひとつは、いわゆる「相利共生」「相互扶助関係」だと書いてあるからです。 日本でだけ、共生の意味がキレイ事であるのならば、特に問題はありません。ああ、やはり日本人は、きちんとひとつの言葉の意味を確認する厳密さが欠けているのねえ〜〜日本人って前近代的よね〜〜真に学問的じゃないわね〜〜はっきり言って馬鹿だよね〜〜だから、アメリカからも中国からも韓国からも北朝鮮からもロシアからも馬鹿にされてんのね〜〜♪で、すんでしまいます。 英語圏においても、生物学用語の共生(symbiosis)が意味するところの冷厳さ(=共生というのは、違った種が、単に時間と空間を共有しているだけで、その違った種どうしが否定的関係であろうが肯定的関係だろうが、どうでもいい)が、なにゆえか忘却されています。なにやら「みんな互いに助けあって〜〜〜♪」という意味にシフトしています。ここあたりが、なにやら、うさんくさいのですよ〜〜 これは、意図的なんじゃないの? この「共生」なる言葉の意味の美化は、「生物学用語における違った種の関係のありようを説明する言葉を、人間社会のありようを示す言葉として機械的に使用してしまうときに生じた混乱」という程度の問題から生じたとは、私は思えません。 昨今の「共生」言説のミニ・ブームというのは、「この時代のこの世界に生きていることは、それだけで互いに影響を与えあっているんだい〜〜互いに与えあっているんだい〜〜互いに反目するのはやめようよ〜〜共に生きていこうよ〜〜人間も動物も木々も山々も草花も〜〜」論は、新手(あらて)の社会主義擁護なんじゃないの〜〜? 装いも新たにした全体主義&(庶民の)自由侵害&言論統制&税金という名の国民財産収奪システム全開経済統制国家推進言説なんじゃないの〜〜〜? 社会主義とか、共産主義とか言い出すと、「ソ連や中国で大がかりな人体実験してみたら、社会主義なんて、はっきり失敗だと、人々を苦しめただけだったと判明したじゃないか!実践すると、ろくでもないような思想なんか、いまさら持ち出すな!」と言われて、罵倒されて無視されるので、なんかいい言葉はないかと探して、「共生」を見つけたのではないの? 「共生」とは、粉砂糖まぶして、口当たりのいいクリームたっぷりかけた「社会主義」とか「共産主義」とか「全体主義」なんじゃないの?でも、共生には、「宿主ー寄生体関係」という意味もあったんで、そこんとこは、こっそり知らん顔して、隠すことしたんじゃないの〜〜? 誰が?いや、だからさ、つまり「国民財産収奪システム全開経済統制国家」とか「人類家畜化、新世界秩序」を樹立したい人々と、そのパシリ連中が、ですよ。聞こえのいい言葉に騙される類の人々は、少なくないですからね〜〜 地獄への道は善意から。「共生」に反対する人間なんて、いません。この時代、この地球に生きとし生きる者、みな共に生きることができることに反対する人間なんて、いません。 だけど、共生には、宿主−寄生体関係の形の共存の意味もあるのに、そのことには言及されないってことについては、私は疑うのですよね。なんで、宿主−寄生体関係の形の共存の意味を、共生の定義から、何気なく、はずすの?それは真実なのに。 共生、共生と声高に言う奴って、実は、「寄生虫としてでしか生きていけない生命体には、寄生させろ!」と言いたいのではないの?ならば、なんで正直に言わないの? ならば、こちらも言い返しようがあります。交渉のしようもあります。「そうか、わかった!あんたら、寄生虫としてしか生きていけないんだ。そうか。カッコ悪い〜〜でも、そうとしか生きていけないのならば、しかたない。死ね!とは言わんよ。ならば寄生させてやる。そのかわりに、宿主に必要以上の害を与えないように、気を使って、隅っこで、小さくなってなさい。人さまに迷惑かけないと生きていけないのだから、人権だの何だの、一丁前の口はきいて騒ぐのはやめなさい。おとなしくしているなら食わせてあげる」と。 いや、共生、共生と、やたら言い張る連中は、もしくは頭のゆるい学者あたりに言い張らせている連中は、「寄生虫としてでしか生きていけない生命体には、寄生させろ!」と言いたいのはなく、「お前らは、俺らに搾取されるために生きてんの!黙って、宿主やってろ。殺さない程度の寄生してやるからさ。長く生きて働けよ」と、内心は言っているのかもしれない。 要するに私が言いたいことは、こうです!「共に生きる」ってのは、必ずしも相互扶助的ではなく、一方的に搾取される寄生されることもあれば、寄生することもあるような類のものなんだよ、と。キレイ事ではないのだよ、と。 「この時代のこの世界に生きていることは、それだけで互いに影響しあっているんだい〜〜互いに与えあっているんだい〜〜互いに反目するのはやめようよ〜〜共に生きていこうよ〜〜人間も動物も木々も山々も草花も〜〜」という類のことを、どうでもいいような人文系の学者あたりなら本気で信じていていいけれども、ふつーのまっとうな労働者の庶民は、本気にしないほうがいいよ、と。 「共生」「共生」なんて、やたら言う奴は、新手(時代遅れの?)の社会主義者であり、全体主義者であり、国民から税金という名で収奪することしか思いつかない類の政治家や役人と同じ発想の寄生虫体質かもしれないよ、と。 どっちみち、この時代のこの地球に生を受けている生き物は、互いに互いを傷つけようが、搾取しあおうが、助け合おうが、死なない限りは、「共生」している。それだけのことです。 共に生きているから助け会うのも真実。共に生きているから、互いに対して用心すること、決して油断しないことも真実。人間は素晴らしい事も成し遂げるけれども、ろくでもないことも真実。どんな高邁なこと言っても、人間がカネと性欲で動く生き物であることも真実。自分のことしか考えていないことも真実。 だからこそ、救いがあります。少なくとも、金銭欲(物欲)と性欲と自己利益を満たせることができれば、折り合いをつけることができるのですから。ならば、交渉(negotiate)できますから。それが外交だ! 現実から真実から目を逸らさない人間にとっての「共生」とは、寄生虫体質ならば宿主が早く死なない程度に寄生すること、です。どうしても寄生虫にとりつかれる立場ならば寄生虫に好きに搾取されない程度に寄生虫を牽制し、ついには寄生虫なんかなんともない程度にまで自分を鍛え(片利共生)、他者と自分の間に共通の利益を見出せるように、ともかく生き続けることを目標として折り合いをつけていくこと、です。 「共生」という聞こえのいい言葉で、人間が共に生きていくことにまつわる様々な「えげつない」ことが消えるわけではありません。だから、「共生の思想」にご注意! ところで、つい最近、副島隆彦氏の編著である『日本のタブー 悪魔の用語辞典2---むきだしの真実ほど恐ろしいものはない』(KKベストセラーズ、2010)が出版されました。副島氏のお弟子さん16人との共著です。あ、すみません。私も、厚かましく寄稿させていただきました。「教育」の項を書かせていただきました。お気が向いたら、読んでやってください。 そうです。この本は、去年出版された『悪魔の用語辞典---これだけ知ればあなたも知識人』(KKベストセラーズ 2009)の続編です。 はっきり言って、続編の『日本のタブー 悪魔の用語辞典2---むきだしの真実ほど恐ろしいものはない』のほうが面白い!はるかに面白いです! たとえば、昔から現在にいたるまで「優生思想」を持つ支配層によって繰り広げられてきたし、繰り広げられつつある人口削減のあの手この手や、製薬業のうさんくささや、石油は人工的に作ろうと思えば作れる無尽蔵の炭化水素であって、実は生物由来の有限資源ではないといった衝撃的な真実が書かれています! 『日本のタブー 悪魔の用語辞典2---むきだしの真実ほど恐ろしいものはない』の冒頭9ページに、副島隆彦氏はこう書いておられます。 (引用開始)世の中(世界)は、経済法則、お金の法則で動く。それを無視して、キレイごとを言うべきではない。私はそのように決めた。常に本当のことを言うべきだ。そうしないと世の中が明るくならない。世の中(人間の世界)は穢い(きたない)ことで満ちている。この穢らしいことを表に出して語る(書く)べきだ。すなはち、タブー、禁忌(きんき)にされて隠されていることに、びしびしと光を当てる。あえて表に出す。隠し立てをしない。さらけ出す。そうすることが、本当の知識、近代学問(サイエンス)のあり方だ。それに対して、そういう穢らしいことや、醜いことや、恥ずかしいことは隠すべきだ。わざわざ表に出す必要はない、と言う人々がいる。私はそうは思わない。人々が半ば意識的に隠していることを、故意に表に出すべきだ。そうしなければ、学問や思想の存在する理由(レゾン・デートル)はない。 (引用終わり)いや、ほんと、この年になると、もう真実にしか興味がないです。読みたいのは、真実だけです。Non-fictionだけです。Fictionは、アイン・ランドの小説だけでいいです。それで充分です。はい。 やっぱり、今回のランド節も長くなってしまいました〜〜 |