アキラのランド節

日本の大学も変わるぞ  [01/05/2011]


明けまして、おめでとうございます〜〜2011年の、みなさまの御多幸と御健康をお祈りいたします。名古屋のお正月3が日は、お天気のいい穏やかな日和でした〜〜♪明日から、私は、また出稼ぎに大阪に戻ります。怒涛の労働が再開します。

今年こそは、「ランド節は、もっと頻繁に、もっと短く」をめざす。となると、文体もちょっと変わってくるかも。

本日の話題は、「日本の大学も、やっと変わるぞ。もう始まっているからね」です。 私は、教師やって食っているので、どうしても教育問題に関心が向くのは、しかたないっす。

副島隆彦編著『日本のタブー 悪魔の用語辞典2---むきだしの真実ほど恐ろしいものはない』(KKベストセラーズ、2010)の「教育(education)」の項において、「学校って場所は真実を伝える場所じゃない。教育機関設置者の価値観伝播のための知識を伝える洗脳装置だ。真実を知りたいのならば、自分で探求せい。学校に期待するな」みたいなことを、私は書いた。

確かにそう書きはした。けれども、日本の学校が、このままでいいなんて、私は全く思っていない。特に、日本の一般的な文系大学というところの、時間とエネルギーのあまりの浪費には、空恐ろしい思いがしている。理系は知らないので、知らない。

小学校や中学校や高校のことも知らない。知らなくても、今どきの公立小学校では、学級崩壊なんか珍しくないと聞くと、暗澹(あんたん)とする。公立小学校や中学校の先生が、「ここんところは塾でやっといて」と言いながら、教科の説明をおざなりにする という噂を聞くと、たとえ噂でも、「おい、おい、おい、自分で自分の首をしめんじゃねーよ」と思う。教師が、教室で手を抜いたら、もう後は何も残らないから。

どんな理由にせよ教師になったとしたら、幸福でいたいのならば、メイッパイ教師をやるしかない。職業的良心?違う、違う。退屈の問題なのよ。

メイッパイ教師やらないと、自分が一番つまらない。私自身が、テキトーにさぼっている教師だからこそ、そのことは、よ〜〜くわかる。そ〜いうもんなのだよ。教師が、自分の人生を面白くしようと思うのならば、開き直って、教師をメイッパイやるしかないのだよ。そ〜〜いうもんなの。

だって、教師って職業は、特にカネになるわけでもないんだからさ。自分がやってて楽しいということ以外に、何の楽しみがある?人さまが、成長していく過程に、いささかでも肯定的な意味で関与できるという密かなヨロコビ以外に、何がある?教師という「足ふきマット」を踏みつけて乗り越えていく人さまが、「足ふきマット」のことを忘れたっていいんだよ。私みたいなもんでも、人さまの「足ふきマット」ぐらいにはなれたんだな・・・よかったな・・・ありがたいな・・・という充足は、誰のものでもない、私自身のものだからね。けけけ、ざまあみろ。

だから、塾に生徒や学生を下請けに出して平気な教師は、それだけで、自分の幸福と充実を手放している。自分の人生を台無しにしている。教師ってのは、教室(教え伝える場所)で教えているのが、一番嬉しくて、充実していて、一番元気なのだ。そうでない教師というのは、自分の居場所から逃げているのであるから、この世界のどこにも居場所がなくなる。

ところで、今の公立小学校でも、全科目をひとりの先生が教えているの?まさかね。国語も教えて、理科も教えるって、無理じゃない?現在の日本人の理数系人材不足とか、教養不足って、小学校の時に理科の面白さや、読書の面白さを教えられなかったことが原因でしょう?

そりゃ、たまたま親に恵まれれば、学級崩壊ばかりの小学校でもガキは何とかなるかもしれないけれども、誰もがほんとに知的な親に恵まれるとは限らない。いい年して、厚化粧のオネーチャンのいる店でカラオケで、しょうもない歌を上手に歌うのが楽しみであるような水準の父親しか持てなかったガキとか、化粧とブランド品しか関心のない母親しか持てなかったガキは、小学校でこそ、辞書の引き方、辞典の調べ方、モーツアルトとバッハの違いを学ぶことができるんだぞ。

ろくでもないインスタント食品しか食べざかりの子どもに与えない大人しかいない家庭のガキだって、給食があるからこそ、成長期に必要な栄養の最低限は摂取できるんだぞ。家庭科の調理実習で、料理ってものを学べるんだぞ。

公立小学校の機能は大きいんだぞ。理数系に進学する日本人の数が減っているというのが事実か、単なる風評なのか、私は知らないけれども、もしそれが事実ならば、原因は、公立小学校の理数科のクラスが面白くないからだよ。小学校で、理科や算数を教える先生は、それをきちんと専門にした人物で、かつ熱意があって、愛情があって、わかりやすく説明できる人で、かつ工夫しようと試みる才能のある人でないと駄目だよ!日本の知的劣化を防ぐには、優れた(義務教育向き)理数系教師の育成が大事だよ!

私は文系人間であるが、長じて、中年になってから、あらためて自分で理科とかを勉強しなおしたときに、「こんな面白いこと、なんでもっと小学校や中学校で、わかりやすく教えてくれなかったのかなあ・・・私みたいな頭の鈍いガキでも、わかるように説明してくれていたならなあ・・・ならば、こっちの方面に進んだ可能性もあったのに・・・少なくとも、もっと私の知識はバランスのとれたものとなり、包括的なものとなり、生きているのがもっと面白かったに違いないのに・・・まあ、科学的事実というのも文学と同じくらいに恣意的なもんであるとはいえ・・・」と恨めしく思ったものだ。

今のまんまならば、もうここまで機能不全の義務教育なんかやめちまえ。塾に学習を下請けにしている奴らなんか失業しろ。塾の先生に教育やってもらえばいいわい。文部科学省が定めたカリキュラムに縛られずに、各塾で、どんどんそれなりの教育方針を打ち立てて競えばいいわい。で、子どもと親は、気に入らなかったら自由に塾を変えればいいんだ・・・なんならば、私も自分の学校作っちゃおう・・・親がバカならば、全寮制にして私が面倒みる!と密かに思ったので、私は、このランド節の2008年8月2日号に「猛暑の妄想---さよなら、義務教育 」という文章を書いた。

とはいえ、やはり公立の義務教育というものの使命、重要性に対する未練は、大きいのですよ・・・

しかし、とにもかくにも、私が知っている教育現場というのは、ふつーの文系私立大学だけだから、ここでは、その方面のことしか書かかないです。って、相変わらず、長い前置きだな。

私は、常々、以下のようなことをしないと、大衆大学における大衆教育は機能せんわ、意味ないわ・・・と思ってきた。では、機能する意味ある大衆大学教育を成立させる条件とは何か?

(1)人文(食育、体育含む)、社会科学、自然科学を網羅した教養教育の徹底。 なぜならば、日本でフツーの家庭に生まれて、フツーに育つと、まるっきり無教養なまんまで大学に入るから。 なんも知らないサルのまんまだから。資質がいくら良くても、きっかけ、機会、というものがないと、その資質も開花せんよ。

(2)学生は全員、寮生活が原則! 可能ならば、教師も寮がいいな。特に学長と事務局長(アメリカみたいにManaging Director, Vice-President副学長とすれば、ちょっとはその責任の大きさ重さがわかるんじゃないの?)は学内に住むべし。

通学時間が2時間とかの学生が、うちの大学にも少なくないが、通学時間往復4時間にアルバイトがはいったら、いつ勉強するんだ?いつ本読むんだ?授業が終わったら、サッサと帰るなんて、おかしいでしょう?!アパートメント借りての下宿だと、引きこもっているだけの奴が出てくるし、ろくなことしませんわ。ろくでもないことしたかったら、卒業後にすればいいんだよ!性交なんか、大学卒業してから学習するぐらいで、十分OKだよ!ガキのくせに、しょうもないことばかり、サッサと学びやがって、まったく!私なんか、そんなチャンスもなかったぞ!誰も寄ってこなかったぞ!あ、いや、いや・・・・

(3)学生食堂は、朝の7時から夜の8時まで無休開店。 ならば、授業は朝の8時半から開始でもOK。夜でもOK。食事の心配しないで、するべきことに集中できる。

(4)図書館は、年中無休、朝の8時から夜の12時まで開館。 あたりまえだよな、ほんとに。休暇とか休日に休館の図書館なんか意味ないわ!

(5)教職員は契約更新年収制。 野球選手と同じにする。今の大学の教職員は、一度採用されたら、いかほどに無能だろうが、さぼろうが、終身雇用であります。病気で休職しながら、論文や著書ばっちり書いている奴もお咎めないし、同僚に雑用押しつけて教授会も委員会もさぼってる奴もOKだし、学生評価アンケートを実施しない教師もOKだし、教育現場の改善改良に協力せず、嫌がらせばかりしている職員もOKだし、500名の受講生のクラスの担当だろうが、5名しか受講生がいないクラスの担当だろうが、待遇が同じなんてことはありえないはずだけど、現実の大学は、そうだから。

(6)教師は教えることに集中、管理職と大学行政担当者は管理と大学行政担当に集中。 授業しっかりさせながら、学部長とか教務委員とか、プロの事務職員みたいなことを教師にさせてんじゃねーよ。ふざけんじゃねーよ。

(7)1年生の前期(春学期)は、ひたすら英語訓練。 他の科目はなし。英語で文献がきちんと読めるようになるまで、基礎から訓練。聞き取り重視。作文重視。聞き取れて、読めて書ければ、話すことは大丈夫。このことについては、WEBマガジン『出版翻訳』2010年9月号の、「私は憂鬱な英語教師だったけれども、希望が出てきた(その1〜2)」という文の中でも言及しましたが。

(8)所定の単位が取れない場合は、進級不可。 サボって遊んでいたいのならば、永遠に1年生やってればいいじゃん。遊びたいのならば、大学に来なくていいよ。遊びたいだけの馬鹿なんか相手にしたくないよ、まともな教師は。

(9)全員、最低半年から1年は留学必須。 どこでもいいわ、外国ならば。

(10)学生用トイレと寮の個室は、学生が掃除する。教職員用トイレは、教職員が掃除する! 勉強だけが、仕事だけが人生じゃないよ、人間としてハンパだよ、ということを忘れないために。掃除さぼると、学生は授業料高くなるぞ。教職員は査定に響くぞ。

以上の事項のかなりはアメリカの大学の真似であります。はあ。現在の日本の大学は、欧米の大学制度を真似たとはいっても、真似したのは形だけ。実質は、全く真似してない。実は、これも「日本人クルクルパー愚民化計画」のひとつかもしれないですね〜〜わざと、日本の大学を機能不全にするのが占領軍の意図だったりとか・・・いや、いや、いや、やはり、これは日本人に責任があるよな、やはり。

とはいえ、私が思っているようなことは実現しやしないよな・・・この日本では・・・日本というのは、トコトン追い詰められないと変わらないんだ、自浄作用なんかないんだから・・・何につけても・・・と思いつつ、はや幾歳(いくとせ)。

なんと、私が「大学つーのは、かくあるべし!」と思ってきたけれども、実現することは、まだまだ無理だろう・・・と思ってきたことの多くを実践している大学が、この日本に存在していたのです!!

おお・・・何というヨロコビ。何という驚き。何という希望。

その大学とは、秋田の国際教養大学(公立。入学定員150名。学生総数約760人)です!この大学は、2004年開学以来、急速に高い評価を受けつつあり、2009年度の就職率は100パーセントでした!

就職超氷河期と言われる、この2010年度の就職率は、12月時点で96.2パーセントであります(普通の大学ならば半分ぐらいだ)。今や、東大合格も可能の学力を持つような受験生がこの大学を志望するぐらいの人気大学が、国際教養大学です。

知らなかった・・・・何という迂闊な私。

この国際教養大学の開学の理念は、「国際的に活躍できる人材の育成」(中嶋嶺雄(なかしま・みねお)著『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』祥伝社黄金文庫、2010のp.14)です。

なんとなれば、「国境を越えてグローバル化が急速に進む今日のような時代にあっては、多様な価値観を認め合いながら、さまざまな問題を解決する能力が不可欠だから」(14)です。

しかし、このような理念や理念の根拠などは、特に珍しくも何ともない。いまどきの大学は、だいたいこんな内容を、スローガンにしている。

ところが、秋田の国際教養大学が実に稀有なのは、この大学が、「本気で」この理念を実現させるべく、「本気で」実践しているということなのです!

まず新入生は、入学後徹底的に英語学習する。週20時間みっちり。その後に受講する授業は、すべて全部英語でなされる。日本の歴史、文化、政治、経済、物理、数学、茶道、音楽、体育まで、すべて英語で。専任教員の半数以上は外国人。

1クラス15名の少人数教育。TOEFL( PBT)550点取得できたら、在学中1年間の海外留学をする。提携大学は、海外に111以上。31カ国111大学。1年間の留学は義務&必修。TOEFL( PBT)550点取らないと、必修の留学ができないから、もう学生さんは早く留学せんと必死に英語を勉強する。留学先での授業料は大学負担。その前哨戦&練習として、学生は留学生と一緒に1年間は寮生活するのが決まり。留学生というのは、提携している111あまりの大学からやってくる。

ストレート卒業率50%。それぐらいに、進級&卒業が難しい。ともかく勉強しないと進級&卒業できない。だから、図書館は年中無休で24時間オープン。学生の学習支援はバッチリ。それだけ勉強すると、卒業時点で、ちゃんと「人材」になっている。だから、就職率100パーセント!!

以下は、秋田の国際教養大学の学長であらせられる中嶋嶺雄(なかしま・みねお)氏がお書きになった『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』(祥伝社黄金文庫 、2010)からの抜粋です!

企業が求めているのは、海外に行っても臆することなく自分の言いたいことを論理的にきちんと相手に伝えることができて、相手の主張に対してもしっかり反論できる対人コミュニケーション能力の高さであり、それを裏づける深く広い教養を備えた人材です」(163)。

しかし、教養教育不在の日本の大学は、本来、学士教育で身につけるべき、そうした高い語学力や幅広い教養を備えた人材を育ててきませんでした。企業が、海外からの留学生を含む外国人の採用拡大に動き出したのは、まさにそのためであり、いまの日本には、それだけ即戦力となる優秀な人材が不足しているのです」(163)。

海外留学で、人生の喜びを得ようと思ったら、ただ漫然と海外へ出かけてもダメです。地域研究的視野とは、その地域の言語はもちろん、文化や慣習、宗教なども総合的に把握しようとする視座・視点です。そうした幅広いものの見方、考え方を涵養することこそ、大学の役割であり、学士過程における教養教育なのです。ところが、いまの大学は、外国語の授業も幅広い教養を教える時間も大幅に削られ、その機能を失ってしまっています。(略)こんなことしていたら、日本はますます内向きになるばかりで、はたして21世紀の知的基盤社会を生き抜いていけるのか、心配でなりません」(118)

キャリア教育そのものはとても大事なことですし、国際教養学部でも力を入れていますが、昨今、多くの大学で行われているそれは、あきらかに行き過ぎです。教養教育が不在のまま1年から就職活動の準備では、もはや大学ではなく、ハローワークか就職予備校です。これでは、学生だって世界へ飛躍するための知的好奇心など、涵養できるはずもありません」(116)

しっかり教養教育を行っていれば、海外への関心は自然と向くはずですし、そうした自身のなさや不安なども、ちゃんと乗り越えられるはずなのです。それができず、『海外へ行くより日本にいるほうがいい』となってしまうのは、国が教養教育をあまりに粗末に扱ってきた報い、と言うしかありません」(115)

文科省も国立大学の国際化を進めたいのです。でも、なかなか国立大学は動いてくれない。大学法人化で教特法の縛りが外れても、既得権益にしがみついて改革に抵抗する勢力がいるからです」(99)

採用に当たっては、きちんと教えられるかどうか、必ず模擬授業やって、そのうえで判断しています。欧米の一流大学で博士号を取得した人でも、いざ授業となると、まるで教えられないケースがよくあるからです。にもかかわらず、いまだに日本の大学は、教育実績より研究実績で教員を採用することが多い。要するに、肩書に弱いのです。その結果、十分に教えられない人が大学で教鞭を執る。不幸と言うしかありません」(96)

国際教養大学では、職員も公募です。英語力は必須で、仕事に応じた専門性を備えた多彩な人材が集まっています。これまで、大学ではあたりまえのように、『教員が上で職員が下』という二重構造がありました。しかし国際教養大学では、教員と職員は同格で二本柱。クルマの両輪のようなもので、上下関係は取り払われています。職員のレベルが高いですから、意思決定に事務局長や職員も加わります。また、教職員は三年契約の年俸制を採用しています。更新が約束されない三年間の任期制を採用したのは、あえて安定した身分を保証しないことで、緊張感を持って仕事に励んでほしいから」(97)

そういえば、去年の暮れに、京都大学が全寮制の、授業がすべて英語でなされる学部を開設する予定というニュースを目にしました。どうも、この京都大学の試みは、秋田の国際教養大学の実践と成果から学んだ末のことらしいです。だって、『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』の中に、京都大学から見学が来たって、書いてあったもの。

あの旧七帝大の西の雄の京都大学が、秋田の小さな公立大学に教えを乞いに行ったんでっせ。

うわあ・・・やっと日本の大学も変わるかもしれない。

こんな時代でも、就職率100%の大学があるのだから、就職率100%でない大学は、その結果を、不況のせいにできない。要するに、その大学は、企業が欲しくなるような人材を育てていないということでしかないんだからさ。

公立だから、学生数が少ないから、そのような教育ができるんだとか、公立だから、もともと入学してくる学生の水準が高いから、そういうことができるんだとか、言い訳はいくらでもできるでしょう。ならば、私立大学なんか設立しなければいいよ。

大学という名を冠する教育機関を立ち上げた以上は、その教育機関を、必死で本気で、大学と呼ばれるに値する教育機関にしないとしょうがない。教職員の高給保障場所じゃないんだよ、大学は。

そうでないのならば、「若年失業者暫定的収容所」とでも、組織の名前を変えるしかないよな。

私としては、どこの大学で教えていようと、この秋田の国際教養大学でも教えることができるような水準の教師になることを目指して努力する。

でないと、私の居場所は、この世界のどこにもない。家庭の幸福?無理しない幸福?何言うとんねん。そんなもので人生が充足できるはずないだろーが!人間が生きるってことを、なめんじゃないよ!

でもって、若い大学生のみなさん、「大学で勉強もせず、遊んでいる学生に未来はないと知るべきです」(161)よ。

あなたが今在学している大学が、授業料払うだけ無駄みたいなところであることが明々白々であり、かつ、あなたが、そんな大学にうっかり入ってしまって、その大学の緩い空気に脳を早々と侵されて、クルクルパーになっているとしても、今のあなたは、秋田の国際教養大学みたいな大学が日本に存在し、そこで24時間オープンの図書館で学んでいる同世代の学生が実際に存在するということを知ってしまった!

つまり、あなたが、この日本で、何らかの仕事を得て、この世界で充実した人生を創っていきたいのならば、どこにいたって、あなた自身は、「秋田の国際教養大学の学生みたいな学生」になって、勉強しないとね。

あなたのライバルは、あなたの周りに棲息している「携帯電話いじくっているだけの大学生とは名ばかりの小動物みたいな亜人間」じゃないんだよ。

でもって、オトナのみなさん。日本の大学も、やっと変わり始めました。我々が通過した類の場所が大学と呼ばれることはない時代が始まりました。秋田の国際教養大学で訓練されたような若い人々が、これから少しずつ増えていきます。確実に増えていきます。その若い人々の足を引っ張るような「前近代的な旧日本人」のまんまでいると、誰よりも自分自身が退屈で惨めになりますよ〜〜

私たちオトナこそ、心と脳の中に、自分自身の「秋田の国際教養大学」を立ち上げて、勉強しましょう。私たちの姿勢こそが、若い人々を、「秋田の国際教養大学の学生さんのように学ぶ人間」にする契機となるかもしれません。

この秋田の国際教養大学学長中嶋嶺雄(なかしま・みねお)氏の『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』は、去年の大晦日の日に必死で年賀状を書きあげて、郵便局に投函して、産土(うぶすな)の川原神社に2010年の御加護の御礼参拝の帰りに立ち寄った書店で、たまたま目に入って購入したものです。

いやあ、この本を、お正月に読めて良かった!!日本みたいな「本気さ」の欠けた、「大学教育ごっこ」ばかりしているような国でも、その気になれば、大学らしい大学は実現可能なのだと知った!

今年のお正月の大きな収穫は、この本を読めたこと。これも、10年ぶり以上に、ちゃんと年内中に年賀状を出した私のささやかな努力への、神様からの御褒美でしょうか。

みなさま、本年2011年も、「日本アイン・ランド研究会」をよろしくお願いいたします!

やはり・・・まだ長いよなあ・・・