アキラのランド節

来年3月に福島は裏磐梯で講演する件  [10/02/2011]


みなさま、お久しぶりです。

「これからランド節は、短い文を頻繁に書きます」なんて言っておきながら、なんも書かずに、更新は滞るばかり。「何でもそうじゃん、口だけじゃん」と、どこかで聞いたような台詞で、亭主から罵倒された。ついには、このサイトの管理人さん(桃山学院大学OB)からまで、責められた初秋。

唐突に宣伝させていただきます。佐々木一郎氏主宰の「東京アイン・ランド読者会」が、来年2012年3月24日土曜日午後に「福島県裏磐梯」で、第3回目の集会(?)を開く。その集会で、私が講演することになった。

講演会後は、希望者は会場であるホテルに宿泊し、懇親会でもある夕食後は、アメリカで4月に上映されたAtlas Shrugged Part1のDVD(11月にアメリカで発売される。予約した!!)を、みんなで鑑賞しましょう〜〜♪翌日は、好き勝手に磐梯高原あたりを観光しましょう〜〜♪五色沼もありますよ〜〜♪という計画だ。

3月末ならば、まだ福島は寒いに違いない。そんな寒い時に、今年の3月11日に、地震と津波のみならず、東電核分裂力発電所事故の恐怖と不安と混乱と、その後の風評被害に襲われてきたのだ、福島は。黙祷。

まあ、来年の3月にまた「地震に津波に、東電核分裂力発電所事故」が福島を襲うことはないから(核分裂力発電所マフィアの人々にのみ襲いかかっていいよ)、みなさまご安心ください。寒いぐらい、どうということはない。戦地の兵隊さんのことを考えれば・・・ だって福島は、今も「戦時中」だ。この「戦争」が収束するのに、終わるのに、何年かかるかわからない。

来年の話なのに、何事にも手際のよい佐々木氏は、参加フォームまで、すでに作成しておられる。

佐々木氏は、Facebookにも、「東京アイン・ランド読者会第3回集会」の進捗状況を掲載しておられる。Facebookに、その他にも、やたらアイン・ランド関連のコーナーを設けておられる。

なんで、会場が東京ではなく、「福島県裏磐梯」になったのか?それは、私が、9月の8日から10日まで、福島県にミニ旅行、初秋の独り旅をして、福島県が好きになったから、である。つまり、私が「講演するなら、福島の裏磐梯あたりで・・・」と勝手なこと言ったから、である。すみません。

というわけで、ご興味のおありになる方は、ぜひともご出席くださいませんか。ついでに裏磐梯で一夜を共に過ごしましょう。ほほほ。

講演をするとなったら、私は、きちんとやります。当り前ですね〜〜少なくとも、退屈な話はしない。退屈は私が最も嫌うところだ。かつては、文学系の学会の発表でも、発表終了後は、「とても楽しいお話でした〜〜」と言うお言葉ばかり、聴いて下さった方々から、いただいてきた。私は、漫談をしたつもりは全くなかったが。

なにしろ、女の話を30分黙って聴いてくれる場所なんて、学会ぐらいしかない。世間というのは、男の話は、つまらん話でも聞くが、女の話は3分も聞かない。特にオバサンの話なんか、聞くふりさえもしない。そーいうもんなのよ。そーいうことに対して、性差別とか何とか言ってもしかたない。だから、学会発表のときは、私は喜んでしゃべり散らかしてたね〜〜♪今は、懐かしき思い出。遠い遠い前世の出来事ですがな。

ただし、「正調アイン・ランド大好き人間」的話とか「アイン・ランド崇拝者」的話は、私はできない。私は、「アイン・ランドはすごい!!面白い!!アイン・ランドの作品を、日本人は読んだ方がいい!!特に日本人こそ読むべきだ!!」と、強く、激しく、思ってきた人間だけれども、アイン・ランドの「崇拝者」であったことはない。

はっきり言って、アイン・ランドの「客観主義」(Objectivism)は、よくわからん・・・と、いまだに思っている。わからないくせに、The Virtue of Selfishnessを訳したのか??と批判されても困ります。私は、アイン・ランドを理解したいから、あの本を訳したのだ。

訳してみて、感じたことは、「この人は、小説家としては凄いプロだけれども、哲学者としてはアマチュア・・・」だった。だって、政治思想の専門家でない私でさえ、そこは、もうちょっと緻密に論証しないといけないんじゃないか・・・と、突っ込みたくなるところは多々あったもの。

だからといって、アイン・ランドが提起した問題の大きさが小さくなるわけではない!瑣末なことは、どーでもいいのよ!

ところで、今回は、9月初めにした福島ミニ旅行について、ちょっと書く。

福島に行った理由はふたつあった。ひとつは、「副島隆彦の学問道場」が、6月に、事故現場から21キロ地点にある福島県田村市都路(みやこじ)町古道(ふるみち)に開いた「福島復興活動本部」を表敬訪問すること。

なにしろ、あの事故が起きてから、すぐにまもなく、副島隆彦氏は、お弟子さんと事故現場に出かけた。誰かが、事故現場に行って建屋の中にはいって、決死の必死の作業をすれば、日本国民が助かるのならば、私がやる!という気持ちで行った。死を覚悟して行った。他の凡百の言論人のように、安全地帯でグチャグチャ御託ならべていないで、現場に行った。

すごいじゃないですか。あっけにとられる行動力。

そして、副島隆彦氏は、現場に立ち、その一流の直観力と洞察力で、「大丈夫だ!福島は救われた!日本は救われた!」と、判断なさり、「福島復興活動本部」を立ち上げることを「学問道場」の事務局の方々に勧めた。そして、精力的に、福島の人々と交流し、現地の情報を集めた。

その副島隆彦氏やお弟子さんたちの福島レポートがなければ、私は、福島県のことを、汚染された土地として、見て見ぬふりをして、日本国土からないものとして忘れるような自己欺瞞をしていたかもしれない。「もう、あそこには人は住めないね〜〜」なんて、Twitterで書き散らかされていたような無責任な放言をしていたかもしれない。

あの当時の混乱の中で、副島隆彦氏やお弟子さんたちの福島レポートこそが、福島の生身の人々の悔しさ、怒り、悲哀を、それでも営なんでいかなければならない日常生活の重みを、私に伝えてくれた。

その他の言論人なんか、何をしたのというのだ。しょうーもな。

  だから、私は、時間ができたら、是非とも、福島に出かけて、「学問道場福島復興活動本部」を訪問したかったのだ。

ふたつめの理由は、福島に「観光」に行きたかったから。3/11以来、あの東電核分裂力発電所事故以来、とんでもない不安と恐怖と混乱にさらされた福島県のために私ができることは、うさんくさい赤十字とか日本ユニセフとかに義捐金を寄付することではなく、きちんとしたNPOに寄付することと、福島産のものを購入することと、福島に観光に行くことしかない。だから、高温多湿の夏の邪気がちょっとおさまる9月に入ってまもなく、福島に「観光」に行ったのだ。

さて、まずは「福島復興活動本部」訪問から。

「副島隆彦の学問道場」が福島県田村市都路町古道に開いた「福島復興支援活動本部」は、JR東日本の磐越東線(ばんえつとうせん)の「船引」(ふなひき)という駅から、バスで40分ほどの場所に位置する。船引は、郡山から30分くらいかなあ。

郡山から船引までの車窓から眺める風景が、実に素晴らしかった。大小様々な森や、阿武隈(あぶくま)の山々や田園の緑が、鮮やかで、深く、美しい。青い空と緑しか色がないような景色が続く。青と緑の境目に、人家があるという風情だ。

ちなみに、私は、福島は、今回が初めてだった。東北地方は、学会とか亡き母との旅行とかで何度も行ったことがあるが、なにゆえか、福島は初めてだった。

いや〜〜日本って綺麗ですね。日本の中に、このような美しい景色があるのですね。もっと、もっと、自分の国のあちこちを行かないといけない。自分の国の貌形を知らずして、死んではもったいない。福山と名古屋と大阪の間だけを、ウロチョロしているようでは、魂が死ぬ。

(この写真は、「学問道場福島復興活動本部」から見た都路の風景。きれいでしょ?都路も核分裂力発電所のおかげで、財政的には、そこそこ潤ってきたらしいので、学校とか役所などの公共の建物は立派です。でも、今は、そこにも誰もいない・・・この写真は、吉見理氏から提供していただきました。)

放射性物質で汚染された土は「除染」しないといけないらしいけれども、あんなに多くの森や山は、いくら頑張っても「除染」できないんじゃないの?学校の校庭の土を削ったくらいじゃ、なんともならんよねえ・・・と、実際に、福島の風景を目にすると、そう思う。

「除染」ってさあ、その取り除いた土は、どこにもってゆくの?どこかに埋めるんだよねえ?すると、地下が汚染されるよねえ?かといって海に投棄するわけにもいかないよねえ?どーするの?

人口密集地でなくても、発電所事故現場近くの地域にも、学校があり、病院があり、レストランがあり、商店があり、住宅がある。そこに動き、暮らしていた人々も、おびただしくいる。実際問題として、その人たちが、慣れ親しんだ場所を去り、どこかに移転などできるものだろうか?移転できるのならば、3月や4月の時点で、サッサとしているだろう。

どうですか、あなたが、20年後か10年後に癌になるかもしれませんから、移転しましょう、勤め先も辞めましょう、先祖代々の土地を捨てましょうと言われて、できますか?できます? ものすっごくカネある人は、できるかもしれません。でも、できない人々の数の方が圧倒的に多いでしょう。

せめて、子どもたちだけでも・・・って、無理だって。子どもを親から離すことは、ほんとうに食糧難で、ほんとうに爆弾が頭上に降ってきた第二次世界大戦中だって、大変なことだった(らしい)。疎開先の国民小学校の児童たちの困難さや寂しさや空腹や、疎開先のガキからのよそ者に対する苛めについては、私も亡き叔母たちから聞いたことがある。4週間のホーム・ステイとはわけがちがうんだよ!

だいたい、税金浪費をやめることもできないまま、公務員制度改革もできないまま、財政危機だ、増税だと言っている政府や、そことつるんだ東京電力が、福島県民大移動の費用や賠償金を払うはずない。疎開した子どもたちの寮や学校の建設費用や生活費など、出すはずない。はっきり言えば、「棄民」するつもりだ。

損害賠償を訴えても、裁判所が、国民を守る判決を下すとは思えない。証拠も十分にないのに、有罪判決を下した馬鹿裁判官が、つい最近もいたじゃないの。小沢一郎氏の資金管理団体の収支報告書虚偽記入事件で有罪判決を受け、控訴したばかりの石川知裕衆院議員の裁判を担当した人。冤罪大好き、証拠改ざん&捏造大好き、日本の司法!

東大病院のアイトソープだかなんか、よくわからんところのお医者さんが、「たとえ、どれだけの費用がかかっても、子どもたちを避難させてください!!」とか言って、国会の委員会で国会議員たちを叱った(?)けれども、「非現実的なこと言えるからいいなあ・・・学者って・・・」と、議員たちから思われるだけだって。

実際に、政府にカネはないのだよ。国民を守るカネは、ないの。省庁の権益や官僚や天下りシステムを守るカネや、米国債を買うカネはあっても、国民を守るカネはないの。国有資産を売却する気もないの。売却したカネを、自分たちが使えないのならば。

それに、万が一にも、政府が30兆円でも、国家予算92兆円でも使って、国民の安全を確保しようとしても、ほんとに、それで安全を確保できるのか?

何を私が言いたいかって?

要するに、放射性物質飛散拡散で汚染されたのは、福島だけではなく、日本列島全部であり、かつ世界中なんだから、もう、逃げ場なんてないのだから、疎開先などないのだから、住んできたところに住んでいるしかないってこと。

内部被曝がどうたらこうたら言ってないで、癌にならない身体を作るための食生活や精神生活を実践するしかないってこと。だいたい、癌の原因なんて、特定できないんだし、実際は癌の特効薬はすでにあるんだぞ。「こういうのは、今までの抗がん剤のカテゴリーに入りません」とか言って厚生労働省あたりが、認可しないだけだよ。もしくは、学会誌が無視してんだよ。

癌だって、エイズだって、花粉症だって、特効薬はすでにあるに違いない。病気作って儲けたい類の医者や病院や製薬会社と、彼らの意を受けた役所が、その情報をにぎりつぶしているのだ!!

みなさま、下記の本を読んでちょーらい。岡崎公彦著『がんの特効薬は発見済みだ!』(たま出版、2011)と、伊藤悦男著『がん患者は玄米を食べなさい ―科学が証明した「アポトーシス&免疫活性」のすごい力』(現代書林、2009)を。

「生アーモンド」を食べましょう。玄米は乾炒り(からいり)してから炊きましょう。圧力鍋なんか無用です。ふつうに、土鍋やお鍋で炊けます。ともかく、上記の2冊を、読んでください!!騙されたと思って!!どうせ、私ら庶民は、政府やメディアや御用学者によって、さんざん騙されてきたのだから、いまさら、警戒しなくてもいいっすよ。

だいたいさあ、50歳以上ならば、癌になる心配などしなくても、ほんとはいいよね。たとえば、今、放射性物質を摂取して、内部被曝して、20年後に癌になって、70代くらいで亡くなるとしても、そのあたりで亡くなる方が、子どものためにもなるし、社会のためにもなるんだからさ。

え?ひどいこと言っている?だって、ほんとうでしょ?凡人が長生きしてどうするんだ。呆けるだけだ。病気作って儲けたい類の医者や病院や製薬会社のカモになるだけだ。

ともかく、しょうもない風評被害で、福島を孤立させたら、あそこに国際的使用済み核燃料処理場を作りたい連中の思うつぼだ。日本を世界の邪気の塊のゴミ捨て場にさせてたまるか。

話を、「学問道場福島復興活動本部」訪問に戻さないと、終われない。このランド節が、またも無駄に長くなる。

郡山から、JR東日本の磐越東線船引で、船引で降りて、そこから「学問道場福島復興支援活動本部」に行くには、バスがある。だけど、1時間に1本しかないみたい。待っていられるか。だから、駅に一台だけ待っていたタクシーに乗った。

運転手さんに「都路の古道までお願いします」と言ったら、「え〜あそこは、もう誰も住んでないよ。みな避難してっから」という答え。「いえ、住んでる人もいるんですよ。学問道場っていう看板のある建物に住んでいます」と答えたら、「あ、そこならわかる。前に乗せてったことある」と運転手さん。

「学問道場福島復興活動本部」は、2階建ての、1階部分だけでも100坪くらいの広さの建物だった。もとはスーパーマーケットだったが閉店後に放置されて荒れたままだった建物を借りたものだそうだ。1年の賃貸料50万円だそうだ。

もとがスーパーマーケットだから、大きなガラスドアの玄関を入ると、大きな広い部屋があり、その部屋の左側の壁には、ガラス張りの大型冷蔵棚が備え付けられている。その巨大な冷蔵庫に、「学問道場福島復興活動本部」の現在の常住管理責任者(?)であるところの、副島隆彦氏のお弟子さんのひとりである吉見理(よしみ・おさむ)氏が、食品だの調味料だのを入れておられる。この冷蔵庫は、大きいし、外からは中身が丸見えだし、便利でありますね。その姿が、次の写真です!

吉見氏は、この冷蔵庫からいろいろ出して、私にランチを作ってくださった。おいしかった!ありがとうございました。それから、近辺を案内してくださった。この「復興活動本部」から300メートルほど先には警官が立っていた。そこから先は、「原発の町、双葉町」に行く道であり、通行止め、立ち入り禁止区域だ。私は、できることならば、事故現場を遠くからでも見物したかったが、一般人が、行く手段はないとのことだった。

(立っている警官さんは、福島県警の方ばかりでなく、他県からの助っ人さんも多いようです。ものものしいですね〜〜この写真も吉見理氏からの提供です) 

都路の地元の人々は、ほとんどが避難しているが、避難していない方々も少数はいる。そりゃそうだ。避難所にいても退屈に違いない。タクシーの運転手さんに漏れ聞いたところによると、避難所で暮らしている方々の中には、することがないから、朝からパチンコに出掛けて時間つぶししている人も多いそうだ。だから、避難所のある地域の人々から、よくは思われていないそうだ。

「月に20万支給されて、仕事しないでも食ってゆけんだからね〜〜都路の田んぼや畑は使えないから、休耕田になって、補助金出るけど、隣町には出ない。だけんど、福島産だから、どっちみち、作物は風評被害で売れない。隣町だって被害受けてんだけどね〜〜そこには補助金出ないからね〜それも不公平なんだよね」と、タクシーの運転手さんの弁だった。

「だいたい、ここらはみんな兼業農家だかんね〜うちも今年は、たばこ作るのやめた。どうせ農協も買ってくれないからね。野菜は自分とこで食べる分だけは作ってる。2歳の孫にだけは、よそから取り寄せたもの食べさせてる。嫁が気にするからね〜私らはいいんだけどね〜孫はね〜〜」とも、運転手さんは話していたっけ。

この「復興活動本部」には、数は少ないが、まだ都路に住んでいらっしゃる方々とか、隣町に住んでいる方々とかが、お野菜を持ってきて下さるそうだ。それに加えて、「副島隆彦の学問道場」の会員の方々も、見学にやってくるそうだ。つまり、私みたいなのが来るわけだ。そのたびに、吉見氏は対応しなければならない。お疲れ様です。

吉見氏は、責任上、この建物の管理掃除整頓全般をしなければならないので、いつも御自分の勉強ばかりしているわけにもいかない。この建物には、シャワー(50万円かけてシャワー室を作った)はあっても、お風呂の設備がないので、「露天風呂を作ってあげる」と、副島氏の愛読者の方が、言ってくださっているそうだ。だから、吉見氏には、寒い季節に備えて岩風呂を設置するべく、前もって、河原から大量の大きな石をせっせと運んでくるという仕事もある。大変であるな。

ところで、この「復興活動本部」の外は、すぐに道路であるのだが、そこを、時々パトカーが走る。いや、しょっちゅう、というべきか。パトカーの中には、ガスマスクみたいなものをつけている警官さんもいる。

なんで、パトカーの巡回が多いかといえば、避難している人々の留守宅を狙っての泥棒がすこぶる多いからだ。パトカーで巡回している警官さんは、だいたいが他県からの派遣さんなので、土地勘がない。ひたすら道路をぶっ飛ばしているだけだから、泥棒さんたちも、さぞお仕事がしやすいのであろう。

飯館村の方々は、おとなしく避難してろ!と言う当局に抵抗して、町民で「自警団」を作り、自分たちの町をパトロールしてきたので、泥棒被害にはあっていないそうだ。これは、Facebook友だちからの情報。

やっぱりね〜〜自分たちで守らないと、自分たちの地域は守られないんだよ。警察のパトロールが、これだけあっても、泥棒天国なんだもの。やたら、職務質問だけはしてくるらしいけどね。

世の中には、とんでもない人間がいる。3月11日以後、地震に津波で、どんどん内陸部に向かって逃げている自動車とは反対に、どんどん海に向かって走ってくる自動車も多かったそうだが、それらの自動車は、報道関係や警察のものではなかった。親戚友人知人が逃げるのを助けようとしている人たちのものでもなかった。実は、泥棒さんたちのものであったそうだ。

プロフェッショナルは違いますねえ・・・「火事場泥棒」ならぬ、「地震津波原発事故泥棒」だ。これも、タクシーの運転手さん情報。

ついでに、都路がある田村市出身の、福島を選挙区とする民主党所属の衆議院議員であり、現外務大臣の玄葉 光一郎(げんば こういちろう、1964- )氏は、ご家庭では、ご家族の間では、「英語」で会話なっているそうだ。これも、タクシーの運転手さん情報。

なんでか?知りませんがな。

そういえば、「復興活動本部」の2階を見せていただいたら、テーブルの上に、前の福島県知事の佐藤栄佐久氏(1939-)が、副島隆彦氏に贈ったとされる、1985年に宮澤喜一氏と共にアメリカ訪問したときの、佐藤栄佐久氏著の「旅行記」があった。佐藤氏は、当時は自民党選出の参議院議員だった。1985年といえば、プラザ合意で、日本が円高を強いられた年だな。当時の日本国首相は、中曽根康弘だった。正力松太郎とともに、日本における原発建設を推進した張本人が、首相だった。日本を大いにアメリカに売った人物が首相だった。

プラザ合意(Plaza Accord)つーのは、1985年9月22日に、G5(先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レート安定化に関する合意のことだす。このときの大蔵大臣の竹下登氏が、ニューヨークのプラザホテルの一室で、為替レートで円安であることを利用して稼がれてきた日本の輸出産業の利益が、パーになるような円高を、日本の資産が吹き飛ぶような円高を、容認というか強要されたという話がありますね。

実は、このプラザ合意による「無理やり円高」は、「第三の原爆投下」と言われたくらいに、日本に打撃を与えた。しかし、日本人は頑張って、もっともっと合理化して、円高による差額利益がなくても、利益が出せるような製品開発に勤しんだ。「三番目に落とされた原爆」の衝撃と被害から立ち直った。

宮澤喜一氏(ここ、私の福山が地盤です!!!)は、実は、この「円高是正」に勤しんだ人物なんですが・・・そこんあたりで、中曽根さんから嫌われたのか、中曽根さんは自分の次の首相に竹下登氏を指名しましたね〜〜

ともかく、アメリカの意を汲んだ円高を受け入れ、中曽根路線に大いに貢献したことで、首相にもなれた竹下登さんでしたが、この方の通夜のときには、(お父さんの方の)ブッシュさんが、岩国の米軍基地から、ヘリコプターに乗って、島根県の竹下氏の自宅まで、弔問に来たという噂がありますね。「国を売ってまで、アメリカに稼がせてくれて、ありがとう」ということだったのでしょうか。アメリカ人にも義理堅いところは、ありますね。カネに関することならば。まあ、どこの国の人間でも、そうだよな。

また話が逸れていますね。つまり、だからさ、私は、好奇心にかられて、その佐藤栄佐久氏著の「1985年宮澤喜一様といっしょアメリカ旅行記」(こういうタイトルじゃないよ、もちろん)つーのを、ちょっと、どさくさにまぎれて読ませていただいたのよ。

そしたら、「デイヴィッド・ロックフェラー」主催晩餐会とか、「ヘンリー・キッシンジャー」主催晩餐会なんかに、御一行様は主賓としてお招きされていた。宮澤喜一氏は、きっと、当時のアメリカにとって、非常に与しやすいと見られていたのだろうな。こいつは、使えると思われていたのだろうな。英語に堪能な人間というのは、ご本人がそのつもりでなくとも、アメリカの手先になりやすいもんよ。でなければ、ロックフェラーやキッシンジャーが、自邸でパーティなんか開かないだろ〜〜なんか思惑がなければあ〜〜♪

ちなみに、今の外務大臣の玄葉 光一郎氏は、佐藤栄佐久氏のお嬢さんのお婿さんです。この佐藤栄佐久氏と、今の福島県知事の佐藤雄平氏(1947-)とを、くれぐれも、ゴッチャにしないでくださいね。前福島県知事の佐藤栄佐久氏は、原発プルサーマル導入に反対したので、でっちあげの収賄罪に問われて失脚させられました。今の知事の佐藤氏は、プルサーマル導入容認しました。今は、被害者みたいな顔していますが。

血縁関係の全くない佐藤さんたちですが、人生の明暗は、死ぬまで定まらないですね・・・

さて、「復興活動本部」に2時間ほど滞在した私は、いよいよ「福島観光」に乗り出した。

が・・・福島ローカルの電車は、1時間に1本しかない。あちこち移動して見物している時間よりも、電車をじっと待っている時間の方が長かった。私は、電車を待ちながら、ポカンと空を見上げていた。なんという澄んだ青空。

それでも、ちゃんと猪苗代湖にも行ったし、磐梯山も表から拝んだ。

(これが表磐梯山だ!裏から見たら、どうなんだろう?自分の目で見た時の感動を生き生きとしたものにしておきたいので、ネットで裏磐梯の写真など探さない!!)

ところで、猪苗代湖のほとりには、「野口英世記念館」がある。ほんとに、野口英世(1876-1928)が生まれた家が記念館の一部になっている。ただし、その記念館は外から眺めただけでえすませた。もう閉館時間が迫っていたから。

私は、「磐梯山を仰ぐ、この猪苗代湖のそばで野口英世は育ったのか・・」と、感慨が深かった。野口英世は、ここから、アメリカのペンシルヴェイニア大学の医学部に行き、ロックフェラー医学研究所研究員となり、ノーベル生理学賞、医学賞の候補に3回もなったのだ。最後は、ケニアで亡くなった。

野口英世の人生って、すごいな。猪苗代湖のほとりから、ペンシルヴェイニア大学の医学部や、ロックフェラー医学研究所までの、その道のりの、なんと、とてつもなく長いこと!

明治時代の、猪苗代湖からアメリカまでの距離は、現代に例えれば、地球からアンドロメダ星雲までの距離に匹敵するんじゃないだろうか。

この距離は、物理的距離でもあるし、心理的距離でもある。はっきり言って、野口英世は、アメリカに渡って、研究者として足場を築いたあたりで、もう金輪際、故郷に帰りたくはなかったろう。いや、高等小学校を終えて、書生となるために故郷を出た時から、すでにそうだったろう。猪苗代湖と磐梯山が、いくら美しくても、景色は食えない。頭脳明晰で野心的な少年は、母のように、姉のように、厳しい自然に耐えながら営々と勤労の日々を重ねてゆくことには、まったく希望は見いだせなかったろう。

まあ、このさい、実像の野口英世が、どーいう具合に如才なくたちまわったかとか、カネの工面をするために恩人をどれだけ踏み台にしたかとか、苦労に苦労を重ねて老いた母親を長年もの間放置して冷血にも顧みなかったかとか、なんてことを言いたてる必要はないわけよ。

ふつーの「いい人」だったならば、「バランスのとれた人格者」だったのならば、野口さんは、猪苗代湖の湖畔からアメリカに渡り、ケニアで研究中に亡くなるような、世界を股にかけた細菌学者になんか、なれなかったろう。

あの猪苗代湖の湖畔から、世界的細菌学者への道のりは、私をして沈思黙考させるのに十分過ぎるほど、とてつもなく遠かったに違いない。

野口英世がすごいと同時に、人間って、すごいね〜〜すごいよねえ、明治の人って!!

(夕暮れも、そろそろ近くなってくる頃の猪苗代湖。)

猪苗代湖をあとにした私は、どうしても暗くなる前に、白虎隊ゆかりの場所に行きたかったので、タクシーを飛ばして、会津若松市街に行った。

みなさん、御存知でしたか?官軍に猛攻撃を受けた会津藩でしたから、あの会津戦争ですから、会津藩主の松平容保(まつだいら かたもり)は、城の天守閣で自害したのかと、私は思いこんでいた。だって、まだ15歳や16歳のガキだった白虎隊が、飯盛山で自害したんだから、責任者は当然そうだったのだろう・・・と思い込んでいた。

しかし、松平容保さんは、しっかり生き残り、明治以降は、日光東照宮の宮司さんをしたりして寿命をまっとうしていたのですね〜〜

ああ・・・白虎隊の少年藩士たち、城下町が燃えているだけなのを、お城が落ちたと勘違いして、自害などしなくてよかったのに。ほんとに少年兵というのは、額面通りに、教条的に、教えらえたとりにやるから・・・

いつの時代も同じだな。ほんとの責任者は責任を負わずに、下士官クラスの現場の人間が、死んでいく。

今回の東電核分裂力発電所事故だって、そうじゃないの。戦前までだったらば、ああいうふざけた対応をするような「責任者たち」は、テロにあって暗殺されたのだろうけれども、太平洋戦争といいますか、大東亜戦争の敗戦以後、そういうテロリスト養成機関であった政治結社は、GHQにガタガタに解散分解させられたので、「責任者たち」は、安全で、やりたい放題だ。

庶民が、Twitterあたりで、どれだけ騒いでも、そんなもの、無力で非力の雑魚が愚痴言っているだけなんであって、痛くもかゆくもない。ほとんどの人々は、テレビや新聞の既成メディアの言うことを信用する「愚民」だし。

(会津若松市内にある会津藩の本陣に掲げてあった藩の旗。なんちゅう、キッチュなモダンなデザイン。この旗を血に染めて、白虎隊の少年藩士たちは死んだ。合掌。)

残念ながら、これで、今回の私の福島旅行は終わってしまった。

会津若松のお蕎麦(そば)を食することができなかった。喜多方に行って、本場の「喜多方ラーメン」を食する時間はなかった。郡山の駅で食した喜多方ラーメンおいしかったぞ!少なくとも、「尾道ラーメン」より、私の好みだった。

裏磐梯に行くこともできなかったし、五色沼も見ることはできなかった。方向は、えらく違うけれど、映画化された「いわき市」の「常磐ハワイ」のフラ・ガール(って、まだ健在だよね?)も見ることはできなかった。

だから、私は、大いに心残りである。だから、来年の3月、大学の仕事がひと段落して、また始まる前に、福島再訪をしたい! だから、「東京アイン・ランド読者会」の第3回集会のために依頼された講演は、福島県でします!!

みなさま、ご縁があったら、お会いいたしましょう!!

3月の会津磐梯山と猪苗代湖は、どのように見えるだろうか・・・

はい、ほんとに、これからは、短いものを書いて、頻繁に更新します。要するに、Facebookのノートに書く感じでいいんだよな・・・