アキラのランド節

「ハワード・ローク的サイコ」になりたい!  [10/05/2011]


月曜の10月3日早朝に目を覚ましたら、なにゆえか、体のあちこちに痛みがあった。

出勤(というか同僚の地球物理学の教授の講義を聴講するため)の準備をしているうちに、だんだんと具合が悪くなってきた。その朝は、急に気温が下がったので、寒かった。くしゃみ連発で、心臓が痛かった。咳まで出てきた。なんで??

あ、風邪だ〜〜というわけで、ガッツのない私は、何事にも無理はしない根性なしの私は、寝込んだ。

特にこれといって、疲れがたまっていたわけでもないのに、なんでこんな、ひどい風邪を引いたのだろうか??ひょっとして、なんか、悪いことしたかな、私?

あ、しました、しました。悪いことしました。

月曜日の前の日曜日の晩に、1988年から8年間ばかり勤務していた某女子大の頃の同僚からメイルがあり、当時私とは確執があった同世代の男性の同僚が、セクハラ&パワハラで学内の人権委員会に訴えられ、調査委員会が立ち上げられた、と書いてあった。私は、そのニュースに、大いに喜びました。

なんでか??だって、その訴えられた奴って、その女子大に勤務していた頃に、私がどうしても好感を持つことができなかった奴だったもん。

やっぱり、神様っているよね〜〜♪ 世間は馬鹿だから、10年くらいは軽く騙されるけど、20年は騙されんのよ。どんなに「いい子ぶりっこ」の偽善者の狡猾な人間でも、いずれ本性は暴露されるのよん〜〜♪

でも、やっぱり神様っているよね〜〜いくら、さんざん迷惑をかけられた昔の同僚とはいえ、やはり他人の不幸を喜んじゃいけない。そんなセコイことしちゃあいけない。あんな、つまんない人間のことで一喜一憂するなんて、あまりに人間が小さすぎる。この風邪は、自分に、そーいう矮小さを許した罰でありますよ・・・

あの女子大で、私に嫌がらせした連中のうち、これまでに2名が(失意のうちに?)亡くなり、ひとりが、セクハラ&パワハラ疑惑で失墜か。ははは。さてさて、他の連中は、これから、どうなるかな。人生の明暗は、死ぬまでわからないもんね〜〜♪卑しい狡猾さだけで世の中生きていけると思ったら大間違いだよ。

って、私は、まったく懲りていません。すみません、神様。ごめんなさい。反省が足りないから、まだ頭がボ〜〜〜とするんだわん。

しかし、明日の6日は休んでいられない。明日は、前の勤務先の桃山学院大学の「総合人間学」っていうクラス(毎回違う講師が、いろんな分野から人間存在を語る)で、アイン・ランドの『水源』について語る予定だから。

桃山学院大学の大講義室で、私が学生に向かって話すのは、これが最後となるだろう。私にとっては、明日が、桃山での「最終講義」だ。感慨があるな。

とはいっても、今年度中は、桃山学院大学には、週に一度通う。4年生のゼミが残っているから。4年生は、就職活動があるので、時には1名しか出席者がいないという日もある。時には女子学生ばっかり出席という日もある。そんなときは、ひとりひとりの手相、人相をじっくり見て、デタラメ占い師をやったりする。機会があれば、その学生に前から機会があったら言いたかった助言(?)なんかを、占っているかのように誤魔化して、言ったりする。ははは。

桃山学院大学は、15年間勤務して、いろいろなことがあった場所だし、どちらかというと圧倒的にいい思い出の多い勤務先だった。だから、「フェード・アウト」には、1年くらいかかりますよ。ゆっくり、ゆっくり、お別れするのさ。

人間は死ぬ寸前に、人生で起きたことの全てを走馬灯のように幻視する、そうだ。ならば、臨終の私は、きっと幻の中で、幸福な感謝の気持ちに満たされながら、見るに違いない。桃山学院大学の大講義室で声を張り上げている自分を。笑いあった学生さんたちや、同僚たちの顔を。大阪は和泉山脈の青い山々を。あの美しいキャンパスを。

桃山を辞めたことを後悔しているかって? ううん、全く後悔していません。ただ、おそらく、私の人生で、私が一番愛した職場は、桃山学院大学になると思う。多分、福山市立大学には、ならない。なったら、いいけど。

いくら愛した職場でも去るしかないこともある。人生の新たな展開が欲しい時には。

ところで、最近『クーリエ・ジャポン』(Courrier Japon)という雑誌の11月号に、「ティーパーティの“女神”と讃えられる作家アイン・ランド」という記事が掲載されたと聞いた。

で、取り寄せて読んでみた。一読して、「あ、このライターさん、アイン・ランド本を自分できっちり読みとおしてないな」と、感じたので、興味を失くした。

商業雑誌に書いているようなライターさんは、多忙すぎて、書評だって、まるまるきちんと読まずに書くのが普通らしいから、しかたないよね。

ただ、この記事に関しては、Facebookの「クーリエ・ジャポン」11月号発売(アイン・ランド関連記事掲載)って、ところに面白い指摘がされている。ご興味のある方は、お読みください。

ただ、その記事で1点だけ、はっきりと「あれあれ・・・当たり前のことを、小賢しく書いてるわ・・・」と、あきれた部分があった。

その記事には、『水源』や『肩をすくめるアトラス』の主人公たちが、「サイコ」だと書いてあったのです。

当然でしょ??ハワード・ロークがサイコなんて、当たり前のことだ。天才が、ある種のサイコであるのは、当然のことです。

正確に言えば、「天才」というのは、「サイコ」すれすれ。

凡百の知能の低い、社会的に害のあるサイコと、天才の間は、紙一重だ。その偏った能力を、才能を、「社会化」できるかどうか、社会に役立てることができるかどうかが、サイコと、サイコ的天才の分かれ目だ。

物凄い集中力で、自分の脳が生みだしたことを形にすることができるような天才が、ふつーの「いい人」であるはずない。「つきあって楽しい人」であるはずない。わけのわからん危険な不快な困った人だよ、凡人からすれば。

日常的に関わる人物や、同僚には、馬鹿サイコはもちろんのこと、「天才サイコ」は、願い下げだ。「どうでもいい人」であろうと、「いい人」の方が、つきあいやすい。

しかし、私は、大学なんぞに勤務してきたから、ほんとうに頭脳明晰な研究者が、アスペルガー症候群っぽかったり、発達障害っぽかったり、人の気持ちがわからん人間であったり、コミュニケーション能力がなかったりする例を、まれではあるが、見てきた。

もちろん、タダの馬鹿も多い。こいつは、ただのサイコと思える人も多かった。でも、まれに「天才サイコ」かもなあ・・・もしくは、なりそこねかなあ・・・と思える人も見たことがある。

人文学系学者には、比較的、常識の豊かな人柄のいい人が多い。しかし、「天才サイコ」はいない。「気の利いたことが言えて書ける才人」とか、「知識人」はいても、天才はいない。変人気取りはいても、ほんとうの変人はいない。どちらかというと、バランスのいい人格者というのは、人文系学者の中にいる。

しかし、理科系学者あたりだと、まれに社会科学系学者にも、ほんとに「天才サイコ」的な研究者がいる(社会科学系だと故小室直樹氏なんか、そうなんじゃない?)。ほんとに、この人々は変人奇人だ。しかし、そういう人物たちの能力は、やはりものすごく貴重である。そういう人物たちの能力は、社会の宝だよ、やはり。

そういう人物たちを「学者馬鹿」と馬鹿にする人々には、その「馬鹿学者」がしていること、思考していることの10パーセントも、理解できない。

たとえば、「副島隆彦の学問道場」に集う人々(の中でも、ほんとうに優秀な人たち)や、その中心にいる副島隆彦氏は、ふつうに「いい人」では全くない。「ふつうのいい人」ばかりの文学系学会に長くいた私からすると、びっくりするような人物ばかりだ。しかし、その知的鋭さ、幅広い知識、浮世離れした集中力に、私は刺激を受けてきた。

刺激を与えてくれる人物は、一種のMad Scientistばかりで構わんのよ。私が欲しいのは知的刺激だから。真実だから。

私は世間が狭いせいか、交友関係が広くないので、今までのところ、「ふつーのバランスのとれた、いい人、人格者」であり、かつ「すさまじい集中力と執念で大きな仕事を成し遂げるような天才」には、遭遇したことがない。

まあ、どちらかが実現されていれば、いいんじゃないの。

世の中には、「いい人でもないし、才能もないし、他人に迷惑ばかりかける人」だって、少なくはないんだからさ。

ハワード・ロークは、自分の脳が描いた、脳が構築した建造物を、実際にこの地上に立ち上げることができれば、それでいい。彼の能力と意識は、その1点に集中している。この地上を建造物で美しくするという1点に集中している。

だから、他のことに神経がいかない。気が回らない。社交できない。身なりも気にしない。カネがないのも気にしない。自分の好きなように設計建築させてくれる顧客に対しても、お世辞を言うわけでもない。

惚れた女が、他の男と結婚すると知っても、執着しない。その女が望むのならば、その女の好きにすればいいと思う。

その惚れた女の亭主から、邸宅(カントリーハウス)の設計を依頼されたら、嫉妬するわけでもなく、夢中で設計する。彼女が住みにふさわしい理想の邸宅を設計建築する。ついでに、その亭主と無二の親友になる。なんとなれば、その亭主も、一流のサイコだから。事業の鬼だから。

ついでに、裁判で訴えられても弁護士もつけない。マスコミにどう叩かれても黙殺する。刑務所に入れられるのならば、それはそれでいいと思っている。

こんな人物は、一種のサイコに決まっている。そりゃ、ハワード・ロークは、「ひとの気持ち」はわからないよ。「つまんない人の気持ち」はね。

ハワード・ロークは、名声とか財産とか社会的地位で、他人を判断することは、いっさいない。彼が反応するのは、地上的な通俗な退屈で矮小なものから飛翔するような「何か」を成し遂げようとする思いと能力だけだ。

だから、彼が友人となるのは、みな一種の「天才サイコ」ばかりだ。

私は、できることならば、「ハワード・ローク的サイコ」に生まれたかった。それも、この地上の限界を押し広げるような何かを成し遂げるような集中力と体力と脳の筋肉の強さと霊感とそのほかのことは、気にならないような魂の純度の高さを持ち、その天才を社会化できる天才サイコに。

絶世の美女に生まれたってさ、つまんない男が寄ってくるだけだって。ものすごい資産家に生まれたって、資産を徹底的に有意義に使いこなせないのでは、退屈だしさ。

やはり、「この地上の限界を押し広げるような何かを成し遂げるような集中力と体力と脳の筋肉の強さと霊感と、そのほかのことは、気にならないような魂の純度の高さを持ち、その天才を社会化できる天才サイコ」だな。

でも、もっと面白いのは、「ハワード・ローク的サイコ」に思う存分に仕事させて、その果実を広く社会的に分配できる真の政治家かもしれない。

いや、違うな。「ハワード・ローク的サイコ」が理解できるような人間だと、今の選挙制度では勝てない。今のシステムだと、「ふつーにいい人」を演じて、「しょうもないことばかり考えて、つまんない欲や享楽にふるまわされている程度の人々」から、「清き一票」をもらわないと、勝てない。

日本の政治家がつまらないと人は言うけど、当たり前だ。選ぶ人間がつまんないんだから、しかたない。すみません、それは私です。

そうか、一番面白いのは、「ハワード・ローク的サイコ」に思う存分に仕事させて、その果実を広く社会的に分配できるように、政治家や官僚を操作できる立場、それができるパワーのある人物であること、かもしれない。

ははは。今日は短い!でもない?