アキラのランド節

『山陽新聞』備後版のコラム原稿です(その1)  [05/12/2012]


前の「ランド節」で予告したように、これから時々、『山陽新聞』備後版のコラム「芦田川」に掲載されたエッセイの元原稿を、ここに載せる。3回分ずつ載せる。赤い文字のものが、その元原稿です。原稿は、「元」に決まっているけど。

実際に『山陽新聞』備後版に掲載されたものは、新聞社の福山支局のデスクの方が、誤字を訂正してくださったり、漢字をひらがなにしてくださったり、難解な漢字にふりがなをつけて下さったものだ。

以下の元原稿には、ウエッブ上で読むのに容易なように、段落と段落の間にスペースが挿入されている。原稿のあとには、私のコメントを入れた。自分で書いたものに、自分でコメントつけた。

みなさま、お気が向いたら、読んでやっておくんなまし。

そんなもん、どーでもいい?まあまあまあまあ・・・そうおっしゃらずに。

<第1回: 2012年4月22日掲載 「独学では足りない 」の原稿>
私は自分のことを、実感として「小学校卒」だと思う。なぜならば、辞書の引き方、百科事典の調べ方、簡単な料理や、簡単な裁縫など、大事なことはすべて小学校で教えてもらって、あとは「独学」で生きてきた気がしているからだ。

中学校から大学院までは、行くところがなかったので、学校という建物に通った。授業時間はボケっとしていた。図書館と本さえあれば、なんでも自分で勉強できる、学校なんか、ほんとは通う必要ない、というのが、長い間の私の本音だった。

しかし、いくら鈍い私でも、だんだん気がつく。「独学」というのは、それなりに能力に恵まれている人間でなければ、できないということを。人文学系人間だった私も、関心が広がるにつれて、社会科学や、自然科学の知識が必要になる。当然だ。だから、その分野の本を読む。しかし、どうもピンとこない。わかったような、わからないような。

そうこうしているうちに時が過ぎた。私は、2011年の4月に福山市に、創立される福山市立大学都市経営学部に教員として採用されることになった。都市経営学部は学際的なので、社会科学系科目も自然科学系科目も開講される。私の頭に厚かましい考えが浮かんだ。新設大学のドサクサにまぎれて、開講科目を聴講させていただこう。

というわけで、2011年度は、自分が担当する授業の合間を縫って、同僚が担当する「自然誌概論」や「地球の進化」や「科学史・科学哲学」や「経営学原理」を、聴講した。驚いた。専門家による一連のまとまった、よく準備された講義というものは、すごい。聴いているだけで、その学問の全体図みたいなものが、頭の中にうすらぼんやり浮かぶ。

今年度は、「マクロ経済学」の聴講をさせていただいている。若々しい顔の並ぶ教室の中で、くたびれたオバサンが混じっているのは、景色が悪いことである。しかし、私は真剣である。独学だけでは駄目なのだ。やはり授業や講義は必要なのだ。

<コメント>

去年度は、最初の年だから、たたでさえ慣れなくて疲れるのに、その上に、週に2回開講される講義科目の聴講をさせてもらっていたので、なおさら、くたびれた。

耳学問って、面白いもんですね〜〜ほんと。いろいろ、勉強になった!!「学生」としても「教師」としても。

あ〜〜ここでこういう説明を入れないと、学生にはまったくわからないなあ〜〜とか、あ〜〜こういう展開だと、学生には、この講義のポイントが伝わらないな〜〜とか、自分自身が教えるときに参考になることの発見も多かった。

2013年度の4学期に、私は「アメリカ文化論」を担当する。さて、さて、どうするか、今から頭が痛い。すっごく痛い。

わからない講義は、聴いている学生にとっては、ほんとに辛い。退屈な講義は、聴いている学生にとって、ほんとに拷問だ。文脈や要点が見えない講義は、学生にとって、ほんとうにストレスだ。

私は、気が小さいから、人さまをそんなに苦しめたくもないし、苛めたくもない。さて、週2回の講義15回分を、どう組み立て、どのような資料を用意して、どうやって双方向的なものにするのか、う〜〜〜頭が痛い。使っていない頭が痛い。

私も、来年還暦で、定年が65歳だから、教師をやっていられるのも、あと6年だ。ここは、悔いないようにしたい。

主としては、英語教育の責任者として採用されたわけだけれども、ぶっちゃけていえば、英語はできもしないし、好きでもない。効果的な英語教育に関するアイデアは、まったく頭に浮かばない。

いいんかね・・・よくないわっ!!

<第2回: 2012年5月2日掲載 「問題は英語じゃない」 の原稿>

勤務先の福山市立大学の学生から、「どうやったら、すぐに英語ができるようになりますか」という類の質問をされる。「手っ取り早い英語攻略法」というものがあるのならば、私が教えてもらいたい。

留学するという方法以外には、仕事で英語を使用するというのが、一番の英語攻略法であるが、しかし、英語を使用する仕事に就く人間は、あらかじめ、ある程度は英語を攻略している。だから、「英語ができるようになりたい?英語を使う仕事をしなさい」と言うのは、無意味だ。

ただ、間違いだらけの英語だろうが構わずに、何とか話そうとしたり、聴こうとしたり、読もうとしたり、書こうとしたくなり、結果として英語力が向上するということはある。

ほんとうに自分が好きになれるものに出会うと、そうなる。その好きなものの良さを他人に伝えたいと思うほどに、好きになれるものに出会うと、そうなる。日本人のみならず、機会があれば世界中の人に知らせたいと思うほどに、好きなものに出会うと、そうなる。

日本人は、英語のみならず外国語一般が苦手だと、よく言われるが、日本列島に住んでいる限りは、日本語で用が足りるのだから、外国語が得意になるはずはないし、なる必要もない。

しかし、どうしても伝えたいと思うほどに好きな事物に出会ってしまったら、英語が通じる外国人と話すような機会があれば、自分の知っている英単語をつなぎ合せてでも語るだろう。日本人は、義務教育において必ず英語を学ぶのだから、わかってもらおうと、本気で思うのならば、片言を並べ立ててでも、伝えようとすることはできる。そもそも、日本語で語る気にならないことは、英語でも語れない。

問題は英語じゃない。まずは、デタラメな英語ででも、これだけは機会があったら絶対に伝えたいと思えるような何かに出会うような自分自身でいることだ。世界の事物に対する好奇心に、ギンギンキラキラしていることが、英語学習へ通じる道だ。

<コメント>

中学校の英語の教科書を全部暗唱すればいいんだよ。そのためには、毎日、そのテキストを音読してればいいんだよ。日常生活の英語自体は、これでなんとでもなる。

あとは、相当量の英語音声を聴くこと。最低限、のべ1000時間の視聴が必要だ。

苫米地英人氏が推薦していたけれども、台詞の多い、あんまり下品ではない英語が使用されているアメリカやイギリスの連続テレビドラマのDVDを、1シーズン分だけ購入して、最初から最後まで、字幕なしで視聴して、また最初から最後まで字幕なしで視聴するというのを、繰り返すのも効果がある。

このあたりまでは、特に好きなことがなくても、誰でもできる。

しかし、議論するとか、こみいった話は、やはり、大量の本を読破し、大量の文を書かないとできない。

大量の本を読み、大量の文を書くためには、やはり、自分の好きなテーマがないと、できない。これについてだけは知りたい!!!と思わないと、できない。

実際に、私が英語文献に、ちょっとは真剣に取り組むようになったのは、アイン・ランドを知ってからだもの。それまでは、いい加減だった。

アイン・ランドのことなら何でも知りたいと思うようになって、切実に切実に、英語ができるようになりたいと思った。

アイン・ランドに出会うまでは、私は、英会話とか、外国人とのコミュニケーションとか、まったく関心がなかった。日本人との人間関係にも関心がないのに、なんで外国人よ?

いや、私って、そういう人間なんよ。テンションが低くて、何事にも消極的な人間なんよ、もともとは。

ところが、アイン・ランドを知ってから、心に火がついて、アメリカ人に会えば、アイン・ランドについて、根掘り葉掘り、質問するようになった。ふつうのアメリカ人にとって、アイン・ランドは、どのように理解されているのか、訊きたがるようになった。

それまでは、単に、英語は、英語教師として生活費を獲得するための手段でしかなくて、英語そのものには関心がなかった。まあ、今でも、英語そのものには、関心がないけどもさ。

アイン・ランドに会っていなかったら、私はその後、どんな人生を送っていたろうか。やる気のなさ、消極性、腰のひけた具合、視野の狭さ、全体的なしょーもなさが、一層に昂じて、さらに硬直化していたろう。で、不完全燃焼の自分の人生に、イライラしていたろうな。

ほんとうに、自分が好きになれること、ほんとうに興味がもてることに出会うのが、47歳だったのでは遅すぎた気もしないではないけれど、出会っただけでも、ほんとうに良かった。救われた!!

アイン・ランドを知ったのは、副島隆彦氏の『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社、1999)を読んだからだった。あの本を読んでいなかったら、今でも私は、アイン・ランドに縁のない人間だったに違いない。

副島氏には、アイン・ランドの翻訳『水源』や『利己主義という気概』の出版のときに、非常なご尽力をいただいた。ありがとうございました。

出版社というのは、当然のことながら、売れる本を書けるライターは相手にしても、売れない本の翻訳者なんか相手にしない。副島隆彦氏がいなければ、私は、アイン・ランドの翻訳を、絶対に出版してもらえなかった。どころか、無名のオバハンなんか、相手にもされなかったろう。

みなさま、この『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社、1999)は、名著ですよ!読めば運が良くなりますよ!!いや、だって、私が、そうだったもの。

開運の書、『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』!!

アイン・ランドと副島隆彦氏は、掛け値なく、私の人生の恩人だ!!

なんで、47歳や48歳になるまで、出会えなかったのか??

実は、47歳になる直前くらいに、私は、複数の人物のために、総計400万円くらいのカネを出した。

たかが400万円??? 私にとっての、400万円は大きいんだよ!!

あれが、効いたのかなあ・・・・今から思うと、あれから、運がつき始めた。

みなさま、どうも自分の人生が硬直しているなあ・・・進展がないなあ・・・しょうもないなあ・・・充実していないなあ・・・とタメ息が出たら、なにがしかのカネを、人さまのために捨てるということを、やってみたらいかがでしょうか。

私みたいな怠惰な馬鹿が、アイン・ランドの紹介者にさせてもらったり、副島隆彦氏の一党の末端にいさせてもらったりの幸運をいただくためには、どこかで、私なりに大きな損を引き受けなければいけなかったんだと思う。

というわけで、その後は、損をすることが気にならなくなった。まあ、いいさ・・・そのかわりに、何かいいことが起きるよ〜〜〜いい人に出会えるよ〜〜〜もしくは、大難が小難になったんだろ〜〜〜と思うようになった。

別に、すすんで、喜んで、損する気はないけどさ。

あれ?英語から、話が大きく逸れてしまいましたね〜〜♪

<第3回: 2012年5月8日掲載 「『おとな』が問題なのだ」 の原稿>

最近の若い人は、とても優しい。勤務先の男子学生が、「僕は、お父さんに逆らえません。お父さんは機嫌が悪くなると、すぐにお母さんにあたりちらかす。お母さんが可哀そうです」と言う。

私は、言葉を選びながら、慎重に答える。人間は、自分を幸福にする責任がある。自分の人生の当事者は自分自身だ。だから、お父さんの幸福は、お父さんに責任がある。お父さんは、「おとな」なのだから、自分の機嫌がいつも良いように、自己訓練および自己管理するべきだ。妻にあたりちらすなど、まともな「おとな」の男がすることではない。

それから、お父さんから「あたりちらされて」我慢しているのが、お母さんの趣味でないのならば、お母さんは、可哀そうなのではない。そんな幼稚な夫に気丈に反撃せず、息子に心配をかけさせて平気でいる母親は、冷酷である。お母さんの幸福は、お母さんに責任がある。幼稚な夫に人生を侵食されたままでいるような、そんな軟弱なことでは、この国において、女や母をやっていられない。

私が、この男子学生と同じ頃に、こういう問題が家庭にあったのならば、おおいに心を痛めても、「こんな連中にかまっていられるか。今は勉強だ。早く自立できるように頑張ろう」と、思ったに違いない。家族といえども、他人を変えることはできない。自分で変えることができないことに消耗してもしかたがない。そう判断して、家族から心理的距離をとったにちがいない。

しかし、今の若者は優しい。私が、このような発言をすると、そんな日本語は聞いたことがないというような顔をする。無理もない。子どものころから、優しさや思いやりの大切さ、家族の大切さを教えられてきたのだから。人柄のいい質のいい若者ほど、教えられたことには素直で忠実だ。

今の若い人だけではなく、昔から、子どもや若者は優しかったのだと思う。問題は、子どもや若い人の優しさに、つけこむ、ダメな「おとな」だ。

<コメント>

これは、もうこのまんま。特に書き加えることもないです。

今の学生さんの親って、私よりかなり年下だ。40代じゃない?そりゃ、幼稚だよな。クルクルパーに決まっていますわ。 母親は、いい年して、「ギャル」だし、父親は、いい年して、「僕ちゃん」だ。

でも、親はあっても子は育つ。そのために書物がある。情報がある。家族以外の大人もいる。

まずは、アイン・ランドを読みなさい。『水源』を読みなさい。『肩をすくめるアトラス』を読みなさい。

I mean it!! みんな忙しいんだからさ、人生の糧にならない本なんか読んでいる暇はないんだからね!!