アキラのランド節

『山陽新聞』備後版のコラム原稿です(その3)  [07/29/2012]


ここ2カ月、更新が滞っている。6月7月と忙しかった。私が勤務している福山市立大学は、4学期制なんで、まだまだ授業はある。

福山市役所の冷房設定温度は、摂氏28度と決まっているという理由で、(福山市役所付属)福山市立大学の教室も、この猛暑の中、ずっと設定摂氏28度だった。

福山市役所付属福山市立大学の教室も研究室も、冷房温度を、学生や教員は、自由にはできない。温度を変えたければ、まず総務課に電話して、総務課が防災センターに電話して、防災センターのスタッフの中の室温担当係の人が、温度を変える。

これを、福山市役所は、「集中管理」と呼んでいる。だから、温度が変化するのに、最低10分はかかる。

いやあ・・・日本も広い。いまどき、こんなしょうもないシステムが通用しているとは。悪い頭をよけいに悪くするような、(福山市役所付属)福山市立大学の風景である。

この不況の時代に、税収も減りつつある時代に、公立大学を開設したんだから、さぞかし、福山市は、明確なヴィジョンがあるにちがいない、新しい高等教育をめざしているのに違いない、と思っていたが、実際は、うっかり作っちゃったんですね、よくわからないままに。税金を使って。

で、作ったものの、大学と言うものが、ものすごくお金がかかるんで、びっくりしたようで、ひたすら、ケチケチケチケチなんですよ。

2011年に開設されたばかりの大学ですから、教育機器とかみな新品なんですが、入札で、あまりに買いたたくといいますか、しみったれたので、非常に使いづらい機器ばかりで、不備がすこぶる多く、非常勤の先生まで、怒りだすような水準であります。

「安物買いの銭失い」の典型だ。

なんで、大教室に、この程度の大きさのホワイト・ボードしかないの?これでは、後ろの座席の学生からは、書いてあることが見えないでしょう・・・・

というように、一事が万事、「大学というものを知らない人間が、うっかり作っちゃったけど、早々と設置者の自治体が持て余している大学」でありますよ、(福山市役所付属)福山市立大学は。

あのねえ・・・大学運営経営は、カネがかかるに決まっているの・・・

短大よりも、4年制大学のほうが儲かるから・・・っていう程度の見識で4年制大学の形だけを、安普請で作っただけでは、維持できないの、その質は。

カネのかからないことばかりに神経を払うあまりに、学生は「市役所の職員」ではなく「教育サーヴィスを受ける顧客」である、ということまで、わからなくなっているのですね〜〜福山市は。

設定が28度だからといって、室内温度は28度であるとは限らない。実際は、30度を軽く超える。そんな教室で、学生が、なぜ講義に集中できるのか?8月10日近くまで授業や試験があるというのに。

やたら課題や宿題が多いのが福山市立大学であるが、学生が勉強に集中できるような環境設定は全くしていないよ。

アルバイトしなくてすむような奨学金は出ない。

遠距離通勤しなくてすむような学生寮はない。

大量に出る課題をこなせるような24時間オープンの図書館もコンピューター・ルームもない。

学生食堂は、ランチしか提供しない。朝食も夕食も提供しない。

食堂のそばの売店で売っているミネラル・ウオーターは500ミリリットル120円だ。同じ商品は、コンビニならば105円か102円で売っている。

顧客である学生に対して、この姿勢だから、使用人である教員に対しては、推して知るべし。研究室も、この暑さの中で、いつも温度は31度を超えております。仕事にならん。研究室で、熱中症になるよ。

まったく、ただでさえ暑苦しい季節なのに、余計に暑苦しくなるよ、もう。

というわけで、この他にも、もろもろある理不尽さに怒る教員たちと、市役所の意を受けざるをえない事務局のバトルは、本日も続いております。

職員のすべきことと、教員のすべきことは違う。職種が違う。同じ福山市に雇用されているんだから、同じような労働条件でないといけない!と頑なに思うのは、日本の「悪平等主義」に毒されているからだ。

私は考える。待遇も研究条件も良かった、あの「天国」桃山学院大学を辞めて、こんなアホみたいな「福山市役所付属福山市立大学」に、うっかり来てしまった自分の人生の意味を。

不思議なことに、こんなアホみたいな「福山市役所付属福山市立大学」ですが、私は、福山市に来たことを後悔していない。

負け惜しみじゃないよ。私は、教師には珍しく、正直な人間ですから。

そりゃ、最初から、こういう状態だと知っていれば、私は、福山には絶対に来なかった。それは確かだ。

後悔していない理由のひとつは、あんまりアホな状況だから、ギャアギャア騒がないといけないので、退屈しないということがある。小さい大学だからこそ、ギャアギャア騒ぐと、それが意外と通ってしまうということもある。

21世紀にもなって、脳も心も1970年代以前なのが、福山市なんで、現代人の私としては、未来からやってきた私としては、文化人類学的民俗学的興味が刺激されるということもある。

日本の地方の現実って、実は、こんなものなのかもしれない・・・実は、これがニッポンなのだ・・・と、私は、びっくりしっぱなしだ。

不況も長引いているし、大恐慌も来るようであるので、日本と日本人の現実を直視して、地に足をつけて生きるしかない。私は、この福山市で、それを学びに来たのだ。

というわけで、どういうわけか知りませんが、本日の「ランド節」は(も)、『山陽新聞』備後版のコラム「芦田川」に掲載されたエッセイの元原稿3回分掲載の第3弾です!

ちゃんと、「ランド節」を書き下ろし(?)で書かずに、新聞に書いたコラムの原稿ばかり掲載しているのは、「手抜き」です。はい、「手抜き」です。

いろいろ、その都度に思うことは、facebookに書いているので、ご興味のある方々は、facebookに、いらして下さい。本ウエッブサイトの「掲示板」は閉鎖します。もう、掲示板の時代じゃないんだよ、たぶん。何の時代かわからないけれども。

何度も言いますが、あくまでも、これは元原稿です。

以下の文章と、実際に『山陽新聞』備後版に掲載されたものとは、ちょっと違う。新聞社の福山支局のデスクの方が、誤字を訂正してくださったり、漢字をひらがなにしてくださったり、難解な漢字にふりがなをつけて下さったり、括弧内に説明を加えたりしてくださったものだ。「このままだと、問題がありますので・・・」と削除された部分もある。

新聞のコラムの鉄則は、あくまでも、「毒にも薬にもならんことを書くこと」である。

だんだん、そういう書き方がわかってきたような気もするな・・・

赤い字の部分が、コラム原稿です。黒い字の部分は、私のコメントです。本日は、学期末で忙しいので、コメントも短めです。


<第7回: 2012年6月5日掲載 「黙って平和的にぐれる」の原稿>

現代日本人の人生は、忙しい。幼い時は、幼稚園や保育園に通う。それから、小学校に通う。塾にも通う。お稽古ごともある。次は、中学校に通う。塾にも通う。その後は、毎日どこかに通って働くか、高校に通う。高校卒業後は、毎日どこかに通って働くか、大学や専門学校に通う。アルバイトにも通う。そうこうするうちに、就職活動が始まる。卒業したら、毎日どこかに通って働く。何10年と働く。つまり、物心ついたときから、日本人は忙しい。ずっとずっと忙しい。

よく指摘されることだが、「忙」という字は、「心」が「亡(ほろ)」ぶ、と書く。日本の世間に流通する「人並な生活」というものに、あまりに素直に従っていると、心が亡びかねない。自分がいったい何をしたいのか、どう生きたいのか、何が大切なのか、自分に問うことを忘れる。

私は、高校2年生の秋に、こう思った。「幼稚園の頃から忙しかった。このまま忙しくしていると、気が狂う。疲れたら学校を休もう。宿題なんかしなくていい。出席日数の3分の1まで欠席が許されるのなら、ギリギリ3分の1まで休もう。学校は、テキトーに通っておこう。大学検定試験に合格するのは難しいから、高校卒業だけはしておこう」と。

それからは、確信犯的に「ふまじめ」を断行した。黙って平和的に「ぐれる」ことにした。それまでは、遅刻も欠席もせず、宿題はきちんとやり、早朝に登校して教壇を拭き清め、教室に花を飾る女の子だったのに。黙って平和的にぐれていたので、親や教師と衝突することはなかった。

自分の内面に流れている時間と、世間に流れている時間のリズムがあわないと気がつき、それが辛いと感じたら、世間から降りよう。あえて、「ぐれる」ことによって、身を守らなければならないときが、人生には何回もある。自分の心も身体も、自分で守るしかない。誰かが、静かにぐれていたら、友好的にほっておいてあげよう。また、まじめに生きる元気を取り戻すから。


<コメント>

私が前に勤務していた名古屋の女子大の短大部の同僚で、私より10歳ほど年長の人物がいたが、はっきり言ってろくでもない人間だった。ただし、彼は、絶対に欠勤しなかった。

その人物の自慢は、小学校から大学にいたるまで、忌引きで以外は、欠席はまったくない「皆勤」だということだった。

私は、「だから何だ?」と内心、思っていたものだった。しょうもな・・・

皆勤だから、仕事の内実が、いかほど無意味でも、許されるというのか?

皆勤だから、職場で、ぶらぶらといつも世間話して時間を浪費していても許されるというのか?

皆勤だから、自分に友好的につきあっている暇のない人間を敵視して、嫌がらせをしても許されるというのか?

実質のないものになど、いちいち「皆勤」で、つきあっていられるか。自分にとっては、はっきり無用で無意味であるが、そこを通過しないと、よけいにややこしくなるから、しかたないから通過しておくしかない作業など、テキトーにやっておけばいいのだ。

「くっだらね〜〜つきあってられんわ」と憑きものが落ちたように覚醒してしまった、あの高校2年生の秋以来、私は、どうでもいいな、と判断すると、何でも確信犯的にさぼるようになった。それは、就職してからも変わらない。会議も、どうでもいいと判断した場合は、さぼる。嘘ぐらい、いくらでもつく。

全然、反省してない。それで自分の神経と健康を守ってきたんだから。私が私を守らないで、誰が守るんだ。


<第8回: 2012年6月13日掲載 「『自由』は人類の宝」の原稿>

「自由」を意味する英語は、ふたつある。リバティ(liberty) とフリーダム(freedom)だ。明治の先人は、「リバティ」と「フリーダム」を訳すにあたって、「後漢書」から古代日本人が借りてきて久しい「自由」という言葉をあてた。

しかし、厳密に言えば、リバティにも、フリーダムにも、伝統的日本語で言う「自由」の意味はない。伝統的日本語の「自由」は、「気のおもむくまま」の意味である。実は、日本語の「自由」は、リバティやフリーダムが実現されている状況だからこそ、可能になる。

リバティの語源は、ラテン語のリベルタス(libertas)である。古代ローマにおいて、リベルタスを有する人間とは、「自主性を持っている人間」のことであった。 「自分の責任において、自分の人生を自分で選び、創ることができる人間」のことであった。古代ローマにおいて、人間は、前提として、不平等な世界に生まれた。最下層にいるのが奴隷だった。奴隷にはリバティはなかった。リバティの語源が意味する自由とは、圧制から解放されていること、圧政と闘って獲得するもの、である。

一方、フリーダムの語源は、インド・ヨーロッパ祖語である。フリーの語源の意味は、「愛されている人」である。フリーとフレンドの語源は同じである。フリーな人間とは、フレンドでもある。部族や家族や友人仲間などの他者と絆を結んでいる人間である。

伝統的日本語の「自由」が意味する「気のおもむくまま」は、リバティが意味する政治的自由が個人に与えられていないと、行使できない。また、フリーダムが意味する他者との絆がなければ、つまり、社会の一員でなければ、前提として、個人は自分の好みを主張する必要を感じない。

個人が「気のおもむくままに」していられるのは、政治的社会的に高度で豊かな環境においてだけである。リバティやフリーダムの訳語として、「自由」を選んだ明治の先人は、万人が気ままに生きることができる世界を夢見たのかもしれない。


<コメント>

なんて書いたけどさ、「自由」と訳した明治の先人が誰かは知らないけれども、その先人は、ほんとは、liberty もfreedomも、その意味はよくわかっていなかったと思う。

このテーマは、書きだすときりがないんで、これぐらいにしておく。

いまだに、ほとんどの日本人には、「政治的自由こそがすべてだ!」ってことは、腑に落ちていない。「気まま」なんて、「政治的自由」の派生物だってことは、腑に落ちていない。

奴隷国家、日本。


<第9回: 2012年6月20日掲載 「知識と事実は違う」の原稿>

「学校で教えられたことは、キレイごとばかりだった」と、友人が言った。そんなことは、当たり前ではないだろうか。なぜならば、学校で教えられることは、「知識」であるのだから。「知識」は、必ずしも「事実」ではないのだから。

「知識」というのは、学校という教育機関の設置者が、生徒や学生に知らせるのにふさわしいと判断したことである。それが、設置者の代理人である教師を通して、生徒や学生に伝えられる。教育機関で提示されたことを、提示されているように受け取ることが、生徒や学生が「知識を得る」ということである。

たとえば、「日本は、学問の自由や言論の自由が保障された近代国家である」ということを、教育機関の設置者が、生徒や学生に教えるべきであると判断する。だから、教科書や教師を通じて、生徒や学生は、そのように教えられる。この場合、科学技術の研究には巨額の費用がかかるから、政府や企業からの研究助成金がなくては、科学者は研究ができない。よって、科学者は、政府や企業の意に染まない研究結果は公表できないというのが、事実であったとしても、それについては言及されない。

たとえば、「日本は、主権を有した独立国家である」ということを、教育機関の設置者は、生徒や学生に教えるべきだと判断する。で、「日本は、いまだかつて植民地になったことがない」ということが、教科書や教師を通して、生徒や学生に伝えられる。たとえ、その知識が、実態や事実とかけ離れているとしても、かまわない。アメリカの公文書に、かつて日本の某政党が、アメリカの「中央情報局」(CIA)から資金供与を受けて、政策を決定したと、記録されていたとしても、かまわない。

しかし、現実を把握し、現実に対処するには、「事実」を知らねばならない。既成の「知識」だけでは足りない。学校がどうのこうのと言っていないで、サッサと自分で、事実や真実という「ほんとうの知識」を求めるしかないのだ。


<コメント>

これは、副島隆彦編著『日本のタブー---むき出しの真実ほど恐ろしいものはない』(KKベストセラーズ, 2011年)に収録された拙文「教育---教育とは洗脳である」に書いたことのリサイクルだ。

福山市立大学には、私が所属する都市経営学部と、教育学部がある。公立大学で、教育学部があるのは、福山市立大学だけらしいけれども、学生たちは、みな明るくて礼儀正しくて勤勉だ。

中学生時代あたりから「学校の先生になる!夢は教師だ!」と思ってきた若い人々の心は善意でいっぱいだ。ヴォランティア活動にも熱心だ。

彼らや彼女たちが、このえげつない社会において、学校というものが、特に公立学校というものが、そこの教師というものが、いったいどんな機能を担っているのかを、赤裸々に気づいてしまう時は、来るのだろうか。

まあ・・・マトリックスのなかで生きていくのだろうな・・・・あの子たちも。

まあ・・・それは、それで、いいのでしょう・・・・彼ら彼女たちが選んだのだから・・・

彼らや彼女たちの健気な姿を眺めていると、副島隆彦氏が教祖である「真実暴き教」の信者である私も、寡黙にならざるをえない・・・・