アキラのランド節

『山陽新聞』備後版のコラム原稿です(その4)  [07/30/2012]


はい、また「山陽新聞」備後版に掲載してもらった文章の元原稿掲載でごまかします。

お気が向いたら、読んでやってください。


第10回:2012年6月27日掲載 「恩人は雑本」の原稿

ほんとうに何度も何度も身につまされて読んだ本というのは、意外と他人に明かさない。その本は、繰り返し読み、ほんとうに実生活に役にたったからこそ、人に言えない。なぜならば、ほんとうに熱心に繰り返し読んだ本というのは、それを読んだ人間の赤裸々な欲望を示すからだ。それは、とても恥ずかしい。

そういう、ほんとうに実人生の糧になる本というのは、えてして、「雑本」として分類される書物の中にある。哲学書とか世界名作文学全集の中にはないことが多い。

たとえば、私は、アメリカ文学やアメリカ史やアメリカの政治思想を、一応は勉強してきたが、それらに関する本を繰り返して読むことはなかった。テキトーに読んだだけだ。正直に言えば、そんなことは私にとっては、切実な問題ではないから。

しかし、「つまらない男に騙されないように、いい結婚ができるように」と思い、少女時代から真剣に読んだのは、人相学とかの男性鑑定法について書かれた、いわゆる「雑本」だった。おかげで、容貌とか高学歴だとか勤務先とかで、男を判断しなくなった。晩年に至るまで、きちんとした人生を創っていける顔の相をしているかどうかだけで、男を見るようになった。だから、私は、セクハラにもあわなかったし、いい夫にも恵まれた。

つい最近、私が、その言葉を実生活の指針としてきた実業家兼作家の方が、お亡くなりになった。「邱永漢」さんだ。私は、この方が書いた「お金」に関する本に、どれだけ助けられてきたかわからない。日本の親は、きちんとした金銭教育を子どもにしない。私の両親もそうだった。言うまでもなく、学校は、人生で間違えやすい「お金」のことは、いっさい教えない。だから、私は、邱永漢さんの本で学ぶしかなかった。

明治書院から2009年に発行された『お金に愛される生き方』は、邱永漢さんの膨大な著書からの抜粋でできた名著である。邱永漢先生、ほんとうにありがとうございました。合掌。


<コメント>

この文の中の「だから、私は、セクハラにもあわなかったし、いい夫にも恵まれた。」の、「セクハラにもあわなかったし」は、記者さんによって削除された。

なぜかというと、こう書くと、「セクハラにあう女性は、男に対する判断力がないのである。不用心でアホである」と言っているに等しいからだそうだ。

あ、そうか。だよねえ。

世の中には、どう気をつけていても、姿形がセクシーで、あまりに魅力的だから、男のセクハラを誘発してしまう女性だっているだろう。また、どうやっても、呼吸をするか、セクハラしかできない変態もいるもんね。

まあ、しかし、振り返ってみると、私が無事ですんできたのは、情報収集や人間観察に努めてきたからではなく、単に、運が良かった・・・としか、いいようがないですけどね・・・

が、運だけですよ〜〜人間は〜〜では救いがない。

まあ、ささいな損は引き受けてきた「損の貯金」のおかげのせいで、大難が小難になってきたという実感は、私の場合には、しっかりあるとですよ。


第11回:2012年7月4日掲載 「根なし草でもいい」の原稿

私が好のんで読む本の著者の多くは、「中国系」か「ユダヤ系」で、かつ移民経験者である。なぜならば、私は、「根なし草」になろうとも、自分を見失わないタフな人々に憧れているから。生きることができるのならば、世界中どこにでも行くしかないほどに厳しい状況の中を生き抜いた人々からこそ学ぶべきだと、思っているから。

中国は、清朝末期から動乱戦乱続きだったので、多くの中国人が世界中に移民した。ユダヤ人が、パレスチナから世界中に離散したのは、もっと大昔だ。北のイスラエル王国も南のユダ王国も、滅ぼされたのは紀元前だ。

このような歴史的背景があるので、中国系の人々も、ユダヤ系の人々も、傾向として、国とか政府を信用していないようである。危機が迫れば、どこへでも逃げるし、どこでも生き抜いていけるように準備を怠らない人々が少なくないようだ。

しかし、どこに移民しようが、「根なし草」として差別を受けようが、中国人は中国人の、ユダヤ人はユダヤ人の矜持を忘れない。

一方、極東の離れ小島の日本は、近隣諸国に比較すれば、平和であった。統治機構というものは、前提として腐敗するものであるから、そんなものを信じて依存したら自滅すると考えるのが常識になるほどの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は、日本の為政者は行使しなかったようだ。

だから、日本においては、ひとつところで根を生やし、深く根を張る「一所懸命」な生き方が、高く評価されたのだろう。「一所懸命」であれば、食べることができたぐらいには、日本は住みやすかったのだ。だから、移民という生き方は例外的であったのだろう。

しかし、世の中は動いている。ひとつところだけに根を張って、安心して油断していてはいけない。根こそぎ抜かれることだってあり得る。想定外は起きる。一般的日本人が、「根なし草」になり、かつ日本人の矜持を忘れない生き方をせざるをえない状況が起こるかもしれない。いつまでもあると思うな、親とニッポン。


<コメント>

私の「お金の問題のお師匠さん」である、前述の邱永漢(きゅう・えいかん:1924-2012)氏は、最晩年に、このままいくと、「日本国内は2種類の日本人だけになる心配があります。毎月13万円を手にする生活保護の受給者と、彼らに選ばれた政治家です」(News ポストセブン)と、語った。

私自身は、放射能汚染で日本が住めなくなるとか、大地震で日本沈没とか、大恐慌で未曾有の収拾不可能の混乱が日本を襲うとか、そんなことは心配していない。

資本主義が終わるとか、アセンションが起きるとかも、思っていない。この世界が終わるような大恐慌なんか、そんなロマンチックなことが起きるはずない。

大昔から人類は市場で交換してきたのだし、賎民資本主義は古代からあったから、資本主義自体が消えるとは思わないし、市場がなくなるとも思っていない。

資本主義と自由市場。これが消えたら、人類は食ってゆけません!

ほんとは、だから、私は人類の未来について、特に心配はしていない。

心配なのは、日本人だ。邱永漢の語る、日本人は「どう見ても、政府に頼り過ぎですよ。なにかあったときも、すぐに国のせいにするでしょう。日本人は国を信用しているし、国が自分たちのためになにかをしてくれると思っていますよ」(玉村豊男『邱永漢の「予見力」』集英社新書、2012, p.30)という言葉に、私は共感する。

わたしは、教師という立場から、「親とニッポン」が機能しなくなったときに、「自ら生きる道を、稼げる道を、自立して食べていく道を開拓せずに、日本国内で生活保護を受けて暮らしてゆこう」と、思うような人間の生産を、阻止したいと思う。

うちの学生もなああ・・・・英作文のSelf-Introduction 150 wordsのなかで、「夢は公務員になることです」って書くのが、結構いるもんなあ・・・

生活費獲得行動と「夢」をごっちゃにしている脳のプリン状態(pudding-head)はいざしらず、「公務員になりたい」という本音は、「がんばらずに、責任を負わずに、結果を出さずに、仕事を評価されることなく、のんびり暮らしたい。それも体裁のいい外聞のいいやり方で」って、ことでしかない。

これは、「生活保護を、恒久的に受けていたい」と言っているのと本質的には同じだ。

甘いな。今の公務員の仕事って、若い公務員の仕事ほど、甘くないんだぞ・・・

政府とか自治体とかは、一般ピープルや企業から徴収する税金で運営される。言うまでもないが、このシステムは、生活保護を受ける必要のある人々や、ほとんど生活保護受益者と変わらない生き方をしている公務員よりも、はるかに圧倒的に数の多い人々が、果敢に勤勉に働き、起業し、製品開発をし、雇用を創出して、絶えざるイノヴェイションを試みて、税金を納めるからこそ、維持される。

だから、政府とか自治体は、民間の経済活動を邪魔しちゃいけない。民間が、税を納めやすくなれるように、民間が稼ぎやすくなる環境整備こそ、何よりもすべきことだけれども、役人に、そんな知恵はないに決まっているので、ならば、何もしないで邪魔するな。

収奪するしか能がないのだから、寄生するしか能がないのだから、宿主は大事にいましょう。宿主である民間の人々を疲弊させたら、自分で自分の首を絞めるよ。増税なんて、もってのほかだ。

しかし、ひたすら増税なんですねえ・・・

しかし、ひたすら規制なんですねえ・・・

でもって、自らの力で生きていける資質のある人々でさえ、どういうわけか大きな樹にすがっていないと生きてゆけないと思い込むんですねえ・・・自分では何もできないから、奴隷でいたほうがいいと思い込むんですねえ・・・行政にすがりつくんですねえ・・・

自分では何もできないって、思い込みだって、そんなもん。古代から、王国とか政府とかの統治機構は、なんも人民のためには、してきませんって。

だから、人民は、何でも自分でして生き残ってきたんだぞ。

ときどきは、賄賂渡して、役人に邪魔されないように気をつけながら、生き抜いてきたんだぞ。

いつから、何でもかんでも「行政」がやるべきだ、なんて発想に蝕まれてしまったんだ、日本人は?何だよ、「行政」って?要するに、「自分以外の他人」ってことだよな。

ときどき、私は疑う。ひょっとしたら、「日本国内は2種類の日本人だけになる心配があります。毎月13万円を手にする生活保護の受給者と、彼らに選ばれた政治家です」と、邱永漢氏が指摘するところの「2種類の日本人」って、つまり「生活保護の受給者」と「その人々に選ばれた政治家」というのは、日本人ではなくて、日本人になりすましたエイリアンなんじゃないかって。

だって、伝統的日本人って、こういう発想する人々じゃあなかったでしょう?

そうまでして、食い荒らしたくなるほどに、内部崩壊を仕掛けたいほどに、日本っていい国なんですかね??

日本内部崩壊を目論むエイリアンって、どーいう生き物?爬虫類人?

日本の大学なんて、どこも機能不全ではある。それは事実で真実である。

が、せめて、自分が勤務している大学を、「福山で生まれて福山で育った人間は、福山市役所に就職して、テレビ見て新聞読んで、何も考えずに、のんきに暮らすのが幸福である」という、その不用心な視野狭窄の、なん〜〜も面白くない、心がまったく弾まない思考にゆさぶりをかける場所にしたい、と私は思う。オバサンの主張。


第12回:2012年7月10日掲載 「陰謀論が好き」の原稿

アメリカでは、昔から「陰謀論」が盛んである。「陰謀論」とは、「世界は、ごく少数の超エリートたちが相談し決めたことによって動く。議会も政府もメディアも教育機関も、彼らの傀儡(かいらい)である。だから、庶民が事実や真実を知らされることはない」という考え方である。正確には、「権力者共同謀議」と言う。

たとえば、2001年9月11日の同時多発テロは、アルカイダというイスラム教原理主義者集団が起こした、という公式見解をアメリカ人の半分くらいは疑っている。「真犯人は、テロとの戦いという大義名分のもとに中東で戦争をすれば、巨大な利益が得られるアメリカの軍産複合体(兵器産業と軍が結託した利権集団)と、そこからの献金が欲しい政治家」という陰謀論を信じる人々は少なくない。

また、1941年12月8日の真珠湾攻撃についても、「日本軍の計画については、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ローズヴェルトは、諜報により知っていたが、わざとハワイの太平洋艦隊には知らせなかった。なぜならば、ヨーロッパの戦争に関与するのを嫌がる国民を参戦させるには、日本に宣戦布告なき卑劣な奇襲攻撃をさせておく必要があったから」という陰謀論もある。

では、アメリカ国民の利益を考えずに、なぜ大統領は、そうまでして参戦したかったのかといえば、彼自身が某秘密結社から操られていたからだ、という内容の本を、なんと大統領の娘の夫が書いて出版したこともある。

しかし、「陰謀論」盛んなアメリカをわら嗤うのは、まちがいである。アメリカ人は、社会は、自分たちが選んだ人間たちが議会で徹底的な議論を尽くして決定したことによって動くべきだ、と思う。だからこそ、「陰謀」に敏感になる。ほんとうに、国民に真実が伝えられているのか?国民の利益を第一に考えているのか?と疑う。政府見解や報道や定説を鵜呑みにせずに、「権力者共同謀議」を疑うことは、民主主義国の人間の、あたりまえの教養である。


<コメント>

山陽新聞の記者さんは、この文の最後の「政府見解や報道や定説を鵜呑みにせずに、『権力者共同謀議』を疑うことは、民主主義国の人間の、あたりまえの教養である」の、「あたりまえの教養である」というところが問題だと指摘なさった。

こう書くと、「権力者共同謀議」を疑わない人間は、政府見解や報道や定説を鵜呑みにする人間は、あたりまえの教養もない無知蒙昧な輩であると言っているに等しいからだそうだ。それで、カチンと来る読者がいるそうである。

というわけで、ここは、「『権力者共同謀議』を疑うことは、民主主義国の人間の、教養のひとつの形である」と書き換えられることになった。

記者さんによると、「教養のひとつの形である」という表現は、とても便利なのだそうだ。わかったような、わからんような表現ではありますが。

ともかくも、言葉は使いようであります。

はあ・・・・猛暑の7月が過ぎようとしている。

さっさと行けよ、過ぎろよ、猛暑の夏!お前なんか、大嫌いだ!!

私は、8月10日に、朝から夕方まで、福山地方の小学校や中学や高校の英語の先生の「教員免許状更新講習」の講師をしなければならない。ほんとは、午前中だけ担当だったが、午後のクラス担当予定であった非常勤講師の方が心筋梗塞で入院なさったので、やむなく私がすることになった。

講師料もなんも出ない仕事だから、今から、外部の方にお願いもできない。

まったくねえ・・・夏というのは、毎年私にとっては、ろくでもない季節だが、今年も、またろくでもない。

さて・・・「教員免許状更新講習」って、何をすればいいの???

なんか、教員免許というものは、10年ごとに講習を受けて試験受けて、更新されるという制度になったのだそうだよ。

へええ・・・知っていましたか?じゃあ、今では、私が大学時代に取得した中学校英語教諭免許も、高校英語教諭免許も、無効なんかしらん?

そんなことよりも、10年に1度、1年間ほどの有給休暇を先生方に提供して、外国でも、どこかの大学でも研究所でもいいから、研修に行ってもらうほうが、いいと思うのだけどね。ひいては、生徒さんたちにとっても、得るものが多いと思うけどね。

そうすれば、視野も広がり、正気にもなると思うけれどね。例の、どう見ても、「暴行脅喝殺人事件」に見える「いじめ事件」が起きた滋賀県大津市の皇子山中学のセンセイたちとか、大津市の教育委員会みたいな連中に、若い有意の先生たちが、なってしまう度合いは、かなり低くなると思うけどね。

TVで垣間見た限りの印象で行くと、あそこの校長も教育委員会のメンバーも、およそ、教師なんてツラじゃなかったな。その辺で立ち小便しているオッサンのほうが、はるかに教養も見識もあるかもしれんと、思えるような顔つきだったな。

あいつら、全員、大津市の近江神社のご祀神に祟られて、琵琶湖で溺れろ。

ま、ともあれ、8月10日は、受講生の方々にとっては退屈だけはしない類の、脳がガンガン不快にゆさぶられるような、が、正気になって思い返せば、聴いてよかったと思える6時間の講義をやっちゃおうと思っている。

私の話すことが、小学校や中学校や高校の先生の気に障らないはずはないけどね。気に障れ、気に障れ。

8月の暑い時にさあ、ヴォランティアでさあ、無料でさあ、教育学部のスタッフでもないのにやるんだからさあ、好きにしちゃう。

8月10日の仕事が終わったら、しばらく死んでいよう・・・・合掌。