アキラのランド節

『山陽新聞』備後版のコラム原稿です(その10)  [04/22/2013]


今年に入ってからは、忙しかったし、3月の体調大不調があり、あんまり書けなかった。

それと、新聞に載るのに差し障りがないような、偽善的で穏当なことって、書く気にならんもんね。そんなもん、そのへんの地方の弱小公立大学の学長にでも書かせておけばいいだろ〜〜って気分になる。

でも、多くの人に発信する機会を与えられているのだから、やっぱり、きちんと書かんといかん!!と思います。

コメント短いです。お気が向いたら、読んでやってください!



<第28回2月3 日掲載 「オンライン大学」元原稿>

インターネットが生まれたのは、20年前の1993年である。以来、インターネットは、あらゆる分野に浸透した。教育にも大いに活用されている。日本でも、2005年に、大前研一氏が経営学修士号を取得できる「ビジネス・ブレークスルー大学院」(BBT)を開設した。2010年には、BBT大学も開設された。

学位が取れるインターネット大学は設置していないが、無料のオンライン教育サーヴィスを提供している大学は、アメリカでは少なくない。iTunes大学も人気があるが、本格的なものには、スタンフォード大学の「コーセラ」(Coursera)がある。「コーセラ」には他大学も参加している。

「哲学入門」という講座は、英国のエディンバラ大学が提供している。「作文法」という文章講座はプリンストン大学が提供している。2013年1月現在で240万人以上がこのオンライン講座に登録している。もちろん、日本人も学んでいる。

これは素晴らしいことだ。インターネットにつないだパソコンさえあれば、質のいい教師の講義を視聴し、勉強できる時代が来たのだから。カネがなければ、高等教育を受けることができないというような時代は終わったのだから。インターネットは、国境も年齢も性別も人種も貧富も関係ない。勉強したい人間に学問が開かれる時代が、やっと始まったのだ。

ほんらいならば、そろそろ、公共サーヴィスのひとつとして、授業料が非常に安価な、または無料のオンライン大学が開設されるべきだ。そのようなオンライン大学は、卒業に何年かけてもいいのだし、頑張れば1年で卒業できるかもしれないというように、ユーザーにとって自由な設定が望ましい。

それに伴い、学問分野ごとの「大学卒業認定テスト」なるものが開発されればいいと思う。そのテストに合格すれば、大卒にふさわしいと判定される最低の学力があると認められ、大学から学位を得るというような。大学の「遊園地化」が嘆かれて久しいが、高い授業料を払って、そんな奇妙な場所に行く必要はない。

<コメント>

三重大学名誉教授、福山市立大学都市経営学部教授の渡邊明先生のご講義を 聴講させていただいていたときに、「今までの世界は、情報の非対称性が動かして来たけれども、これからは情報の対称性に対処していかなければならない」というわけで、う〜〜ん、おもろいなあ〜〜と思ったので、書いた。

「情報の対称性」の意味がわからない?自分で調べて、ちょんまげ。



<第29回3月17日掲載 「どうでもいい、いい人」元原稿>

友人が、自分の健康と家族のことを考え、一大決心をしてダイエットを始めた。炭水化物や甘い物を控え、1週間過ごし、体重を3キロ減らした。大成果だ。友人の大喜びの言葉に対して、「リバウンドが心配」と言った人物がいた。

体重を落とすことができた友人に対して、「素晴しい!」と、その努力を讃えることが、なぜできないのか?「リバウンドが心配」と言う必要ない。余計なお世話である。そう言った本人は、親切のつもりで言ったのかもしれないが。

私は、こういう無駄に無用にお節介な親切めかした言葉を発する人物には、非常に厳しく冷たい。その件についての否定的側面について質問されたのならば、わかる。注意すべき点を問われたのならば、わかる。そうではないのに、この種の危惧を簡単に口に出す人間というのは、自分が抱えている不安や恐怖を、自分だけで抱えていることができない。他人に伝染させないでは気がすまない。

今の日本にはびこる「日本衰退論」なども、そうである。こういう言説を垂れ流している人物には、自分個人の人生の不如意や不遇を、日本の未来に転嫁して、嘆いている暇人が多いのではないか。多くの「日本衰退論」には、きちんとしたデータも分析もないことが多い。自分の抱えている不安や恐怖や怒りを自分で処理できずに、外部に垂れ流している言論人は少なくない。

ついつい、物事の否定的な面ばかりが気になるというのは、それは気質の問題であるから、しかたない。しかし、自分自身の問題であると判断したら、それを自分の内部に保留しておくことはできる。自分自身の問題と外部の問題をごっちゃにしないで、無駄に否定的な発言は控え、他人の足を引っ張らないように用心することはできる。

世の中には、「いい人」だけれども、敬遠される人物がいる。その類の「いい人」には、無自覚にも無駄にも、自分の心配性を他人に伝染させる人が含まれている。「どうでもいい、いい人」になっても、しかたがない。

<コメント>

自分の頭の上のハエだけ追ってろ。人さまのためになんて言っても、何もできやしないんだから、お節介は焼かないこと。と、自分を戒める。



<第30回4月4日掲載 「今ごろ『平清盛』賛美」元原稿>

去年は、NHKの大河ドラマ『平清盛』に大いに楽しませてもらった。毎週日曜日には、番組が始まる時間を心待ちにした。しかし、『平清盛』は、歴代大河ドラマの中でも抜きんでて低視聴率に終わった。素晴らしい傑作であったのに。

主人公の清盛は、「武士の世」を作ろうと奮闘する。彼の作りたい「武士の世」とは、平たく言えば、「何もしないで高みから命令しているだけのミカドや公家たちではなく、自分で身体を張って戦う武士たちの労働が報われる社会」のことだ。「自分の努力と才覚で道を開拓する人間が中心となる社会」のことだ。いわば、日本中世における市民革命だ。

ただ、そうするためには、政治の実権を握らなければならない。政治システムを変えなければならない。だから、平清盛は、まずは朝廷政治の中に入り込む。大臣になる。ミカドの外戚となる。「平家にあらずんば人にあらず」と言うような強引非道なこともする。権力掌握への過程の中で、ついには、最初の志が清盛の心から消える。

このテレビドラマが史実に忠実であるかどうかは問題ではない。科学と同じく、歴史研究も日進月歩だ。今は、学問的に認められている見解でも、史実と違うと判明することもある。

私が嬉しかったのは、このドラマが、私に日本史に関する新しい視座を与えてくれたことだった。織田信長が果断に実行した政教分離にせよ、明治維新にせよ、まずは中世における市民革命であった平清盛の奮闘がなければ、ありえなかったのだ。日本の市民革命の芽は、すでに中世に生まれ、それは長い長い時間を経て、まだ生育中である。花や実をつけるのは、まだ先のことだ。私は、そのことを『平清盛』によって教えられた。たかがテレビドラマと笑うなかれ。すごい作品だってあるのだ。

ところで、『平清盛』について、どこかの県の知事が、画面が汚いと批判したそうだ。知事ともあろう者が、そんな瑣末な非本質的なことしか言えないのかと、私は今でも呆れている。

<コメント>

今でも思い出すのよ・・・去年の午後6時前のときめきを。私は、2回観てたらか。BSプレミアムで午後6時からと、地上波放送の午後8時からと・・・おお・・・『平清盛』!

2013年の大河ドラマの『八重の桜』もいいですよ!幕末、明治への、「日本の馬鹿テレビ」離れした認識のもとに製作されておりますよ。司馬遼太郎史観なんか、ブッ飛ばしておりますよ。

「坂本竜馬」なんか顔も出ないもん。「土佐の脱藩浪士」という一言だけで、後ろ姿しか出ない。

「新撰組」は、会津に雇われた、ただの頭の足りない暴力団だ。

「鉄砲などだめだ、剣や薙刀(なぎなた)のような武士(もののふ)の魂がこもっていないから」、と言う武家のお嬢ちゃんの馬鹿さ加減と、その悲劇的末路が予想できるような作り方になっている。

副島隆彦氏の一連の「真実暴き系」日本史を読んでいる奴がいるな、『八重の桜』制作陣には。

いくら人格が立派でも魅力的でも、志が高邁でも、世界基準の情報や知識がないと、あかんのよ!

日本人に足りないのは、それだよね。いまだに、そうだよ。 私も、勉強しよ。

会津藩の鉄砲撃ちの武家の女性で、維新後はミッションスクールの設立者の妻となり、のちに赤十字の看護婦さんになった「新島八重」という女性に着目したNHKのスタッフは偉い!!

やはり、腐ってもNHK.だ。腐り切ってもNHKだ。さすがだ。優秀な人材がいるんだな。