アキラのランド節

起きることは全て正しい?  [11/16/2013]


「起きることは全て正しい」という見解がある。

どう思います?

これは、つまり、「とんでもない理不尽な災難に思えることが起きても、そのことを後になって振り返ってみると、それは起きうる可能性のある事柄の中で、もっともましなラッキーな出来事だったと、私はあの時に守られていたんだ・・・と、腑に落ちる日が来る」という考え方だ。

たとえば・・・

日本があのとき太平洋戦争を起こさなかったら、南方進出をして、アジアを植民地としていた欧米列強と前面衝突をしなかったら、世界はどうなっていたか?まだ白人支配はアジアで延々と続いていたかもしれない。

日本に2発の原子爆弾が投下されたからこそ、憲法第9条は今まで存続してきたのかもしれない。原子力発電所は建設しても、核兵器をあからさまに持つことを日本は回避することができたのかもしれない。

ユダヤ人はホロコーストにあったからこそ(600万人虐殺は非現実的だが・・・)、イスラエルという国家を創設でき、世界中の善男善女の同情を勝ち取ったのかもしれない。世界中に睨みをきかせる「特別な民族」としてのブランドを保持できているのかもしれない。

こんな歴史上の事件を例にあげても、ピンとこないよな。

恋愛沙汰を例にしてみよう。

とても若い時は、いや老いても、人間は、至極つまんない類の人間に恋する(と思う)。

だから、アイドルとかの不特定多数のファンの仮想恋愛対象になるのは、ファンの妄想が投影されやすい、凡庸なタイプだよ。はっきり言って、ボケっとした美少女や美少年だよ。

非常にもてる人って、話せば退屈な俗物が多い。鋭い人間は、いくら温厚にしていても、どこか相手を緊張させるから、もてないよ。というのが私の観察。

それはさておき、学生さんでもそうだけれども、恋という、いっときの迷妄に夢中で脳がおかしくなっているのは結構いる(ようだ)。

メイルの返事がすぐに返ってこないだけで落ち込む。電話しても相手の携帯電話が電源を切っているだけのことに大騒ぎして、疑心暗鬼(?)に悶える。

そうまで恋焦がれて、恋を成就させようとするけれども、どうもタイミングが悪い。会えない。偶然会うこともない。会っても、話が弾まない。

「恋を成就させる」って、具体的には性交(前野芽理さん風に言えば交尾か)ということになるのか、よくわからないけれども、まあ、発情期の若い当事者たちにしてみれば、真剣なわけよ。この世の終りよりも重要なことなんよ。

(あ、前野芽理さんというのは、私のFacebook友だちのおひとりです〜)

たまたま、恋する対象が学食で食べているときの姿を見たら、すごい「犬食い」で、食べ物に口を近づける食べ方で、とても下品だったりして、恋心が冷めればいいけれども。

たまたま、恋する対象にニアミスしたら、無駄に厚化粧で、細かい小皺の中にファウンデーションが、きっちり埋め込まれているのが鮮やかに見えてしまったので、恋心が冷めればいいけれども。

たまたま、恋する対象が、なんか話しているが聞こえたんで、耳をすませたら、もっぱら自分の話ばかりで、人の話を聴く姿勢が芝居でもいいのに皆無だったり、実に軽薄であったりして、恋心が冷めればいいけれども。

ところが、そーいう決定的なチャンスをもらったのにもかかわらず、アホだもんだから、恋心を冷却させる感受性も良識もなく、恋心は募るに募る。

しかし、うまくいかない。片思いだ。憂鬱に落ち着きなく日々を過ごす。

そのうち、就活で忙しくなる。エントリーシートの作成もあれば、企業説明会もある。何十社受けても内定が出ない。次第に本気になる。必死になる。恋愛なんか、どうでもよくなる。

やっと秋になって、内定をもらう。よかった、よかった・・・

で、しばし休息。卒論はテキトーに作成。くたびれた〜〜〜♪ そして卒業。

そのまま数年が過ぎる。

さらに何年か経つ。

ある日、なにゆえか気になる人に出会う。なんでだか知らないが、その人とはタイミング良くスムーズに、よく会う。話も弾む。いくら話しても、話が尽きない。ごく自然に、何者かに背中を押されるように結婚する。

それから30年近くが過ぎる。

「いろいろあったけれども、この人と結婚して良かったなあ・・・・ほんとに僕は(私は)、ラッキーだったなあ・・・」と思う。

そんなときに、ひょんなことで、学生時代に恋していた人に再会する。

そうしたら、あの可愛いらしかった清楚な女性が、なんか意地の悪そうなイタイ感じのオバハンになっていた・・・

あの颯爽とカッコ良かった人が、いかにも偏狭そうな貧相なオッサンになっていた・・・

そんなとき、あなたは思う。いや〜〜失恋してよかったなあ〜〜あの恋が成就しなくて、よかったなあ〜〜〜と。

つまり、これが、「起きることは全て正しい」ということよ。

つまり、これが、「今はとんでもない理不尽な災難に見えても、後になって振り返ってみると、それが起きうる可能性のある事柄の中で、もっともましなラッキーな出来事だったと、私はあの時に守られていたんだ・・・と、腑に落ちる日が来る」ということよ。

まあ、そーいうことよ。

こういう例もありそうだな。

めでたく超大手外資系投資会社のエリート社員と結婚して、ホテル・ニューオオタニで盛大な披露宴を上げた。その夫の年収は30代で2000万円を超えていた。だから白金の高級マンションを購入できたのだけれども、そいつの実家が干渉がましくてストレスがたまる・・・と。舅も姑も大嫌い・・・と。

けれども、せっかく友人知人親類に羨ましがられる結婚をしたんだから我慢しよう・・・と思ったが、どうにも、こうにも、こいつといっしょにいると、なんも面白くないと気がついてしまう。

が、なかなか決断がつかない・・・世間体はいいからなあ・・・もともとが打算と虚栄心で結婚したんだし・・・

ところが、夫に愛人がいるのを察知!ついにキレた!!

が、ややこしい修羅場になるのは面倒だ。もうこうなったらサッサと離れたい。まだ30代半ばだから、再婚のチャンスはある!

であるからして、探偵を使っての不倫の証拠固めもしない。裁判も起こさない。『リーガルハイ』の古美門研介にも黛真知子にも依頼しない。慰謝料も請求せず、円満(?)に協議離婚した・・・と。

その後数年間は、「行動が性急であったかもしれん・・・粘って慰謝料ぐらい貰っておけばよかった・・・200万円くらいは確実に取れたかしらん」と後悔することもあった。

なかなか再婚してもいいなと思える相手には出会えないし。

しかし、仕事が忙しくてドタバタしているうちに、だいたい忘れてしまう。

一方、離婚した相手は、離婚直後に愛人と再婚する。ところが再婚後すぐに、父親が認知症になる。ストレスで母親がパーキンソン病を発症する。

せっかくの新婚時代なのに、再婚相手の女性は、ダブル介護の問題を抱える。いい施設や病院も見つからない。とことん疲弊する。ものすっごく老けちゃって、慢性疲労のために慢性便秘になり、肌はいつも大荒れ・・・と。

ついでに、不倫の末に結婚した男は、想定外のリストラにあって失業したと・・・外資系は容赦ないね・・・と。

その噂を聞いて、あなたは神様に感謝する。「ああ〜〜離婚したときは、自分だけが損ばかりの犠牲者になった気もしたけれど、あのときサッサと離婚してよかったんだわ!カネにこだわらなくてよかったわ!あの大嫌いな人々の看病も介護も、私には到底できなかったわ!」と。

つまり、これが、「起きることは全て正しい」ということよ。

つまり、これが、「今はとんでもない理不尽な災難に見えても、後になって振り返ってみると、それが起きうる可能性のある事柄の中で、もっともましなラッキーな出来事だったと、私はあの時に守られていたんだ・・・と、腑に落ちる日が来る」ということよ。

私自身の人生でも、その時点では災難や不幸や大失敗に思えたことが、あとで振り返ると、それはチャンスであったと判明したことばかりだ。その災難や不幸や大失敗があったからこそ、大きく道を踏み間違えずに来た。

つい、最近も、職場でその類のことが起きた。

私にとっては、自分には落ち度のない災難に思えた。脳タリンの同僚ふたりからかけられた単なる迷惑であって、災難と呼ぶほどの大げさな事態ではないのだけれどもさ。

でも、この事態になって良かった。そのことが起きたので、その同僚たちが、はっきり脳タリンということが判明した。前々から違和感はあったのだけれども、これではっきりした。

同僚が脳タリンでも構わん。同僚は友人でも家族でもないからね。脳タリンを脳タリンとして、ちゃんとこちらが認識していれば問題はない。その事実を前提として対処すればいい。用心して、任せられないことは任せなければ、それでいい。

この事態が起きなかったのならば、将来、深刻な問題が起きる可能性があった。私は、もっと厄介な迷惑を彼女と彼にかけられたであろう。うん。

いやいや・・・ここだけの秘密の話、福山市立大学は、どこの新設大学でもそうだけれども、丁寧に思慮を重ねて、いろいろなシミュレーションを経て、慎重に創設された大学じゃない。作るときというのは、いつだって突貫工事だ。

だから、本来は正規雇用されちゃいけないような人間が正規雇用されてしまっている。本来はその科目の担当をする力がない人間が、その科目を担当してしまっている。

じっくり吟味する余裕がないと、こういうことは起きる。

そもそも、そういう類の新設大学に来てしまったのは、私の選択であり、大失敗である。

しかし、私は、この件に関しても、「起きることは全て正しい」と思っている。早ければ数年後には、職場を福山市立大学に変えたのは、こういうことが起きることになったからだったのだ・・・と、しみじみ何者かに感謝することになると信じている。

ならば、「起きることは全て正しい」という見解は正しいのか?

いや、そうじゃない。「起きることは全て正しい」と信じて、自分の状況を迎え撃つことこそが、正しい。

「今はとんでもない理不尽な災難に見えても、後になって振り返ってみると、それが起きうる可能性のある事柄の中で、もっともましなラッキーな出来事だったと、私はあの時に守られていたんだ・・・と、腑に落ちる日が来る」のではなく、そういう日がくると信じて生きることこそが、正しい。

そう思っていれば、そうなる。

いや、ほんと、そうなのよ。

先に私は書いた。「私自身の人生でも、その時点では災難や不幸や大失敗に思えたことが、あとで振り返ると、それはチャンスであったと判明したことばかりだ。その災難や不幸や大失敗があったからこそ、大きく道を踏み間違えずに来た」と。

正しくは、こうだ。

私は、遭遇した災難や不幸や、引き起こした失敗を、ピンチではなくチャンスだと思い込むしかなかった。それしか生きる術がなかった。

遭遇した災難や不幸や、引き起こした失敗から何か学べることはないか、この事態の肯定的側面は何か、悪い頭をめいっぱい稼働させて考えるしかなかった。

「転んでもただでは起きない精神」というのとも、ちょっと違う。

そこまでのタフさやガッツはないんよ、私には。

何が起きても、それは必ず自分にとってプラスになるに違いないと蛮勇を持って思い込んで、気にしないで、生きていくしかなかった。ただ、それだけのことだ。私にできることは、蛮勇を出すことだけだったから。

神様がいるのか、守護霊がいるのか、先祖霊がいるのか、それは私にはよくわからない。

ただ、苦しいときの自分自身を支えている存在がある。前へ前へと私の背中を押す誰かがいる。私に蛮勇を出させる誰かがいる。

その存在は、神様とか、守護霊さんとか、ご先祖さまとか、亡き両親とか、そーいう感じではない。

その存在は、私とよく似た顔をしてはいるが、15歳くらいの少年みたいだ。

その少年が、「起きることは、全て正しいんだぞ」と言って、私の衣服の袖を引っ張る。

あなたは、私の「内在神」さん?

それとも、私が生まれる前に母が妊娠して流産したという、私のお兄ちゃん?

まあ、どっちでもいいわ。