アキラのランド節 |
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劣化か?進化の前触れか?----稼ごうと頑張らない夫(父)たち [06/23/2014]60年生きて迎える還暦は、「赤ちゃん」に戻り「生き直し」を始める時期だと言われる。 確かに、そんな感じ。 私は、2011年3月から(実は、2009年4月あたりからのような・・・)慢性疲労状態であった。だが、去年の終わりくらいから、じわじわっと、じょじょに元気になってきた。 なんで元気になってきたかというと、e-learning主体の英語教育のクラスだけではなく、去年度からゼミとか講義科目を担当するようになったからだ。 私は、もともと英語そのものには関心がないし、英語力もない。だから、英語に苦手意識が強い。ゆえに、英語教師としての授業ばかりだと辛い。英語の授業となると、なんもアイデアが浮かばない。 英語って、高校時代ですべて基本は終わっている・・・大学で何をするんだろ??外書講読ぐらいしかないんじゃない? でも、実際には、中学英語でさえ、できないのが日本の大方の大学生の現状である。大学の授業だけで英語ができるようになるためには、1年生で20単位ぐらい英語科目を履修しないと無理だ。週に2回の英語のクラスなんて、やらないよりは、ましだけれど、効果はない。 形骸化した英語教育の話はさておいて、2013年度から、ゼミが始まり、4学期だけだけれども講義ができるようになったから、やっと私の教師としての寂しさも緩和された。 とはいえ、2013年度はきつかった。長年の体重過多とデスクワーク時の姿勢の悪さで、どんどん骨盤が歪み、股関節もずれてしまい、去年の9月から今年の早春までは、杖を使用しないと歩行できない状態だった。 ところが、今では、杖をどこにしまったのか覚えていない。どこにしまったんかしらん?あのピンクの杖は? それもこれも、ありがたいことに、今年の2月の末に、優れた整体師さんにめぐり会ったからだ。私は、ほんとうにラッキーだ!! 整体師のW先生! どうか、おからだ大切になさってください。私の骨のメインテナンスをずっとお願いいたします!! 「僕んとこには、医者が見捨てた人と、医者が嫌いな人しか来ない。フジモリさんは、どっち?」と、問うW先生。 「嫌いというより、私は、医薬業界全体を信用していません。現代の医療も薬品も信用していません」と、答える私。 整体によって骨格が整えられ(?)、内臓がおさまるべき位置におさまり、代謝が良くなったのだろうか。体重も、とうとう念願の50キロ代になった。 なあああああ〜〜〜んと、今は58キロだ!! 20年ぶりぐらいだぞ、体重50キロ代って!!起床して、ベッドに脚を下して立ち上がる時に、膝はもはや痛くない。おお〜〜この感覚、久しぶり!! 18歳の頃は48キロだった。いくらなんでも、そこまで痩せようなんて野望はない。55キロになればいい。32歳のときの体重だ。 一番デブだった頃で、70キロ近くはあったぞ。無駄に大量に食っていたからねえ・・・就寝前に、インスタントラーメン食っていた。無茶苦茶だ。 食生活の質を顧みることもなく、デブるがままにまかせていた20年間。最近は、靴のベルトを締めるために屈んでも苦しくない。ほほほ。 これは、去年の3月の終わりから実践してきた「ナチュラルパレオ食事法」の成果のひとつでもある。 このウエッブサイトの読者である見識ある(?)みなさまなら、すでにちゃんと、崎谷博征(さきたに・ひろゆき)医師の『「原始人食」が病気を治す』(マキノ出版、2013、1333円+Tax)は、読了済みですよね?? 私、しつこく宣伝しちゃいますからね、ナチュラルパレオ食事法については。 [04/07/2013]号のランド節の「肉も魚もバンバン食っていいダイエット」を、是非とも御再読ください。 人生を変える本というものには、人は生涯のうち何冊に遭遇できるのだろうか。この『「原始人食」が病気を治す』は、真に私の人生を変えた本の一冊である!! 根本的に体調を良くしたいと思ったら、「ナチュラルパレオ食事法」しかない。リーキー・ガット(腸に微細な穴があいてしまって、有害物質が腸から血液に入りこんでしまう現象)にいたるような食品を避けるしかない。添加物入りの食品は避けるしかない。 コンビニのお弁当とか、「ランチパック」とかいうフニャフニャしたパンなんかでランチをすませてはいけない。自分でお弁当を作るのだよ。 基本的に、外食は、何を食材にしているか、わかんない。自炊した方が安全よん。集団的自衛権の前に、食の安全保障ね。 ところで、本日の「ランド節」のトピックは、「稼ごうと頑張らない夫(父)たち」についてだ。 ねえ、ひょっとして、最近の若い男性(20代から40代)は、家族を守るために、経済的責任を負うことから逃げる人が増えつつあるのかな??妻や子どものためにカネを稼ごうと頑張らなくなりつつあるのかな? という疑問を最近の私は感じるようになっている。 この傾向は、日本だけでなく、アメリカでも、そうであるらしい。 まず、日本の現象から。 4年生ゼミ生男子学生のうち2名が、なにゆえか就職活動(以後、就活と書く)しない。 4年生「卒業研究」ゼミ生は、去年の3年「専門演習」ゼミの持ちあがりだから、今年で「おつきあい」も2年目に入る。今年度の目標は、6単位の「卒業論文完成」だ。3人のゼミ生の卒論テーマは、それぞれに「小沢一郎」に「プロパガンダ」に「JA解体」だ。 指導教員たる私も、これらのテーマに関する資料を、チョコチョコと読んでいる。「農協」に関して調べてみるなんて、生まれて初めてである。 公立大学に入って来るくらいだから、3人とも頭はいい。彼らの故郷の名門進学高校出身者ばかりだ。出身高校の前身が、かの夏目漱石が教えた「旧制松山一中」である学生もいる。つまり、彼は、『坂の上の雲』の秋山好古の後輩にあたるわけだ。 彼らは、文章もきちんと書ける。 なにしろ、副島隆彦氏の『説得する文章力』(幻冬舎、2013年)をプレゼントして、ゼミでも輪読したからね。 最初の一文が肝心なんよ!!最初の文で読者を惹きつけるんだよ!「卒論」だって、レポートだって、同じだよ! 一文一情報だからね!!ひとつの文章にいっぱい情報入れ込むと、文が長くなって、主語も曖昧になってくるでしょ! あ、主語は省略しちゃ駄目よ!! 論文や課題文は、たらたらと「です、ます」体で書くんじゃないよ!!「である、だ」体だよ! しっかり断定できないようなこと書くんじゃないよ!こうだと思ったら、断定しなさいよ! 「かもしれない」とか、「とも考えられる」とか、「いかがなものであろうか」とか、逃げ道を作りながら、びくびくと書くみたいな物言いは、役人だけでいいんだからね!! とか、なんとか、副島氏の受け売りをしながら、私は、彼らの課題文を添削してきたからね。 ところがですねえ〜〜3人のゼミ生のうちの2人が・・・問題である。 彼らは、きちんとした文章を書く知力はあるのに、就活しない。すでに、4年生の夏なのに。そもそも、彼らは、アルバイトも、あまりしないのだ。 もちろん、いまどき、日本の大学院に進学しようと思うほどの馬鹿ではないよ、彼らは。 ただただ、彼らは、就活する気にならないようなのだ。労働はしたくないようなのだ。静かに漂っていたいらしいのだ。何かになりたいということもないようなのだ。 「あんさあ、ともかく、自分が食う分くらいは稼がないといけないんだよ。職に就くということは、生活費を獲得するためだけではなく、仕事を通じて社会と結び付くという意味でも大事なことなんだよ。具体的な仕事をすることによって、人は訓練されるんだからさ、家でインターネットやって、本を読んでいるだけじゃ、駄目なんだよ。自由でいるためには、ある程度のカネが必要なんだよ」と、私は彼らに何度も言う。 しかし、ふたりとも私を見つめ、黙って静かに微笑んでいるだけである。 もう〜〜〜なめんとんか!!張り倒してやろうか!! と、私の怒りを掻き立てるほど、彼らはマナーが悪いわけではない。態度が悪いわけでもない。 彼らの心には、「このまま食ってゆけなくなったら、どうしよう〜〜」なんて恐怖が、一向にわかないらしい。いずれ結婚し、家庭の経済の責任を負い、子どもを養う一家の長たる自分のイメージなんか、まったく浮かばないようだ。 ふつうさあ、彼らの年頃って、夜中に目覚めたら、「どうやって一生を食っていくんだろう、俺は・・・」という考えが生まれたら、もう眠れなくなる・・・ってもんじゃないんですか? 私の若い頃は、そうだったけどね。1970年代初頭を生きていた若い女の子には、結婚して専業主婦になるという道はあった。しかし、私は若い頃からヴォランティア趣味がない。賃金が得られない類の労働に従事する気はサラサラなかった。無料で家事労働なんてする気はなかった。 家事労働しないで、男に食わせてもらうことは考えなかった。私は、わりとフェアであることにこだわる人間だから。 私の人生で一番嬉しかった時は、岐阜県の某公立女子短大の専任講師に採用されると知らされた時だった。32歳のときだった。 あの瞬間は、踊り上がって喜んだ。 それから、いろいろいろいろあった。しかし、労働内容や労働条件について不満はあっても、労働して稼ぐことそのものから逃げたいと思ったことはない。 できれば、死ぬまで労働して稼ぎたい。だって、「カネは自由への道を開く」からね。この自由の中には、稼いだカネで人さまの手助けをすることだって含まれている。 だから、私には、うちの就活しない学生、「自分が頑張って稼いで生きて行くこと」についてピンときていない学生(男子学生だぞ!)の気持ちが、全く理解できない。 まったく理解できないと、かえって怒ったり叱ったりができない。途方にくれるだけだ。 彼らの状況は、私の若い頃の状況とは、まったく違う。終身雇用制が廃棄されつつあり、非正規雇用者が労働者の4割を占めている。正規雇用されても、「ブラック企業」に採用されたら、残業手当のつかない過剰労働と、その末の過労死が待っている。 普通の人間が、普通のペースで働ける職場というものが、どんどん収縮しつつある。 彼らが、(今のところ)「頑張って稼ごうとしない男の子」であるのは、そういう状況のなかに参入していくことの意味がわからないということなのかもしれない。自己防衛だよなあ、これだって。 ひょっとしたら、うちのゼミ生たちは、現在のアメリカに増えつつある(と私が思っているところの)「頑張って稼ぐことから撤退する夫(父)」になることを、あらかじめ回避するために、最初から、世間が前提としている「稼がねばならないゲーム」に関与しないことにしたのかもしれない。 現在のアメリカに増えつつある(と私が思っているところの)「頑張って稼ぐことから撤退する夫(父)」の問題は、近未来の日本にも起きる問題かもしれないと私は思っている。 となると、彼ら=私のゼミ生たちは、あらかじめそのような問題の当時者になる前に、「頑張って稼ぐことそのもの」から撤退したいのかもしれない。 ちょっと話は遠回りになるけれども、私の推論を聴いておくんなまし。 [01/13/2014] 号の「ランド節」に、「新しいアメリカの夢は節約と借金返済?」というタイトルの文を書いた。その中で、スージー・オーマン(Suze Orman:1951-)という「地に足のついた堅実で現実的な助言をする女性金融アドヴァイザー について、私は紹介した。
実は、この女性は、「アイン・ランド愛読者」である。なおかつ、今までに出版されたアイン・ランドの評伝の中で、私がもっとも優れていると評価している評伝の著者にアイン・ランドを知らしめた人物でもある。 その評伝というのは、アン・C・ヘラー(Anne C. Heller)という編集者&ジャーナリストの女性が書いた。1973年に大学を卒業しているから、年齢はスージーさんと同じくらいの60代半ばかな。私が調べた限り、生年は明らかにされていない。
その評伝のタイトルは、『アイン・ランドと彼女が作った世界』Ayn Rand and the World She Made (Anchor, 2009)である。 この『アイン・ランドと彼女が作った世界』は、従来のアイン・ランド評伝の中では、アイン・ランドの人間像に一番肉薄している。アイン・ランドという稀有な作家の素顔を、欠点も長所も含めて、公平に提示することに成功している。 (この本の表紙のアイン・ランドの写真・・・なんかねえ・・・・) 今までのところ、アメリカで出版されてきたアイン・ランドの評伝は、アイン・ランドの人生の軌跡を描くことが主である。 作品の分析、彼女の思想そのものの分析、彼女の思想のアメリカ政治思想における布置や意義や、アメリカ史における彼女の思想の功罪について、客観的に包括的に網羅的にきちんと論じた本は、ほとんどない。 したがって、この『アイン・ランドと彼女が作った世界』も、学術的には食い足りない。しかし、一般読者が読むには、今までのところ最高の評伝だ。 アイン・ランドの全体を正確に理解することを可能にするようなアイン・ランド自身が遺したノートや記録は、アイン・ランドの遺構管理機関でもあるThe Ayn Rand Institute(ARI)が保管している。 それらの資料にアクセスできるのは、ARIの覚えのめでたい研究者だけである。 100%アイン・ランド賛美者でないと、ARIは資料を読ませない。否定的側面も含めてアイン・ランドに肉薄しようとする人間は、ARIから拒否される。 『アイン・ランドと彼女が作った世界』の著者のヘラー女史は、100%アイン・ランド賛美派ではない。40代になるまで、アイン・ランドの作品を読んだこともなかった。だから、ARIから資料の公開は拒否された。 それにも関わらず、ヘラーさんは、アイン・ランドに関する(今までのところ)最高の評伝を書いた。すごい。 同時期に、もう一冊、アイン・ランドの評伝が、一流大学の出版局から出版された。こっちは、ARIから資料を見せてもらって書かれた学術書の体裁を持った本である。著者は、某大学の准教授だ。しかし、大部のわりには内容が薄い。タイトル負けしている。ここで紹介する必要はない本だ。だから紹介しない。 ところで、40代になるまで、アイン・ランドの作品を読んだことがなかった『アイン・ランドと彼女が作った世界』の著者のヘラー女史は、なぜ、アイン・ランドを読み、アイン・ランドの評伝を書いたのか? それは、彼女が、スージー・オーマンがお金に関する本を書いて出版したときの担当編集者だったからだ。 スージー・オーマンは、ある本からの抜粋のコピーを、編集者のヘラーさんに渡した。「私の書く本の基本的コンセプトは、ここに書いてあるから、読んでおいてね」と言いながら。 それは、アイン・ランドの小説の『肩をすくめるアトラス』のなかの数ページのコピーだった。フランシスコ・ダンコニアが、ヒロインの兄の結婚披露パーティで語る「お金こそ人間の美徳の象徴である」論のコピーだった。 それを読んで、「へえ・・・」と思ったヘラーさんは1990年代に、40代も半ば頃に、生まれて初めてアイン・ランドを読み始めたというわけだ。 私みたいだな。私が、アイン・ランドを知ったのは47歳の時だった。 やっと本題に戻ります。「頑張って稼ぐことから撤退する夫(父)たち」の話だ。
スージーさんの冠人気TVショーの「スージー・オーマン・ショウ」には、視聴者が、自分の抱えているおカネ問題を相談する”1-on-One”というコーナーがある。映像の一部は、インターネットで視聴することができる。
ところで、最近、このショーの、このコーナーに相談に来るのは、ご夫婦ばかりだ。 とはいえ、相談者は、実質的には奥さんだけだ。ご主人はしかたないから、いっしょに出演しているという風情だ。 問題は、ズバリ、「夫が家庭の経済問題から逃げている」ことだ。 ご主人が「早く引退したい」とか「会社を辞めて、大学院に行きたい」とか、「お金の問題は、君に任せるよ」とかで、奥さんが困っているというケースばかりなのだ。 どのご夫婦も、子どもは幼く、かつ複数いる。なのに、50歳そこそこの男性や、まだ40代の男性が、「引退したい」と言うのだ。 「私だけの収入じゃあ、なんともならないでしょう?」と奥さんに問い詰められると、ご主人は、「大丈夫だよ、何とかなるよ」と答える。 何ともならんわ!!
会社を辞めて、大学院に行って学位を取りたいと言うご主人もいる。 奥さんは「大学院に行くって・・・学費なんかないでしょ。奨学金は借金でしかないのよ。子どもたちの学費を、これから本気で準備しないといけないのに、これから貯金をガンガンしないといけないのに、何を言っているの!!」と怒る。 でも、ご主人は、ヘラヘラ笑って、「何とかなるよ」と言う。 何ともならんわ!! 家庭内経済の問題をご夫婦で話し合い、解決することを嫌がり、「お金のことは君に任せる。僕にはわからないから・・・」と言う夫も困ったもんだ。 クレジットカードの借金が日本円で言えば500万円以上もある。引退後の暮らしを支えるお金も積み立てが少ない。emergency fund(失業とかに備えて生活費8ヶ月分は貯金しておけとスージー・オーマンさんは言う)なんか500ドルしかない。だから、この際、ご夫婦でトコトン話し合って、歯を食いしばって、家庭内経済を立て直さないといけない。 でも、ご主人には、自分が問題解決の当事者であるという認識がない。 このようなカネの問題から逃げ腰になる夫の第1の共通点は、一種の「とうてい大人とは思えないような人見知り」だ。 この種の夫たちは、スージー・オーマンさんの番組に相談しているのに、カメラではなく、相談相手のスージーさんではなく、伏し目がちであるか、もしくは隣の奥さんに顔を向けて、奥さんの顔ばかり眺めている。 まさに人見知りのガキが、知らない人々に囲まれているのが怖くて、ママにしがみついて、ママの顔だけを見ているがごとく。 このようなカネの問題から逃げ腰になる夫の2番目の共通点は、みな、温厚であるということだ。優しい物静かなタイプであるということだ。ただし、人生の目標とか信念とかはなさそう。そんな活力とか迫力は感じさせない。 このようなカネの問題から逃げ腰になる夫の3番目の共通点は、みな、「男」とか「父」ではなく、「老けた少年」って感じであることだ。奥さんの「長男」に見えることだ。 「自分が頑張らないと家族が食ってゆけないぞ!いい教育を受けさせることもできないぞ!」と覚悟して、寡黙に耐えている風情はみじんもない。 なんなんですかね・・・この人たちは・・・ なんで、人見知りのガキのくせに結婚したんですかね? なんで、ガキのくせに、父親になったんですかね? 子どもが幼いのに、なんで引退したがるんですかね? 誰が子どもを養うんですかね? 奥さんひとりに経済的責任を押しつけるなんて、アンフェアで残酷なことが、なんでできるんですかね? わからん。 これらの「駄目夫(父)」たちに、スージー・オルマンさんは、真剣に語りかける。「私の方を見て!!私に相談に来たんでしょ?ちゃんと現実を直視しなさい!」と言う。でも、「駄目夫(父)」たちの目は虚ろだ。なんか他人事みたいな顔したままだ。 この「駄目夫(父)」たちは、中産階級の人間なのに、その現実逃避的な無責任な姿勢は、下層階級の男みたいだ。全地球規模的に、下層階級の男は女房に食わせてもらう傾向が大きい。 上流階級は、労働せずとも先祖の遺した遺産で食ってゆけるから、駄目夫(父)とか、非駄目夫(父)のカテゴリーは生じない。 中産階級は、夫が働き妻が家庭を守るという形態にせよ、共稼ぎにせよ、「家族の大人の男の成員」は働いて稼ぐ。そーいうことになっている。 下層階級の男は、下層階級の男が従事できる類の仕事は「男のプライド」を傷つけるものであることが多いので、労働から逃げる。女房に食わせてもらう。 女房のほうも同じ下層階級出身だから、「家族のために頑張って稼ぐお父ちゃん」が家庭内に不在であった。そーいう男は成育歴の中で見たことがない。駄目男しか見たことがない。駄目男にしか遭遇しない。だから、「男ってこういうもんでしょ」と諦めて、男を養う。貧乏には慣れているし。 ところが、中産階級の妻は、諦めきれない。「貧乏」は、中産階級にとって最も怖い疫病である。疫病にかかるわけにはいかない。夫が頑張って稼いでくれれば、その疫病にかかることはないのだから。 奥さんは離婚をしたいわけではない。夫は温厚だし、子どもも可愛がる。夫は、妻の自分に暴力をふるうわけでもない。そこそこ教養もある。ただ、カネにまつわる問題への取り組み姿勢に、タフさが欠如していることだけが、夫の唯一の問題である。 しかし、「カネにまつわる問題への取り組み姿勢に、タフさが欠如していること」は、現代人にとっては、非常に困った属性である。 だって、ぶっちゃけていえば、カネはほとんど全てだもの。カネは、ほとんど全ての問題を解決するのだもの。「最後は金目でしょ」だもの。 学校が教えてくれない人生の問題は「カネとセックス」とよく言われるけれども、セックスの問題もカネで処理できる。だから問題は、カネだけだ。 カネの問題から逃げる男は、カネの問題の責任を取らない男は、女にとっては、浮気男よりも許せないだろう。 いや、ほんと、そうなのよ。愛は、カネの後からついてくるのよ。そこんとこ、よろしく。 カネの問題から逃げる亭主の奥さんは、自分が家族の経済的責任を一手に引き受けることになるかもしれないという恐怖に圧倒されて、スージー・オーマン女史に相談する。 私は、「スージー・オーマン・ショー」の一週間遅れの収録映像をインターネットで視聴しながら、アメリカの比較的若い夫婦に増えつつある「頑張って稼ぐことから撤退する夫(父)」の問題について考える。 リーマンショック後の景気後退は、アメリカの中産階級の男たちを疲弊させてきた。仕事現場の状況が厳しくなってゆくことに対処できない男たちも多いのだろう。以前とは比較できないほど、勤務先は、無能さに冷淡になっている。「真面目で、会社に忠誠心があって、いい人である」だけでは、職が確保できなくなっている。So what? なんである。 アメリカの中産階級の子どもは、大事に育てられる。夢を見ながら育てられる。 ところが、その子どもたちが社会人になり、中堅になったあたりから、急に世の中が厳しくなった。自分の父親が現役で働いていた時代とは大違いに、労働環境は過酷で殺伐としている。子ども&青春時代と大人時代のギャップが大き過ぎる。「うすらぼんやりした少年気質」の男たちは、そのギャップに傷つくばかりだ。しだいに現実逃避的になっていく。 一方、上流階級の子どもは、祖先から継承されてきた資産を守るべく厳しく躾けられる。子どもは、幼い時から一流の物を見せられて育つので、上流階級の生活から転落しないためならば、何でもする覚悟だし、何でもする。カネに守られた獰猛で冷酷な生命力を、上流階級の子どもは養成できる。 下層階級の子どもにとっては、子ども&青春時代と大人時代のギャップはない。どちらも、ろくでもない。貧乏の不快さから逃げるために麻薬に走ったり、犯罪に走ったり、過食やアルコールやギャンブルやセックスに走ったり。そこまで破滅的に生きられない場合は、黙々と低賃金労働に勤しむ。そうやって生きて行くしかないから。 しかし、中産階級の人間は、無駄に傷つきやすい(vulnerable)。中産階級は綺麗事ばかり教えられるし、洗脳されているんで、この世の真実を直視する訓練に欠けているから、上流階級の人間のようなカネに守られた獰猛な生命力はない。かといって、下層階級の人間が持っているところの、社会的不公正さや理不尽さへの耐性もない。 そのために、中産階級の人間が、中産階級らしい暮らしを維持するための闘争に負けつつある。 つまり、中産階級が収縮しつつある。 中産階級の高齢者の親の家に、家のローンを返済できず住居を失くした息子夫婦や娘夫婦が転がり込むようになった。 なんと、そこに大学を出ても就職できない孫までが、転がり込む。高齢者の親の老後を支えるはずだった預貯金が、子どもや孫の生活費に消える。 アメリカって、独立独歩の人生を創ることをカッコいいとする人々の国じゃなかったの? アメリカって、男らしくあろう、父らしくあろうと頑張る中産階級の男の責任感によって支えられてきた国じゃなかったの? スージー・オーマン女史は、「家なんかサッサと売りなさい。家なんか買うことない。自分の家を買って持つなんて、古くさい夢よ。アメリカの新しい夢は、借金に追いたてられずに暮らすことよ」と言う。 身も蓋もない現実である・・・ 「スージー・オーマン・ショウ」に出演して、スージー・オーマン女史に相談する夫妻は、番組の中で、何枚ものクレジットカードをハサミで切り刻まされる。ローンが何十年分と残っている住宅を売却することを約束させられる。夫は、ちゃんと妻と向き合って、家庭の経済の問題を話し合おうことを約束させられる。 でも、きっと、この夫たちは、やっぱり逃げるだろうなあ。逃げ切れなくなると、心療内科に通って病気にしてもらって、向精神剤に依存するのだろうなあ。それでも逃げ切れなくなると、銃自殺でもするんだろうなあ。アメリカに毎年30,000件ある銃による死亡例の半分は、銃自殺だ。 ひょっとしたら、うちの就活しない私のゼミ生は、アメリカの「頑張って稼ぐことから撤退する夫(父)たち」現象が日本にも波及するであろうと無意識に予感しているのかもしれない。 今と近未来において、「頑張って稼ぐ」ことが、あまりにも過酷な作業を要求するものであるのならば、かつ、「頑張って稼ぐ」ことから得られる成果が、その過酷な作業の辛さを無効にするほど大きいものではないのならば、「頑張って稼ぐ」ことに何の意味があろうか。 しかし、夫や父である男が「頑張って稼ぐこと」から撤退すると、中産階級の家庭は成立しない。家庭の経済が崩壊すると、誰よりも子どもが不幸になる。中産階級の夫や父である男が「頑張って稼ぐこと」から撤退すると、自分も妻も子どもたちも、ひいては親までも不幸にする。しかし、家族のために「自分を犠牲にして頑張って稼ぐ」ような滅私奉公は、もはや先進国の中産階級の男にはできない。もちろん、女にも困難である。 それだけ、普通に働いて普通に稼いで普通の健全な経済生活を営むことが、楽ではない仕事以上に辛いきつい仕事になりつつある。 というわけで、ならば、「頑張って稼ごうとしない男の子」のままである方が、ややこしい事態に陥らないですむよ〜〜〜働きもしないし、結婚もしないし、子どもも持たない方がいいよ〜〜〜と、脳のどこかから指令を受けているのかもしれないなあ、うちのゼミ生は・・・ これは、男の劣化であろうか? 中産階級の男の克己心、自制心、忍耐、努力、勤勉、合理性をかなぐり捨てて、楽に走ろうと、下層階級のヒモ男の真似をするのは、劣化は劣化だよなあ。しかし、そう言い捨てても、何も解決はしない。何かが判明するわけでもない。 それとも、これは、長年、「頑張って稼ぐことのみ要求される人生」に耐えてきた中産階級の男たちの静かな抵抗であろうか? それとも、「頑張って頑張って稼ぐこと」以外の別の生き方が実現される時代の前触れ現象なのであろうか、この「頑張って稼ぐことをしない男の子」や、「頑張って稼ぐことから撤退する夫(父)たち」たちの少なくない出現は? 「就活をしない4年ゼミ生」のやけに静かな表情を眺めながら、私は、どんな添加物が体内に蓄積されると、こーいう能力はあるのに漂っているような闘争性に欠けた人間ができあがるんかねえ・・・」と、思う。 と同時に、「人生にラクなんかないわ。ラクじゃないからこそ鍛えられるんだ。ラクするために生まれてきたんじゃない。闘争のみが人生よ。自分の弱さや甘さと戦い、社会の不公正や理不尽と戦うことが、生きることだ。死ぬときに、自分を褒めてやるんだ。よくやった!!って」と思ってきた私は、もう旧弊な人間なんかなああ・・・とも、思う。 しかし、やはり、まあ、こいつらも、あと5年も経過すれば、コンビニ弁当とかスナック菓子なんか食わなくなれば、健全な闘争性を取り戻すかもしれない・・・とも思い返す。 だって、ゼミコンパのとき、居酒屋さんで、「好きなもの注文していいよ」と言うと、あいつら遠慮せずに大量に注文して、ガンガンと食うもんなあ。 いつもは何を食っているのか?若い男の子が、インターネットのCook Padで調理法を検索しながら旬の野菜を食すなんてことは、変態的に稀有なことだろうしなあ。 きっと、穀物と砂糖と食品添加物てんこもりの加工食品ばかり摂取しているから、人間としての健全なファイトが殺がれているに違いない・・・だから、就活もしないで、漂っているんだ・・・ みなさま、どう思います?? |