アキラのランド節

『山陽新聞』備後版のコラム原稿です(その11)  [12/26/2014]


すみません。2014年最後のランド節をまだ書いてないので、ひとまず、ここでは、久しぶりに、『山陽新聞』備後版に不定期で寄稿しているコラム「芦田川」の「元原稿」を、整理がてら、ここに紹介する。

去年から今年にかけては、あまり書けなかった。忙しくて、くたびれていたし、新聞社の担当さんが2013年の9月から変わった。今度の担当さんは、コラム原稿の催促をしない。だから、それをいいことに書かなかった。

地方新聞の、これまたローカルな地方版でも、ひょっとしたら読む人の心に残って、読んだ人が変わる契機となるかもしれないという大それたことを、やはり考えとります。

というわけで、また書き始めた。

だけど、それらのコラム原稿を放置していた。でも、ちゃんと整理しておかないとね!お気が向いたら、読んでやってください。解説文は、ほとんどなし、です。

「孤独死は問題ではない」
2013年4月24日『山陽新聞』朝刊備後版(藤森コラム番号31)

現代日本において、自宅において、誰にも看取られずに亡くなる人々の数は、年間約3万人にいたるそうだ。言うまでもなく、その人々の多くは独居の高齢者である。

その原因について、地域における人間関係の希薄さが指摘されてきた。そのために、地域の絆やつながりを作る活動が試みられている。本紙4月11日の朝刊の本コラムにおいても、弁護士の松岡幾男氏が、町内会の新しい、より魅力的な在り方を考える必要性を指摘しておられた。

私自身は、孤独死そのものについては、問題はないと思う。なぜならば、文明というものは、集団の圧力から個人を解放する方向へと進んできたからだ。孤独死が増えたことは、個人が、血縁共同体や地域共同体との濃密な関係を維持しなくても、何とか生きてゆけるようになったからこそ生まれた現象だ。自由と繁栄の証だ。

人間はいろいろである。親族や近隣との交際が煩わしい人間もいる。気ままに自分勝手に自分の空間の中で生きてゆきたい人間もいる。

ありがたいことに、現代は、ある程度の金銭と健康があれば、自分が生きたいように生きることができる時代である。高度資本主義社会という環境が、個人を、血縁や地域のしがらみから解放してくれた。近隣と付き合わないと村八分にされる窮屈な時代ではないのだ。

だから、問題は孤独死ではない。いろいろな事情の独り暮らしの人間が、誰にも看取られなくても、感謝の念を持って生を終えることもある。どんな死にも、人間の尊厳がある。孤独死について、可哀想だと憐れむのは想像力がなさすぎる。死者に対して失礼である。

可哀想なのは、死の発見が遅れ、死体が腐乱し、その死体の処理で他人に迷惑をかけるはめになったことである。ある警備保障会社は、住居の中に、生きている物体の動きが一定時間消えてしまうと、その住居を訪問し、住人の安否を確かめるサーヴィスを提供している。このようなサーヴィスが安価に利用できるようになれば、それでいいのだ。

この原稿は、「可哀想なのは、死の発見が遅れ、死体が腐乱し、その死体の処理で他人に迷惑をかけるはめになったことである」の「死体」と「腐乱し」が穏当ではないということになった。で、新聞掲載時には、「可哀想なのは、死の発見が遅れ、遺体の処理で他人に迷惑をかけるはめになったことである」と変えられた。なるほど、なるほど、いかにも繊細な日本人的心遣いであるね。


「職場ではなく仕事だ!」
2013年5月14日『山陽新聞』朝刊備後版(藤森コラム番号32)

企業コンサルタントの宋文洲氏が、ご自身のブログにおいて、「愛社精神を持つ社員は仕事ができない」と書いていらした。

会社というのは、「仕事をする人間」によって支えられている。ただ会社が好きで、会社で同僚と世間話をしていることが楽しくて、無駄に残業をしているような社員は、会社に寄生しているだけである。やたら職場との一体感を問題にする社員は無能であることが多く、自分の無能さを取り繕うために会社への忠誠心を強調する。以上が、宋氏の見解の趣旨である。

私は大いに納得した。なぜならば、私が唯一知っている職場である大学という会社の社員も、「(職場には関心がないが)仕事をする人間」と「(仕事はしないが)職場が好きな人間」に大別できるからだ。

「仕事をする人間」は、職場の社交に関心がない。会議も必要最低限であることを望む。勤務時間は仕事に集中している。一方、「職場が好きな人間」は、職場の人間関係に敏感である。同僚との会食が大好きである。職場に滞留する時間が長いが、仕事は同僚に押しつけがちである。かつ無駄口が多い。

福山市立大学も開学3年目に入り、第一期生の就職が気になる時期に入った。今年の夏には、50人ほどの学生が、福山市内の企業に「実習生」として1週間ほどお世話になる。ありがたいことだ。

学生たちには、ぜひとも、「仕事をする人間」になってもらいたい。就職とは、自分の能力を一層に向上させる機会を、職場から、いっぱいいただくことだ。人間は、現実の仕事を通してのみ、骨身に沁みて学ぶことができる。だから、職場が嫌いでもいい。愛社精神などなくていい。上司や同僚がアホでもいい。要は、仕事をすればいい。仕事ができれば、その能力はどこでも応用できる。

しかし、いまどき、「愛社精神はあるが仕事はしない社員」を雇用しているような甘い企業が存在しているのだろうか?宋氏によると、そのような社員は、世界中に生息しているそうなのだが。


「税立大学の責任と悲哀」
2013年6月16日『山陽新聞』朝刊備後版(藤森コラム番号33)

福山市立大学は、4学期制を採用している。だから、年に試験期間が4回ある。そのたびに、学生から聞くのは、「大学で勉強したいのに、午後9時までしか自習室もラウンジも使えない。週末は午後5時までしか使えない。試験期間中だけでも、夜の12時くらいまで大学で勉強できないだろうか」という苦情である。

福山市立大学は、さすがに公立大学にふさわしく、勉強熱心な学生がいる。福山市立大学の都市経営学部では、建築を学ぶこともできるので、製図室で夜遅くまで作業をする学生もいる。建築分野を学べる大学で、寝泊りして作業ができない大学はありえない。だから、午後9時に製図室を追われる学生の不満は大きい。反対に、コンピューターのある情報処理室で早朝に作業したい学生もいる。

福山市立大学の第一期生も3年生になっているので、高校時代の友人から耳にし、国立大学の工学部や理学部は不夜城であることを、すでに知っている。

当然、このような学生の苦情を教授会は無視できず、大学事務局に交渉するが、大学の事務局も辛い。学生が大学に寝泊まりしようが、早朝であろうが、勉強できるような環境を大学は用意したい。是非とも、そうしたい。

しかし管理上の問題がある。犯罪が起きる可能性もある。学生の身に何か問題が起きれば、責任を問われるのは大学側である。光熱費の問題も大きい。すべてに費用がかかる。

福山市立大学は、国からの交付金も受けているが、福山市民の税金で運営されている。なるたけ無駄な出費は抑えなければならない。教員が夜の10時過ぎまで研究室で仕事をしていると、近隣の市民から「まだ、電気がついている。税金の無駄使いではないか」という苦情をいただく。だから、教員も研究室で夜遅くまで延々と仕事をするのは自粛する。

福山市立大学は、税立大学としての責任を果たそうと努力している。が、税立大学ゆえの悲哀も大きい。この悲哀をエネルギーに変換して、状況を改善したいものだ。

じょじょに、「新聞」の地方版というローカルな場所におけるコラムにふさわしい文章を書くことに慣れてきた感じだな。つまり、穏便に綺麗事で書くこと?ははっは。