アキラのランド節 |
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視野が広くて高くて深くなると酷薄になる? [03/30/2015]すみません。すみません。すみません。すみません。 なああ〜〜んと、2015年最初の「ランド節」を3月30日に書いている。桜の花が開き始めた春に書いている。なんという怠慢。なんという遅延。 忙しかった・・・年明けから怒涛の労働だった・・・いろいろいろいろあった・・・それらについては、その都度、facebookに書いた。チョコマカとfacebookに書いて、ストレス解消した。感情のウンチがダダ漏れfacebook。私の感情のトイレfacebook。申し訳ないです、facebook友だちのみなさま。 でも、この「アキラのランド節」は、「感情のトイレ」じゃないから、気楽に排出できません。でも、便秘期間が長すぎるのもいけない。 3月23日月曜日に福山市立大学の第一期生の卒業式があった。ゼミ生3人と別れることは寂しかった。ゼミ生のうち2人には、ドサクサに紛れてhugした。卒業式の教員の特権はゼミ学生へのハグ。セクハラではないよん。 「小沢一郎研究」で50,000字の卒論を書いた「出雲君」(仮名)は、「小沢一郎政治塾」に通いながら、広島で60校以上の学習塾を展開運営する「田中学習会」で正規雇用の講師をする。まずは社会科を教える。「英語のできない文科系」では何ともならんから、英語も勉強し続けるそ〜だ。あたり前だ。やっとわかったのか! 「出雲君」は、卒業式の日は、「小沢一郎政治塾」でのディベイト大会での優勝者に与えられた小沢一郎氏の署名付き『日本改造計画』を私に見せびらかした。50,000字の卒論も小沢一郎氏に読んでいただいたそうだ。ものすっごく嬉しそうだった。 今年の6月にデイヴィッド・ロックフェラーさんが100歳になるんで、死亡も近い。後継者は甥のジェイ・ロックフェラーさんだから、つまり、小沢一郎氏が1993年に発表した「日本改造計画」に序文を書いたジェイさんだから、それに連動して、小沢一郎氏の復権があるのではないかと、この「出雲君」は期待している。 私は未読だけれども、以下のような本もある。なるほど。 「プロパガンダ」について卒論に書いた「旧制松山一中君」(仮名)は、中国地方で知られる『月刊釣り画報』の編集者になる。編集以外の仕事はする気はないと言い張り、新聞社や出版社に挑戦し続け、敗戦を重ね、卒業式寸前まで就活をしていた。 「旧制松山一中君」は、「この分野ならば景気の変動は受けませんし、絶対に需要があります!!」と言って、趣味と実益も兼ねて、「性風俗業界誌」の編集者になることを一時期は考えていた。しかし、この案は御両親の猛反対にあって頓挫した。 「旧制松山一中君」は、私にとっては、現代日本の「キャバクラ事情」とか「性風俗店」についての「貴重な情報源」でもあった。彼は、もの静かでシャイな、おっとりしたボンボン風の若者であるが、ちゃんとしっかり、するべきことはしていた。男の子というのは、わからんもんよ。 みなさま、私のゼミ生を採用して下さった月刊『釣り画報』を、よろしくお願いいたします!! あとひとりのゼミ生はJAに就職する。本人いわく「コネです!」ということである。JAは解体されるんだぞ。わかっているよね? たとえ、どうなっても、いつものあなたらしく、ポイントを押えて、要領良く生き抜くんだよ!! 私にとっては、福山市立大学が初めて迎える卒業式において、特に感慨もない。そこそこ、きつい4年間だった。しかし、ゼミ生が無事に卒業し、就職が決まったのは非常に嬉しい。卒業式は、ゼミ生の門出だから出席した。 卒業式後にはサッサと着替えて名古屋に帰った。やっと私の短い春休みが始まった。それまでも、少しずつ進めてきたアイン・ランド『水源』の電子ブック化のための改訳作業に、やっと本格的に集中することができるようになった。 が、しんどい。作業は終わらない。終わるはずねーだろ。全部で4部構成だが、まだ第3部あたりをウロチョロしている。最初から訳文を書き直している。 改訳作業自体は正月には開始していた。まずは、2003年6月に出版社にやっと提出した翻訳文を保存した「3.5インチのフロッピー・ディスク」を読み取る機器をAmazonから購入した。読み取ったファイルはパソコンに保存した。そのファイルを外付けハード・ディスクとUSBメモリーに保存した。 当時は「3.5インチのフロッピー・ディスク」花盛りの時代であった。今や生産も打ち切られた「3.5インチのフロッピー・ディスク」であるよ。 最初からの訳し直し作業はきつい。でも、改訳する機会をもらうことができて嬉しい。すっごく嬉しい。アイン・ランド『水源』の改訳作業は私の人生で、これが最後だ(と思う)。だから、念には念を入れている。 しかし、よくこんな長い小説を、登場人物がみんな演説しているばかりみたいなではあるが、やたら面白い小説を、アイン・ランドは、よくぞ30代の若さで書き上げたもんだ!! と、あらためて私は感心している。やっぱり、すごい作家だ。 と同時に、自分の能力も考えずに、こんな長編小説の翻訳をして、かつ出版してもらおうと思った自分の蛮勇と思い上がりにも驚いている。 また、こんなに読みにくい翻訳文を読んでくださった2004年出版ヴァージョン『水源』の読者の方々の寛大さに感謝するばかりだ。申し訳なかったです。悪文ばかりの翻訳をお読みくださり、ありがとうございました! みなさま、新訳『水源』も是非とも読んでくださいね!! 原文への無駄な忠実さは大胆にもふり捨てました。だから、うんとうんと読みやすくなっています! 誤訳もなくなり、漢字にルビもいっぱいです。アイン・ランドの序文もついた改訳『水源』を、是非とも是非とも、読んでやってくださいね!! 話は、今回の「ランド節」の冒頭に戻る。 今日にいたるまで「ランド節」を書くことができなかったのは、単なる生活費獲得労働による疲労のせいだけだったろうか?時間不足のせいだけだったろうか? 私は、これは「老人性鬱病」もしくは「初老性鬱病」の状態に、私がなっていたからだと思う。 ここずっと、朝にサッと寝床から出ることができなかった。去年の晩秋から、「湯たんぽ」を使い始めたので、その快適さに寝床を出ることができないということも理由だった。でも、すぐに寝床を出ることができないのは、湯たんぽのせいだけではなかった。 特に理由もないのに、朝の起床がグズグズになるのは、目覚めてから寝床から出るまでに数時間かかるのは、「鬱病」の症状らしいね? と言っても、私は「鬱病」と呼ばれる病気について調べる気はない。心療内科に行って、変な薬を処方されて素直に飲むほど、私は物好きじゃない。医者より自分を信じている。自己否定の趣味はない。 寝床を出るのに数時間かかっても問題はない。ちゃんと起きて労働しているんだから、いいんだよ。 ただ、困ったなあ〜〜と思うのは、最近の私が、どうも荒っぽく「酷薄 になりつつあるということだ。 たとえば、子ども虐待事件について。「いいじゃん。子どもを虐待する親のもとに生まれたら、ろくでもない人生を送る羽目になるし、遺伝子もろくでもないだろうから、サッサと死んでおいた方がいいんじゃないの。育っても面白いことなんか、なんもないって・・・」と思ってしまう。なんたる酷薄。 たとえば、ISISに捕まって処刑された日本のジャーナリストの事件について。あの事件は、実際に起きたことなのであるか?いまどき、映像なんかいくらでも捏造できるから事実ではない可能性もある。それはさておいて、あの事件に対しても、私はこう思ってしまった。 「まあ、息苦しい退屈な日本では居場所が作れなかったし、日本なんか面白くもなんともなかったのだから、あなたたちは、海外で取材するジャーナリストになった。海外体験は多かったんだから、日本人の常識が通用しないような荒っぽい人間たちが世界にはワンサカいることは知っていた。 生まれてこのかた楽しい経験なんかしたこともない殺伐とした境遇で生きてきた人々にとっては、人間の生命なんてどうでもいいってことは、知っていた。なのに、あなたたちは、あそこに行った。ひょっとして、あなたたちは、ほんとうは死にたかったんじゃないの?」と。なんたる酷薄。 我が勤務先の福山市立大学の抱える諸問題については、酷薄と言うより投げやりな気持ちだ。 「日本中の大学が機能不全なんだから、いいんだよ。大学なんて、卒業さえしておけばいいんだよ。そりゃあ、まあうちの大学にうっかり入学しちゃった子たちは可哀想かもしらんが、本気ならば、他大学に編入したり、他大学を受験し直したり、逃亡法はある。でも、ほとんどの学生は逃げない。つまり、そこそこ彼らや彼女たちは、満足しているんじゃないの? まあ、それに、どこの大学を卒業しても同じだよ。庶民ならば似たような人生を送る。税金取られて働くだけ。だから、福山市立大学でいいんだよ」と思ってしまう。なんたる投げやり。 福山市立大学は門も囲いの塀もなんもない大学なんで、ご老人が入り込んできて、図書館や学生食堂や廊下などに長居している。私は目撃したことがないのではあるが。このご老人が、図書館に置いてある新聞などから記事を破りとっていくらしい。「福山市民に開かれた大学」でありたい福山市立大学の管理を担当する部局の職員さんも、この老人に何も言えないらしい。非常識な市民なんて、どこにでもいるもんな。 こーいう事例についても、私が思うことは、ものすっごく投げやりだ。冷酷と言うべきか。 「まあ、いいじゃないの、老人ぐらい徘徊させといたら。だいたい、日本人は人生を舐めとる。人間は3人分の人生を生きるつもりぐらいでいないと、老後なんかまともに過ごせない。無為にフラフラするか、病気を趣味にするか、無駄に食うか、若い人間に嫌がらせするぐらいしかやることがなくなる。庶民というのは気の弱い愚民だから、3人分の人生を生き抜いてみせる!という気概も根性もないから、保身と安全だけに汲々として無駄に体力を温存して、長生きしちゃう。とはいえ、高齢化社会なんていっても、あと20年もすれば、今の老人はみな死んでいる。それから先は人口減少。国家財政もきついから、健康保険なんていつまで維持できるかわからん。病気になるような食品もいっぱいだから、庶民はそんなに長生きできなくなる。市立大学を徘徊する老人なんて放置、放置。いっときの問題だ」と思ってしまう。 そういえば、3月1日の日曜日には副島隆彦氏の「金融セミナー」に、大枚15,000円払って出席したときもそうだった。「金融セミナー」なんて私には全く縁がないのに、わざわざ出かけたのは、なぜだか自分でもわからない。ともかく、「金融セミナー」つーのは、これは62歳にしての初体験であった。そのとき、副島氏から聞いた言葉に私は感じ入った。 副島先生は、こうおっしゃった。「長年の不景気で、もう一般のサラリーマンとか庶民は痛めつけられて抵抗する根性も体力もない。日本を支えるのは、今や資産を持つ富裕層しかない。だから、私は、富裕層が負けないように情報を提供するのだ」と。 前の私ならば、「いや、先生、普通の庶民にこそ、真実も応援も指針も必要です。『金融セミナー』ばかりでなく、『副島隆彦の学問道場』の講演会も長時間いっぱい話してください。みなさん、先生のお話を聴きたがっているんですから」と言ったに違いない。 ところが、今の私はこう思う。「確かに・・・一般ピープルは、応援する甲斐がない。つまんないテレビや新聞に騙される。NHKが言ってことだから事実だと思うアホだ。いろいろ読むとか調べるとかすればいいけれども、日々の生活費獲得労働に消耗してしまっている。いや、メディアの嘘なんか考えるのが面倒くさいから自分から騙されていく。それぐらいに自己肯定感がない。だから、また一層に騙される。確かに、そんな人々に時間を割くのは無駄だ。ひたすら答えばかり求め、自分で考えないもんなあ。自分で考えるという孤独を引き受けられないもんなあ。つまりは、自分の人生を大事に思ってない。もうそんなのは放置するしかない・・」と。 さらに思う。「富裕層ってのは、親譲りだろうが、自力で築いたものであろうが、財産ってものがあって、守るべきものがあるから粘る。欲で粘る。これが大事だ。それがエネルギーになる。富裕層は良質の情報がタダで手に入るとは思っていないから、カネだして情報を求める。本気だ。富裕層は、自分の人生の過程で、成功体験を積み重ねてきたから、諦めない。否定的な自己イメージがないから、結局は自分が勝つと信じ込めるんで、強い。また、資産にならんものにはカネは出さない。喧嘩しても口論してもカネにはならんし資産にはならんから、他人にしょうもなくつっかかることもない。まさしく『金持ち、喧嘩せず』だ。富裕層をターゲットにする販売戦略は正しい。富裕層は優秀な生徒になれる。効率がいい。貧乏人に教えるのは、コスト・パフォーマンスが低いもんな」と。 2015年3月17日にマスコミを賑わせ、3月末日にはすでに忘れ去られてしまっている「福井大学教職大学院特命准教授42歳 が自分の助手を務めていた東邦大学院生25歳の女性を殺害した疑惑についても、私は身も蓋もないことしか思わなかった。 「特命准教授ってさあ、要するに終身雇用の准教授ではないよね。そうか、東大まで出ても、契約社員か。それで42歳じゃあ鬱屈もあるよな。赤とんぼの研究なんて、環境教育学なんて、学問未満みたいな分野じゃあ終身雇用先を見つけるのは難しい。それに教職大学院なんて、教員養成学部自体が国立大学から排除されていくのに。未来は暗い。それでは、自分を慕ってくれる大学院生の女の子と無駄に接近して気晴らしするしかなかったわけだ・・・カネないからプロの女性に遊んでもらうこともできず、つい無料の女の子に手を出したんかなあ・・・タダより高いものはないのに・・男はさあ、打算的で利己的な女を相手にしないといかんよ・・・一途で純粋なんてのと関わると、ろくでもない。そこんとこがわからないのが、いかにも教職大学院のセンセイだねえ・・」と。 こうも思ったな。 「女の子のほうはさあ、若くて無知だから、東大を出た先生のお手伝いする自分がなんか偉くなったような気がして嬉しかったんだろうなあ・・・そんなもんキャリアにも何にもならんのに。時間とエネルギーを注ぐだけ無駄なのに。所詮は、無給の助手なのに。東大出だろうが何だろうが、男が若い女に関るとういうことは、どんな綺麗事を言っても、その本音は性交したい(交尾というか。『東京アイン・ランド読者会』メンバーの前野芽理さん用語で言う交尾ね)させて!ってことでしかない。無料で研究を手伝い、性交させてあげるなんて、そーいう利他主義の愚劣さがわからないのかなあ・・・そういうのは人間性に反している。お金を払わない男は相手にしちゃダメ!! と。 だいたいが、この手の「恋愛が痴情のもつれになりました〜〜」的現象に対して、同情はしつつも、ついつい冷淡になるのは、還暦過ぎた女の特徴かもしれん。恋愛も痴情も関係なくなるからさあ。ほほほ。その清々しさよ。 恋愛というものに対して幻想が全く消えてしまったという心性は、アイン・ランド『水源』の改訳作業のときでも発揮されてしまった。「この小説って、やっぱり女が書いたものだよな・・・一種の少女小説だな」と思う。 『水源』の中心的プロットは、言うまでもなくロークとドミニクの硬派な恋人たちの出会いと別れと再会だ。47歳で読んだときには、私は大いに、この硬派な恋人たちに共感したものだ。 が・・・この恋愛は、女性であるアイン・ランドの、少女性の強い女性であったアイン・ランドの期待と妄想の産物。 あの、もしこの文を若い女性(10代から35歳ぐらいまで)たちや、比較的若い女性たち(36歳から55歳くらいまで)が読んでくださっているのならば、はっきり言っておきます。これは、私は、女子学生に話したことはない。年下の同性の友人にも話したことはない。ちょっと、身も蓋もなさ過ぎるからさあ・・・まあ、いずれ彼女たちにもわかることであるから・・・ では、今日に限って、ここに書いておくのか。やっぱ、ちょっと、なんか、非現実的な女性が多そうなんで、あえて・・・脳の一角にでも留めておいてくださいまし、これから書くことを。 あのね、若い女性(10代から35歳ぐらいまで)と、比較的若い女性たち(36歳から55歳くらいまで)のみなさん。 特に「若い女性」のみなさん。男性が、あなたに親切にしてくれるのは、男性の下心、性欲のせいです。若い男性は、自分の性欲を恋愛と錯誤します。 愛だの恋だの、互いの人格の尊重だの、対等な関係だの、そーいうことは、あなたへの性欲で頭がゴッチャになって、あなたに執着し固着している男性に対してのみ通用する(かもしれない)綺麗事です。 だから、そーいう綺麗事を通用させたいのならば、男性の性欲に、つけ込んでください。つまり、あなた自身が性欲の対象になっていられるうちに、そーいう綺麗事で言葉を飾って、煙にまいて、テキトーな男性の嫁さんに、サッサとなりましょう。 気難しい自分、夢多き自分、人生への期待いっぱいの自分を満たしてくれる恋愛も結婚も、存在しません。ひとりの男の幻想をいつもいつまでも新鮮に刺激していられるような才覚も教養も、あなたにはないはずです。だから、男性はいずれ、あなたに飽きます。男性があなたへの性欲をあなたへの愛と尊敬だと勘違いしている短い間に、そいつの嫁さんにならなければなりません。結婚したければね! で、結婚したら、結婚は「制度」であり、あなたの生活を便利にしてくれる「法に守られた慣習」であるということを忘れずに!!その制度に守られている自分の立場をしっかり保持しましょう。それ以外のことは、もうどーでもいいではありませんか。 「夫が私を顧みないわ」とか、「夫との心の交流がないわ」とか、不満を表明してもしかたないです。男性は、そんなこと考えることができるほどには、人間関係に対する精神活動が活発じゃない。かなり優秀な男性でも、そうです。理科系ならば、一層に鈍感です。 でもですね〜〜だからこそ、女は生きていけるんです。男性が単純だから。 無意識にせよ、自覚的にせよ、男性は性欲に翻弄されているので、女に手加減したりできるんです。いや、ほんとよん。 もし、男性が自分の性欲を分節化できるほどに自己の欲動と心理に対する分析力があったら、素人の女性と、ややこしい手続きを経て結婚しないです。プロの女性にお金を出して相手にしてもらう。おそらく、いろいろ計算したら、そのほうが安上がりだって。 はっきり言う。女性のほとんどは、頭も悪くて、体力もなくて、足手まといのお馬鹿だ。女であるということを除いたら、女は単に「非力な駄目男」でしかない。いや、ほんとよん。 男性に性欲があって、女に好かれたいなあ〜〜〜という下心があるからこそ、女は生き易いのです。もし、そうでなかったら、性欲に惑わされずに男の脳がクリアに女を把握したら、私たち女性の人生は、まっこと過酷なものになるでしょう。まあ、だからこそ、痴漢とかセクハラという性犯罪にさらされる危険も多くなるわけですが、それはもう負のオマケであります。 そーいう視点からすると、ロークが7年間もドミニクを待っていたという『水源』の設定は、まっことリアリティがない。別に女を作らないわけがない。設計の仕事でいくら忙しくても、やれることはやれるんだよ!と、今の私は思う。 キーティングと結婚したドミニクに対して、「僕は、自分で選択して決定して行動する君が好きなんだから、僕は君を止めない。僕の妻になり自分自身を失くしてしまった君は愛せない」みたいなことを延々と言うなんて、美しい場面ではあるが、はっきり言って、無理がある。 「しのごの言わずに僕といっしょにいよう!!さんざんいっぱい飽きるまで性交しよう!やりまくろう!!」で、いいんだよ。それが素直で自然。 でもね、こういう硬派な恋人たちの物語は、女の主体性を認める男の物語は、それはそれで、生きる糧になる。人間(アイン・ランドという作家)が想像した人間関係は、実現する可能性がある。性欲からだけではなく、かつて性欲の激しい対象であったという記憶が生む固着感情からだけでなく、女の人格について考えてくれる男が存在する可能性を夢見ることは無意味なことじゃない。 が、しかし、実際のこの現実の世の中でサバイバルしたいならば、女性は、ひとまず恋愛妄想をクローゼットにしまおう。ときどき、真夜中に取り出して慈しめばいいじゃないですか、それは。まずは、自分に向けられる性欲の中で、どの性欲が一番、自分のサバイバルにとって有利で安全で受容しやすいかを査定しよう。 という具合に、私は、どんどん酷薄になっていく・・・・ 上から目線と言いますか、鳥のごとく眺めてしまえば、みな、どうでもいいようなこと。大差のないこと。 しかし!!これは断じて言っておきますが!! この私の鳥瞰的酷薄さは、人間存在に対する冷笑には裏打ちされてはいない。私は酷薄になってはいるが、冷笑的にも侮蔑的にもなっていない。人間を嘲ってはいない。これは真実。 私は、大いに同情し共感しつつ、酷薄になっている。大いに同情し共感したって、それ以上のことはできない自分の感情自体を突き放す。だから、酷薄になってしまう。 「ああ・・・人間はどうしても、こうなっちゃうよねえ・・・しかたないよねえ・・・それはそうなるしかないよねえ・・・」という人間に対する憐憫と共感と諦念に裏打ちされた酷薄さに、人間は到達してしまうんだねえ・・・還暦を過ぎると。 視野が広くなり、現実を直視できるようになり、物事を鳥瞰的に眺めるようになると、その物事への理解も深まるけれども、表面的には酷薄になる。 その酷薄な目線は、もちろん自分自身にも向けられる。私は私自身に言っている。 「あんたさあ、勤務先についてゴチャゴチャ愚痴っているけれどさあ、そりゃ、確かに福山市の行政意識は1970年代よ。まだ20世紀だよ。田舎なんてそんなもんよ。市立大学なんてものを持つほどの水準に至っていないよ。問題は山積に決まっている。だけど、ほんとうの問題は、あんたの勤務先じゃない。問題は、あんたが教師であるってことに飽きてしまっているってことだ。もう、2008年頃には、はっきり飽きていたでしょ?若い学生たちに、ほんとうに伝えたいことなんて自分にはないって、気がついて久しいでしょ?」 「でもってさあ、あんたが待遇も研究条件もいい桃山学院大学から、とんでもなく労働条件の悪い福山市立大学に来たのは、要するに、環境を変えれば、とりあえず、飽き飽きしている教師の職業も続けられると思ったからでしょ?新しい環境に慣れるまでは、退屈しないからね。飽き飽きしていたって、慣れるまでは、その自分の気持ちを誤魔化せるからね」 「だから、勤務先のことなんかどうだっていいわけよ。問題は教師でいることを辞めることができるかどうかってこと。1953年2月生まれのあんたは、申請すれば年金は出る。だけどさ、公的年金なんて、食っていくだけがやっとよ。飽き飽きしていようが、やる気がなかろうが、なるたけ年金の掛け金を支払い続けるほうが、いい。つまり、組織で働ける限りは、働いたほうがいい。組織を離れて、独立して食ってゆけるような能力や才能があるのならば、とうの昔に独立していたんだからさあ。それができる能力がないから、ずっと大学で働いてきたんじゃないの? 「そもそも、あんたが、大学みたいなところに職を得ることができたのは、運が良かったからでしかない。『水源』の改訳作業で、あらためてわかったでしょう。ソ連からの移民の女の子が書いた語彙の少ない英語でさえ、きちんと訳せていないぐらいに英語力も日本語力もない。これだけは、学生に伝えておかないと学生が困る!!なんて確信するほどのすごい知識も知恵も、あんたにはない!!なんもない!!なのに、ちゃんと食ってこれた。なんたる幸運!!そこんとこ、あんたはよく認識できていない!!感謝が足りない!!」 「あんたは、辞めたいなあ・・・とか、もう福山をサッサと出て、名古屋に帰ってきて好きなことだけしたいなあ・・・と毎日毎日思っている。しかし、客観的に見て、『好きなことができる』老後なんか過ごせる立場じゃない。『好きなことができる』老後にはカネが必要だ。あんた、退職後も稼げるような準備は全くしていないじゃん。大学って組織に雇用されているから、毎月決まった日に給与が振り込まれる。でも、退職したら、なんも出ない。税金と介護保険料(税)と健康保険(税)だけは少ない年金支給額から、しっかり差っ引かれる。そういう社会に生きてるんだよ、あんたは」 「つまりさ、あんたは、賃金労働できるかぎりは働くしかない。あとのことは考えんでもよろしい。今までだって、怒涛の労働の中で消耗しながら、やって来た。これからも、そうする。それだけのこと。夢とか理想とか、どーでもいい。世界情勢もどうでもいい。日本の未来も関係ない。あんたが心配しても起きるものは起きる、経済恐慌も戦争も。庶民には、逃げるところもないから、何があっても生き抜くだけ。あんた個人は、死ぬまで、自分の面倒を自分で見て食っていく。その作業をきちんとやり通す。それを最後まで遂行できたら、英雄だ。ならば、あんたは、自分で自分の人生に納得できる。自分で自分の人生にOK出せる。『老人性鬱病』だの『初老性鬱病』だの、どーでもいい。そんなもん、どうってことない!!! ということで、2015年度もガンガンやります。 みなさま、アイン・ランドをよろしくお願いいたします! 「藤森かよこの日本アイン・ランド研究会」を、よろしくお願いいたします! |