アキラのランド節

「東京アイン・ランド読者会」の『肩をすくめるアトラス』読書会ご案内 & ニーチェとアイン・ランド  [10/26/2015]


重要なニュースである!!!

今回の「ランド節」は、スペッシャルに重要である!!

佐々木一郎氏が主宰する「東京アイン・ランド読者会」 が、『肩をすくめるアトラス』の読書会を開催する。

東京都内で、11月15日(日曜日)と12月6日(日曜日)と1月17日(日曜日)に開催する。

第1回 2015年11月15日(日)15:30〜17:30に、第一部「矛盾律」を読む。

第2回 2015年12月6日(日)15:30〜17:30 に、第ニ部「二者択一」を読む。

第3回 2016年1月17日(日)15:30〜17:30に、 第三部「AはAである」を読む。

必ずしもすべての回にご参加いただく必要はないです。都合のよい回のみ参加でいいのです。

会場は未定。都内の貸会議室になる感じ。

主な対象者は、「『肩をすくめるアトラス』を未読で、この機会に読破したい人」だそうです。

もちろん、もう読んじゃったよ〜〜〜って人も参加できる。

あまりに長いんで読めんわ・・・でも読みたいなあ・・・と胸の奥でジクジクと思ってきた方々には絶好のチャンスだ!!

最初の約20分で、主宰者の佐々木一郎氏がストーリーとキーポイントを紹介する。

残りの1時間半ぐらいでディスカッションをする。

『肩をすくめるアトラス』の訳者の脇坂あゆみさんも出席なさる!!

参加費は、1回につき1,000円程度を想定している。カンパ上乗せは大歓迎です、当然。

運営を手伝ってくださる方には若干割引させていただく。

というわけで、ご興味のある方は、是非とも御参加ください。

まずは、「東京アイン・ランド読者会」のサイトに飛び、気楽に参加申し込みをしましょう。

私は出席できないです。11月15日は、福山市立大学の大学祭の2日目で、「英語プレゼンテイション・コンテスト」がある。この催しの元締めであり黒幕であり、かつスポンサーのひとりでもある私は欠席できない。今回から、福山大学の学生さんたちも参戦するのだ。もっともっと充実したコンテストにするのだ!!

12月6日は、12月22日の卒業論文提出日に向けて、ゼミ生の卒論制作の支援で忙しい。東京に行っている余裕なんかねーよ。もう必死よ。卒論は必修科目だからね。6単位もあるんだぞ。

私は、「都市経営学部卒業研究要旨集」制作の責任者でもあるし、「都市経営学部卒業研究発表会」の責任者でもある。

まあ、このふたつは、自分からやると申し出た。なんとなれば、うちの同僚たちの多くは、秀才だったらしいけど、善意のいい人たちではあるけれども、やることの詰めが甘い。なんか非現実的。つまり、大学教員によくある類の人々だ。お任せするには不安がある。だから、自分でやることにした。

そいでもって、1月17日は、あの恐怖の、あの呪いの、あのしょうもない「センター試験」監督業務があるよ。

で、参加できないのよ。

みなさま!!参加ご希望のみなさま!!この『肩をすくめるアトラス』読書会に出席する前に、私の論文を読んでおくと、いい予習になると思うのよん。

まず、ここをクリックしてください。

ここから、ここに出てくる私の論文「『肩をすくめるアトラス』とアイン・ランドの思想」のファイルを開ければ、私の論文が読めます。

手っ取り早く、ここのサイトをクリックする方がいいかな。

今は便利な時代だ。図書館に行かずとも、パソコンで「CiNii」っていう国立情報研究所のサイトで検索すれば、日本国内で生産された論文のあらかたが読める。

研究者自身が、自分が発表した論文のアクセス数とか、ダウンロード数もチェックできる。

福山市立大学に赴任して、都市経営学部の紀要『都市経営』に寄稿した私の論文は、今まで5編だけだけど(もう1編は今年中に発行)、その中でも、この「『肩をすくめるアトラス』とアイン・ランドの思想」という論文は、一番ダウンロード数が多い。

2015年10月26日正午現在で、ダウンロード数は「854」だ。

つまり、854人が、私の論文をダウンロードして読んだってことだ。中にはプリントアウトして紙媒体で保管してくださっている方もいるのかもしれない。

うわああ〜〜〜!!!

これは研究者にとっては、メチャクチャに嬉しい!!

と同時に、まだまだ日本では無名のアイン・ランドではあるけれども、アカデミズムの中では、そこそこ知られつつあるということであり、これも嬉しい!!

私の近年の論文の中では、この「『肩をすくめるアトラス』とアイン・ランドの思想」という論文は短い。ついでに特にエネルギーを注いだものではない。わりかし大雑把に書いたものだ。それが、一番ダウンロード数が多いということは皮肉なことであるな。

『肩をすくめるアトラス』を実際に読みとおすのはかなわんので、それについて書いた論文を読んでおけばいいと判断した人々が、ダウンロードしてくれたらしいな。

その気持ちはわかる・・・

が!!!  やはり、ほんとうに本体の小説を読んだ方が絶対にいいよ!!

特に「奴隷道徳』から解放されたい人は。

「奴隷道徳」とは何か?

これは、アイン・ランドに深く影響を与えた(というか、与えたんだけど、肝心要のところは影響を与えそこなった)フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche:1884-1900)というドイツの哲学者が言った言葉だ。

あの「神は死んだ」って書いた人ね。

あの「事実なんてものはない。あるのは解釈だけだ」みたいな内容のことを言った人ね。

もう〜〜〜哲学界の大スターね!!

この人から影響を受けなかった現代哲学者はいないんじゃないかっていうぐらいの凄い人ね。

私も、9月にニーチェがアイン・ランドに与えた影響に関する論文を書くために、ニーチェの著作で日本語訳のあるもののうちの、ほとんどを読んだ。

私も英文学を学ぶ人間だったので、演劇も関心があったので、ニーチェの処女作『悲劇の誕生』くらいは若い頃に読んだ。ギリシア悲劇論ね。

確かに、ギリシア悲劇は違う。シェークスピアなんて、ギリシア悲劇に比較すればアホみたいなメロドラマだ。

でも、それ以外は読んだことがなかった。なんたる怠慢。

しかし、やっと読めた!!

で、すっかりニーチェ教徒になってしまった。明けても暮れても、ニーチェ、ニーチェになってしまった。

ただし『権力への意志』だけは読まなかった。なんで読まなかったか??

この『権力への意志』はね、ニーチェが狂気に陥って頭がグジャグジャになり著作活動ができなくなったので、妹のエリザベートが加筆して訂正して書いちゃったらしい。だから、これはニーチェが書いたとは言えないから、読むのは回避した。今のところは。

ニーチェを読んで、私のアイン・ランド理解は急速に決定的に進んだね〜〜〜〜!!!

ああ、もっともっと早くにニーチェを読破すべきであった!!なんじゃ、なんじゃ!!ニーチェ読まないと、アイン・ランドはわからんよ!!

で、私はわかった。

私が、アイン・ランドについて好きな点は、みな「ニーチェから受け継いだところ」だって。

私が、アイン・ランドについて違和感を持つ点は、みな「ニーチェから受け継がなかったところ」だって。

アイン・ランドがニーチェから受け継いだのは、「奴隷道徳」批判と、「生の哲学」と「超人思想」と「利己主義の肯定」だ!!

ニーチェが言ったことを、勝手にフジモリ流にまとめると、こうなる。緑色のゴシック体で書くね。論文じゃないから、いちいち出典は書かない。悪しからず。まさか、ニーチェ研究者が、このサイトを読むってことはないだろうから、ほんとにフジモリ流ですよん。

あのね、ほんとにニーチェが言っているんだからね。疑う人は、『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』読んでよ。『悲劇の誕生』と『ツアラツトゥストラはかく語りき』読んでよ。

アイン・ランドは、私が調べた限りでは、ニーチェの著作は、この4冊しか読んでない。でもまあ、この4冊読めば、ニーチェ思想は把握できるけど。

人間は、アポロ的に合理的に論理的に自律的に調和的にだけは生きられん。陶酔を求め、激情に駆られ、ディオニュソス的に生きるのが人間だよ。人間は自分の内部にとんでもないマグマを抱えている。このマグマはいつ噴出するかわかんね〜ぞ。人間存在をなめんなよ。

だから、自分の内なるエネルギーに突き動かされ、生きることを全肯定し、生の充実、拡大を求めて生きることこそが、人間の生き方だ。そのように生きる力がある人間は、人生という冒険を試みて、世界に乗り出す。それが真の貴族だ。戦士だ。英雄だ。「超人」だ。

「超人」つーのは、スーパーマンとか、超能力者とかって意味じゃない。自分の矮小な生を超えようと絶えず意欲し、行動する人間のことだ。ボケっと生まれっぱなしの動物が、超人であろうと絶えず自分を駆り立てていく。それが「人間」だ。

人間は、動物と超人の間に渡された綱だ。人生は、動物と超人の間に渡された綱を進んでいくということだ。

あのね、「超人であろうとする」ことは、これはいわゆる通俗的な出世とか成功を目指すって意味じゃないからね。そういう形に結果的にはなる人もいるだろうけれども、平凡な人間が、いろいろな不如意や幻滅を抱えつつ、自分の中のどうしようもない欲動から逃げずに人生をめいっぱい生きようとするんだって、超人を志向するのと同じことだ。たとえ、それが未来永劫同じことの繰り返しの悲劇であろうとね。それでも生きるんだ。

歴史は、そのような、超人であろうとする人間たちによって開拓されてきた。残酷にも酷薄にも、親の死体を踏み越えてでも、自分の人生の拡充を目指す人間たちの、自らの利己的な欲望を実現させようとするエネルギーこそが、人類の歴史を牽引してきた。

ところが、そのような意味としての貴族や戦士や英雄や超人の生き方ができない人々がいる。彼らや彼女たちは、自分の非力や無能さや勇気のなさを直視して、たとえそれでも超人的に生きよう、自分の人生に挑戦しようとは思わない。

かわりに、彼らや彼女たちは、生の拡充、生を肯定し、がむしゃらに突き進む欲望ギンギンギラギラの貴族や戦士や英雄たちを憎む。彼ら超人的資質に恵まれた人々にルサンチマン怨恨をいだく。他人にルサンチマンを抱いている暇があったら、もっと自分の人生に埋没しろよ、アホ!!

でもって、あげくのはてには、彼らの価値観を転倒させるような別の価値体系を打ち立てる。

それが「奴隷道徳」だ。

「奴隷道徳」は、「奴隷に甘んじて平気な弱い(?)人々、非力な人々こそが道徳的に正しいという価値観である。「弱い人々、非力で無能な人々を癒し、彼らを守ることこそが道徳的に正しいという価値観である。

その代表が、「キリスト教」であり「社会主義」である。

この奴隷道徳は僧侶階級の価値観だ。坊主は、口だけ達者で、貴族や戦士や英雄を否定する。つまり生を否定する。生きることにまつわる生の闘争を忌み嫌う。自分たちにそんな元気がないからね。

だけど、こいつら口だけは達者だ。こいつらにも、歪んでいたって、変態的なものであろうと、生きることへの欲望、生への強烈な思いはある。超人であろうとする蛮勇の断片ぐらいは彼らにも残っている。だから、黙って「負け犬」に甘んじない。

というわけで、この「奴隷道徳」の蔓延のおかげで、人類は劣化してしまった。「畜類」になってしまった。人類の歴史は進化とは程遠いものになってしまった。お行儀はいいが、退屈で青白いものになってしまった。つまんね〜〜

人間は存在の根本にディオニュソス的な、とてつもない生命力を持っているのに、それを自分の生の拡充のために使わずに、つまんない「優しさごっこ」でお茶を濁している。

それが文化で進歩だと思っている。冗談じゃねーよ。そんな偽善的なババアみたいなこと言ってんじゃねーよ。お布施で食ってる坊主みたいなこと言ってんじゃねーよ。

人間よ、もっと利己的に自分の人生を拡充せよ。ボケっとした他人なんか道具にして踏み台にせよ。世界は闘争だ。あたりまえだ。闘争の中に身を投じよ!!

はい、以上がニーチェ先生の御言葉です。

なんという素晴しい骨太なカルシウム&鉄分がたっぷりな赤い血潮が燃えたぎるようなお言葉でしょうか!

ニーチェ先生は、イエス・キリストは勇気のある面白い人物だったが、彼の死後にキリスト教組織を作ったパウロは、どうしようもない「奴隷道徳」の提唱者だと言っている。

しかし、大多数の人間は臆病で、自分の生を信じることができず、自分の生に挑まない。ここではない、ここには存在しない、どこかのあの世のことばかり考えている。現実逃避をしている。自分の生から逃げている。自分の生の責任者は自分なのに、自分の生が充実していないのは、この世の強者が弱者である自分たちを迫害しているからだと思う。そう思っている方がラクだからね。

だもんだから、パウロは大成功。パウロの主張する奴隷道徳は疫病のごとく世界に広まった。だって、彼の教えは、この世のアホどものアホぶりを正当化してくれるんだもん。

このパウロって、『水源』のエルスワース・トゥーイーみたいな奴だな。

ということで、啓蒙思想の市民革命もニーチェ先生は否定している。キリスト教の分派みたいなもんで、「奴隷道徳」だと言っている。みんな平等なんて、ありえんと言っている。「位階秩序」があるって言っている。

つまり、動物から超人に渡された綱としての人間を生きようとする人間と、「みんな同じだい〜〜〜英雄も貴族も奴隷も愚民も、みんないっしょだい〜〜〜!!」と自分の馬鹿さ加減に居直る人間が、同じであるはずないもんね。

生まれた以上は生まれたというだけで価値があり、幸せになる権利があるという人権思想も奴隷道徳なんよ。生まれっぱなしで肯定してもらえるはずないだろ。誰かに肯定されないとあかんのか。あんたの人生を肯定して差し上げる義務なんか誰にもないよ。自分で自分を肯定することができるだけだよ、人生は。

ニーチェ先生は、近代市民革命なんて嘘だって言っている。近代と言うのは、愚民を甘やかす時代だと言っている。

おおお〜〜〜〜なんと率直で正直な!!

みなさま、このニーチェの思想を知ると、アイン・ランドの『水源』や『肩をすくめるアトラス』が非常に理解しやすくなります!!

『水源』と同じく、『肩をすくめるアトラス』もまた、ニーチェ言うところの「奴隷道徳」の信奉者たち=死の信仰者たちと、真の戦士の道徳=生きることを肯定し受容し、生の拡充を夢見て挑み続ける生の信仰者たちの闘争の物語なんですよん。

私は、この「ランド節」にも書いたことがあったけれども、『肩をすくめるアトラス』について疑問があった。どのような疑問かと言えば、「ゴールトやリアーデンのような英雄たち、真のエリートたちは、なぜコロラド山中に新世界を構築するのか?世界に寄生虫のような人々はどうしても生まれてしまう。共同体の3割は、そのような自力では生きていけない人々だ。人口の3割くらいの人間ぐらいエリートだったら食わせてやればいいじゃないか。資質的に何ともならん人間は、どうしても生まれきてしまうんだから・・・」というものだった。

しかし、ニーチェの思想を通過した私は、とうとう悟ったぞ。

私もまた、人類2000年以上を支配してきた奴隷道徳に洗脳されてきたのだと。

今では人権思想と名を変えてヨーロッパを疲弊させつつある思想に毒されてきたのと。

それほどに、この奴隷道徳、死の哲学は、人類を席巻してきた。近代を作りあげてきた。

だけどさ、寄生虫はどう助けたって、しょうがないんじゃないか・・・

大きく大きく眺めたら、それは人間否定に通じるんじゃないか・・・

広い視野で眺めれば、救えない人間は救わない方が親切なんじゃないか。

だって、いくら助けても、そのような人々は死ぬまで他人に助けてもらわねば、生きてゆけないんだから。結局は救えないのだ、そのような人々は。

ならば放置するしかないよな・・・ジョン・ゴールトたちが旧アメリカを捨てたように・・・

弱い者は強い者より道徳的に優越しているのだから、強い者が弱い者を助けるのは道徳的義務であるという「奴隷道徳」にドップリつかっている人間たちは、他人に助けられることをあたりまえの権利と思い、感謝もしない。

その代表例が、『肩をすくめるアトラス』のダグニーの兄のジェイムズであり、ヘンリー・リアーデンの母や弟や妻だ。

世界は、どのような下級労働者であろうと、自分の生を肯定し、自分の仕事を愛し、責任を果たし、よりよいもの、より一層の充実を求めて生きる人間もいる。この世界を支えているのは、そのような「ささやかな超人たち」だ。

『肩をすくめるアトラス』の世界観は、人類2000年を支配してきたキリスト教や、キリスト教の分派である啓蒙思想や、社会主義の根幹である「奴隷道徳」に基づいてはいない。

ニーチェ的「生の拡充」の思想に基づいている。

19世紀末に生まれたニーチェの思想は、いまでも、とんでもない誤解を受け続けている。「神は死んだ」なんて罰あたりのこと言ったから、梅毒で狂って死んだとか言われ続けている。

ば〜〜か。梅毒で脳をやられたら、発病後10年も生きてはいられんよ。

フロイトやサルトルやフーコーなどに影響を与えた大大哲学者のニーチェでさえ、真実を言ってしまったので、毀誉褒貶悪口雑言にさらされ続けてきた。

ロシア移民のユダヤ人女性のアイン・ランドが、無茶苦茶に言われ続けてきたのも無理はない。

アイン・ランドは偉いよ。彼女自身は、ヨーロッパ最大の被差別民のユダヤ人で、女なのに、平等がどうたらとか、弱者により添えとか、そーいう「奴隷道徳」に脳を侵されなかった。頭がほんとに、いい〜〜のよ。

ニーチェも、アイン・ランドも、まだまだ理解されない。人類が、真実を、事実を直視するには、時間がかかる。だって、「奴隷道徳」の威力は凄いからねえ・・・

でも、あなた、あなたは、この際、奴隷道徳から解放されてみたいと思いませんか?

もう世界が違って見えてきますよ・・・

「東京アイン・ランド読者会」が開催する『肩をすくめるアトラス』読書会3回連続セミナー!! 是非とも、ご参加ください!!

まあ、いつか、私も「アイン・ランドとニーチェ」と題した講演をさせていただくこともありましょう。

しかし、まずは、アイン・ランドのパワフルな物語の中に、どっぷりはまっていただきたい!!

人生を愛そう!! 大肯定しよう!! 

あの世のことなんか考えんでもよろしい。あの世のこと考え過ぎて、今の自分の人生に上の空の人間が多すぎる。

創意に満ちたタフな人々の物語『肩をすくめるアトラス』に耽溺しよう!!