Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第15回 起きたことは、すべてふさわしい  [09/28/2008]


It is said that catastrophes are a matter of pure chance, and there were those who would have said that the passengers of the Comet were not guilty or responsible for the things that happened to them.

The man in Bedroom A, Car No. 1, was a professor of sociology who taught that individual ability is of no consequence, that individual effort is futile, that an individual conscience is a useless luxury, that there is no individual mind or character or achievement, that everything is achieved collectively, and that it’s masses that count, not men.

The man in Roomette 7, Car No.2 was a journalist who wrote that it is proper and moral to use compulsion “for a good cause,” who believed that he had the right to unleash physical force upon others---to wreck lives, throttle ambitions, strangle desires, violate convictions, to imprison, to despoil, to murder---for the sake of whatever he chose to consider as his own idea of “a good cause,” which did not even have to be an idea, since he had never defined what he regarded as the good, but had merely stated that he went by “a feeling ”---a feeling unrestrained by any knowledge, since he considered emotion superior to knowledge and relied solely on his own “good intentions” and on the power of a gun. ( Part Two Either-Or, Chapter VII “The Moratorium on Brains” in Atlas Shrugged)


(一般的に大災害というのは全くの偶発的な出来事であるとされているので、コメット号の乗客の身に起きたことに関して、彼らや彼女たちに罪があったわけでも、責任があったわけでもないと言う人々もいたのではあるが。

しかし、たとえば、1号車寝台室Aの乗客は社会学の教授だった。個人の能力など重要ではない、個人の努力など不毛であり、個人の良心など無用な贅沢品であり、個人の思考とか人格とか業績などないと教える教授であった。あらゆることは集団的に成し遂げられるのであり、問題は大衆であって個別の人間たちではないと、教える教授だった。

また、たとえば、2号車個室寝台室7の乗客は、「大義のため」に強制手段をとるのは妥当で道徳にかなっていると書くジャーナリストだった。この人物は、他人に物理的強制力を行使する権利が自分にはあると信じていた。他人の生活を破壊し、その野心を抑えつけ、欲望を窒息させ、信念を侵犯し、獄にぶちこみ、強奪し、殺害する権利があると信じていた。「大義」という自分自身の思想と考えることを選んだもののためならば何のためにも、そうする権利があると信じていた。ただし、その「大義」ときたら、思想である必要など全くないような程度のものだった。この人物は、自分が善と見なしたものの定義さえできたためしがない。単に、「感じ」によって、それが大義だとわかったと述べたに過ぎないのだから。その「感じ」には、何らかの知識の裏づけもない。このジャーナリストは、感情は知識より優れていると考え、自分自身の「善意」と銃の力にのみ依拠していたのである。)


★Atlas Shrugged(1957)の中で起きる出来事の中でも、私にとって最も印象が激烈な事件は「タッガート大陸横断鉄道」で起きた一大惨事です。脇坂あゆみさん御翻訳『肩をすくめるアトラス』をお持ちならば、手っ取り早く、すぐに630ページから654ページをお読みください。

★ヒロインのダグニー・タッガートの祖父(鉄道王エドワード・ハリマンがモデルのようです)が築き上げた「タッガート大陸横断鉄道」が誇る、ワシントンD.C.からサン・フランシスコを結ぶコメット号のディーゼル機関車が古いレールの亀裂のために、コロラド山中で脱線します。真夜中の零時過ぎのことでした。

★客車は無事だったのですが、予備のディーゼル機関車を持つ駅から、機関車を運んできて客車に連結すると目的地のサン・フランシスコに着くのが、最低12時間以上は遅れるという事態になります。

★ところが、乗客の中に、その日にサン・フランシスコでの演説会を控える高級官僚キップ・チャルマーズがいました。彼は、官僚の世界を昇りつめて政界に打って出ようと、まずはカリフォルニア州から立候補をすることになったのです。不測の事態に備えて一日前にカリフォルニア入りすべきだったのですが、首都でのパーティ出席のために列車に乗るのを、ぐずぐずと遅らせました。「女優になる才能がなくスターにしかなれない」愛人や仲間を引き連れて最終の夜行列車コメットで、酒に酔って息巻いていたところに、脱線事故が発生しました。

★チャルマーズは鉄道員に列車を出発させることを強要します。予備のディーゼル機関車が近くの駅にないという説明を受けても、承知しません。近くの駅にあるのは、使用されていない古く大きな蒸気機関車だけです。それでは客車を牽引して走ることはおろか、途上にあるトンネルを抜けることもおぼつかないのです。トンネルは劣化して換気装置が機能しないうえに、もともとが噴煙を出す蒸気機関車用には設計されていません。蒸気機関車がトンネルを通過すれば、それが吐き出す煙がトンネル中に充満して、客車の乗客が窒息死することは明らかです。

★立候補演説会のことしか念頭にないチャルマーズは鉄道員たちを恫喝(どうかつ)します。鉄道員たちを従わせるために当局へ電話をかけ、鉄道会社社長のジム・タッガートに連絡し圧力をかけます。常日頃から判断力がなく卑怯な社長は、チャルマーズの要望に従うよう社員の鉄道員に命じます。危機や緊急の場合に、無能な兄の社長にかわって適切な判断をして会社を救ってきた妹のダグニーは、兄や重役会と対立して会社を辞めた後でした。ジムは今回ばかりは厄介な問題を妹に押し付けることができません。

★とうとう旧式の蒸気機関車が客車に連結され、列車は走り出します。トンネルは噴煙で塞がれ、ついで大爆破が起きます。同じ路線をコメット号が走っていることを連絡されなかった後続の貨物列車が、トンネルの中で停車したコメット号に激突したからです。その貨物列車は火薬を積んだ軍事用列車でした。トンネル爆発前に乗客全員がすでに窒息死していました。

★この惨事は、起きるのが当然の事故でした。起きるのが当然のことを回避する当然のことを誰もしなかったのは、なぜか?だいたい、全米一の鉄道会社がなんで劣化したレールを取り替えていなかったのか、換気装置が故障しているトンネルを修理しないですませていたのか、官僚の命令に民間の鉄道員たちは従う義務などないのに、なぜ彼らは命令に従ったのか?

★この小説世界においては、この事故が起きる前に、すでにいくつかの法律が施行されていました。「協同的共生社会」の実現という共通善のために、政府は、発明家や産業家や労働者が努力と頭脳で獲得した利益を国家が管理して「必要に応じて」国民に分配することをめざします。まず、「反競争法」(Anti-Dog-Eat-Dog Rule)を立案し施行しました。

★次に、「機会均等法」(Equalization of Opportunity Bill)が施行されました。優れた製品やサービスを提供できるがために市場で優位に立つ企業は、他の企業にとって脅威となり、公共の福祉に反するので、すべての会社が、規模に応じて必要な利益が得られるようにするための法律です。これは国営化ではありません。優良企業の利益を無能企業に分けるので、無能企業の無能経営者だけが潤います。

★さらに、社会の安定のために、労働者や従業員の離職や転職や解雇を禁じる「10ー289号指令」(Directive 10-289)が出されました。労働の自由市場は消えました。どんな悪質な労働者でも解雇すれば違法。職能に秀でた人間をスカウトするのも違法。別の職を求めることも違法。優秀な人材を新たに採用する余地がなくなり、責任を持って職務に従事し成果を出す労働者に報いる手段が消えました。Incentiveが失われた労働現場は荒廃します。

★「反競争法」により競争を禁じられた企業は企業努力を怠り、良質の商品やサーヴスが提供されなくなりました。無能な企業でも「機会均等法」のおかげで、収入は確保されますから、なお一層に、良質の商品やサーヴスがアメリカから消えていきます。鉄道のレールが劣化しても、レールを提供する鋼鉄会社が鋼鉄を生産しないのです。受注されても納期に間に合うように生産されないのです。良質な鋼鉄を生産でし、納期内に収めることができる会社は、「反競争法」違反により、企業資産を国家から没収されるのです。

★じょじょに、社会全体が停滞し、社会の機能不全は進行します。物も有能な人材も生産性高い企業もみな消えていきます。人々は混乱し希望を失い疲弊します。そうした情況の中で、この大惨事は起きたのです。

★そんなアホな法律が議会を通過するはずがない?ロシアの社会主義革命によってブルジョワの立場から困窮生活を強いられたアイン・ランドのトラウマが生んだ馬鹿げたほどに極端な漫画みたいな世界が、『肩をすくめるアトラス』の世界?この小説に関するアマゾンのレヴューのなかに、「冷戦時代ならば意味もあったろうが、いまさら社会主義風刺小説など意味があるのか」という類の否定的評がありました。あなた、この小説は、そんな短いスパンで読まれるべきものではないですよ。

★『肩をすくめるアトラス』は、みなが必要に応じて富を享受できる格差のない平等な互助精神に満ちた社会を作るという「大義」実現のために、自由競争を廃し、富を分配し、労働を固定化(安定化)させると政策の結果として、富が生産されず流通されず人材も払拭して停滞荒廃していくアメリカを描いています。アイン・ランドは、ほんとうに合理的な正しい意図と政策ならば、悲惨な結果を生むことはないと信じる人です。結果が悲惨ならば、原因の「善意」に問題があると考えます。

★そもそも富とは何か?生き物の使命は生き延びることなので、人間もまた生き延びるために頭脳や肉体を駆使して自然に働きかけて、生き延びるために役立つものを生産します。それが価値です。富です。創造性のある人々の発明改善改革によって、より一層に人間が生き延びるために役立つものが生産され、それらが流通して多くの人々の手に渡り活用されていくことで、人間社会の進歩は牽引されます。その進歩によって、人間の生の質がさらに向上し、より豊かな生き方を模索し、それに応じた物がまた開発発明されてゆきます。したがって、人間と人間社会が生き延びることは、人間の活動を前提としています。努力や職務遂行能力や業績を求める競争を前提としています。この競争は、局地的には勝者と敗者を生み出しますが、長期的に見れば、これはwin-win gameです。

★こういう大きく見たら、長期的に見たらwin-win gameである人間社会の競争や営みの激しさを否定し、平和で穏やかな競争のない、努力をせずとも生きていける「優しい社会」形成は、実に魅力的ではありますが、それは結果として「死の世界」を生むだけではないかとランドは言うのです。

★そりゃ、原始時代のままでも、なんの社会の進歩もなくても、人間は生まれて生きていくでしょう。みんな原始人なら富の偏在も格差もないです。しかし、人間が原始人のままでいいのならば、なんで人類には脳なんてややこしいものが搭載されているのか?搭載されているものは使うべきものではないでしょうか?足があるなら歩く。手があるなら手も指も使う。目があるならガンガン視る。性器があるなら性的に使う。脳と心があるなら、ガンガン使用して精度を上げる。そうやって、人類はここまで来たし、さらに、未来は、なにやら人間より高次な存在へと進化していくのかもしれないのです。人間外みたいな、人類外みたいな人々もメディアをにぎわせてはいますが、全体的に見れば、やはり社会は人間は、良き方向に来ているのではないでしょうか?

★大きく見たら、長期的に見たらwin-win gameである人間社会の競争や営みの激しさを否定する「善意」の奥底に、ランドは「恐怖」と「狡猾」を見ます。論功が人々を駆り立ててゆく苛烈さに臆病になるあまりに、生きて闘うという生き物としてまっとうなことまで恐れ忌み嫌う人々から、ランドは目を逸らしません。大きなwin-win gameに参入するのが面倒くさいけど、そのゲームの成果だけは欲しい怠惰さ&狡猾さを、正義感にすりかえる人々から、ランドは目を逸らしません。まっとうな競争を廃した世界、人材の流動性が抑圧された社会、業績を生み出した人々に対して直接的に報いることをしない世界(利他主義的世界)を作ることによって、「生きて闘う」ことをいっさいなくそうとするのは、結局は、人間をやめること、生き物であることをやめることに等しいのです。

★「生きることが怖い、でも他人から収奪してでも生きていたい、人間やめたくはないけど、人間がやることはしたくない」という無茶苦茶な人間って、確かに現実に、いっぱい存在します。私が嫌いな人間は、このタイプに集約されます。

★今回の引用文は、「起きたことは偶然ではなく、あなたのしたことの結果だよ」というアイン・ランドの合理的思考の一例として紹介したのですが、話が他の方向に行ってしまいましたね。申し訳ありません。

★引用では社会学教授とジャーナリストしか紹介しませんでしたが、『肩をすくめるアトラス』には、爆発した客車に乗っていた乗客について、どんな罪があったのか、どんな責任があったのか(責任を果たさなかったのか)何人も何人も記述しています。最初のレール脱線事故から、トンネル内での乗客全員窒息死に、軍用列車との激突まで、それらの事故は、生に対する否定的精神(=個人の尊厳をかけてそれぞれの人間が努力し義務を果たすことによって社会がまっとうに機能し、より向上してゆくwin-win gameを否定する心性)が伝播し蓄積した結果です。コメット号の乗客全員が、その事故を生む否定的心性の持ち主で、その心性が命じるように行動していた人々でした。

★アイン・ランドが言いたいことは、要するにこういうことです。何か惨事や事故が起きたとき、あなたがオトナならば、無垢で無辜(むこ)の被害者面をしないように。世界のありようが邪悪なものであるのならば、その責任はあなたにあるかもしれない、あなたに罪があるかもしれない、ということなのです。起きることは、すべて理不尽じゃない。起きてしかるべきことしか起きない。前世の報いではありません。ちゃんと今世にやっているんだよ!

★私は水洗トイレの水をいっぱい使うしなあ・・・買って一年もしないうちに飽きて捨てたバッグはいっぱいあるしなあ・・・面倒くさいとメイルの返信もしないし、折り返し電話もかけないし・・・人様にしてもらったことは忘れるし、食う必要もないときでも食うし・・・批判悪口大好きだし、「自業自得のネタ」いっぱいあるのよね〜〜〜今までに事故に会わずに死んでいないのも、男に騙されずにすんだのも、大病していないのも、奇跡なのであります・・・これから大災害にあっても、自業自得だから、天も人も世界も呪わずに、敵を捏造して憎ますに、生き抜こう。