Ayn Rand Says(アイン・ランド語録) |
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第17回 政府は別れることが不可能な(潜在的)DV男 [10/12/2008]Anarchy, as a potential concept, is a naive floating abstraction: for all the reasons discussed above, a society without an organized government would be at the mercy of the first criminal who came along and who would precipitate it into the chaos of gang warfare. But the possibility of human immorality is not the only objection to anarchy: even a society whose every member were fully rational and faultlessly moral, could not function in a state of anarchy; it is the need of objective laws and of an arbiter for honest disagreements among men that necessitates the establishment of a government. A recent variant of anarchistic theory, which is befuddling some of the younger advocates of freedom, is a weird absurdity called “competing governments.” Accepting the basic premise of the modern statists---who see no difference between the functions of government and the functions of industry, between force and production, and who advocate government ownership of business---the proponents of “competing governments” take the other side of the same coin and declare that since competition is so beneficial to business, it should also be applied to government. Instead of a single, monopolistic government in the same geographical area, competing for the allegiance of individual citizens, with every citizen free to “shop” and to patronize whatever government he chooses. Remember that forcible restraint of men is the only service a government has to offer. Ask yourself what a competition in forcible restraint would have to mean. (“The Nature of Government” in The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism) (政治的概念としての無政府は、素朴にも浮遊する抽象概念でしかない。いままでに論じてきた理由により、組織化された政府がない社会は、その社会にやってきた最初の犯罪者の意のままになるだろう。その犯罪者は、自分が入り込んだ社会を暴力団の抗争のような混沌に投げ込む。しかし、人間が不道徳に陥る可能性だけが、無政府状態に対する私の異議の理由ではない。構成員がみんな十分に合理的で、間違いなく道徳的な社会でさえも、無政府状態になれば、機能しない。政府の設立を必要とするのは、人間と人間の間に生じる正直な意見の不一致というものに備えて客観的法律と仲介者が要求されるからである。 無政府理論の最近の例として、これは自由を提唱する若い世代の人々のいくらかを混乱させつつあるのだが、「競合する複数の政府」と呼ばれる気味の悪い馬鹿げたものもある。現代の国家主義者というのは政府の機能と産業の機能の区別もつかないし、武力と生産力の区別もつかない。国家主義者は政府が企業を所有することを提唱したりするのであるが、一方の「競合する複数の政府」支持者たちは、国家主義者とは違っているように見えて、彼らの基本的前提を受け入れている。実は同じコインの片側を提唱している。「競合する複数の政府」支持者たちは、競争は事業にとっては実に利益があるから、競争を政府にも適用すべきだと宣言するのである。ひとつの独占的政府のかわりに、同じ地域に、さまざまな違った政府があるべきだと言うのである。それら同一地域にあるさまざまな統治機関は、個々の市民への忠誠を競いあうだろうし、どんな市民も、どの政府でも好きに選んで「買い物」して支持すればいいと言うのである。 人々を強制的に抑止できるのは、政府が提供できる唯一のサーヴィスだということを、ここで思い出さなければならない。強制的に抑止する行為を競争する状態が、いったい何を意味するか考えてみよう。) ★この「ランド語録」に取り上げるランドの文章が、だんだん長くなるじゃないか、うざいじゃないか、読みづらいじゃないか〜〜という御不満をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。しかたないのですよ。アイン・ランドの言葉を、ランドが意味する文脈が見えるようにきちんと紹介しようと思うと、引用文が長くなる場合もあるのですよ。 ★アイン・ランドは、テキトーな長さの洒落た警句を放つ類の作家ではありません。骨太に生硬(せいこう)に真正面から物事を考え書く作家なのです。「ケータイ小説」のスタイルで、『水源』や『肩をすくめるアトラス』は書けませんし、読めません。悪しからず御了承ください。 ★ところで、今回は「統治機関」の話です。「政府」とか「国」というのは、市民や国民を女にたとえれば、「最強最悪のDV男」になりかねません。恣意的にルール(法)を変えるわ、税金や保険の掛け金や預金封鎖とか言って金を巻き上げるヒモになるわ、勝手によそのDV男と喧嘩を始めて尻拭いさせます。女子ども守るどころか遺棄して、自分はサッサと安全地帯に逃げて号令だけかけます。このDV男から身を隠すシェルターは「亡命」以外にありません。その亡命先だって、いつまでも「まともな男」でいる保証はありません。このDV男を逮捕する警察はありません。死刑宣告する裁判官もいません。このDV男を天にかわって成敗するバットマン&スパイダーマンはいません。市民とか国民という女は、さんざん収奪されたあげくに、殺されるままに放置され忘却されます。せめてもの抵抗策は、刺し違えの自爆テロしかありません。ほんとに、国は、とんでもないDV男になりかねません。 ★だからといって、男全部を回避することもできませんし、国のない世界に行くこともできません。国(男)をなめず、国(男)に油断せず、常に観察観測は怠らず、「あ、こいつは危ない」と現実を直視したら、黙って自衛策を採りましょう。移転先は役所にも届け出ない(住民票でばれるよ)で、加治将一さん著の『性善説は死を招く---信用するな任せるな』(講談社、2005)や、杉山徹宗(すぎやま・かつみ)さん著の『パニックに陥りやすいあなたのための危機管理読本』(光人社、2008)は、ちゃんと読んでおきましょう。 ★生命と自由と幸福の追求は人間の権利でありますが、それは幸福を追求する権利であって、幸福を保証するものではありません。幸福でいたい国民(女)は、自前で自分の幸福を調達しなければなりません。前提として当然のごとく国(男)に自分の幸福を求めると、冷静な観察の目が曇り、国(男)に人生の邪魔をされるはめになります。国(男)がなければ、生きてゆけないわ〜〜と事実誤認します。気力知力体力があり強運であれば、国(男)などなくても、ちゃんと人間(女)は生きていけます。 ★しかし、誰もが、いつも気力知力体力があり強運であるわけではありません。だから、どんなに政治家や官僚が愚劣で無責任で寄生虫であっても、政府がDV男になるときがあろうとも、governmentそのものは、「統治機関」そのものは、無政府状態よりは、存在していたほうがいいのです。集団社会のLaw and Orderの要となる特権的機関はないと困ります。無政府状態よりは、暴力団(のような政府)支配のほうがましです。暴力団には暴力団のLaw and Orderがあるので、それなりの理が通る余地があるのです。 ★混沌とした世界だからこそ、ある集団(の構成員個人の権利を侵害しないような)共通のルール(法)を整備しておかなければなりません。ルール順守による秩序維持がなされているかどうかチェックする抑止監視違反摘発懲罰機関がなければなりません。人間世界にユートピアはありませんし、ユートピアになれば、すでに人類社会ではありませんから、いくら社会や人類が進化しても、人間社会というものがある限り、「統治機関」は必要です。アイン・ランドが示唆するように、無政府主義は、より良い政府を考える際のヒントとなるような夢想=「知的補助線」でしかありません。 ★しかし、やっぱり政府というのは、最強最悪DV男になりやすいのですから、なんとか抑止しておかないといけません。では、「競合する複数の政府」はどうでしょうか?企業に独占禁止法があるのならば、国家にも国民独占禁止法は適用できるのでしょうか?ビジネス・モデルは国家にも適用できるのでしょうか? ★アイン・ランドは、さきの引用文のあとに、「競合する複数の政府」理論が現実的には機能しない理由として、以下の例をあげています。「 ここに政府Aの顧客スミス氏がいると仮定しよう。スミス氏は、隣人の政府Bの顧客ジョーンズ氏が彼の家で窃盗したと疑っている。だから、政府Aの警察隊がジョーンズ氏宅を捜査しようとする。ところが彼らは、ジョーンズ氏宅の戸口で政府Bの警察隊と出会う。政府Bの警察隊は、スミス氏の苦情は無効だと言い立て、政府Aの権限を認めない。さて、どうなるのか? 」と。 ★以上のような「競合する複数の政府」間の法の違いによる混乱という、ランドが挙げた例は、あまりに単純すぎるし極端すぎるかもしれませんが、「基準」というものは、ひとつでなければ機能しない=ひとつの基準が(暫定的に)絶対化されないと、基準は基準にならないということは、この例でよく理解できます。 ★では次に、ランドが言いたいことを、より理解するために、法の違いではなく、提供するサーヴィスの差から、「競合する複数の政府」というものを考えてみましょう。 ★たとえば、複数の統治機関があって、A国では税金が安くて福祉サーヴィスの水準は高いとなれば、A国に移住する人間が多くなるかもしれません。ここでは、移住や移民を躊躇させる言語や文化や慣習の違いという障壁は小さいものとして想定してください。「競合する複数の政府」間を、軽やかに(遠謀深慮なく)移動できるタイプの人々(根無し草?永遠の旅人=eternal travelers?)を想像してください。 ★すぐにお分かりになると思いますが、A国に移住する人間が、どんどん増えれば、A国は「税金が安くて福祉サーヴィスの水準は高い」ことを維持できなくなるでしょう。超巨額の寄付を申し出てくれる超巨大財閥がいっぱい国民の中にいるという条件下にないのならば、福祉サーヴィス提供の原資は税金しかありません。「税金が安くて福祉サーヴィスの水準は高い」国を求める人々は、もともと税金を払いたくないのですから、A国に移住する人間が増えれば増えるほど原資が足らなくなり、A国は、赤字財政借金経営を放置継続しなければ、高水準サーヴィスを維持できなくなります。 ★つまり、何が言いたいかといえば、国に期待過剰に依存したがるという点において、この「競合する複数の政府」理論というのは、国家主義の変形であるということです。こっちの国は、こういうサーヴィスしてくれるから、あの国よりこの国がいいんじゃない〜〜という姿勢は自分で好きに国を選択しているように見えるけれども、それだけ国家に依存していることでもあり、本来は国家に要求してはいけないことまで要求する結果、自分の首を絞めることになるよ〜〜ということです。国とか統治機関に、あれやって、これやってと要求すれば、その要求に応じて国や統治機関の仕事の量と規模は拡大し、官僚支配が社会や構成員の生活のあらゆる網の目に徹底される管理社会が出現します。豊かで自由な国を求めて、国の囚人になります。高度福祉社会や社会主義国家は、ゆるい奴隷国家です。 ★妻に身の回りのこと全部まかせている夫が、妻の支配者のつもりでいながら、妻の奴隷になっているのと同じです。ずっと自由でいたいのならば、自分のことは自分でできる限りは、やるほうがいいのです。 ★アイン・ランドが、先の引用文のなかで、 「一方の『競合する複数の政府』支持者たちは、国家主義者とは違っているように見えて、実は同じコインの片側を提唱している」 と書いているのは、そういう意味です。 ★無政府主義も「競合する複数の政府」も駄目なのです。政府に求めることは、ルール順守による秩序維持がなされているかどうかチェックする抑止監視違反摘発懲罰機関であることのみ。それ以上を求めると、政府なるものは、統治機関なるものは、いずれ最強最悪のDV男になるでしょう。 ★問題は、そのルール順守による秩序維持がなされているかどうかチェックする抑止監視違反摘発懲罰機関である政府を、どうやって抑止監視違反摘発懲罰するかってことですよね。そのために「憲法」ってものがあります。憲法は、政府抑止のためにあるものであって、国民を抑止するためにあるのではありません。その憲法を変えようと、政府から言い出すのが不思議〜〜改憲を求める国民運動が、日本のあちこちで沸きあがっているわけでもないのに。 ★ところで、私は、2年前に社会学者の上野千鶴子氏の論文「市民権とジェンダー」(『生き延びるための思想---ジェンダー平等の罠』岩波書店、2006)を読んでいてびっくりしました。私は、アイン・ランドの文章でしか、「競合する複数の政府」というアイデアに出会ったことがなかったのですが、上野氏の論文のなかで、類似したアイデアに会いました。 ★上野千鶴子氏は、「 本来ならば市民と国家が双務契約に入ったときに、生命と財産の保証がミニマムな条件であったはずなのに、それが国家の名において国民の生命と財産を召喚するのは、契約違反にならないだろうか? 」と問います。この疑問に共感するところは、きわめて大きいですよね。 ★だから、上野氏は、個人の帰属と活動の場所が同じでなく、その差異が珍しくはない「ポスト国家の市民権」を想定しました(『生き延びるための思想』36)。つまり、「複数の統治機関」に個人が属することが可能になる社会、もしくは帰属する統治機関を個人が選択し、その移動も容易にできる社会を想定しました。 ★たとえば、もし国家が徴兵をすれば、個人は帰属を移動させて、兵役を避けて非暴力を選べる。そういう世界のありようを、望ましい未来世界として、上野氏は想像しました。「難民化」を多くの人々が意志的に選択すれば、「 国境が人の流れをおしもどさなければ、あるいはもっと人の流れが双方向化すれば、攻撃する対象から、自国民を他国民から区別して、敵と味方を分けることはできないだろう 」(『生き延びるための思想』114)から、そうすれば、個人は国家の暴力から逃げて生き延びることができるだろうと。そうかなあ・・・国は戦争になれば、自国民がいたって攻撃すると私は思うけど・・・なにしろ政府ってのは(潜在的)DV男だから。 ★ともかく、「ポスト国家の市民権」は、各国家や各地域に関する情報公開が徹底されていて、自分の生き方を主体的に選べる教育水準と経済水準を絶対多数の人々が獲得できているがゆえに選択の自由と移動の自由が絶対多数の人々に開かれている世界においてのみ、有効です。知力も財力も特権的な富裕層しか、この「ポスト国家の市民権」を行使できないのならば、「市民権」とは呼べませんから(あ、一般ピープルは市民じゃない?)。「ポスト国家の市民権」の前提は、選択の自由と移動の自由が絶対多数の人々に開かれている自由で豊かな世界です。 ★しかし、そのような自由で豊かな世界にいるのならば、別の統治機関に所属を変える必要は生じません。「ポスト国家の市民権」を実現する環境は、「ポスト国家の市民権」行使の必要性を感じさせません。「ポスト国家の市民権」を実現する環境にいる人間が、豊かで自由な社会に所属する豊かで自由な人間が、なんで、わざわざ移民するのでしょうか? ★私のような馬鹿でも変だとわかる変なことを、東大教授が、なんで書いてるの? |