Ayn Rand Says(アイン・ランド語録) |
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第18回 暴力抑止のための暴力の必要性について [10/19/2008]Man’s rights can be violated only by the use of physical force. It is only by means of physical force that one man can deprive another of his life, or enslave him, or rob him, or prevent him from pursuing his own goals, or compel him to act against his own rational judgment. The precondition of a civilized society is the barring of physical force from social relationship--- thus establishing the principle that if men wish to deal with one another, they may do so only by means of reason: by discussion, persuasion and voluntary, uncoerced agreement. The necessary consequence of man’s right to life is his right to self-defense. In a civilized society, force may be used only in retaliation and only against those who initiate its use. All the reasons which make the initiation of physical force an evil, make the retaliatory use of physical force a moral imperative. If some “pacifist” society renounced the retaliatory use of force, it would be left helplessly at the mercy of the first thug who decided to be immoral. Such a society would achieve the opposite of its intention: instead of abolishing evil, it would encourage and reward it. (“The Nature of Government” in The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism) (人間の権利は、物理的強制力(暴力)の行使によってのみ侵犯される。ある人間が、他人の生命を奪い、奴隷化し、略奪し、その他人が自身の目標を追及することを邪魔し、その他人自身の合理的判断とは反対の行為を、その他人に無理強いできるとしたら、それは、ただただ物理的強制を手段にすることによってのみである。 文明化された社会の前提条件は、社会関係からの物理的強制力の排除である。他人と交渉したいときは、理性を手段にすることによってのみ、つまり、議論とか説得とか自主的な強制されない同意によってのみ、交渉が許されるという原則が確立することである。 人間の生命の権利の必然的結果が、自己防衛の権利である。文明化された社会において、暴力(force)は報復のときにのみ使用されていい。暴力を最初に行使した人間に反撃するときにのみ使用されていい。物理的強制力の開始を悪とする理由のすべてが、物理的強制力を報復に使用することを道徳的義務とする。 もし「平和的」社会が報復、反撃のために暴力を使用することを諦めると、不道徳であることを決めた最初の暴力行使者のなすがままにされる。平和的社会は、救いのない状態に放置される。このような「平和的」社会は、自らが意図したこととは全く反対の結果を手にしてしまう。悪を廃するかわりに、悪を助長し、悪に報酬を与えることになる。) ★前回の続きです。今回のコメントは短いです。体調が悪いです。風邪引いたのか、秋の花粉症なのか、週末に散歩を遠出して(途中で地下鉄に乗るというズルをして)、名古屋市内の元遊郭街の一角を歩きまわって、遊郭建築を見物しては「うわ〜〜『千と千尋の神隠し』の油屋そっくり〜〜♪」などと覗き込んで、地縛霊に憑かれたせいなのか、理由がわかりません。 ★前回は、政府とか統治機関は、国民や市民にとっては、別れることはできない(別れると、もっとまずいことになる)潜在的DV男だということを書きました。Lesser evilなのが政府です。アイン・ランド的にはそうなのです。政府なるものがしていいのは、国民を物理的強制力から守ること、それだけでいい、それ以上させると、ろくなことにならないと骨身に染みる体験をした人ですから、ランドは。 ★アイン・ランドの書いたものを読めばわかることですが、根底に一貫して流れているのが、「物理的強制力=暴力への憎悪と恐怖」です。60年以上の平和と繁栄を享受してきて、それがあたりまえだと意識もしないような現代の日本人が、いくら想像しても絶対理解できないような切実な憎悪と恐怖です。自分の住んでいた家が没収され、家財が没収され、家業が国営化され、物の売り買いでやっと食いつなぎ、自由に意見を言うことは控え、夜に隣人が秘密警察に連れ出され、帰ってこなくても騒ぎ立てず、訴えることもしないのが当たり前の旧ソ連の暴力支配を身をもって経験したのが、アイン・ランドです。 ★ランドは、ややこしいことを提唱している人ではありません。新奇なことを言っている人でもありません。ごくごく、あたりまえの、まっとうなことを言っているだけです。「道徳を守ろうよ」と言っているだけです。その道徳のギリギリ根本は、「人間にとって一番の価値あることは生き延びることであって、生き延びるためには長期的視野に基づいた合理的選択と行動が必要なんだよ、欲しいから欲しいでは、結局、生き延びることにならないよ。自分が得る権利もないようなものを欲しがっちゃいけないよ。他人が持っているものを力づくで取っちゃいけないよ」という、きわめて単純なものです。 ★だから、政府の機能は、個人の権利を守ること、具体的には個人の生命の権利、所有権を物理的強制力=暴力から守ることということになります。ですから、警察と軍隊の役割をランドは重視しました。物理的強制力=暴力の抑止とは「直接的に力を作用させて止める」ということです。はっきり「武力」で止めるということです。物理的強制力に対して、経済的褒賞を手段にするとか、説得感化して変えるとかいうソフト・パワーで対処するのが、「文化」であり「文明社会」でありましょうが、そうはいかないのは歴史が示してきたとおりです。 ★当座の暴力に直面して「話せばわかるじゃないか」と何度も反乱将校に言った犬養毅首相は偉いです。品格あります。そんな極限状況において、そういう言葉が出るものでしょうか?私だったら、「こいつら、ほっんとに純粋まっすぐ短絡視野狭窄のニッポン土人の馬鹿!!!」と怒りのあまり脳の血管がぶち切れて卒倒します。こういう人物を「問答無用」と言って殺害した人間がわんさかいた時代と、今の時代が違うとは、私にはとうてい思えません。話し合ったら説得されちゃう・・・とわかって銃殺したにしろ、当座の暴力には暴力しか対抗手段がないですね。 ★犬養毅首相が殺された5・15事件のように、政府の統制下にあるはずの警察や軍隊が政府に反逆した場合は、どうなるのかとか、警察や軍隊が国民に銃を向けたらどうなるのか、ということはアイン・ランドは書いていません。ランドが書くのは、あくまでも原則です。基本の基本です。 ★「内閣は陸軍と首都内で戦争できるぐらいの武力を持つ」のは、近代のヨーロッパ大陸諸国では普通の発想(太田述正&兵頭二十八著『属国の防衛革命』光人社、2008)だそうです。満州事変を起こした関東軍首脳を死刑にできず軍を増長させたことが、5.15事件や2.26事件を引き起こし、かつ亡国への道となった中国侵略拡大路線を招きました。国法違反の軍人たちを、なぜ死刑にできなかったかといえば、それを政治家や司法局が実行したら、軍人に殺される恐れがあったから、つまり、軍を抑止する武力を政府が持たなかったからでした(なんも考えずに、軍に味方し煽り立てるマスコミや国民の知的水準の低さは別として)。 ★日本は伝統的に、(世界基準で言えば)そこそこ平和的な社会だったので、政府に反抗する軍隊とか警察というのは想像が及ばなかったらしいです。「内閣は陸軍と首都内で戦争できるぐらいの武力を持つ」ことができなければ、確かに文民(政治家)と軍人の区別をつけること、軍人を政治の手足にしておくこと、できません。武器を持たない官僚にでさえ好きにされている政治家ならば、武器持った軍人を前にしたら、ひとたまりもないでしょう。 ★アメリカの憲法だと、憲法修正第2条が規定する武装権というものがあります。武装する市民=「民兵」を認めています。アメリカの国民の70パーセントが、この武装権を、個人の自己防衛の権利に基づいて武器を所持携帯する権利だと考えているそうです(古矢旬&山田史郎編著『権力と暴力』ミネルヴァ書房、2007)。 ★だから、アイン・ランドは、警察や軍隊を抑止するにはどうすればいいのかということまでは言及しなかったのかな。そうなったら市民が武器持って闘うしかないわさ、と思っていたのかな。「法順守による秩序維持がなされているかどうかチェックする抑止監視違反摘発懲罰機関である(司法局を含む)政府を、抑止監視違反摘発懲罰するのは『憲法』であり、憲法は、政府抑止のためにあるものであって、国民を抑止するためにあるのではない」というようなことを書いているのも、そのせいかな。「憲法なんて単なる言葉の束で国を抑えることができるのか?」と私など思ってしまいますが、それは憲法の持つ重みがほんとうは私の腑に落ちていないからでしょう。 ★ただし、アメリカの多くの(リベラル系)法学者は、憲法修正第2条が規定する武装権は連邦政府の横暴に州が抵抗する権利(州権)のことを言っているのであって、個人の武装権を認めているわけではないと言っています。あくまでも州軍(national guard)のことを意味しているのだと言っています。じゃあ、なんで、その州軍が現在はイラクに派遣されているのか? ★このように、かくも、「力」というのは、恣意的に行使されやすいものなのです。暴力にどう対処するか、これは避けて通れない問題です。当座の暴力を抑止するのは暴力しかないという事実から目を逸らすことはできません。 ★だからね、お嬢さん、あなたが空手の名手でもない限り、夜はお家で読書でもしていたほうがいいのですよ。日本の憲法は個人の武装権を認めていませんからね。 ★ところで、話は変わりますが、「振込み詐欺事件」増加のために警官がATMに配置されたそうですが、実は、これはでっちあげで、ほんとは「銀行取り付け騒ぎパニック」が起きることを想定しての警察の予行演習みたいなものだという噂があります。パニック起きたら見物に行こう。 |