Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

心の中の基礎工事から始める(その2)  [01/25/2009]


Suppose you were a doctor in the midst of an epidemic. You would not ask: “How can one doctor treat millions of patients and restore the whole country to perfect health?” You would know, whether you were alone or part of an organized medical campaign, that you have to treat as many people as you can reach, according to the best of your ability, and that nothing else is possible.

It is a remnant of mystic philosophy---specifically, of the mind-body split---that makes people approach intellectual issues in a manner they would not use to deal with physical problems. They would not seek to stop an epidemic overnight, or to build a skyscraper single-handed. Nor would they refrain from renovating their own crumbling house, on the grounds that they are unable to rebuild the entire city. But in the realm of man’s consciousness, the realm of ideas, they still tend to regard knowledge as irrelevant, and they expect to perform instantaneous miracles, somehow---or they paralyze themselves by projecting an impossible goal.(“What Can One Do? 1972”in Philosophy Who Needs It)


(たとえば、あなたが、疫病が蔓延している最中にいる医師だとしたら、こんなふうに問うことはないはずだ。「いったい、ひとりの医者が何百万人もの患者を治療することなど、どうやったらできるのか?一国を完璧に健康な状態に修復することなど、どうしたらできるのか?」などとは。ただ、自分がひとりで医療活動をするのか、組織化された医療活動の中にはいっているのかは、意識するでしょう。自分ができることの最善を尽くして、できるだけ多くの人の治療をしなくてはいけないということや、その他にできることはないということは、意識するでしょう。

世間の人々は、物理的問題を扱うときには使用しないようなやり方で知的問題を考えがちである。彼らをして、そうさせるものこそ、神秘的哲学なるものの残骸である。特に、精神と身体の分裂という考え方の残滓(ざんし)である。彼らとて、一晩で疫病の伝染を止めることを求めたりはしないでしょう。ひとりで高層ビルを建てることは求めたりはしないし、ひとつの都市全体を再建することができないからといって、自分の崩壊しかけている家を修復することをやめることはしないでしょう。にもかかわらず、人間の意識の領域においては、ものの考え方の領域においては、いまだに、物事を認識して理解する過程や心に根ざす状態(知識)の重要性を見落としがちなのは、どういうわけなのか。心の領域においては、即席の奇跡を遂行することを人々は期待している。もしくは、不可能な目標を心の中で膨らませたあげくに、自らを麻痺させる。)


★前回からの続きです。個人主義を讃えるアイン・ランドが、しょっちゅう耳にしたであろう「ひとりの人間に、いったい何ができるでしょうか?」という質問の話です。アイン・ランドが掲げた思想が広まって世の中が変わるために、ひとりの個人に何ができるのか、と読者に質問された話です。

★本日の引用文も、ややこしいところは何もないです。伝染病が蔓延しているときに医者は、自分ひとりに何ができるかなどと思いをめぐらしません。眼の前の患者の苦しみを軽減することに集中します。自分の目の前の現実に対処します。もっと大きな現実というものもあるのでしょうが、物理的にできることから始めるしかないので、そうします。物理的なこと、実際の現実のことを変えるのは時間がかかるので、人々は物理的なことには、こつこつ対処します。対処できることから対処します。それしか方法がないですから。

★では、なぜ、心を変えることに関しても、対処できることから対処しないのでしょうか?こつこつ対処しないのでしょうか?心だって変えるには時間がかかるのですから、時間をかけるしかないのに。理解して認識して血肉にして強固に心の奥深くに根ざすには、やはりそれなりの時間とエネルギーと忍耐が必要なのに、なぜ、私たちは、時間とエネルギーと忍耐を心の変化のために注ぐことを面倒くさがるのでしょうか?

★それは、理解するということを、段階的で経過のあるものとして考えていないからではないでしょうか。理解するということを、突然に覚醒して全部をまとめて一瞬に一挙に正確にわかることだと無自覚に思っているからではないでしょうか。理解=「啓示を受けること」だと、思っているからではないでしょうか。はるか遠いところから、稲妻のように、ほんとうの知識や知恵が飛んできて、光に満たされると思っているのではないでしょうか。

★そーいうのは、神秘主義的発想ですよ、ちゃんと、あなたの心や脳も、あなたが合理的に対処すべき現実なのだから、物理的現実に対処するように、対処しなさい。アイン・ランドは、そう言っています。

★たとえば、ある人間が、「物事には明るい側面と暗い側面があるけれども、暗い側面はわりと見えやすいが、明るい側面は見落としがちになるから、明るい側面を見よう。その方が冷静で公平な判断ができるし、明るい面を見るほうが心理的に消耗しないから得だ」と考えて、物事の明るい面を見ることに努め始めるとします。

★だいたいが、人間は若いころは、否定的側面ばかりを見る傾向がありますし、悲観主義者です。なぜ、そうなるのかといえば、若くて経験数も観察数も少ないし、場数も踏んでいないので、世の中に必要以上に恐怖感を抱いているし、生体が若く敏感で、感じやすく傷つきやすく不安定だからです。30歳過ぎますと、老化して鈍感になります。ピリピリしてとんがった(edged)悲観主義者でいることができなくなります。楽な生き方を求め始めて、「物事の明るい面を見よう〜〜♪」となります。

★非常に若いころに、楽観的で物事の明るい面を見る人間というのは、稀有な「天才」であるか、否定的なことを直視できない現実逃避型人間か、否定的なことに思考をめぐらせることができない馬鹿です。若い人々がペシミストであるのは正常なことです。

★しかし、世の中には、いい年して、物事の暗い面しか見ない悲観主義者でいる人間が結構多いです。思想や信条の自由は日本国憲法も保障しています。ペシミストであることも個人の基本的人権のひとつですし、「悲観主義教」など立ち上げて教祖になって集団自殺するのも自由です。しかし、この種の人々に、そんな派手なとんがったことする元気はありません。することと言えば、自分の不安や否定的感情や恐怖を、無駄に無意味に不快に他人に伝染させることだけです。はっきり言って、50歳過ぎて「物事の暗い面しか見ない悲観主義者」なんてのは正真正銘の馬鹿。若き楽観主義者は馬鹿。老いた悲観主義者は馬鹿。私はデブ。

★それは、さておき、「物事には明るい側面と暗い側面があるけれども、暗い側面はわりと見えやすいが、明るい側面は見落としがちになるから、明るい側面を見よう。その方が冷静で公平な判断ができるし、明るい面を見るほうが心理的に消耗しないから得だ」と考えて、物事の明るい面を見ることに努め始めて、それが習慣になるまでにいたるには、どれくらい時間がかかるでしょうか。

★私自身は、32歳くらいに、そう心に決めて、努力しました。意識して意識して心の癖を修正し自分を監視し、ついにそれが習慣になり、特に意識もしなくなるのに、20年かかりました。20年ですよ、20年!

★私がとりわけ不器用で学習能力がないので、20年も時間がかかったのだということは認めます。私が何につけても、無駄に時間と労力をかけるが実績が貧しい人間=cost performanceが低い人間であることは事実です。

★ただ、私には20年かけて自分を変えたという実体験があるので、思考の癖や、心の傾向や、気質や、性格も、時間をかければ、意識して努力すれば、変化させることができるという確信があります。十分に理解できてはいないが、腑に落ちていない部分も多々あるのではあるが、頭では正しいと直感できる思想も、時間をかけて、心の中で何度も反芻すれば、感情的に理解できるし、血肉になり細胞を変えるという確信があります。時間がかかることに対して億劫にも感じませんし、臆病にもなりません。馬鹿でも、時間とエネルギーかければ、ちょっとだけでも賢くなります。その、ちょっとを何十年と蓄積していくしか、馬鹿が生きる道はない。

★できることから始めるしかないのは、物質的なことも、心理的なことも、同じです。体重を10キロ落としてスッキリするのに1年かかるのならば、心がスッキリするのにも1年はかかるでしょう。

★心を物なみに扱いましょう。お気に入りのセーターを大事に丁寧に扱うのと同じくらいに、心や思考も大事に丁寧に扱いましょう。物が暴力に依拠せずに自然に変化するには時間がかかるように、心が暴力に依拠せずに自然に変化するにも時間がかかることを、受け入れましょう。

★あなたの失恋の傷が3年経っても深いのは、当たり前のことです。愛する人間の死が、いつも心に暗い影を落としているのも当然のことです。その傷や影を分析して思考に変えるのに5年くらいはかかるかもしれません。その思考が、知識となり知恵となるのに20年かかるかもしれません。それが、「生きている死体のように生きる」のではなく、「人間として生きる」ということではないでしょうか。トラウマこそ、思考への扉だ!

★ところで、ここ、ニューヨークに来る楽しみのひとつは、大きな声では言えませんが、「テレビ」です。日本のTVは面白くないですが、アメリカのTVは悪魔的に面白いです。日本で面白い番組は、ほとんどがアメリカのTV番組の真似&ぱくりです。ただし、コマーシャルは、日本も負けてはいないです。日本のTVにはなくて、アメリカのTVで多いもののひとつが、「抗うつ剤」のCMです。経済のdepressionも切実な問題ですが、現代アメリカ人にとっては、心のdepressionも、切実な問題のようです。

★身体も疲れるし、心も疲れます。心のdepressionなんて、当たり前です。疲れたら眠るしかないように、心も眠るしかないです。いつもキャピキャピ明るいほうが異常です。私は、TVのお笑いタレントなんて覚醒剤やっているのが多いんじゃないかと思っています。まともな大人は、他人に迷惑かけない程度に不機嫌で、気分はちょっと沈みがちなのが、当たり前ではないでしょうか。私は、正常で正直な人間ですから、無理に元気を装いません。他人から見たら退屈に思われないようにと思って、いつも明るく面白くしていようと努力なんかしません。黙っていたいときは、ずっと黙っています。笑顔なんか作りません。無表情でいいです。引きこもっていたいときは、「今日は死にました」と言って電話にも出ませんし、宅急便の配達にも居留守使います。なんか文句ある?

★「抗うつ剤」なんて一種の麻薬に頼るよりも、ず〜〜〜としつこく時間かけてふさぎこんでいればいいではないですか。いろんなことを、時間かけて考えて思っていればいいではないですか。アイン・ランドという作家を生んだ国の国民が、なんで、そーいうアイン・ランド的でないような方法を、つまり、安易な、だから危険で自分に不正直な方法を採るのでしょうね?あ、そうか、だからアイン・ランドはアメリカ合衆国が必要とした作家であり続けるのか。なるほど、了解。