Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

人間支配術、もしくは「人間依存症患者の告白」(その3)  [03/15/2009]


Then there’s another way. Kill by laughter. Laughter is an instrument of human joy. Learn to use it as a weapon of destruction. Turn it into a sneer. It’s simple. Tell them to laugh at everything. Tell them that a sense of humor is an unlimited virtue. Don’t let anything remain sacred in a man’s soul---and his soul won’t be sacred to him. Kill reverence and you’ve killed the hero in man. One doesn’t reverence with a giggle. He’ll obey and he’ll set no limits to his obedience---anything goes---nothing is too serious. (14 of Part Four in The Fountainhead)

(それから、もうひとつのやり方があります。笑いというのは、人間的喜びの道具ですね。それを、破壊の武器として使うことを学ぶといいですよ。笑いを冷笑にするのです。簡単ですよ、この手は。あらゆることを嘲笑うように人々に教え込むのです。ユーモアのセンスこそ限りない美徳だと、教え込むのです。人間の魂の中で、どんなものも神聖不可侵なものにしておかないこと。どんな大切なものも冷笑の対象にさせるのです。そうされると、魂は、もうその人間にとって聖なるものではなくなってしまいます。崇敬とか畏敬という感情を殺すこと。そうすれば、人間は自分の中の英雄を殺すことになるのです。クスクス嘲り笑いながら、尊敬するなんて芸当はできませんからね。こうしておけば、その人間はあなたに従うようになります。その従属には限りがなくなる・・・何でも通りますよ・・・深刻に真面目に考えるべきことなど何もないですからね。)

★エルスワース・トゥーイーがピーター・キーティングに開陳した「人間支配術」の続きです。前々回と前回で紹介された「人間支配術」は、簡単に言えば、「私なんて、ちっぽけな罪深い卑しい存在だから、何を憧れたって何を求めたって無駄なんだ」と思わせて、あらゆる偉大さに対する憧れを自発的に殺すように仕向けるということでした。

★そのための方法としては、つまらぬものを賛美し、偉大なものを嘲ることによって、価値基準を混乱させ、価値判断を放棄させ、ついには価値観を転覆させるということでした。偉大なものへのまっとうな憧憬や敬意を殺すことでした。

★ただし、人間は臆病なので、そういうことをラディカルにやってはいけない、フツーの人々が怖がらずに受け入れやすいやり方で、価値基準の劣化・混乱・破棄・転覆を起こさないといけない、それには、凡庸さを褒め称えるのがいい、フツーの人々が「ありのままの生まれっぱなしの自分」に居直ることに痛みや恥を感じないようにさせて、偉大なるものへの志向を、じわじわと殺していくのがいいという話でした。

★いや〜〜まるっきり、アメリカにせよ、日本にせよ、ある種のメディアがやっていることとか、ある種のポストモダン言説がやっていることって、まさにこれかもしれませんね〜〜あ、これは「アキラのランド節」で書くべきことだな。

★さて、次にトゥーイーが自慢する(?)「人間支配術」は、「笑い」の悪用です。笑いというものには凄い力があります。気まずさと緊張が支配する空気を、ひとつの笑いが吹き飛ばし、重い空気の呪縛が解ける。「なんだ、王様は裸だ!」という子どもの言葉によって爆笑が起きて、愚劣な支配者の愚劣さがあばかれる。私は、先日、花粉症のせいで非常に体調が悪くて、大丈夫かいな・・・というときがあったのですが、大笑いしたおかげで気分が良くなりました。なんで大笑いしたのかって?「のりしろは命令形だと思ってた」という川柳が新聞に載っているのを、トイレの中で読んだからです。ははは。はははのは。ゲラゲラ笑いました。おかしくない?

★それほどに「笑い」の力は大きい。それほどに人は笑いたい。だから、他人を笑わせることができる人間は愛され、人々を屈託なく笑わせる出来事は求められる。商売にもなる。人々は、「笑う」ためにカネだって出す。学会のような場所でさえ、「聴衆の笑いが取れる」発表ができる研究者は、(ひそかに)歓迎されます。

★あの先代の林家三平師匠(小朝を金髪ブタ野郎と罵倒したあっぱれハチャメチャ泰葉のお父さん)は、死ぬ間際の病床で、医師が患者の意識を確認するために、「あなたのお名前は何ですか?」と質問したら、「加山雄三」と答えたそうです。病室にいた家族&弟子&医師に看護婦全員が顔中をクチャクチャの笑い皺だらけにして大爆笑したそうです。いい話だなあ〜〜♪

★ともかく「笑い」の力は大きい。だから意識的に悪用されたら、悪影響が大きい。「笑い」が「冷笑」として機能したら、その攻撃性や破壊性は大きい。どんな真剣で深刻で真摯なものも、「お笑い」ネタにされたら、とたんに矮小で卑近なものになる。「なによ、バッカみたい・・・」と笑われたら、長年の間、人々の努力によって積み重ねられてきたものが、「バッカみたい」に縮みます。一番の「冒涜法」は、冷笑することでしょう。

★その意味で、私は現代日本における「吉本なるもの」の跋扈は、いい現象ではないと思います。私は大阪が好きですが、ペラペラしゃべりまくって笑いのめして、みんなそろって「アホ・フィールド」に立つという、「大阪的スタンス」というものは、あくまでも裏で騒いでいるべきものであって、そういうものが表舞台に立つのは、まずいと思います。

★「アホ・フィールド」は、それだけならば単なるアホでしかない。それ以上でも以下でもない。「アホ・フィールド」は、まっとうな真面目さが機能していて、真面目であることが大多数の人々のいだく価値観の階層秩序の上位を占めているからこそ、意義を持ちます。あくまでも、真面目さの補助としての「アホ・フィールド」です。「アホ・フィールド」も、他の全てのものと同じく、単独には機能しません。

★私は、TVで活躍する、ある吉本系の某大物お笑い芸人さんの生む笑いが、あまり好きではありません。なぜならば、その笑いは、目的がはっきり意識化されていない、曖昧模糊とした悪意とルサンチマンから繰り出される「冷笑」に限りなく近いところにあるからです。その笑いには、「どんな大切なものも冷笑の対象にさせる」類の攻撃性がひそんでいます。「崇敬とか畏敬という感情を殺す」ことに近い悪意が潜んでいます。その笑いには、重圧を前にして、その重圧を吹き飛ばすような陽気で剛毅な質のものが含まれていません。

★TVの視聴者は笑いたいから、笑わせてくれれば満足するのですから、これはこれでOKです。しかし、この種の「笑い」が主流になるのは、まずいと、私は思います。日本人の精神の劣化を促進すると、私は思います。

★私は、この芸人さん自身のことは嫌いではありません。特にファンではありませんが、この人物を見ていると、好き嫌いを超えて、「この人は男だな」と思います。人柄や人格がどうのこうのという問題ではありません。あくまでも、この人が生む「お笑い」の質について、ちょっと考えたいだけです。

★この人が、SMAPが料理の腕前を披露するのが売りの番組にゲスト出演したとき、自分のお嬢さんの結婚について、次のように語っておられました。「どんな男を連れてきたって駄目だ。僕の気に入るはずがない。今の日本の若い男なんか、ろくなもんじゃない。だって、今の日本代表の若い男というのが、君らなんだから。君らの程度なんだから」と。よくぞ言ってくれました!と、私は大いに、この芸人さんのまっとうな率直さに感心し、かつ共感しました。

★つまり、この芸人さんは、自分が棲息し、そこで稼ぎまくっている芸能界とゲイノー人というものを、まっとうに軽蔑できる知性と純粋さを保持している人物なのです。

★この芸人さんは、恐ろしく頭の回転が速いです。若い頃はトレンディ・ドラマに主演したりして、女優さんと結婚しました。豪邸を購入したとたんに離婚しました。豪邸は売却したものの、バブルがはじけてしまって、買値よりも、はるかに安値で売るしかありませんでしたから、巨額の借金を抱えました。しかし、後輩を引き連れた飲み食いの費用は、全額、いつもどこでも自分が支払います。離婚だろうが元女房だろうが借金だろうが自分の容姿だろうが、みなネタにして笑わせます。(かなり痩せているのに)骨太に正直です。ちゃんと自分の決断の結果を引き受けて、責任を担って、借金を返済しました。ず〜〜と「24時間元気なお笑い芸人」をやりぬくタフさがあります。すごい人です。

★このお笑い芸人さんは、いつも軽薄に騒々しく、しゃべり倒していますが、人間の本質を見抜くことができる頭のいい人です(じゃあ、なんで、あの「何を演じても同じの、いい子ぶりっ子風だが、いかにも根っこが鈍感で図々しい感じ」の女優さんと結婚したかって?いいじゃないですか!同性を見る目はあっても、異性を見る目がないというのは正常なことですよ)。

★私と同世代の、この才気あふれるお笑い芸人さんのライバルは、島田紳助さんということになっています。しかし、このふたりが生産する笑いは全く似ていません。島田紳助さんが生み出す笑いの本質は、人間を含む広い社会観察と、それを土台にした分析から生まれる風刺であり批評です。その俊敏さは、骨董鑑定の番組でいっしょに司会している「インテリ」らしい石坂浩二を「他愛のない好事家(こうずか)の若作りのジイサン」に見せてしまいます(それが、わかんない頭だから、石坂さん、島田さんと司会していて平気なんだろーな)。

★一方、島田紳助さんのライバルである、ここで言及されている某大物お笑い芸人さんが生み出すお笑いは、ワンマン・ショーの風刺漫談とは対極にあります。この芸人さんが、ひとりでステージに立って、何かを聴衆に向かって発信するとか、パフォーマンスするという姿は想像がつきません。必ず、誰かひとりか、誰か大勢をからかっている姿か、複数の人々とふざけている姿しか思い浮かびません。

★この人のお笑いは、簡単に言えば、自分が司会するトーク・ショーやヴァラエティ・ショーのゲストが話すことの内容に茶々を入れることから成立しています。良く言えば対話型ですが、悪く言えば、「揚げ足取り」です。

★この「揚げ足取り」話芸は、「つっこみ」とも違います。漫才の「つっこみ」は、ぼけた側の発話内容の非合理性や錯誤を指摘することによって、話題がどんどん展開してゆきますが、この某大物お笑い芸人さんの「揚げ足取り」は、話題の展開が目的ではなく、相手の気取りや真面目さをおちょくり無効にするためのものです。「何をエラソーに上から目線で物を言っとんじゃ」と暗黙の罵倒を発しながら、「アホ・フィールド」という磁場に引きずりおろすためのものです。発話内容に対する攻撃が「つっこみ」ですが、「揚げ足取り」の攻撃目標は、あくまでも人間です。発話者です。

★だから、ゲストが、ちょっとでもフツーの真面目な話題を出すと、「そういう顔で、する話とちゃうでしょ〜〜」とか「そんな話いりません!」とか、「いいお話ですね〜〜ここ、編集でカットさせていただきます」と間髪入れずに言葉をはさんで、からかい、聴衆を笑わせて、その話題を破棄するのです。

★まれに、非常にまれに、このお笑い芸人さんの茶々やからかいを無視して、あくまでも自分のペースで話すゲストや、この芸人さんに関心がないゲスト(=自分に対する敬意を一般的礼儀以上には示さないゲスト)が出現します。すると、この芸人さんは、露骨に不快な表情を見せます。自分のペースでゲストの発話の揚げ足を取ることができない場合は、この芸人さんの軽い明るさは、急に意地の悪い攻撃性を帯びます。もしくは、この芸人さんはムッと黙りこみます。

★繰り返しますが、「揚げ足取り」とは、相手の発話内容に対する応答ではなく、相手のありようそのものに対する異議申し立てです。相手の発話内容ではなく、相手の姿勢を問題にしているのです。もっと正確に言えば、その相手の自分に対する敬意が足りないこと(=愛が不足していること)を問題にしているのです。

★つまり、「揚げ足取り」とは、自分に敬意や愛情や好意を示さない他人との応酬における「表面的な即座の勝ち負け」だけにこだわっている人間の戦術です。何に勝ちたいのか、なんのために勝ちたいのか、目的は不明だが、ただただ、相手にむかついて、その現場で相手を言い負かさないと気がすまない「負けず嫌い」の人間の戦術です。

★世間でよく言う「勝気な人」「負けず嫌いな人」には、えてして、こういう人が多いです。これって、ほんとに「負けず嫌い」なんでしょうか?ほんとに気が強い人間が、こんな無駄なことをするでしょうか?

★何のために勝つのか、何だけは確保しておきたいのか、はっきりと目的把握ができていれば、目的合理的に生きると決めていれば、易々と回避できるような無駄なトラブルを人間関係において、しょっちゅう引き起こす類の人間は、相手の言葉尻だけに過剰に反応します。相手の自分に対する好悪の感情だけに反応します。「こいつに拒否されても、全く構わない。どーでもいい。勝手に馬鹿にしてろ、馬鹿」と思って、相手を無視して忘れることができません。

★この芸人さんが、対話の相手の発話内容を問題にせずに、応酬の勝ち負けのみにこだわるということは、この芸人さんが、ともかく、現場の瞬間瞬間に勝たなければならなかった環境を生きてきた人間であることを示します。また、この芸人さんには相手の発話内容に耳を傾ける気(=余裕&自ら形成した習慣)がないということは、自分自身の発話内容に耳を傾けてもらうことがなかった環境に育ったし、長じても、自身の真摯な発話内容に耳を傾ける他人はいない環境に生きてきたということを示唆しています。にもかかわらず、この芸人さんは、そのことに傷ついてはきても、しかし決して屈せずに闘ってきました。その闘いの方法が、笑いと冷笑の狭間にある巧妙な揚げ足取りです。

★人の真面目なまっとうな話の腰を折ることや、そうした発言の揚げ足を取る人間は、自分自身がそうされてきたから、そうするのです。だから、こういう人は、長年蓄積されてきた鬱屈やルサンチマンや寂しさを抱えています。その鬱屈やルサンチマンや寂しさのために、真面目さ(=物事を真正面から堂々と受け止め考える心性と行動)を真面目に受け止める前に、その真面目さを攻撃してしまうのです。その、真面目さの中身を吟味することなく、やみくもに攻撃してしまうのです。

★しかし、この某大物お笑い芸人さんは、天性の才能によって、揚げ足取りを、その行為に潜んだ攻撃性や反骨の毒を抑止して、当意即妙の笑いに転換させています。まさに「芸」がなければ、こういう危ないことはできません。冷笑に行くギリギリ寸前で、矛を収めるバランス感覚と聡明さが、この芸人さんにはあります。

★対話型お笑いを得意としているところから見ても、この人は、ほんとうには相手を突き放すことができません。むきだしのほんとうの冷酷な攻撃性は、この芸人さんにはありません。揚げ足とって、みんなを「アホ・フィールド」に引きずりこみますが、自分だって、そこに立つのですから、この芸人さんの生む笑いは、排他的なものではありません。民主的に平等にみんなアホになる世界の磁場を作り出す手腕は、すごいです。さすがです。

★しかし、やっぱり危ないよね、この種のお笑いは。たかがお笑い。されど、お笑い。

★何を私が言いたいかといえば、まずは、「揚げ足取り」は、やめておこうってことです。そういう行為は、自分の大事な内面を他人にさらけ出すような無用心なことです。相手を暗に攻撃しているということは、相手を暗に必要としている、相手の自分に向けられる好悪の感情に自分が大きく作用されているってことを告白しているのと同じです。カッコ悪いよ、みっともないよ、ってことです。揚げ足取りは、人間依存症患者の攻撃法です。利性(理性)的ではないよ、ってことです。人間ではなく事柄を見よ、ってことです。感情ではなく長期的な利害を考えろ、ってことです。

★そりゃ、確かに、世にはびこる真面目さというものの多くには偽善や虚偽が潜んでいることは多いです。真面目なこと言いながらろくでもないことしかしない人々も少なくありません。だから、大げさに臆面もなく真面目なことを言い立てる人間に対しては、「こいつは信用できない!」と自動的にアラーム装置が頭の中で鳴るようにセットしておくことは、自己防衛として必要なことではあります。しかし、そんなことに対して揚げ足とって攻撃することは、不要です。エネルギーの浪費です。損です。将来的に利益をもたらさない類の単なる損です。

★私の同僚にもいるなあ・・・はっきり正面から攻撃しないで、言葉尻だけとらえて皮肉言ったり、揚げ足とったりしかできないような、口はやたら達者だけど気の小さいのが。東京とか大阪のような大都会には、そういう人々が多い気がする。はっきり無骨で野暮な田舎者でいるのを恥じているんだよねえ・・・私は、無骨で野暮で田舎モンの名古屋人でいて平気だ!

★それから、もっと言いたいことは、笑えばいいってもんじゃない、ってことです。笑うときには、何を自分が笑っているのか、ちゃんと意識化していないといけないってことです。笑うべきことではないことに、ヘラヘラと笑っちゃいけないってことです。「お笑い番組」であっても、笑ってはいけないことに対しては、笑っちゃいけないってことです。こういうことは笑っちゃいけない!と思ったら、笑わないってことです。

★ひょっとしたら、日本に数あるお笑い番組だって、「対日工作」かもしれませんからね〜〜TV局の背後の背後にいる某国とか、ある勢力による日本人愚民化政策や日本弱体化政策の一環かもしれませんからね〜〜多分、そうです。

★アメリカの「お笑いTV番組」って、Saturday Night Liveみたいに政治風刺とか社会風刺とか、差別を逆手に取るような差別ネタになるのに、日本のお笑いって、なんで、単におちょくり、広義の意味での「揚げ足取り」程度のものが多いのかな。

★ところで、女性のみなさんへ。特にお若い女性の方々へ。笑ってはいけないと自分が判断したときには、断固として笑わないと決めて、笑わなくなると、素晴らしい副産物が、もれなくついてきます〜〜♪しょーもない人間の接近を回避できます。

★よく、幼女とか小学生の女の子が、誘拐されたか殺害されたかの事件が起きるではないですか。そういう女児の写真がTVニュースで映し出されますと、みな可愛い。愛らしくカメラに向かって微笑んでいます。はっきり言って、ガキのくせに色っぽい。無駄に不必要に愛嬌を発散している。

★ここで私は不思議に思う。子どもって、そうはヘラヘラ笑わないですよ。自足している子どもは、何かに夢中になってゴソゴソ勝手にやっています。大人に向かっていちいち笑いかけたりしない。大人に見守られながら勝手にゴチョゴチョ発声しながら遊んでいます。特に、見知らぬ人間になど、やたら愛嬌をふりまいたりしない。

★幼い子どもが愛嬌を、やたら振りまいているというのは、暗黙のうちに親が子どもにそれを強いているからです。子どもが安心して、自分の関心事に夢中になれないような情緒的に不安定な環境の中にいると、子どもは親や大人の顔色を見ます。そういう女児は、見知らぬオトナに対しても、ついつい微笑んだりして、幼児性愛者の痴漢が近寄る磁場を作ってしまう。はっきり言いますが、子どもが巻き込まれる犯罪のかなりは、その子どもの周辺にいる大人に責任がありますよ。

★ご自分の娘さんを守りたい方々へ。ほんとに笑いたいときにしか笑わない娘に育てろ!やたら見知らぬ人間に愛嬌をふりまくみたいな、かわいそうで哀れで卑しいことを幼い娘にさせるな!自分の娘にビールのお酌をさせて喜んでいる馬鹿父親がいるが、そういう馬鹿な親がいるので、娘は、オトナに、他人に、媚びて身を守ることを学んでしまいます。ホステスやキャバクラのおねえちゃんの真似を娘にさせるなんて下品だと思わないのか?

★とはいえ、うっかり慣習で微笑んでしまったので、ろくでもないことに巻き込まれるとか、つまらん人間に関わるはめになるぐらいのことは、単なる災難であり、対処の方法もあります。しかし、自分の中の譲れない価値観やこだわりについて笑ってはいけないです。そういうことにこだわる自分の真面目すぎて筋肉が強張る自分自身をつきはなして、「えらい、かたくなってるね〜〜まあまあ♪」と笑うのはいいですが、自分自身の真摯さ、そのものを笑って恥じてはいけません。

★あなたが真面目でまっとうで素直に向上したくて、偉大なものとの出会いを待っているのは正しいことだ!尊いことだ!もてたってしかたない、要は、その魂が好きになれるような、上等な男性ひとり(3人?5人?)にめぐりあえばいいのだ、しょうもない何百万もの男にもててもしかたない!と重い定めるのは正しい!他人は笑っても、あなた自身は、そういう自分自身を笑ってはいけないです。そんなことしたら、自分自身の魂を殺すことになる。というのが、アイン・ランドの言葉でした!

★次回は、「個人の欲望は悪だと教え込め!」という支配方法のお話です。