Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

人間支配術、もしくは「人間依存症患者の告白」(その4)  [03/22/2009]


Here’s another way. This is most important. Don’t allow men to be happy. Happiness is self-contained and self-sufficient. Happy men have no time and no use for you. Happy men are free men. So kill their joy in living. Take away from them whatever is dear or important to them. Never let them have what they want. Make them feel that the mere fact of a personal desire is evil. Bring them to a state where saying “I want” is no longer a natural right, but a shameful admission. Altruism is of great help in this. Unhappy men will come to you. They’ll need you. They’ll come for consolation, for support, for escape. Nature allows no vacuum. Empty man’s soul---and the space is yours to full. I don’t see why you should look so shocked, Peter. This is the oldest one of all. Look back at history. Look at any great system of ethics, from the Orient up. Didn’t they all preach the sacrifice of personal joy? Under all the complications of verbiage, haven’t they all had a single leitmotif: sacrifice, renunciation, self-denial? Haven’t you been able to catch their theme song---‘Give up, give up, give up, give up’? (14 of Part Four in The Fountainhead)

(もうひとつ別の手がありますよ。これが一番重要な方法かもしれません。人々に幸福を許さないこと、です。幸福というのは、自給自足というか、自己完結的でしょう。幸福な人間は暇じゃありません。幸福な人間をあなたが好きに利用することはできません。幸福な人間は自由人ですからね。だからこそ、生きていることの中にある喜びを殺さないとね。彼らにとって、いとおしく、重要なものは何でも、彼らから取り上げるのです。ほんとうに望むものを手にいれさせてはいけないのです。彼らがこう考えるように仕向けるのです。個人的欲望の実態は悪なのだ、とね。『私は欲する』と言うことは、もはや人間生来の権利ではない、恥ずべき告白だと人々が思うようなところまで持っていければ、しめたものです。こういう場合、利他主義が大いに助けになります。不幸な人間が、どんどん君のところにやって来ますよ。彼らは、君を必要としますからね。慰めや、支えや、逃避が欲しくて、やって来ます。自然は真空を許しませんからね。つまり、人間の魂を空っぽにしてやるのです。心が空っぽで何もない状態というのは、人間本来のありように反していますから、魂が空っぽになった人間は、その空虚を埋めてもらいたくて、君のところにやって来る。ピーター、君はなんでそんな顔をしているのかな?解(げ)せませんねえ、私には。これは、もう最古の時代からある、人間支配の方法の基本中の基本ですよ。歴史を振り返ってみなさいよ。古代オリエントの時代から現在にいたるまでの、倫理だの道徳だのの、あらゆる偉大な体系というものを、ごらんなさい。そういうものは、みな個人的喜びを犠牲にすることを教え諭しているでしょう。だらだら長ったらしいややこしいことを言っているけれども、要するにたったひとつの思想しかなかったではありませんか、人間の社会には。犠牲に、断念に、自己否定ですよ。そうでしょう?その手の倫理や道徳の主題歌の歌詞がわかるってものですよ。『諦めろ!諦めろ!諦めましょう〜♪』って歌うのです。

★3月も、とうとう終盤にさしかかってきました。この1年間の研究休暇という天国滞在状態から、いよいよ、私は、また「現世」に生まれ変わります。しかし、母胎から出たくありません。今の私は、産道を、とぼとぼ道草食いながら、わざとのんびり歩いている状態です。「なんで、この1年だけは、こんなに早く過ぎたの〜〜?」と、すねながら、ママの産道の壁面にポコポコ蹴りを入れております。

★アメリカでは、公的支援を受けた(=税金で救済された)AIGの役員のボーナスの巨額さが問題になっておりますが、法治国家において、法で認められた契約に明記された賞与を受け取るのが、なんで問題になるのでしょうか?道義上問題があるって、あなた・・・その理由ならば、責められるべき人間は数え切れませんよ。

★問題は、民間企業を税金で救済したことです。最初が間違っているから、ややこしくなる。原則をおろそかにすると、あとは混乱が山積蓄積増幅されるだけです。Too big to failなんて言っていないで、倒産するものは倒産するだけのことをしたのだから倒産するがままにしておくのが正しい。そのまま放置するしかないです。Let it be, let it be〜〜♪ ロックフェラーが騒ごうが、ロスチャイルドが何言おうが、ビルダバーグ会議やダボス会議で何が決まろうが、民間企業の経営の失敗は、その企業の幹部が責任を負うしかない。その経営主体を信じて投資した人々も、AIGに保証された会社も、自分の決断と行動の結果を引き受けるしかありません。メチャクチャになる?そうかな。企業同士でなんとかしあうシステムができると思うけどな。政府に介入させるほうが、よっぽど高くつくと思うけど。

★公的支援(bailout)という税金を使っての救済は、「個人が、その個人に責任がない災難に見舞われたとき」にこそ、個人に対して必要なものです。

★アメリカでは、最近、万引きが増えて、そのために小売店によっては閉店を強いられるところが出ているそーです。万引きなんて卑しいなあ〜〜まだ飢え死にしそうなわけでもないのに、よくやるよなあ〜〜この手の奴は、運も回ってこないんだよなあ〜〜ずっと不幸なんだよ〜〜サブ・プライムの人生よ〜〜と思いはしますが、大きな会社の無能は税金が救う、私らの無能は私らの自己責任・・・というのは、通用しません。特に、頭の悪い軽い人々には通用しません。ならば「私らも寄生虫やっていいよね〜〜」となり、万引きしたり、子どもの給食費を払いません。こんなことやっていると、結局、頭の悪い軽い人々のanomie状態は一層に進行します。ついには、社会の木鐸(ぼくたく)である勤勉まっとうな中産階級の堅実な人々の心の中にまで侵食が広がります。国土は、ケガレチばかりになり、カラスの大群が飛び交うばかりになります。カアカア〜〜♪

★公的支援だの税金流用だの、私が日本の政治で大嫌いなこと(田中角栄さんや、野中広務さんも、いかに人間として立派でも、稀有で有能な政治家であったとしても、私利私欲からではなかったにしても、税金流用が巧みな利権政治家であったという点において、他人の褌で相撲とった人々であるという点において、どうしても暗い!松下幸之助さんみたいに明るくない!雇用を生み出せる人間が一番偉いんだ!一番の光だ!)を、アメリカも盛んにやり始めました。

★いや、大昔から、アメリカでも、そうだったのでしょう。でなければ、アイン・ランドがAtlas Shrugged(『肩をすくめるアトラス』)を書くはずは、なかったのですから。あの小説には、富の分配ばかり言い立てて、「富の創出」に関しては何の知恵も出ないどころか、富の産出者たちを強欲資本家として迫害する無能政治家たちが、ごっそり登場していました。

★(税金を払える)国民から収奪したものをプールして、どこに、どうやって分配するかを考え決めて、その行為を美辞麗句で飾り立てて「大義」に仕立て上げるのが、政治家の仕事なのですから、せめて、政治家たるもの、富の産出ができる人々の邪魔はしないことですよね。よく、「政治が悪い」と批判されますが、悪いに決まっているんだって、そんなもん。もともとが、他人の褌(ふんどし)で相撲とるのが仕事なんだからさ。せいぜい、相撲をうまくとるか、せっかくの褌を活用できず破いて無駄にしてしまうか、どっちかなんだからさ。政府なんて永遠に必要悪。売春と同じ。

★政治とか政府なんて言っても、私にとっては、「他人の集まり」にすぎない。他人の批判をしていても、しかたない。自分でナントカするしかない。そういう「自分でナントカするしかない」と思う個人が集結する相互扶助社会(society)を作るしかない。

★David Boazが、Libertarianism: A Primer( The Free Press 1997)の中で、こう書いています。 「保守派たちは、あなたを教え諭す父親になりたがって、これをしろ、あれはするな、とうるさく言う。一方、リベラル派は、あなたに食事を与えたり、抱きしめたり、あなたに鼻をかませてくれる母親になりたがっている。それに対して、リバータリアンは、あなたを一人前の人間として処遇したいのだ」 (原書p.104/『リバータリアニズム入門』洋泉社、1998年、p.173)と。

★私はオトナだ。父親も母親もいらない。親なんてものは、テキトーな時期に死ぬべきです。もしくは、親を辞めて遠ざかるべきです。いつまでも(無用な)親を、長々とやってんじゃないよ。早めに亡くなってくれてありがとうございます、我が父&母よ。

★さらに、David Boazは同書の中で、こう言います。 「リバータリアニズムの概念では、政治システムの基本的ルールは、本質的に否定的消極的なものである。すなはち、『政治システムは、人々が自分の目的を自分なりの方法で追求する権利を侵害するな』というものである」 と(原書p. 106/翻訳p.176)。問題は、できもしないことを、さもやれるような顔して、しゃしゃり出るようなことを、政府に許さないって、ことですね。

★政治家って、多かれ少なかれ、基本的に集団主義をめざす人間依存症患者だと、私は思います。もっとも孤独に強くないといけない職種に、それとは反対の資質の人間が集まるという皮肉は、政治家だけに限らないかもしれません。だって、「教師」には、ガキが多いもんな。ははは、私も学生から、そう言われているかもしれません(某心理テストによると、私の精神年齢は83歳だそうですが・・・ボケているということか?)。

★それは、さておき、今回が、エルスワース・トゥーイーがピーター・キーティングに開陳した「人間支配術」の最後です。この引用文の Don’t allow men to be happy. を「人々に幸福を許すな」と訳すのは間違いです。ほんとうは、「人々が気分が良くて楽しい状態でいるのを許さない」と訳すべきです。私は翻訳では、このほうが一般的だし・・・まあ、これで構わんだろう・・・という理由でこう訳しました。しかし、今は、その安易な因習追従的な姿勢を後悔しています。改訂版では、絶対に変える。

★正確に言えば、being happyというのは、「気分がいい」ということです。副島隆彦氏の『英文法の謎を解く』(筑摩書房,1995)の第3章をお読みください。このシリーズ3冊は、英語に関わる日本人すべてが読むべき名著だと、私は思います。

★私が生まれて初めてアメリカに行ったとき、サン・フランシスコの街路で、すれ違いざまに、アメリカ人の知らない男性が、Are you happy?と、笑いながら私に声をかけました。私は、Yes, I am!と答えましたが、答えながら、「あなた幸福ですか?って、なんで、この人は質問するのかな?」と不思議に思いました。そんなこと、普通は、通りすがりの人間に質問しないでしょう。新興宗教の勧誘じゃないんだから。しかし、あれは日本語では、「えらく楽しそうじゃん?」だったのですね。そのときの私は、初めてのアメリカが嬉しくて、いかにも楽しそうに歩いていたのでしょう。ははは。ウォーターゲート事件後のニクソン弾劾デモがアメリカ中に吹き荒れていた1974年の夏でした。

★「幸福とは何ぞや?」などと、ややこしく考えることはないのです。要するに「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」。これが幸福な状態。

★ここで、アイン・ランドがエルスワース・トゥーイーの口を借りて言っていることを、藤森かよこ流に乱暴に青色に言い換えると、以下のようになります---- 自分が、ほんとうにしたいことして「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」人間は、満足しているから、他人のやっていることに余分な関心は持たない。これは、他人は、どうでもいいという意味ではない。他人に干渉したり、他人は何をしているのかをやたら気にして、自分だけ取り残されているんじゃないかとか、どうでもいいこと心配したり、クヨクヨしたり、嫉妬したりしている暇はないってこと。

★自分が、ほんとうにしたいことして「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」人間は、したくもない他のことはしたくないと、はっきりわかっているので、他人が「こうしたほうが得ですよ〜〜」と言っても動かない。だから、詐欺師に騙されないし、打算で動かない。「私は、これでいいもん」と安定している。こういう人間は、厄介ですよ〜〜こういう人間は、好きに動かせません〜〜

★だから、まず、人間を支配したい場合は、自分がほんとうにしたいことをするのは邪悪だって、不道徳だって教え込むんです〜〜洗脳するんです〜〜♪そのように洗脳された人間は、もう「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」状態になれません。そういう状態でいるのは、いけないことだ・・・自分のことしか考えていないことだ・・・私は勝手な人間だ・・・と、ついつい思ってしまいます。

★ふつーに自然に、「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」状態になれなくなった人間は、どこか満たされなくて、寂しくて、苛々して、傷つきやすい状態になります。臆病になり、恐怖にかられやすくなります。被害妄想になりやすくなります。嫉妬深くなります。僻みっぽくなります。こういう不安定な人間を操作するのは簡単ですよ。ちょっと脅かせば、大丈夫。もう、宗教だろうが、ニュースだろうが、映画だろうが、TVドラマだろうが、ありとあらゆる手段を使って、人々を「満たされなくて、寂しくて、苛々して、傷つきやすくて、臆病で、恐怖にかられやすく」しましょう〜〜この世界への恐怖、他人への恨みつらみで、空っぽの魂を満たしてあげましょう〜〜そうすれば、支配なんか簡単です〜〜

★「あなたより得している人が、あそこにいますから、早く、あそこに行って手にいれてください!」と耳元でささやけば、そいつはあわてて走り出しますよ〜〜「あなただけ貧乏籤(くじ)を引きますよ〜〜のんびりしてちゃいけません〜〜みんな、もっと要領よくやっていますよ〜〜」と吹き込めば、そいつは疑心暗鬼になります。「パレスチナ人は全部殺さないと、イスラエルは生き残れませんよ〜〜だって、ほんとにナチスから虐殺されたでしょう?600万人もの同胞が殺されたんですよ〜〜忘れちゃいけませんよ・・・」と、何度も何度も恐怖をたたきこめば、若き兵士を殺人マシーンにするのは簡単です。

★ゆめゆめ、「ほんとに欲しいものでもないものを入手してもしかたないから、あそこには行かない」とか、「他人が要領良くやっていても構わんよ。関係ないもん。ほんとうに欲しいものは必ず手に入ると、私は信じているからいいの」とか、「あの当時ヨーロッパ全土で930万人しかいなかったユダヤ人のうち600万人が殺されたというのは、ありえないのではないの?虐殺はあったでしょう。しかし600万という数字は法外だ。じゃあ、なんで死亡者数の法外な水増しがされたの?それほどにユダヤ人の受難の事実を増幅させたのは、なんで?そんなことして得するのは誰?」とか、人々が、いっさい考えないように仕向けなければなりません〜〜

★そのためには、ひたすら干渉、ひたすら洗脳、孤独で充実した時間と場所は与えない、ともかく個人に「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」と思わせないこと、です〜〜幼児が、ひとりでゴニョゴニョ遊んでいたら、すぐに構って邪魔しましょう〜〜ぼんやりした時間を子どもに与えて放し飼いにするのはやめましょう〜〜遠くから見守るのではなく、こと細かく指図しましょう〜〜ご主人も奥さんも、互いに好きにさせないで、互いに束縛しあいましょう〜〜人間依存症の人間支配は、まず家庭から始めましょう〜〜みんなで不機嫌になりましょう〜〜不幸になりましょう〜〜♪


★要するに、こういうことですね。

★だから、このエルスワース・トゥーイーも、彼に愚弄されたままで、彼を殴り倒しもしないピーター・キーティングも、子どもに干渉するしかやることのない「賢母」に育てられています。自分の空虚を埋めるための暇つぶしのための息子への「献身」をするトゥーイーの母親も、キーティングの母親も、猛烈に浅はかで軽薄です。自分と同じ、独りの人生を引き受けて生きていかねばならない存在への敬意や哀れみや共感がありません。親がどんな便宜をはかっても、子の人生の一刻一刻を生きていくのは子なのだから、結局は、子の力次第なんだから、親にできることは何もないかもしれないと思う想像力も謙虚さも諦念も、ありません。そもそも、この種の人間には、自然な情愛というものがありません。こんな親ならば、死んでいるほうがずっといいです。だから、ハワード・ロークやドミニク・フランコンの母親は早くに亡くなっています。

★なんで、母親ばかり問題になるのかって?それはしかたないです。一般的に言って、あくまでも一般的ですが、母親のほうが父親より影響力が大きいからです。生き物としては、女のほうがパワフルです。特に、日本は、そういうジェンダー文化精神風土です。そういう風土では、ふつーに育つと、男が男になりません。

★その証拠に、振り込め詐欺で、老人に「金を要求する親族」って、息子とか孫息子じゃありませんか。娘とか孫娘ではないですよ。声の区別がつかないくらいに、息子や孫息子って「人間として影が薄い」のです。存在感ないのです。ドジ踏んで、老いた親や祖父母に泣きついてくる程度の「あかんたれ」ぶりが、不思議でないのです。「あの子は、しっかりしているのに・・・変だわ!」と思わせないほどに、駄目な奴が多いってことです。

★「あかんたれ」は、明らかに男性名詞です。でも、そーいう「あかんたれ」を作るのは、パワフルなくせに、その生命力の使い方を間違えている女(祖母、母、妻、姉妹)です。男のせいにしちゃいけないって!「あかんたれ」を作ってきたのは、あなたたちだって!日本の男は自分たちを自前で形成するほど強くないのだからさ・・・って、こういう事実を言っていいのか?ははは。

★つまり、私が何を言いたいかといえば、まずは、あなたの私的領域から、この種の「支配」を許さない、ということです。あなたの私的領域に入る人々が、「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」という状態でいられるように、あなたも「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」という状態でいてくださいってことです。

★外界をごらんください。一歩外を出れば、メディアが垂れ流す情報は、人々を「満たされなくて、寂しくて、苛々して、不安定で、傷つきやすくて、臆病で、恐怖にかられやすく」するものに偏りがちです。学校の類も、そうです。公的領域というのは、どうしても、支配されやすい人間生産に積極的に関与するものになりがちです。

★個人に対して、「目を外に向けてください〜〜これほど世界は問題と悲劇でいっぱいです〜〜どうしたらいいのでしょうか??行政は、政府は何をしているのでしょうかああ?」と、恐怖と不満と危惧と懸念をあおりたてます。特に、NHKって好きだよね、この地球上に問題ばっかり、この日本に問題ばっかりみたいな報道します。民放が何を報道しても「ショーだからさ・・・やらせだからさ・・・」ですみますが、NHKが報道すると、教科書に書いてあることや常識を疑わない類の人々は、本気にしますよ。

★それらの捏造され吹き込まれた恐怖が頂点に達すると、人は戦争をも辞さなくなるのでしょうね。

★このウエッブサイトの掲示板の登録者のおひとりの方のブログ「veatriceの日記」(http://d.hatena.ne.jp/veatrice/)の2009年1月8日付「真の利他主義は利己主義」という題名のエッセイに、オノ・ヨーコさんの言葉が紹介されていました。私は、オノさんの言葉に、とても共感いたしました。以下、勝手に引用させていただきます。Veatriceさん、ありがとうございます&無断引用をご寛容ください。
(以下引用開始)

さて、利他主義と利己主義は同義とは。どちらの主義者からも「一緒にされるなんて、とんでもない」と言われそうだが、私の中では、どちらも突き詰めていったら、お互いがお互いにぶつかる、と思われてならない。たとえば「利他」の「他」の最大値は「世界中の人々」だ。利他主義の最大値は世界中の人々の幸福を願うことだ。そんな夢物語の完全なる実現が近い将来には不可能だとしても、近づくことだけならできるかもしれない。

この件に関しては、2008年11月にオノ・ヨーコさんが、母校の学習院女子大で講演された概要を載せてこの場を振り逃げ。

引用:

11月26日学習院女子大学での講演会で、オノ・ヨーコさんは「みんなが自分らしく生き、それに充実感をおぼえていれば世界は平和になる。」と語った。「幸せって何ですか」という質問に「一番大事なのは自分がしたいと思うことをして、それに罪悪感を感じないこと。」と語った。

引用終わり:

でしょ。さすが。「自分らしく生きる。自分がしたいと思うことをして、それに罪悪感を感じないこと」って、普通「利己主義」って言われない?だけど、オノ・ヨーコ曰く、それが「世界平和」につながるという。

(以上引用終り)

★国のため、大義のため、みんなのため・・・って、あなた自身は、何がしたいの?言い訳や理由や大義なしの、素のままのあなたは、何をするの?

★では、最後に今回のテーマを振り返ります(ってやるのが、教師の習性です)。第35回で紹介された「人間支配術」は、「私なんて、ちっぽけな罪深い卑しい存在だから、何を憧れたって何を求めたって無駄なんだ」と思わせて、あらゆる偉大さに対する憧れを自発的に殺すように仕向けるということでした。つまらぬものを賛美し、偉大なものを嘲ることによって、価値基準を混乱させ、価値判断を放棄させ、ついには価値観を転覆させるということでした。

★第36回で紹介された「人間支配術」は、フツーの人々が怖がらずに受け入れやすいやり方で、価値基準の劣化・混乱・破棄・転覆を起こすことであり、それには、凡庸さを褒め称えるのがいい、偉大なるものへの志向を、じわじわと殺していくのがいいという話でした。

★第37回で紹介された「人間支配術」は、「笑い」の悪用です。「笑い」が「冷笑」として機能したら、その攻撃性や破壊性は大きい。どんな真剣で深刻で真摯なものも、「お笑い」にされたら、とたんに矮小で卑近なものになり、心の中でしぼんでしまう。笑えばいいってもんじゃないよ〜〜という話でした。

★そして、この第38回は、「気分がよくて、なんとな〜く楽しい」という幸福状態を許さないのが一番の人間支配法だということ、でした。

★あ、ここの場面のエルスワース・トゥーイーの弁舌は、ある有名な文学シーンを思いださせるですって?あなたもそう思いましたか!?やっぱりね!ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』の第2部の第5編の5「大審問官」ですよね?亀山郁夫氏の新訳ならば、『カラマゾフの兄弟2』(光文社古典新訳文庫)の251ページからから300ページのところですね。新潮文庫の原卓也氏の訳ならば、全3巻の上巻の620ページから661ページまでですね。

★イワンとアリョーシャが語り合う中に出てくる話ですね。16世紀の異端裁判が吹き荒れる南欧の国に復活したキリストを捕縛し、キリストとわかっていて、神の子だと知っていて、あえてキリストを火刑に処す異端審問官の老人は、キリストに、「あなたは人間を愛して、人間に選択の自由を与えたけれども、人間には自由なんて荷が重い。人間が欲しいのは、奇蹟(ゴリヤク)と神秘(思考停止)と権威(支配者)であって、選択の自由じゃない。私は、あなたが誰であるかわかっているが、私は、人々の心の安寧のために、この世の秩序のために、あなたを処刑しなければならない。今の人類には、まだまだ、あなたは早い。永遠に早いかも」みたいな内容のことを言う場面です。

★ドストエフスキーの描く異端裁判の大審問官も、アイン・ランドが描く「良心的知識人」のエルスワース・トゥーイーも、どちらも人間のありように期待や理想は抱かず、そのような程度の人間に適合した社会を形成維持することに「大義」を見ている確信犯ですが、大審問官のほうには、ちゃんと傷つくことができる魂があります。だから、火刑場に引っ張られていくキリストは、大審問官に口づけをするのです(ロシアではゲイでなくても男同士も接吻するんだよ〜〜)。

★しかし、エルスワース・トゥーイーに対しては、たとえキリストでも接吻しなかったろうなあ。可愛げないよねえ。こういう奴は多いなあ・・・オバマ大統領も、そうなのかなあ・・・『副島隆彦の学問道場』(http://www.soejima.to/)の有料版「今日のぼやき」の1020号の「【書評】ウェブスター・タープレイ著『バラク・フセイン・オバマ 非公認伝記』を読む。オバマは本当に極左過激派と交遊したのか?」を読むと、「やっぱね・・・そりゃ、そうかもね・・・」って納得します。

★さすが、アメリカ合衆国の真の支配層の人々です。「将来使える」人材を探して、支援して、25年間くらいかけて育て上げ、政界に送り込んで、自分たちに都合の良い政策を実行させる・・・このあたりでアフリカ系を大統領にして、まあ女の大統領は次にしておこう〜〜ってな感じで、デザインができている。オバマさんも20歳くらいの頃から、そうやって育て上げられた人のひとりらしいです。

★真の支配層の人々は、自分たちが育てた人間や、縁続きの若者を送り込んで、敵の内部を撹乱(かくらん)させる。アメリカの左翼集団に入った財閥のお坊ちゃんとかお嬢ちゃんは、最終的にはちゃっかりと親のもとに帰ってゆく。極左ってのは、左翼内部に送られた培養癌細胞らしいです。日本の左翼の内ゲバによる分裂というのも、自然的な内部崩壊ではなくて作為だった・・・ふたつの違う政治的勢力を競わせ対立させながら、根本的な問題は不可視にして支配する・・・冷戦構造も作為・・・環境問題も、また?

★現実のエルスワース・トゥーイーたちは、小説の彼みたいに他愛なくありません。無駄に饒舌(じょうぜつ)ではありません。もっと頭いい。しかし、悪魔のごとく聡明で、天使のように天真爛漫に強欲で、用意周到な人々でも、ドジる時もあると。