Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

無神論者こそが世界に責任を感じる?  [06/28/2009]


“When did you decide to become an architect?”
“When I was ten years old.”
“Men don’t know what they want so early in life, if ever. You’re lying.”
“Am I?”
“Don’t stare at me like that! Can’t you look at something else? Why did you decide to be an architect?”
“I didn’t know it then. But it’s because I ‘ve never believed in God.”
“Come on, talk sense.”
“Because I love this earth. That’s all I love. I don’t like the shape of things on this earth. I want to change them.”
“For whom?”
“For myself.”


「いつごろ、君は建築家になろうと決めた?」
「10歳のときです」
「そんな早い時期に、自分がしたいことなどわかるはずないぞ。嘘をつくな」
「僕が嘘を?」
「そんなふうに俺をじっと見つめるんじゃない!ほかのものを見ることはできないのか、君は?なぜ、建築家になりたかった?」
「当時は、その理由がわかりませんでした。つまり、僕は神を信じたことがないので、建築家になりたいと思いました」
「おいおい、わけのわからんことを言うんじゃない」
「つまり、僕がこの地上を愛しているからです。それしか愛していません。僕は、この地上の事物の形が好きではありません。それを変えたいのです」
「誰のために?」
「僕自身のために」


★久しぶりの「アイン・ランド語録」です。大の苦手の高温多湿の日々の中で調子が悪いですから、今回は、自分自身への景気づけに、『水源』の中でも、最も好きな部分のひとつを取り上げます。

★ここあたりのヘンリー・キャメロンに初めてロークが面談するときの会話は、私にとっては宝物みたいな会話です。たとえ「ランド語録」でも言及したくないって気持ちがあり、今まで控えていました。自分にとって、あまりに大切な思い出は絶対に他人に話さないっていうことがあるではないですか。他人にペラペラ話したり、書いたりしたら、自分が汚れるわ!と思うではないですか。それに似たような気持ちですね。自分の人生を切り刻んで書いて売る「私小説作家」というのは、よほど大量の秘密をかかえているのでしょう〜〜でないと何でもかんでも、自分のことを、あけすけにおびただしく書いていて平気という状態ではいられませんから。

★この部分は、工科大学を退学になった22歳のハワード・ロークが、その名門工科大学にいても自分が学ぶものはないと判断したロークが、教えを請うべき唯一の建築家だと私淑するヘンリー・キャメロンの事務所に行き、製図係として雇ってくれるように直談判(じかだんぱん)するところです。かつては天才ともてはやされたが、今では落ちぶれているヘンリー・キャメロンですが、ロークが書き溜めてきた何枚かの、いまだ建てられたことがない、建てられる予定もない建築物の設計図を一瞥(いちべつ)しただけで、ロークの非凡さを見抜きます。で、いつ、どうして、建築家になりたいと思ったのかとキャメロンはロークに質問します。

★そこで、ロークは10歳の頃には建築家になると決めていた、と言います。ゼミなどで、ここらあたりを読むと、学生さんは「10歳なんかで、そんなこと考えるはずない」とキャメロンみたいなこと言います。しかし、真に天才と呼ばれる人間は、10歳くらいで、自分の進路が見えているではないでしょうか。アイン・ランドも10歳のときには、すでに作家になることを決め、チョコマカ書き始めていました。手塚治虫は、自分が書いた漫画をクラスに回覧していました。モーツアルトは、頭の中で鳴っている音楽をとめて〜〜と、父親に言っていました(ほんまかいな)。

★天才は、しのごの理屈言わずに、考えもなく、ただまっすぐに実践します。天才は、いろいろ細かな計算やリサーチをして進路を決めないのです。思わず好きで楽しくて夢中にやっている。それが仕事になる。それが天才です。

★マイケル・ジャクソンは、いつから天才でいることをやめたのか。「生涯、天才でいる」ってことも、真の天才の条件です。35歳で天才をやめる人もいれば、70歳すぎて天才を発揮する人間もいます。ケ小平なんか政治的天才をあらわにしたのは72歳からでっせ。カッコいいじゃないですか。現実の政治が要求する天才は、文学や音楽や数学や建築が要求する天才とは違うのでしょう。

★それにしても、「神を信じていないから、建築家になりたい」とは、なんという大胆不敵な、かつ責任感のある言葉でしょうか。よくぞ、こんな言葉を、22歳の主人公にアイン・ランドは語らせたと、私は感心します。

★神を信じているのならば、地上の事物は、起きていることは、全部黙って引き受ければいいのです。すべてが神のみ業(わざ)なんだから。人間が小賢しく努力して世界を変えなくてもいいのです。人類の進化も、社会の進歩も、神様におまかせしておけばいいのです。みんな神様がうまくやってくださるのだから、心配することはないのです。生まれたら、ただただ生きていればいいです。死は神様がテキトーに決めるので、長生きしようと節制に勤めるなど冒涜的行為です。ブスでいいのです。美容整形もヒアルロン酸注入も冒涜的です。人為的努力はみな冒涜的だ!でしょ?

★なのに、キリスト教会はアジアやアフリカや南米大陸にガンガン宣教師を送って、キリスト教伝播に勤めました。地球は神様が創造して、地球が神の支配下にあるのならば、神の教えなど伝播しなくても、広まるんじゃ。なんでわざわざ布教する必要があるのか?原住民をたぶらかしてまで。宣教師のあとに、商人がやってきて、次に軍隊が来るというのが植民地化の定番ですが、宣教師ってのが、逆説的に、一番無神論者なんじゃないの〜〜?

★ましてや、従軍牧師なんて、わけがわかりません。神の使徒が地上の権力の手先になっています。キリスト教というのは、まことにわけのわからん宗教組織です。仏教だって、実際の宗教組織はいい加減なものですが、キリスト教ほどには、臆面もなく偽善やっていません。

★と、カトリックの大学に入学した私は、キリスト教について考えざるをえなくなって、そんなことを考えていました。ただし、「ほんとに、いい加減なもんだなあ・・・まあ、そんなもんか。信じてもないのに、信じるふりして人間は生きていくのかなあ」と思っただけでしたが、アイン・ランドは違います。いい加減なことで誤魔化しません。

★「神はいない」という内容のことを、ランドは、ロークの口を借りて、はっきり言います。神がいない、神を信じていない人間は、どうするのか?神がいるのならば、人間がドタバタする必要はないです。何もしなくていいです。人間には何の責任もありません。現象的には、いかほどに不条理なことが起きていようと、本質的には(=神の視点からは)正しいことなのだから、嘆くことも怒ることもありません。

★いや〜〜ラクチンですね〜〜「すべては神様にゆだねましょう〜〜」と言ってすましていればいいのですから。超無責任で無関心でOKです。能天気でOKです。

★うわあ・・・私が人生で出会ったキリスト教系聖職者や(日本人の)クリスチャンの顔を、ここで思い出します。無責任で無関心で、体裁ばかりで、人使いの荒い、冷酷な人々が多かったです。まさに、「献身なき信仰」のサンプルばかりでした。

★この「献身なき信仰」というのは、マハトマ・ガンジーのぱくりです。ガンジー師のお墓には、碑文として、社会的罪として、「理念がない政治、労働なき富、良心のない快楽、人格のない学識、道徳がない商業、人間性がない科学、献身のない信仰」が掲げられているそうです。いや、この碑文はすごい。すごすぎる。

★それはさておき、神様がいないのならば、何やってもいいぞ〜〜ペナルティないぞ〜〜誰も見ていないなら、何やっても大丈夫だぞ〜〜人間がしてはいけないことなんて、ないんだ〜〜♪と横着非道狼藉を働く(かもしれない)のが凡人です。しかし、天才のハワード・ロークは違います。

★ロークは、このように考えたのです。「神がいないのならば、この地上に責任があるのは人間だ。待っていても、地上は良くならない。僕は、この地上がすっごく好きだ。この地上に生きていることがすっごく好きだ。でも、現在の地上の事物の形は嫌いだ。自分が好きな事物ばかりになるといいのになあ。でも待っていても変わらないから、自分で変えるしかないな。誰かに頼んで変えてもらっても、他人が変えるのだから、自分の好きな形ではないだろう。ならば、やっぱり自分で変えるしかない。事物の形を変えることができるのは建築家だな。ならば建築家になろう」と。

★なんと、首尾一貫した論理的な、利己的な、地上に対する愛と責任にあふれた思考でしょうか。

★そりゃ、神がいるということにしておいたほうが、便利です。人間にとって都合がいいです。責任がないから。何をしても、何が起きても、「永遠の相のもとに」とかナントカ言っていればいいのだから。で、テキトーに自分のしたいことだけやっていればいいのだから。その結果がどうあろうと、神様がナントカするでしょう〜〜何かとんでもないことをしても、「間が悪かったのね〜〜」と言っていればいいのですから。「運が悪かったのね〜〜」と言っていればいいのですから。

★しかし、はっきりと神は存在しないと認めれば、いい加減な生き方ができなくなります。人間の歴史において起きたこと、個人の人間の人生に起きること、この社会に起きることは、すべて人間に責任があるのですから、人間に課せられる荷物が大きくなります。このことを直視して、この荷物を担うことができるほど、今の水準の人類は、自分たちに確信が持てません。人類の英知だけで、この地上を良くできると、信じることができません。

★アイン・ランドはすごい。「神なき世界における責任主体としての自分を信じることができるし、その確信が揺るがない」22歳の青年を造形したのだから。

★「僕は神を信じたことがないので、建築家になりたいと思いました」というロークの言葉の中には、近代が、人間賛歌が、啓蒙精神が凝縮しています。この言葉を思い出すと、私は元気が出てきます。ケロリとシレッと、かくも高らかに人間を肯定する精神。あの世ではなく、永遠ではなく、この地上を、今現在を、自分自身のために生きることを肯定する精神。この無頼なる精神。

★今年度のゼミにおいても、私は性懲りもなくアイン・ランドやっています。The Fountainhead読んでいます。アイン・ランドゼミは、2003年から始めましたが、うまくできたためしがありません。うまく的確に伝えられません。その理由は、何よりも、私自身が、何を伝えるべきか、ほんとうに確実には把握できていないからです。今度のゼミこそは、うまく伝えたい。

★先日のゼミで、一見意味不明の、このロークの言葉の私なりの解釈をゼミ生にしていたとき、私は非常なる幸福感に包まれました。自分が、生まれて初めて寝食忘れて夢中になって読んだ「英語で書かれた長編小説」を翻訳し、出版してもらいました。ゼミでは、原文を読むととともに、翻訳文をゼミ生たちが朗読します。私が訳した翻訳を。

★こんな幸福は、10000人に1人にしかあたらない幸福かもしれないと、そのとき私は思いました。いつまでも人間になれない幽霊の愚痴など、言っている場合ではないと思いました。そもそも幽霊なんていやしないのです。生きている人間と死体があるだけなのです。その中間なんてありはしないのです。生きているときは、存分に生き生きと生きるしかないのです。まだ、私は存分に生きていない、生きる力を出し尽くしていない、と思いました。