Ayn Rand Says(アイン・ランド語録) |
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定義ができた日には、するべきことが見える。 [05/10/2009]Definitions are the guardians of rationality, the first line of defense against the chaos of mental disintegration. (“Art and Cognition” in The Romantic Manifesto) (定義とは合理性の守護神である。精神の崩壊という混沌に抵抗する最初の防御線である。) ★ひさしぶりの「ランド語録」です。更新がメチャクチャに滞っております。申し訳ありません。仕事再開したら、やっぱり怒涛の労働です。くたびれます。まあ、しかし、それでも11もの委員会に出席しなければならなかった2005年度から数年間にわたった日々に比較すれば、天国です。会議につきあう頻度は、かなり軽減されております。ありがたいことです。 ★とはいっても、会議中の私は、「なんで、こんなしょうもないことを延々としゃべっているんじゃ、みんな、よっぽど暇なんだな」と、やっぱり相変わらず、内心はむかむかしております。しかし、会議出席も仕事のうちです。「そもそも、会議とは何か?会議の定義とは?この会議は、会議といえるか?どちらかと言うと、老人たちに占拠されている昼間のスタバだな。愚痴が多いもんな」などと思いながら、私は、高台に立つ建物の5階にある会議室の窓から南大阪の平和な空を眺めます。 ★マスコミが大げさに恐怖と不安を撒き散らす新型インフルエンザ騒動です。パンデミック(pandemic 世界的流行病)なんだそうです。こういう類の恐怖や不安を世界に広げて得する奴は誰なのかな〜〜医療業界と製薬会社と、国民の規制統制管理のための正当なる(?)口実が欲しい役人集団と、そいつら全部を利用できるある種の特権的な人々だよな〜〜共同謀議で世界を動かせる人々だよな〜〜 ★あれ、それとも、ほんとはインフルエンザではなくて、もっとヤバイ伝染病とか?どこかの細菌研究所が培養したものが流出してしまったとか?実は癌もエイズもアルツハイマー病も、特効薬は発明されたのに、これらの病気は儲かるんで、金銭のために医者になった類の医者とか製薬会社の利益のために、発明者を抹殺したり飼い殺しているという説もありますね〜〜いやですね〜〜人の不幸やマイナス面を飯の種にすると、結局は、こういうことするはめになりかねないのよね〜〜人類の進化の脚を引っ張るような人生は送りたくないもんよね〜〜♪ ★まあ、一般人にできることは、せめて、こういう無駄に捏造される恐怖や不安に撹乱(かくらん)されないことですね。とりあえず帰宅してからの、殺菌消毒用石鹸による手洗いの習慣は固守しよう〜〜と、思う私。 ★この騒ぎで、海外旅行のキャンセルをしたという話など、もれ聞きます。素晴らしいチャンスなのに、もったいないことです。こんなにも美しい季節に海外旅行できる機会だったのに〜〜と、思う私。 ★ついでに100年に一度とかの大恐慌だそうです。「勤勉に働いて銀行に預金しても、銀行は顧客の預金で国債を買い、政府はその国債と交換されたカネで米国債を買い、特別会計とかで外資のファンドを買い、その外資が日本の不動産を買い漁るから、日本人は自分のカネで自分の国土や資産を外国にくれてやっているようなもんだから、預金とか貯金するのは悪だ〜〜日本人のカネは預金したつもりでも、みな税金みたいなもんだ〜〜税金として勝手に使われるのだ〜〜外国の国際金融家たちの手に渡るのだ〜〜どうせ、いずれは預金封鎖されるか、インフレで目減りするんだから、預金するくらいならば不動産か金を買え〜〜紙幣なんて、所詮は紙くずだ〜〜」という、苫米地英人(とまべち・ひでと)氏が、『洗脳支配』(ビジネス社、2008)において、書いていらしたことを思い出して、「大恐慌でも、どうってことないよ。飢え死にしなきゃいいんだからさ・・・」と、思う私。 ★私は、英語教師でもあるので、苫米地氏の英語教授法とか英語教材にも関心があり、学生に奨めることができるかどうか自分でも実践(人体実験?)し検証し、その効果も、ある程度は知っているので、苫米地氏には敬意を払っております。この方の数多い著作の中でも、この『洗脳支配』は格別に面白いので、皆様にお薦めいたします。 ★特に、副島隆彦氏の著作の愛読者ならば、その関連で、この『洗脳支配』を面白いとお思いになることでしょう。苫米地氏が、副島隆彦氏の言論から、この本の執筆のヒントを得たかどうかは、よくわかりません。もしそうならば、苫米地氏は、「天才脳機能学者」なのですから、輝かしいキャリアの優秀な科学者なのですから、副島氏の仕事への言及なり謝辞があってしかるべきでありますが、一言もないのだから、多分、『洗脳支配』は純然たる苫米地氏の完璧なる創造なのでありましょう。かなあ。 ★確かに、一般の日本人が労働で稼ぎ出したカネは、日本政府や日本政府を操作する外国のある種の人々に収奪されてきたのでしょうが、だからこそ、日本は戦争に巻き込まれたり、直接に関与するはめにはなることは回避できたのかもしれません。戦争という究極の暴力を回避するには、それぐらいのカネが必要ということなのかもしれません。この世界のシステムにおいては、カネは命の次に大事なものだから、命を守るためには、カネを差し出さざるをえないのかもしれません。 ★私は、基本的には、日本が戦争に巻きこまれたり、戦争に直接に関与したり、日本の空の上から、爆弾だのミサイルだのウイルスだのが降ってこなければ、OKです。あとは、何とでもなりますので。 ★閑話休題。今回に紹介する文は短いです。意味も明快です。私がくたびれているから、短くてわかりやすい文を選んだ、というわけではありません。くたびれて混乱しがちな日常だからこそ、過剰な情報に覆われて真実が見えにくい、この世界だからこそ、このアイン・ランドの言葉が生きてきます。 ★日常生活というのは、私生活にせよ職業生活にせよ、処理していかなければならないことばかりです。次から次へとやることばかりです。最初にこれやって、次にこれで、あ、これはもっと後でもいいな・・・と絶えず頭の中で、とるべき行動や仕事(task)の優先順位と段取りを考えます。朝に目覚めたときから、「今日はこれやって、あれやって・・・」とイメージします。 ★非常にたびたび、仕事をサッサと片付けたくなるあまりに、無意味な切迫感に襲われます。そんなときは、「焦るな、焦るな、焦るようなことじゃない。あわてることない。楽しめ、楽しめ、今のこの瞬間を楽しめ」と自らを誡めますが、ついつい焦燥感にとらわれて、無駄に自分の神経を痛め、チョコレートが食いたくなり、ちょっと食うつもりが一箱まるまる食ってしまい、デブります。夢は体重60キロ!せめて、なりたや60キロ!きっと、なるぞ60キロ!ここに書いておけば実現するだろう〜〜と、勝手に根拠なく期待して決める私。20代の頃は9号サイズも着ることができて、体重が50キロ越えたら仰天するあまりに、地球最後の日が来たように大騒ぎしていたものでしたが・・・すべては夢でございます。 ★ところで、ドタバタ多忙にしていると、いったい何のために自分がドタバタしているのか、わからなくなります。本来の目的が忘れられて、手段でしかないものが目的になってしまうので、その手段に振り回され、かつその手段でしかないものを、無駄に無意味に複雑にしてしまいます。 ★所詮は、仕事や家事にまつわる諸々のことは目的ではありません。仕事や家事は、あくまでも手段です。たとえば、職場を例に出しましょう。職場というところでは、定年退職であれ、転出であれ、いったん退職して、その職場にいなくなった人々のことは、綺麗に忘却されます。文字通り思い出したように、たまに話題に出るだけですが、その話題もすぐに他の話題にとって代わられます。この事実が示すように、職場という場所に、いかに長く滞在しようと、職場に貢献しようと、職場に迷惑かけようと、きれいに忘れられます。職場とは、「通過地点」でしかないのです。長時間いても、所詮、職場は職場でしかありません。いかほどに同僚と親密な関係を築いても、その人間関係は、職場を離れれば、きわめて希薄になります。あるいは消滅します。そんなもんでありますよ。 ★職場という場所ではなく、「職」そのものだって手段でしかありません。私は、教師というのは、私にとっては特に思い入れもなかった職ではあるが、なってみたら結構そこそこできちゃったし、かつて私を教えたどの教師よりも今の私のほうが教師としては「いけてる」と冷静に公平に(?)判断できるので、教師という職は、私の天職かもしれんなあ〜〜と思ってきました。しかし、去年度の研究休暇の間に気がついてしまいました。「教室とか教えることとか学生さんとの交流とか、そういうことが消えても、寂しいだけで、どうってことない。寂しさは、慣れれば消える。忘れる。私は、教師でなくたって構わない。要するに、社会的動物の人間である以上、社会の中で反社会的な手段を使用せずに食っていければ、それでいいのだ」と。 ★天職(?)ですら手段です。では何の手段なのか?生きるための手段。よりよく生きるための手段。よりよく生きるって何?ただただ食って寝て生殖するだけにしては、過剰にややこしい脳を持つ人間にとって、よりよく生きるって、どーいうこと? ★いや、私にとっては、「人間はいかに生きるべきか」なんて、どーでもいいです。「よりよく生きるために、何をすべきか」なんか真剣に考えるほど、私は優等生ではないです。私は、義務感では動けない駄目な奴です。血液中の「優等生濃度=期待される人間像演技&内面化濃度」が、すこぶる低い奴です。前頭葉の発達がない、脳幹だけ元気みたいな「爬虫類人間」です。気分がわくわくと楽しくないと生きている気がしません。 ★じゃあ、私は、どういうふうにしていると、わくわくするのか?何をしていれば嬉しいのか?気分がいいのか?開けっぴろげに堂々と晴れ晴れと夢中に、いい気分でいるのが幸福な人生ならば、そういう気分が継続することをすればいいんだよね〜〜人生が、刻々過ぎる時間でしかないのならば、刻々過ぎる瞬間瞬間を楽しめないのならば、それは人生とは言えないよね〜〜だから、我慢しない。忍耐しない。退屈なおしゃべりにはつきあわない。社交はしない。お世辞は言わない。そーいうことすると、嫌いな奴が勘違いして近寄ってくるもん。義理は無視する。献本も無視する。失礼無礼極まりないが、礼状も気が向かないと書かない。ごめんなさい。メイルの返事も出さない。 気が向いたら返事を書く。電話にも出ない。玄関のチャイムも無視。まあ、職場の仕事連絡メイルの返信は、サッサと出しますが、これは生活費のためですから、自動的に機械的に淡々と指がキーボードを叩きます。 ★しかし、私がしたいこととは何なのか?(今のところ)私にとって、生きることを、ほんとに楽しめる活動は何か?言語化しよう!文節化しよう!つまり定義しよう! ★とかなんとか、脳幹人間、爬虫類度濃厚人間の私でも、混乱しがちな日常生活を整理するために、まず、なんでもかんでも、定義を試みます。物事は定義すれば、その物事に関して、したほうがいいことと、無視していいことの区別が見えてきます。物事を定義すると、そもそも、その物事自体を問題にすることが適切かどうかも、見えてきます。 ★私は今年56歳ですが、にもかかわらず、言葉による整理が試みられないままに放置された情緒的知的混乱に、まだまだ簡単に陥ります。しかし、56歳にもなると、今の日本で安易に安価に調達できる類の娯楽や趣味(=現実逃避装置)なんかは面白いとは感じられないので、その情緒的知的混乱から逃避することもできません。 ★この 「定義とは合理性の守護神である。精神の崩壊という混沌に抵抗する最初の防御線である」 というアイン・ランドの言葉が、身に染みるのは、混沌雑駁粗雑感情過剰脳細胞スカスカ状態が、あたりまえの若年時代ではありません。GHQによる洗脳の結果か何か知りませんが、日本人クルクルパー計画&日本人総愚民化計画の一環なのか知りませんが、今の日本には、混沌雑駁粗雑感情過剰脳細胞スカスカ状態の気ぜわしい空虚さを誤魔化して、逃げることを可能にしてくれる文化装置や文化生産物には事欠きません。 ★若い頃には、そういうおびただしくある文化的装置や文化製品を追っかければ、その向こうに何かあるような気がしました。だから、追っかけました。若い頃は、鬱屈や疑問があっても、いい映画みたり、いいレストランで美味しい食事したり、ブランドの素敵なバッグや靴やアクセサリーや時計を買ったり、海外旅行でもしたら、「けけけ」と、幸福な気分になれました。「気晴らし」が「気晴らし」として、有効に機能していたました。 ★しかし、いくらクルクルパーの洗脳されきった人間でも、50代後半ともなると、その向こうには何もない・・・と、はっきりわかるようになります。 向こうに逃げるのではなく、今この目の前にある世界の仕組みを見つめるしか、することはないのだと、わかってきます。「あああ〜〜嘘はもう、いいよ〜〜真実を見たい」という気持ちになります。もう奴隷ではいたくないと思います。たとえ、このシステムの中で賃金を得て食ってゆくしかなくても、そのシステムの奴隷として生きていかなくてはならなくても、自分の脳と心だけは独立させた醒めた奴隷でいたいと思うのです。 ★要するに、年をとると、逃げ場がなくなるのです。「気晴らし」がなくなるのです。逃げ場は、現実よりも、もっとしょうもない。「気晴らし」は、どんな高等な趣味でも娯楽でも、退屈になるのです。骨董みたいな文化生産物の化石を賛美して高級ぶりっこしている「白洲正子」なんか、やっていられないのです。 ★だから、年取った人間は、浮かない顔をしているのです。「気晴らし」が「気晴らし」にならないので、不機嫌な冴えない顔つきになるのです。「気晴らし」で逃避するんじゃなくて、いかにしんどくても、その先に行かないと退屈さは解消されないのですが、その先に行くことはできないと決め付けて、まだ別種の「気晴らし」があるのではないか、私は不等にも損をしているのではないかと、物欲しそうになるので、年取った人間は、うざいのです。はい。昼間のスタバに集団でたむろして、延々と居座ってんじゃないよ。お前らなんか、新型インフルエンザにもかからんわ。ウイルスも寄りつかんわ。 ★全然関係ないけど、今年の2月か3月にNHKで放映された「白洲次郎」ってドラマを偶然見たら、吉田茂役の原田芳雄さんだけは、ものすっごく良かった!あの吉田茂は最高だった!原田芳雄さんは、60歳過ぎて、若い頃よりも、はるかに男前になった稀有な男優さんです。白洲次郎を演じた若い男優さん(名前知らない)よりも、はるかにカッコ良かった! ★それはさておき、今の私の願いは、ただひとつ。「自分を自由にしたい。メンタル・ブロックをはずしたい。自由になった脳と心に映る世界が、どんなだか見たい。人々の脳と心が自由になったら、できあがる世界を見たい。私は自由になるぞ〜〜」ということです。 ★最近の私は、世界の前で徒手空拳のまま立っている気分です。自分が、ひとつの大きな眼になって世界に対している気分です。うわあ、エマソン(Ralph Waldo Emerson)みたいだなあ。そうか、私は、19世紀のアメリカのニューイングランドのインテリの水準にやっと至ったのか。アイン・ランドに至る20世紀半ばまでには、まだ遠いな。21世紀まで、はるかにまだまだ遠いな。遠くてもいいよ。歩き続けるさ。 ★どんなに憂鬱な事実でも、ちゃんと見て知って、なおかつ希望を失わないでいるためには、物事があるべき姿を明確に生き生きとイメージし続けるには、「定義すること」を習慣にするしかありません。グチャグチャの混乱を、言葉で種分け腑分けして、物事のあるべき姿を、繰り返し抽出して、生き生きとしたイメージに形成して、そのイメージが脳と心に刻印されるに至るまで反復して、まさにイメージし続けるのです。定義された内容の吟味も絶えずして、必要ならば更新を続けるのです。 ★これが、なかなか難しいです。ここに私自身が実践した具体例を記述したいのですが、ここに実例を示すことができるような段階に、まだ至っておりません。すみません。 ★ともあれ、動物にも劣る畜生しかないように思える世界の中でも、極私的には、自分が関与できる世界の中では、定義が導く、あるべき物事の姿に近づくためにできることが、小さくても、何かあります。物事を定義して、その定義内容に現実が近づけるように、できることをするという作業を忘れると、それは人間の生ではないのでしょう。それは社会ではないのでしょう。世界の事物事柄概念の定義をしないまま、感情や感性の動きに応じて流れるままに混乱したままに生きていくこともできますが、そんな混乱は快適じゃないなあ〜〜気持ちよくないなあ〜〜脳と心の便秘ですね。 ★定義ができた日には、すべきことが見える。晴れた日には、永遠が見える。眠れない夜と雨の日には、忘れかけてた愛がよみがえる。ははは・・・ 最近、また初期の頃のOff Courseを聴きたくなってきた。第二次青春期かしらん。むふふ・・・「気晴らし」がなくなった日から、人間のほんとうの人生が始まるんだわん。大いなる精神の自由への挑戦が始まるんだわん。 |