雑文
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アメリカで、アイン・ランド研究を反対されたけれど、でも私はやるんだの記(4)


それはさておき、抑圧された依存心から来る「救世主コンプレックス」なんてものは、一種の奴隷根性であると、人間蔑視であると、ランドの小説読んだ今は思う。だいたいが、自分ひとりの人生さえ管理できない人間が、他人など救えるか。また人を救えると思うのが馬鹿。思い上がり。自分の人生は自分しか救えないのだから、他人の人生も、その当の他人しか救えない。それを自分が救ってあげようなんて、その他人を馬鹿にした話である。また自分の人生は自分の人生だから、自分には幸福に生きる、自らの人生を豊かに成就させる義務がある。だから、自分の人生を自分で傷つけたりすることは不道徳なことだ。また、自分を他人に搾取されるままにするのも不道徳なことだ。自己犠牲などというものは、自分の人生への冒涜であり、罪悪である。抑圧された依存心の投影から他人に過剰に関わるという行為には、本当の意味での、その他人への信頼がないし、尊敬がない。

その他人が自力ですべきことに過剰に手助けすることは、自分の人生の空虚をその行為で埋め合わせするようなものだ。助けているつもりで、利用しているだけだ。ひとりひとりの人間が、めいっぱい自分の幸福成就に努力することへの手助けが、そういう意味での、搾取であってはいけない。

子供は、まだ成長途上にあるのだから、子供を育てることによる親の不如意は、搾取されることでも、自己犠牲でもない。しかし、ある程度成長した子供に依存されることは、親の自己犠牲に通じるし、子供が親の孤独や無為の慰めにされるのは、親の子供への搾取だ。親子でも男女の関係でも、互いの搾取や相互依存(共依存)を愛と呼ぶことは、やめたほうがいい。互いに弱いしずるいし臆病だし自分の人生を作る!というほど自分の人生への尊敬もないし、自前で自分の人生創るのも面倒だから、互いに互いの時間をつぶしあっています、互いに利用しあっています、時に不自由で息も詰まりますが、時に相手が憎くなるのですが、それでも便利です、安心です、でいいのだ。それは、実もふたもない現実で、かっこ悪いみっともないことだけれど、事実であるのならば、認めればいいのだ。それをそのまま、受け入れればいいのだ。直視すればいいのだ。なんで愛などと呼んでごまかすのか。自分の人生でもそんなごまかししている人間たちだから、その人間たちで作る社会もごまかしだらけで、人々は、そのごまかしに侵食されながら、それに依存し、もっと不幸になり、もっと自分を傷つけ他人を搾取して、くっだらないくっだらない国ができあがったのだ。日本だ。偽善も無自覚にやっていると、悪臭を放つよ。臭いんだよ、この国。

自分の人生に当事者意識をもち自分の人生を尊重すること、および、だからこそ他人の人生への尊重を尊重することを、教養と私は呼ぶ。その教養を有する人間どうしの間に生まれる相互理解と連帯こそ、人間の愛と私は呼ぶ。そういう教養と人間関係を育て、支え、維持するシステムを持つ社会を、文明社会と私は呼ぶ。

この日本に、そういう教養が根づいた方がいい、そういう人間の愛の関係が生まれたほうがいい、日本がそういう文明社会になったほうがいい、と私は思うから、アイン・ランドを日本に広める。ランドの思想をわかりやくすく伝えることを仕事にする。右翼だろうが左翼だろうが、資本主義擁護だろうが社会主義擁護だろうが、カルトだろうが何だろうがアメリカでのランド評価のクリッシェなど、どうでもいい。日本は、教養もないし、愛ある人間関係もないし、文明社会でもないから、私はそれらが欲しいだけだ。


―――――― おわり。

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