ヴィジョンなき国家のアニメ---大友克洋作Akira(3)
報告者:藤森かよこ
Akiraと1980年代の日本
2007年の視点から見ると、このアニメに横溢する祝祭的乱痴気騒ぎのムードは、1980年代の日本の高揚を反映しています。Japan as Number Oneとは、日本研究者のEzra Vogelが1979年に発表した本の題名ですが、そのような本が出版されるほど、70年代から80年代の日本の経済的台頭は著しいものでした。第二次世界大戦敗北以来、初めて多くの日本人が、「アメリカなんて、大したことはない」という気分にひたった時代でもありました。
2007年現在からアニメAkiraを見ると、鉄雄の「弱者」から「強者」への変容は、敗戦国から経済大国へという第二次大戦の日本の変容と重なって見えます。この印象は私だけのものではありません。日本文学研究者であり、かつ卓越した日本アニメ研究者でもあるSusan J. Napierは、Akiraが、1980年代の日本の経済的成功状況を遂げた時期に製作されていることに注目しています(Napier, 40)。
「強くなって、制約を受けずに行動し、かつて自分を苛めた人間や世間に、その力を誇示すること」という、鉄雄の変容のような題材は、思春期の人間が持ちやすい欲望のひとつですから、この題材そのものは大衆娯楽作品には珍しくありません。私が問題にしたいのは、この鉄雄のありようが、第二次世界大戦の敗北から経済大国への台頭という日本の戦後史と重なるばかりでなく、明治以降の日本のありようとも重なって見えるということなのです。はっきり言えば、Akiraにおける鉄雄の変容は、日本の歴史のありようと重なって見えるということなのです。
先に少し言及されたNapierは、気の弱い鉄雄が力を得て怪物になってゆくことについて、「この時代の日本自身の深く根付いた矛盾した心性、つまり新しい自分を見出して喜びつつも、一方では、その状態を怖れるという心性の反映としてイデオロギカルな観点から読み解くことが可能である」(Tetsuo’s monstrousness can thus be coded in ideological terms as a reflection of Japan’s own deep-seated ambivalence at this time, partly glorying in its new identity but also partly fearing it.”)と述べています(Napier ,40)。このNapierの指摘は、見逃せません。なぜならば、アメリカ人のNapierの目には、日本が1980年代の経済的成功を喜びつつも、怖れていると見えていたということですから。これは、日本が、「強くなっても、その強さを使いこなせない少年」のように、外国からは見えていたということですから。日本が、「何の目的もなく、たまたま偶然に力を得てしまって、どうしたらいいかわからないような少年」のようだったということですから。
アニメのAkiraの中で敷島(しきしま)大佐が言う「復興の夢や努力を忘れてくだらない欲望に人々が走っている」ネオ東京のありようや、根津の言う「熟れすぎた果実」のような、あとは落ちるか腐るのを待つばかりかのようなネオ東京の危なっかしさも、経済的成功を手にしたものの、それを建設的な方向に使わぬままでいた1980年代の日本と重なるのかもしれません。
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