雑文

ヴィジョンなき国家のアニメ---大友克洋作Akira(5)
報告者:藤森かよこ


選択と構築

まとめに入りたいと思います。私は、本報告で、アニメAkiraに描かれた鉄雄の変容と自己制御不能の状況と、ネオ東京の空虚な繁栄と、その危なっかしさが、経済的成功を獲得しながらも、その成功をどう生かしてゆくかに関するヴィジョンを持たなかった1980年代の日本の状況と重なると言いました。その日本のヴィジョン不在の原因は、日本の自己把握の失敗だと言いました。言い換えれば、それは、日本に真のnational identityがないからだと言いました。その原因は、岸田秀をはじめとする他の研究者の説によって、推測されました。

これらによって、明らかになったことは、以下のとおりです。個人と同じく、国家もまた、自己が何ものであるかに関して確信が持てないと、自己の独自性や独立性に非現実的に固執しがちになり、他者との現実的対処に失敗すること。その問題に関しては、自分が意識していれば、何らかの対策のたてようもあるが、自分が意識していないのならば、その問題はずっと強迫的に反復されること。その例は、日本の起源に端を発した、国際化と非国際化(鎖国)の間を揺れ動く日本の歴史であること。このような状況に陥る個人の人生は危険なものになりやすいですが、同じく、国家がそのような状況に陥ることによって生じる危険と悲惨さと「はた迷惑」は、日本の近代から現代にかけての戦争の歴史が実例であること、などです。

みなさんは、私が何を指摘したいのか、すでに予想しておられるのではないでしょうか。日本の現在の問題は、自分の国をどんな国にするのかに関する構想を持たない、ということです。ヴィジョンを生み出す源泉である「国のありかた」に対する国民的合意、すなわちnational identityがないということです。その原因は、とにもかくにも、日本がアメリカの植民地であること、甘く見てもアメリカの属国であることを、日本人が直視していないことにあるのです。もし、直視していれば、それに対する対処を考えます。選択を始めます。その選択が、国のありようを決めて構築していきます。

たとえば、アメリカの属国もしくは植民地として、徹底的にアメリカのシステムを真似るのか、もしくは、アメリカに対して確信犯的に面従腹背で対処し、アメリカの衰退を粘り強く待つのか、もしくは、独立国家として主権を回復するのか、もしくは状況に任せて漂流するのか。選択によって、実践すべき政策が違ってきます。また、選択にはリスクが不可避ですが、どんなリスクかは、選択された道によって違います。

私は、アメリカ文学やアメリカ文化の教師ですが、英語の教師でもありますので、文部科学省や、日本の学校が英語教育の充実や国際化を唱えるくせに、本気で英語教育をする気がないことを、よく知っています。日本の大学においては、英語を学生に習得させるつもりであるのならば、とうてい考えられないような教育環境で、英語科目は開講されています。また、本気で英語を習得させるかわりに失うものの大きさの認識もされておりません。これは英語教育ではなくて、「英語教育ごっこ」でしかありません。つまり、日本は、国際化も国民の英語力増進も、本気で望んではいないのです。岸田秀が指摘するように、日本は、国際的なフリはしていますが、ほんとうは鎖国をしていたいのです。日本のなかに引きこもっていたいのです。いや、真理的には、鎖国をして引きこもっているのです。すでにして、いつも、昔から。

私は、鎖国や引きこもりを非難しているのではありません。それが日本国民の総意ならば、それを国策にしていいのです。鎖国や引きこもりのもたらす不利益がいかに大きなものだろうと、それが主体的に選択されたものであるのならば、それも国家のありかたのひとつだと思います。しかし、日本は鎖国を選ぶわけでもありません。

ならば、日本は、アメリカに対して確信犯的に面従腹背で対処し、アメリカの衰退を粘り強く待つことを選んでいるのでしょうか。そのわりには、アメリカ帝国崩壊と、崩壊以後の状況に対する対策を考え実践しているようには見えません。

となると、今の日本は、進むべき道を選択しないことを選んで漂流することを選んでいるのでしょうか。それが日本の選択ならば、マスコミが政府批判を展開するのは時間とエネルギーの無駄です。選択しないことを選択したのならば、現状はアメリカの植民地である日本の政府は傀儡政府でしかないのですから、日本の国政にせよ外交にせよ、日本政府に決定権はないのですから、政府批判など無意味です。選択せずに状況によって流されていくということ、すなわち、現実からの逃避を国民が選んだのならば、それも国家のありようです。ただし、そのリスクは、引き受けるしかありません。そのリスクとは、国に対する誇りの喪失と自己確信の低下からくる国民の活力の低下と国力の衰退です。現実の中に足場を構築しない生き方は、個人にせよ、国にせよ、退廃と迷妄に陥るしかありません。それも国民が選んだのならば、いたしかたありません。人間には愚劣でいる自由もあります。

今は、グローバリゼイションが推進される時代ですから、私のように、国家、nation stateについて、いろいろ述べるのは、時代錯誤、時代遅れであるのかもしれません。すでに、国民とか国民国家ではなく、個人や、国家より所属帰属が自由な統治共同体のネットワークが国際社会のリアル・プレイヤーになりつつある時代であるかもしれません。私自身は個人主義者ですから、日本と運命をともにする気はないのですが、現実的には私は国家のありようから影響を受けないほどに強い個人ではありませんので、日本のありようと、その未来に切実な関心を持たざるをえないのです。

ともあれ、どんな時代にせよ、どんな国際環境にせよ、問題は、自分が何かを選んでいるということの自覚です。自己把握です。事実認識です。自分が選んだことの結果を引き受けることです。人間も社会も発生しっぱなしで存続できるわけではありません。たえまなく選択を重ねて、自らの生を構築しています。その構築という作業そのものが生きることです。そこから逃避することはできません。

アニメAkiraから触発されて私が考えたこととは、以上のことなのですが、最後に、韓国のみなさんに、ひとつ質問をさせていただいて、この報告を終わらせていただきます。

韓国は、隣国中国の属国である歴史が長く、やはり独立性に不安を感じやすい立場でした。近代以降は、日本やアメリカの支配を受けて、外交の歴史は苦難に満ちたものでした。現在の状況は、アメリカ帝国の影のもとにあります。中国の脅威は、実に身近な地理的環境にあります。私の認識が間違っていなければ、韓国と日本は、その攻撃を受けやすいこと(vulnerability)において似ています。ならば、韓国は、私が日本に関して述べてきたような問題と、本質的には似ている問題を持っているのでしょうか?個人間の関係と同じく、国際理解や外交は、まずは自己把握から始まります。互いに、自己把握から始めようではありませんか。ご静聴をありがとうございました。

参考文献
Morimoto, Marie.”The ‘Peace Divides’ in Japanese Cinema: Metaphors of a Demilitarized Nation” In Colonialism and Nationalism in Asian Cinema  Edited by Wimal Dissanayake. Bloomington: Indiana University Press, 1994.
Napier, Susan J. ANIME: from Akira to Princess Mononoke  New York: Palgrave, 2001.
Quigley, Carroll. Tragedy and Hope:  A History of the World in Our Time.  New York: Macmillan, 1966.
岡田英弘『日本史の誕生---千三百年前の外圧が日本を作った』弓立社、1994年
岸田秀『官僚病の起源』新書館 1997年
副島隆彦『属国・日本論』五月書房、1997年