論文
大不況期には使えなかったが、冷戦強化期には使えた何かについて
―知識人のトラウマと大衆社会―

大不況期1930年代のフォークナー文学評価と冷戦強化期40年代後半以降のそれとの間にある差異という問題は、決して新しいものではない。ローレンス・H.・シュウォーツが『フォークナーの名声の構築』(Creating Faulkner’s Reputation)において論じた問題は、すでに1966年に大橋健三郎が、30年代から60年代にかけてのフォークナー批評の流れを総括したおりに、ある程度論じている。

フォークナー批評におけるこうした三つの代表的な傾向---この作家を「残酷派」と規定し、技巧過剰のゆえに非難し、その「地方性」に特別な関心を示すという傾向---は、たしかに一九三〇年代におけるオドネル論文以前のフォークナー評価の主流を形作って、それを不思議に実り少ないものにしているが、しかしながら、はたしてわれわれは、こうした傾向を完全に拒否して、この時期のフォークナー批評をまったく無視してしまうことができるだろうか。よく考えてみれば、今日のいっそう深まった、より徹底した批評・研究にしても、けっきょくは右に述べた三つの大きな問題---モラル(「残酷派」という規定は根底にモラルの問題を踏まえている)、技巧、地域性---を軸にして展開しているのである。ホフマンのいわゆる「シリアスまじめな」フォークナー批評の発端ともいうべきオドネルの論文も「モラル」と「南部」の問題を抜きにしては成立しえないであろうし、カウリーの有名な序文は、文字通り「南部」の「伝説」を根幹にしたものであり、ウォレンの書評は、さらにそれらの問題に「アート芸術」の問題を付け加えたものにほかならず、この「芸術」の問題とは、当然「技巧」の問題の延長線上にあるものなのだ。いいかえれば、「まじめな」批評といえども、けっして一九三九年に突如としてあらわれたものではないのであって、多かれ少なかれ、三〇年代の批評の延長線上に成立したものにほかならないものであり、その歴史的な事情は、今日にもつながっているのである。(大橋、192-93)

さらに、次のように大橋は述べている。

フォークナー批評における、オドネル論文以前と以後の違いを一口でいってしまえば、それは外からの批評と内からの批評の違いであるといっていいかもしれない。つまり、前者がフォークナーの文学をあくまでも一つの文学現象として、外側からそれを評価し位置づけようとしていたのに対して、後者は、むしろその文学現象を一つの自足的な世界としてそのまま受け入れ、いわばその内側にはいりこんで、それを解釈し意味づけようとしているように思われるのである。こうした違いの起こる原因には、もちろん、三〇年代の社会的、倫理的、もしくはフロイト派的外在批評から、それ以後の審美的、芸術派的内在批評への移行ということが、重要な一つとして考えられるが、同時にそれと平行して、いわゆる「南部文芸復興」を準備する、南部農本主義派の流れを汲む批評家たちの、しだいに強くなっていく批評活動が、大きな役割を果たしていたことを忘れてはならない。(196-97)

大橋は、40年代以降のフォークナーの文名隆盛は、フォークナーの作品が変質したからではなく、同じ文学の同じ質のものが違った評価を受けたのだということ、つまり30年代と同じく40年代以降も、フォークナー評価は、フォークナー文学の内部から生まれたものではなく、外部の事情で作られたものであると、示唆したのである。前述のシュウォーツが八八年に試みたことは、結果として、66年時点で大橋が指摘したことの、期せずしてのより徹底した検証と言える。

確認のために、シュウォーツの見解を振り返ると、以下のようになる。注(1)第二次世界大戦中に意識され、戦後なお一層高まったのが西側自由陣営と、東側ソ連陣営のプロパガンダ競争だった。アメリカが世界の知的、科学的、文化的分野で指導的役割を果たすためには、アメリカの本(texts)、アメリカの作家の、世界市場売り出しが国家的要請となる(Schwartz,50)。戦後にフォークナーを高く評価したのは、南部農本主義を支持した保守的な新批評家たちと左翼的なニューヨーク知識人だった。政治的には立場を異にするこのふたつの勢力は、自由を保持する歴史的責任が合衆国にはあるのだから、文学を解する高い趣味と鑑識眼ある文化的エリートたる両勢力こそ文化の領域に責任を持つべきだという理由で、連携の合意に至る(73)。五〇年代初頭までには、「文化的自由のためのアメリカ委員会」(The American Committee for Cultural Freedom )や「文化的自由を守る会議」( The Congress for Cultural Freedom)など政府から補助金を出す機関ができた。文化的冷戦を戦うための軍資金を提供するためである(73)。冷戦強化期の文壇の中心的人物は、ジョン・クロウ・ランサムやアレン・テイトやライオネル・トリリングにフィリップ・ラーヴにリチャード・ブラックマーなど、指導的文学雑誌である『ケニヨン・レヴュー』『パルティザン・レヴュー』『スワニー・レヴュー』などの編集者であった。彼らが参入したロックフェラー財団の人文学部門は、43年にアメリカの文学風土を支援する方策を考え始めた。(80)。具体的な方策は、文学雑誌に補助金を出すこと、大学や機関に文芸批評の基金を出すこと、作家に創作奨励金を出すことであった。どの雑誌に、どの大学に、どの作家に金を出すかは、彼らが決定した(113)。冷戦体制におけるアメリカ文学の国際的重要性を認識していたロックフェラー財団は、新しいアメリカ国民作家の発見を急いでいた(132)。そこでかつぎだされたのが、フォークナーであり、四七年から五十年まで、彼は主流文学雑誌に集中的に紹介され、彼の文学は戦後のモダニズムと形式主義的美学の具現とされ、その難解なテキストは、社会的有用性を意識する芸術(30年代的芸術、ソ連的芸術)に優越するもの、全体主義に対する抵抗、誰からも制限されることのない個人的自由の表現とされ、様式の革新の重要性の象徴となった(199)。栄光と恥辱に満ちた過去の南部と、そこを舞台に展開される人間性の真実(human verities)を赤裸々に残酷無残なまでに描くフォークナー文学は、悲惨な大戦を経て、ますます非道徳的になりつつある現代世界に警鐘を鳴らす霊的(spiritual)勇気、道徳的勇気の象徴と解釈されるようになった。三十年代の政治的に急進的な文学動向に関与せず、深くアメリカ的な文学の声(profoundly American literary voice)に憑かれたフォークナー文学は、冷戦期においてアメリカの大義を証明する政治的機能として貢献することになった(202)。かくして冷戦期の初期段階において、フォークナー文学は文化的冷戦対応優良文化商品となった(210)。

言うまでもないが、シュウォーツのこの見解は、あくまでも仮説・推量でしかない。新批評家たち、ニューヨーク知識人、ロックフェラー財団、国務省、大学や出版社がこぞって陰謀を企てたとか、「フォークナー売出し作戦」が冷戦対策の文化政策の一環として大統領も承知していたとかを明言する公文書があるわけではない。かといって、我々は、このシュウォーツ見解を黙殺することはできないのではないか。

21世紀初頭に生きる文学研究者は、旧世紀30年代においては希望の思想だったマルクス主義を国政に実践した国々の失敗=マルクス主義の現実における破綻というものを知っているので、マルクス主義の実践そのものにはあとずさりするかもしれない。しかしマルクス主義批評が与えた洞察、つまり文学作品における政治的無意識という視座、すなわち政治の網の目から逃げられるような完全中立な言説などないという洞察が、多くの発見を文学研究者に与えてきたことは否定できない。現代の文学研究者は、文学にまつわる現象の政治的背景に考えをめぐらすのが、習慣となった。したがって、たった10年で、ひとりの作家の同じ作品の評価が劇的に変わり、そのたった10年が冷戦以前と冷戦時代に別けられうるのならば、その作家と冷戦の関係を忖度するのは、当たり前すぎるくらい当たり前なのだ。また、このシュウォーツの見解の信憑性を補強するような他の見解も少なからずある。注(2)したがって、「1930年代的には不良文化商品だったが、50年代には優良文化商品になっていたフォークナー文学」の背後にある冷戦政策という仮説を筆者はかなり支持するのであるが、納得できないことがひとつある。筆者から見れば、フォークナー文学はきわめて1930年代的に読める。金銭と階級という観点から見ると、フォークナー文学は充分に1930年代的に読める。なのに、なぜ30年代においては、それが評価されなかったのか。本論の目的は、その理由の考察である。紙幅の制限と筆者の趣味から、『アブサロム、アブサロム』を中心に、この問題について考察する。

かつて岡庭昇は、「トマス・サトペンはフォークナーが造形した人物の中で、もっとも魅力的なひとりではないだろうか」(岡庭、70)と書いたが、その理由として、この人物には「自然(=運命)を力わざでねじふせることで、自らの身体を世界に刻印しようとする」「荒々しい情熱」(73)があるからと、いかにも懐かしい70年代的文学ロマン風味の説明をした。いっぽう筆者がトマス・サトペンを好きな理由は実に散文的なものである。サトペンは、「ヨクナパトーファ初のビジネスマン」と呼んでいいような人物だから好きなのである。もちろん、彼は現代のニューヨークに生きるビジネスマンと同じではない。筆者が言いたいのは、商行為というものの基本的根源的な交換関係に非常に意識的な人間としてトマス・サトペンが造形されているということなのだ。誰のものを強奪したいわけでも搾取したいわけでもなく、互いに見合った利益の得られる、互いに割にあった(rational)交換関係を他人と結ぶことを望んでいる人間という意味で、彼は「ヨクナパトーファ初のビジネスマン」なのだ。

この人物は、ローザ・コールドフィールドの独白においては、悪鬼として罵詈雑言を浴びせられ、その暴力的な強引さを非難されているが、この人物の行動は意外に公平である。この公平(fair)ということばは、かつて教会の前の広場で立った市(fair)と通じる。先住民族の土地を安値で買い叩いたとか、ハイチで黒人奴隷の反乱をうまく収めた報酬として農場主の娘との結婚にこぎつけたことで、南部で農園を開く資金を形成したとかいう行為は、彼の時代の文脈から見れば、搾取でも寄生でもない。動機は自己中心的で方法は強引でも、その当時の文脈において互いにとって納得できる利益が見込まれてこそ成立した交換関係だ。ハイチで結婚したフランス人農場主の娘が黒人との混血だったので離婚したさいにも、彼は妻子の生活が成り立つだけの経済的配慮をしている。

エレン・コールドフィールドとの結婚に際しても、彼女の父親がそれを承認するだけの何らかのものを父親に提供したからである。地域共同体からそれなりの敬意を払われてしかるべき品位(respectability)はあるが、名家旧家の家柄や資産があるわけではない家の娘との結婚を選択することでもわかるように、彼には「分相応さ」という感覚がある。ローザは、絶妙なる打算から姉を妻に選んだとトマス・サトペンを罵倒するが、そういう計算をしないではすまない「慎ましさ」とでもいうべきものが彼にはある。「慎ましさ」とは、他人との距離を測り、自己と他人との関係のバランスを図る能力、他人の存在を意識できる能力、他人と自分を同一化せず他人を専横しない能力である。この「慎ましさ」は、ローザにも発揮される。ローザは、姉のエレンの死後、トマス・サトペンから男の子が生まれたら正式に結婚するという条件で肉体関係を結ぶ申し出を受けたことに怒り、居候していた「サトペン荘園」を出る。しかし本当に身勝手な男ならばこういうことを正直に申し出ない。「契約」というものは、対等な人間が互いの持ち物を交換することの強いられない合意なのだから、男が優位で女が劣位である性別階層序列に埋没している人間にはありえない行為である。契約なしで、合意と取り決めなしで、息子獲得のためにローザを利用するだけの、性別階層序列に安住する厚かましさが、トマス・サトペンにはない。

短編「あの夕陽」に登場したストウヴァルという銀行員は、貧しい黒人女ナンシーと、互いに納得づくの売春という商行為に着手し、それを完了したのだから、ナンシーの肉体使用を金銭で交換しなくてはならないのに、その金を支払わない。公平な商行為を実践することが当然のビジネスマンである銀行の支店長(manager)であるところの、教会の執事でもある男の卑しさ(unfairness)に比較すれば、トマス・サトペンは実に紳士である。

こうなると、『労働の小説』(Fictions of Labor)におけるリチャード・ゴデンの指摘が、説得力を持って思い出されてくる。ゴデンは、トマス・サトペンを「労働のトラウマ」に憑かれている人間であると論じた。注(3) 以下はゴデンの見解である。トマス・サトペンは、子沢山の貧乏白人の息子として生まれ、幼い少年時代に父親の伝言をことづかり、地主の屋敷に出かけたら、玄関先で黒人の執事から玄関ではなく裏口に回るように命じられた。そのとき少年は、自分が属する階級の社会的布置を理解した。それだけではなく、黒人奴隷を駆使して贅沢な暮らしをする白人の主人は、黒人奴隷の支配者に見えて、実は奴隷の労働に依存して生きているにすぎないし、奴隷の方は自分たちこそが主人を食わせているとわかっているのだと理解した。しかし、彼が生きる南部社会では、他人に軽蔑されない紳士であるためには、大農園と大農園を維持できるだけの黒人奴隷と大きな屋敷を持たねばならない。それで少年は長じてそれを実現させたが、その白人と黒人奴隷の支配と被支配の逆転構造に対するヘーゲル的認識は生涯彼をおびやかす。彼の夢(design)は、支配者になることだが、それは奴隷の奴隷になることだったのだ。しかし、奴隷の奴隷たる主人になる以外の生き方はない。この認識は心深く抑圧され、トラウマとなる(Godden,49-66)。

トマス・サトペンが、黒人奴隷とともに農場建設や邸宅建築作業に従事し、余興で黒人奴隷とレスリングをして戦うゲームをして勝ちを収めるだけの腕力を維持するのは、単に彼が尋常ならざる活力、暴力的なほどの活力に満ちているからではなく、このトラウマが原因している。彼は、奴隷を支配する主人、奴隷に依存していない主人である自分自身を確認したいのだ(54)。玄関先で追い払われて傷つくだけでなく、そこでヘーゲルの奴隷と主人の弁証法を洞察するには、前提としてサトペンは、公平な人間関係というものを知っていなければならない。彼はウエスト・ヴァージニアの山中に生まれ育ち、彼が十歳のときに父親が大家族の生活の向上のために山を降りて海岸地帯にやって来て、小作人生活を始めた。山にいたころは狩猟生活で、そこの人々は獲物を分け合って食べて、その人間関係に階級差はなかった。山以外の広い世界に貫徹する階級社会構造に対して無知だったからこそ、彼は農場主の屋敷の玄関先で衝撃と認識を得る(62)。

このゴデンの「労働のトラウマ」説から短編「ウォッシュ」を照射すると、使用人ウォッシュ・ジョーンズに殺されるサトペンの身勝手さの表層の向こうに、別の顔が見えてくる。ウォッシュがサトペンを殺害し、孫娘と生まれたばかりの赤ん坊を殺して小屋に火を放ったのは、サトペンにとって自分が単なる使用人ではない、ある種対等な人間関係が形成されていたと思い込んでいたウォッシュの幻滅、裏切られ感が原因だった。つまり、サトペンの言動に、ウォッシュをしてそう期待させ、幻想させるだけのものがあったということになる。支配者たる農場主の自分と被支配者たる使用人のウォッシュの差異を無効にしてしまうような衝動、ゴデン言うところの「労働のトラウマ」の抑圧から自分を解除するような瞬間を、サトペンがウォッシュに見せていたからだと、考えられる。

この正直さを、貧乏白人出身らしい「小心さ」「善良さという気の弱さ」と呼ぶのは簡単だが、貧乏白人だからこういう資質があるとは言えない。やらずぶったくりの横領・強奪精神=大らかなる金持ち白人の心性=無自覚に平気で他人の寄生虫でいられる厚かましさが欠如したサトペンには、短編「納屋は燃える」のアブ・スノープスやスノープス三部作のフレム・スノープスが持つ、いかにも一般通念で見る貧乏白人らしい卑しさがない。トマス・サトペンという登場人物が、一種の神話的な輝きと影を持っているのは、平気で卑しくいられる強さを持たない弱さがあるからだ。もしくは、平気で卑しくいられる弱さを持たない強さがあるからだ。徹底した卑しさがあってこそ南部貴族でいられるという皮肉、およびヘーゲルの奴隷と主人の弁証法など認識できない頭の悪さこそ南部貴族の条件であるという逆説を、『アブサロム、アブサロム』は描いている。

このようにフォークナーの作品には、いかにも30年代大恐慌時代的問題系=階級社会の残酷さ、労働と搾取の問題が、社会悪をストレートに語るという手法はとらずとも、確かに存在する。これはもちろん、ゴデンや筆者だけの見解ではない。牧野有通は、論文「貧乏白人と「靴」----『アブサロム、アブサロム!』の原風景」の中で、「靴をはくこともできない貧乏白人の子どもが大農場主の玄関先で追い払われる」という風景を、複数の作品に繰り返しフォークナーが書いている事実に言及している。「フォークナーが、アポクリファルな結構の背後で、いかに執拗に『貧乏白人のアクチュアリティ』を創作の基底に置いていたか、ということのみならず、彼が少し弛緩も見せぬリアリスト小説家であったかをもうかがわせるものとなっている」(90)と述べている。また、林文代は、論文「欲望のダイナミズム---『パイロン』と『アブサロム、アブサロム!』の資本主義」の中で、フォークナー作品が持つ資本主義的構造への視座を指摘している。少年時代のサトペンに「裏へ回れと言った黒人を支配する白人のプランテーション・オーナーと同じになるためには、この白人と黒人の差異は決して無くなってはならないのである。利潤の存在によって資本の無限の増殖が可能であるように、『サトペンのデザイン』はこの白人と黒人の差異を前提として初めて成立するのである」(255)と書いている。

いかにも三〇年代的な資本主義への問題意識とまではいかなくとも、フォークナー文学世界に商行為の交換とか金銭の問題が、前期作品の頃からでも、常に大いに意識されていることは、田中敬子の研究が示唆している。田中は、『フォークナーの前期作品研究』において、『響きと怒り』に貫徹する「贈与と交換」のモチーフを分析しているが、そういう分析が可能なだけの作者の経済的問題への視野は明らかなのだ。短編「エミリーに薔薇を」に描かれている南部貴婦人のドライフラワー、エミリー・グリアソンの歪みは、その確信犯的税金滞納者ぶりに表現されているように。「あの夕陽」の貧しい黒人女ナンシーが出奔した夫ジーザスの自分に対する誠意の証左として指摘する事実が、この夫が二ドル手に入れば必ず自分に一ドルくれる男だということであるように。瑣末なことに見えるが、この短編中に、これほどジーザスという男の愛情と誠意をリアルに証明する行為は言及されない。だからこそ、その誠意があるからこそ、売春をした妻に対する夫の怒りは大きいものだとナンシーは思うし、読者も思う。

ビジネスと金銭と言えば、フォークナー文学の中で印象の強い登場人物はジェイソン・コンプソン二世だ。彼は、ニューヨークの相場での株価ばかりを気にし、姉が娘(彼にとっては姪)の養育費として送ってくる小切手をくすね、二五セントのショーの入場券さえ使用人に与えない守銭奴だ。田中久男が『ウイリアム・フォークナーの世界』において、「少なくとも彼は父や兄のように、犠牲者意識によって自爆的になることもなく、傾きかけたコンプソン家を経済的に支え、現実を猛々しいほど逞しく生きているという意味では、彼流の現実原則の勝利者と言っていいのである」(134)と述べているように、ジェイソン・コンプソン二世は卑しくとも、なおかつ読者の理解や共感を誘うような人物造形を施されている。それだけ、金銭の問題、経済の問題に翻弄される人間を、フォークナーはリアルに描いている。金銭の問題、経済の問題ののっぴきならなさを、フォークナーは強烈に意識していたのだ。

そうなると筆者にはある疑問がわいてくる。前述のシュウォーツはフォークナー文学の高踏的モダニズム技法、個人主義、芸術至上主義的な質の、その非政治性=左翼風味の希薄さが、彼の文学をして、アメリカ合衆国の冷戦対応文化商品として機能ならしめたと論じた。しかし、フォークナーの文学は、「資本主義国アメリカ」の優良文化商品として、資本主義擁護であるべき作品としては、30年代的問題系がしっかりと存在するのだから、まずいのではないか、不良商品なのではないか。にもかかわらず、新批評家やニューヨーク知識人や、財団、大学、出版社、国務省などがよってたかって、フォークナー文学をアメリカの冷戦期の国民文学にしたのならば、実はその一番肝心かなめの理由は、ほんとうは、シュウォーツ指摘したところのフォークナー文学の非政治性ではないのではないか。

ここで注目したいのは、フォークナー文学に見受けられる大衆嫌悪である。確かに牧野が指摘したように、フォークナーは貧乏白人の状況に意識的ではあるし、ゴデンが指摘したように階級の問題は、フォークナーの視野の中にある。林が指摘したように、彼の文学には利潤を生み出すために差異(不平等、不公正)を必要とする資本主義のメカニズムへの洞察も感じられる。しかし、フォークナーの貧しい人々への視線に、ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』にあるような温度の高さは感じられない。冷酷な事実を描写しようとしつつも、ついうっかり、死に瀕する男に自らの乳を与えようとする聖母のよう女が登場する感傷的場面で小説を終わらせてしまうような、困窮と戦い死んでいく人々への愛惜の念がない。貧乏白人の境遇から立ち上がっていくトマス・サトペンやフレム・スノープスを描いても、彼らは階級社会の不正や不平等に打ち負かされるのではなく、無能な貧乏白人ウォッシュやミンクに簡単に殺害される。どちらかといえば、なすすべもなく寄生虫をやっているクエンティン・コンプソンやローザ・コールドフィールドのような、強迫観念や名誉や誇りにしばられ身動きできない無為な人間の方が、フォークナー文学の世界では饒舌だ。「貴族的人間」には長々と語らせても、貧乏白人に語らせる率は圧倒的に低い。言い換えれば、彼ら「貴族的人間」の心情の方が作家には理解しやすいから、彼女らや彼らが饒舌になるのだ。フォークナー文学の場合、逆境から立ち上がろうとする人々の猛々しい生き方の描写は、神話的になったり、漫画的になったりするが、その一方、まだかろうじて寄生虫でいられる人々の焦燥と寄る辺なさと現実感の希薄さは、丹念に記述される。その種の社会階層的に、かつては寄生虫でいられた「貴族的な」人々の滅亡には愛惜の念をにじませても、貧乏白人という「大衆」から成り上がる人々の破滅に対しては距離を置く。明らかにフォークナーは1930年代的問題系を描いてはいる。しかし、彼の共感はその問題系を具現する、大衆であることを超えようとする大衆的登場人物には向けられない。明らかにフォークナーは大衆が嫌いだ。

この問題に関連して頭に浮かぶのは、『生まれながらの貴族』(Natural Aristocracy)においてケヴィン・レイリーが「フォークナーのキャリアは最初からただひとつの動機しか、ほんとうにはなかった。すなわち、芸術においても人生においても生まれながらの貴族でいたいという欲望と、そうあろうと自らを駆り立てる衝動が彼にはあった」(Railey,44)と述べたことである。この指摘が妥当かどうかはさておき、『知識人とは何か』において、エドワード・サイードが「大衆社会の趨勢に対抗して彼ら知識人がはぐくんだのは、ナチュラル生まれながらの貴族という考え方であり、『ふるき旧き良き』時代への憧憬であり、上層階級の高級文化であった」(Said,序文8・大橋、9)と指摘したように、「生まれながらの貴族」でいたい欲望は、知識人に共通するものであるらしい。しかし、「生まれながらの貴族」とは何であろうか。貴族の消えた現代において貴族であろうとする欲望とは、何であろうか。ならば「生まれながらの貴族」とは、貴族ではない貴族であろうとする欲望である。それは、言い換えれば、歴史の外部、経済の外部にいる「階級X」とでも呼ぶしかない存在であろうとする欲望である。なぜ、存在できないものになりたいのか。

この欲望には、「知識人のトラウマ」とも呼ぶべきものが関与している。知識人は「生まれながらの貴族という階級X」ではなく、まごうことなき「貴族」である。貴族とは、あくまでも貴族でない人間の労働と貢献と支持に依存する存在である。知識人と大衆の関係も、また貴族と奴隷の関係の別ヴァージョンである。知識人は、自らが軽蔑し、自らが解消したいと努力する大衆の無知と愚劣と悪趣味と軽薄と通俗と視野狭窄があるからこそ、自らの存在根拠が確保できる。大衆が自らの思考や感性を信頼せず、知識人の謎解きと解説を必要とする限りにおいて、知識人は知識人でいられる。知識人が知識人でいるためには、どうしても大衆という存在が必要なのだ。知識人とは、大衆によって生存を許される「大衆の奴隷」である。それは、知識人にとっては、直視しがたい事実であり、その認識は抑圧されざるをえない。抑圧された認識は、現実には存在しない「生まれながらの貴族という階級X」であろうとする現実逃避と自己欺瞞と迷妄に変形する。

前述のサイードが、「わたしが考える知識人は、可能な限り幅広い大衆にうったえかける者であり、大衆を糾弾する者ではない。大衆こそ、知識人にとって、ナチュラル生まれながらの支援者である」(同上)とか「真の知識人は、世俗的な存在である」(Said,120・大橋、183)と述べていることから判断すると、彼は、この知識人のトラウマについて自覚しているようである。しかし、フォークナーと、フォークナー売出しに加担した(らしい)代表的アメリカ戦後知識人は、サイードではなく、ホセ・オルテガ・イ・ガセーの立場にあるように見える。オルテガは、名著『大衆の反逆』において、「筋肉労働者や悲惨な境遇にある人々や社会正義などにたいする見せかけの情熱は、あらゆる義務――たとえば礼節、誠実、とくに、きわめてすぐれた人への尊敬――を無視しうる仮装として役だつ。自分自身の心のなかに、知性を軽蔑し、そのまえに頭を下げないですむ権利を獲得するだけの目的で、どれかの労働者の党にはいった人を、私はかなり知っている。その他の独裁制については、それが大衆にへつらって、すぐれた人と見れば、すべてこれを足蹴にするのを、とくと眺めてきた」(オルテガ、251)と述べたのだから。

ところでフォークナー売出しに加担した(らしい)代表的アメリカ戦後知識人に見る大衆嫌悪は、実はJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の売り出しの主因でもあったようだ。リーロム・メドヴォイは、『ライ麦畑でつかまえて』が戦後アメリカの青春の書として知識人たちから高い評価を受けたのは、この小説の主人公ホールデンが大衆文化への嫌悪を有していたからだと指摘した。冷戦期のアメリカ知識人には、自分たちの美意識、ハイ・カルチャーが尊敬されない大衆社会の台頭に対する嫌悪と恐怖があったからこそ、彼らはホールデンという少年に共感したのだと論じた(Medovoi,276-81)。確かにホールデンはハリウッド映画を嫌い、通俗を憎み、醜いもの、卑しいものを否定しまくる不毛なほどに理想主義的で美的であるがゆえに、無為無能に陥り神経を病む少年であった。皮肉にも戦後まもない51年に文壇に躍り出た青春小説の主人公は、時代の先端を疾走するラディカルな反逆者というよりは、むしろ趣味が良すぎて高潔さを求めるあまりに自閉する老紳士に似ていた、というわけである。ここにも、「知識人のトラウマ」の問題が透けて見える。知識人は、知識人を知識人として認め求める大衆を必要とする。いくら大衆を嫌悪し軽蔑しても、大衆が存在しなくては知識人も存在できないのだ。大衆を視座にいれない姿勢は、不毛な無為に陥るしかないが、大衆に迎合することは知識人の矜持と美意識と理想を侵食させることになる。

冷戦強化時代には、デイヴィッド・リースマンの『孤独な群集』やエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』などの大衆論が試みられ、前述のオルテガの『大衆の反逆』も、広範囲に読まれたのは戦後である。これらの本が、大衆社会の可能性や、輝かしい未来を語るのではなく、その弊害を語ることが多かった現象の背後には、真の民主社会=あるべき大衆社会というものを模索しながらも、心の底では大衆社会の到来に脅威を感じていた知識人の屈託があったのではないか。戦後の大衆社会到来とは、1930年代的現象の継続、発展である。30年代は、資本主義社会の行き詰まりが問われ、共産主義や社会主義に希望が託された時代である。それらの思想の提唱する集団主義や共同主義は、一般大衆に貢献し、一般大衆の生活を反映する文化的産物を称揚した。30年代は、世界史上初めて、大衆というものが歴史の主体として意識された時代だ。大衆社会という現代の始まりとなった時代であり、大衆社会の困難さが早々と予感されていた時代でもある(前述のオルテガの『大衆の反逆』は30年の出版である)。この30年代を経た冷戦強化期のアメリカは、三〇年代的問題系を取り込んでいるので、大衆中心の民主制を打ち出して、大衆に開かれた自由と繁栄を保証するシステムとしての資本主義を追及する。大衆を豊かにするのは、共産主義や社会主義ではなく、自由競争のためにより品質が高くより安価な商品が開発される資本主義社会なのだということを伝播しなければならない。資本主義社会は、商品の消費を促進するために、より売れる商品を開発するので、大衆迎合社会にならざるをえない。共産主義社会や社会主義社会は、大衆文化を称揚し、大衆のためという社会的有効性を知識人に強いるために、知識人の立場は危機に陥るが、資本主義社会もまた知識人の立場を脆弱にするのだ。

前述のゴデンが論じたように、フォークナーが、「労働のトラウマ」を意識できる作家であったのならば、「知識人のトラウマ」も意識できたに違いない。貴族と奴隷の関係のヘーゲル的弁証法を洞察できる「ヨクナパトーファ初のビジネスマン」であるトマス・サトペンを造形できた作家ならば、知識人と大衆の関係にあるヘーゲル的弁証法も意識できたに違いない。結局、フォークナー文学の「大不況期の30年代には使えずに、冷戦強化期に使えた何か」とは、貴族を超えた貴族、精神の貴族であろうとする欲望と、その欲望の達成不可能性を察知しつつ抑圧する「知識人のトラウマ」だったのではないか。フォークナー文学が冷戦期の文化エリートたちによって国民文学として立ち上げられたとするのならば、その本当の理由は、フォークナーと彼の文学にある大衆嫌悪が、冷戦期のアメリカの知識人と知識産業が共有する大衆なるものへのそれと呼応していたからではないか。結局、そのことこそが、30年代的問題系を持ちながら、30年代においてスタインベックや、セオドア・ドライサーほどの評価を受けなかった理由のひとつだったのではないか。

追記:本論文は、2002年10月12日に専修大学大学院で開催された「日本ウイリアム・フォークナー協会」のシンポジウム「フォークナーと大恐慌(時代)」において口頭発表した原稿に加筆訂正したものである。