論文
大不況期には使えなかったが、冷戦強化期には使えた何かについて
―知識人のトラウマと大衆社会―

(1)この本については、山下昇氏の著書『1930年代のフォークナー---時代の認識と小説の構造』(大阪教育図書、1997年)と、山下昇氏の編著『冷戦とアメリカ文学』(世界思想社、2001年)から教示を受けた。この場を借りて感謝したい。

(2)Toward a New Past: Dissenting Essays in American History(Pantheon Books,1968)収録の“The Cultural Cold War:A Short History of The Congress for Cultural Freedom”において、Christopher Laschは、ソ連の知識人は、未発達な経済のために説明と社会的有用性をはっきり説明できないものに対する支出をする贅沢ができないので、政治的干渉、官僚の統制というものを受けるが、リベラルな、つまり没価値的な学問を自由に推し進めるための資金援助が、産業界や財団や政府によって受けられるアメリカの知識人は、アメリカの知識産業がいかに国家と産軍複合体の中に組み込まれているかに対して盲目的であり、自分たちが国家の利益に奉仕していても、学問に奉仕しているのではないことを自覚していないと指摘した。American Fiction in the Cold War(1991)において、Thomas Hill Schaub は、冷戦期に評価の高かった文学作品が一人称で書かれて視点が限定されていることが多いのは、共産主義や社会主義システムの中では埋没する個人の声が、資本主義社会アメリカでは尊重されることを暗に示威しているのだと指摘した。Richard Ohmann は、The Cold War & The University: Toward An Intellectual History of the Postwar Yearsに収録されている”English and the Cold War”の中で、アメリカの大学の英文科が、いかにイデオロギカルなものであり続けてきたか検証している。

Faulkner at 100:Retrospect and Prospect(UP of Mississippi,2000)収録の”Defining Moment:The Portable Faulkner Revisited”において、Michael Millgateは、The Portable Faulkner編纂者のMalcolm Cowleyを批判している。共産党シンパとしての経歴を無効にするために、Cowleyは南部の保守的知識人との提携を必要とし、フォークナーの作品の中から南部を舞台にしたものばかりを選び編纂した。結果としてフォークナー文学のヨーロッパ的な源泉やヨーロッパ文学との親近性を軽視して、フォークナーをアメリカの国民作家という狭い枠の中に限定してしまったと、述べている。

3)この文献については、『フォークナー』第1号(松柏社、1999年)掲載の金沢哲氏のこの文献の書評から教示を受けた。この場を借りて感謝したい。