論文
アイン・ランド『水源』----もうひとつの訳者あとがき

小説『水源』について

以下の引用文は、この小説の主人公ハワード・ロークが、彼の設計案を詐取した上に改悪までして建設された公営集合住宅を自分が爆破した行為について、弁護士もつけずに語った最終弁論の一部である。

「人種にせよ、階級にせよ、国家にせよ、ひとつの集団の『共通善』とは、人々の上に君臨するあらゆる形の圧制を正当化し、主張することでした。規律だの利他主義だのという名で犯されてきた大殺戮に匹敵するようなことを、いったいどんな自己中心的行為がしてきたでしょうか?規律だの利他主義だのという名で犯されてきた悪行は、人間の偽善に根づいているものでしょうか、それとも、その原則の中に根本原因があるのでしょうか?最も恐ろしい殺人者とは、最も真摯な人間、大真面目な人々でした。この種の人々は、ギロチンや銃殺執行隊によって到達される完璧な社会を信じていたのです。誰も、この種の人々に殺人を行使する権利が君たちにあるのかと、問うことはしませんでした。だって、彼らは利他的な目的のために、人殺しをしていたのですからね。人間は、他の多くの人間のために犠牲にされなければならないという考えは、受け入れられていたのですからね。歴史の舞台が変わり、演じる者は変わっても、同じような悲劇は繰り返されてきました。それは、今にいたるまで変わりません。万人に対する愛を宣言することで革命を始めた博愛主義者たちの行く末は、血の海でした。そんな悲劇は今も続き、これからも続くでしょう。人々が、無私な行為ならば、善なのだと信じる限りは。そんな信仰は、利他主義者どもが暗躍し、犠牲者たちにその悲劇を強制して耐えさせるような行為を許してしまうのです。集団的活動の指導者たちは、彼ら自身のためには何も求めず、自分自身をなくし、無私な心で人々を率いています。しかし、その結果はどうでしょうか。

人間が他人のためにできる唯一の善は、人間と人間が結ぶ関係、絆を表現する言葉とは、触れるな!干渉するな!でしかありません」(『水源』第4部18章、1014-1015ページ)

小説は、ロークがアメリカ東部の名門工科大学を退学になった1922年から、名実ともに天才建築家として認められる1940年頃までを時代背景としている。ロークは、地上の事物の形が気に入らない。それらを美しく変えたいから建築家になった。自然という客観物の上に、人間は理性を駆使し労働し、創造したものを加える。そのような創造者たちの独創はその独創性ゆえに迫害されもしたが、人間の歴史は彼らの貢献によって進歩してきた。そのような独創は、創造者個人の良きものを生み出したいという個人的欲望から生まれる。その独創が他人のためになるかどうかは、その結果の派生的なものでしかなく、あくまでも彼自身が望むものを獲得したいという自己中心的な欲望が前提にある。世間一般が賛美する利他主義や無私無欲は、そのものとしては何も生み出せない。だから、ロークにとって人間が自由意志で選択した生き方を抑圧し迫害する体制は、愚劣であり邪悪である。だから、個人主義は集団主義よりも優れ、自由主義は社会主義や共産主義や全体主義より優れ、自分中心主義は利他主義より優れているし、自由放任資本主義は、計画経済や統制経済より優れている。ロークは、彼の信念のまま行動し、孤立も貧困も恐れない。彼の生き方に共感する人々も少数ではあるが、彼のもとに集まる。

一方、世間の信頼と喝采を得る「良心的で高潔な知識人」エルスワース・トゥーイーは、権力欲の権化である。「伝統的美徳」である利他主義を賛美し、個人の価値は集団の利益=「共通善」に対する貢献度によって決まると提唱し、マスコミを操作し人々を組織して、ロークやローク的人々の社会的抹殺を図る。突出した才能を持つ自立した人間など、彼にとっては邪魔である。人々が集団を恐れ、自由から逃走し、集団に埋没すればするほど、トゥーイーにとって支配が容易になる。彼は、奴隷を支配することによって空虚な自己を支える支配者という「奴隷の奴隷」である。彼のもとには、彼のような人間が結集する。

簡単至極に述べれば、この小説はリベラリズムを善、共同体論を悪として、その善悪の闘争を描いたマニ教的寓話である。言うまでもなく、このリベラリズムとは本来の意味のリベラリズムである。一般的に言うところの大きな政府支持の福祉国家志向リベラリズムではない。「多様な良き生の理想を追求する人々がともに公平として受容しうるような基本構造を持つ政治社会を志向する」(井上達夫『他者への自由---公共性の哲学としてのリベラリズム』p.12)構想としてのリベラリズムである。

『水源』は、実によくできた寓話である。人間がある概念を認識するのに、物語形式は非常に有効だ。大多数の人間は、哲学的論理的記述では理解できない。どうしても「たとえ話」が必要なのだ。『水源』は、リベラリズムを善であるばかりでなく、「美」であり「真実」として描き、共同体論を悪であるばかりでなく「醜」であり「虚偽」として描くことによって、リベラリズムの大義を読者の感性に強く訴える。リベラリズムを真善美の極地として描き、それを具現する「英雄的」人間を造形するなどということは、物語形式でないと不可能だ。

ただし、『水源』はリベラリズム擁護の政治思想小説であるばかりでなく、ひとりの天才的建築家のアメリカン・ドリーム的成功物語としても、風変わりで、かつとてつもなく硬派な恋愛物語としても、ホモソーシャルな男たちの絆と愛憎を描く同性愛物語としても、アメリカの大義を高らかに謳う冷戦ロマンスとしても、またソ連的なるものをはらむアメリカという国の危うさをあぶりだす風刺小説としても、大いに楽しめる娯楽大作である。この小説に描かれるリベラリズムのありようは、作者のアイン・ランド自身は「客観主義」(Objectivism)と呼んだものであるが、政治思想の文脈においてはリバータリアニズムとして分類されている。だから、彼女は、ミーゼスやハイエクやミルトン・フリードマンと並ぶリバータリアニズムの提唱者のひとりとして、目されているのだが、彼女自身は自らをリバタリアンと称したことは一度もない。