論文
アイン・ランド『水源』----もうひとつの訳者あとがき

「客観主義」について

ところで、ランドが提唱する「客観主義」とは以下のような思想である----世界は人間の思惑とは関係なく存在する客観的な絶対物である。人間は、世界を認知し把握することができるが、それを創造することも変えることもできない。したがって、唯心主義や唯我主義はもちろん、超自然的なものへの信仰は否定される。人間の理性(reason)とは、人間の諸感覚が捉えた物質をそれと確認し(identify)、他の事物と関連付け統合する(integrate)機能である。理性だけが、人間が絶対的客観物である世界に対処して生き抜く知識を獲得する手段である。行動への適切な指針である。したがって、信仰や感情を知識獲得の手段とする神秘主義や、確実な知識は人間には獲得不能なものという懐疑主義は否定される。しかし、理性の行使は個人の選択にかかっている。人間が自らの人生や人格を形成し決定するもろもろの選択全ては、人間の頭脳(mind)の選択の自由によって決定される。したがって、人間は、神とか運命とか育ちとか遺伝子とか経済状況とかの犠牲者であるとする決定論はすべて否定される。そもそも人間の人生の目的とは何か?それは、その人間の人生そのものである。人間は、合理的な自己利益のために働き、自分自身の人生という最高の道徳的目的としての幸福を達成しなければならない。したがって、他人や社会のために生きる自己犠牲を称揚する利他主義は否定される。このような人間が他人と関わるありようは、「交易者」「商人」(trader)どうしのそれである。自由な、相互利益のための相互の合意による、互いの持ち物=互いが持っている価値あるもの(values)を交換しあう者どうしの関係である。搾取や横領を許さない関係である。これらを支持する経済体制は、自由放任資本主義である。こうした「商人」どうしの関係を保護する政治体制は、夜警国家である。物理的強制力によって他人から価値あるものを奪う権利など誰にもない。政府とは、所有権を含む個人の諸権利を保護するためにのみある。したがって、集団の利益、共通善という大義をふりたてて、個人の生命と自由と幸福の追求を抑圧する全体主義やあらゆる形式の集産主義、集合主義(collectivism)は否定されなければならない。

このように、「客観主義」は、リバータリアニズムと経済的政治的立場は共通するが、「思想」というよりは、魂の領域と社会的政治的領域をリンクさせる「倫理」である。リバータリアニズムは、自由に生きるための条件として、何を個人が求めるべきか、どんな人生を理想とするのかを規定しない。制度の領域は問題にしても、魂の領域には踏み込まない。しかし、ランドの「客観主義」は、理性の行使により自らの人生を十全に生きることを最高の道徳的目的とする思想であり、その思想を共有する諸個人によって成る社会は調和的なものになると考える。アメリカ有数のリバータリアニズム研究者で、かつアイン・ランド研究者でもあるクリス・マシュー・スカバラ(Chris Matthew Sciabarra)がAyn Rand:The Russian Radical.(Penn State University,1995)において指摘したように、「客観主義」には「神秘主義でも国家主義でもない、個人の道徳的自律を土台にした共同体論、もしくは共同体論者的欲望(communitarian impulse)」が入り込んでいる」(376)。彼女が自らの思想を、リバータリアニズムと認めたことはないのだが、それも当然なのだ。