論文 |
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貨幣のもとの平等?本論は、「女性の表象」という特集に組み込まれるものであるから、最後に、Dagnyという「儲ける<女>」のジェンダー的意義について言及する。Dagnyは実業という男の領域で男以上に卓越する女だから、フェミニズム的意義があるなどという冗談を書くつもりは、もちろんない。伝統的女性像から逸脱しているといっても、ここまで痛快有能なスーパー・ウーマンになると、女の可能性に対する確信を女性読者の中に育むフェミニスト・モデルになるというより、現実逃避用夢想をもうひとつ女に提供するだけのことになる。 注目したいのは、Atlas Shruggedに描かれる「新世界」においては、「神の下の平等」のかわりに「美徳の産物としての貨幣のもとの平等」が実現されているという設定である。Dagnyと彼女の同志たちが、貨幣の根源的倫理性にのっとって、自らの生産する価値に依拠して儲けることができる能力だけが人間の価値を決定するという思想に徹しているからこそ、彼女は女であることの問題を感じないし、誰も彼女が女であるという理由から彼女を規制しない。 ひょっとしたら、自らの選択によらない生来の属性(性や人種や民族性など)による差別の解消というものがありうるとすれば、それは、ある任意の能力=努力で獲得・達成でき、かつ道徳的な能力を基準にしてのみ、何らかの美徳によってのみ、人間の価値を決定することが徹底されることによってでしか達成されないのではないか? この状態は、「ある任意の能力」の水準によって人間を差別し階層序列化するにしても、他の要素はいっさい問題にしないのであるから、現行の状況より、はるかにましではなかろうか。人権という実体のない概念(信仰?)の浸透に頼るより、「ある任意の能力」の達成を、確実に「正規のメンバーシップ」の条件とするほうが、筆者には、よほど実効的に思われる。「神の下の平等」の神のかわりに何を置けば、人間集団にとって、いや女にとって、もっともましかは、大きな問題ではあるにしても。 |
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