論文 |
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美徳の産物としての貨幣観と「儲ける」ことの倫理性Dagnyの昔の恋人で「新世界」の同志となるブラジル人財閥のFrancisco d’Anconiaは、「金(かね)は諸悪の根源」と言う人々に対し、「お金の根底にあるのが何か考えたことがありますか?お金は生産された商品とそれを生産する人間なくしては存在しえない交換の手段です。お金は、取引を望む人間は、交換によって取引し、価値のあるものを受け取るには価値のあるものを与えなければならないという原則の具体的な形です。お金は涙ながらにものをねだるたかり屋や、力づくでものを奪う横領者の道具ではありません。お金は生産する人間がいてはじめて機能するのです。これが、あなたがたが諸悪の根源と考えるもののことでしょうか?」(Rand, 380/脇坂訳443)と問いかける。 「新世界」を建設する人々にとって、貨幣は人間の美徳の産物なのだ。貨幣とは、交換や取引の手段であるが、どんな商品とも交換できるように発明された万能の商品という「価値ある物」である。交易者Aは、交易者Bの持つ物の価値が、自分の持つ物の価値と同等だと理性によって判断し、交易者Bも、自分が持つ物と交易者Aの持つ物の価値が同等だと判断して、互いの物を交換する。相互に利益があると判断し、相互が合意してこそ、交換は成立する。つまり、(交易やビジネスの原初的形式である)交換というものは、人間の道徳である理性と公平さを前提としてこそ成立する。また、交換の成立は、公平で理性的な交換の対象となりうるだけの価値あるものを人間が生産できるということを前提としている。価値あるものを生産するには、人間は、理性や勤勉や忍耐力などの道徳的属性を持って、世界や自然に働きかけなければならない。かくのごとく、交換や取引の手段としての貨幣のその機能は、人間が持つさまざまな道徳的属性を必要条件としている。だから、貨幣は美徳の産物なのだ。だから、「新世界」に立つ塔につけられている新世界を象徴するロゴは、「金色のドル・マーク」なのだ。「新世界」は、貨幣という美徳の産物を得ることができるだけの価値あるものを、相互利益的に相互の合意に基づいて貨幣と交換できる人間しか参加できない。その意味で、「新世界」は、「個人の道徳的自律を土台にした共同体」(Sciabarra,376)である。 営利追求や利潤追求は、「金(かね)は諸悪の根源」と言う人々にとっては、「強欲な資本主義」であり、実業家とは拝金主義者であろうが、この「美徳の産物としての貨幣」観からすれば、資本主義は根源的に道徳的経済体制であり、「儲ける」のが仕事である実業家は道徳的人間なのである。「儲ける」ことができるということは、交換に値する価値あるものを生産することができるという美徳と、合理的で公正な交換ができるという美徳を発揮することだからである。 ここまでくると、この小説世界で、利他主義が否定される理由が納得されてくるのではなかろうか?この小説の言うところの利他主義とは、自らが生産した価値を、それと交換されるにふさわしい別の価値と交換せずして、譲渡することを意味する。それは自らが生み出した価値への冒涜であり、ひいては交換が前提とする人間の美徳への冒涜だから悪徳なのである。その意味で、ただより高いものはないのだ。 加えて、この小説を、拝金主義の営利主義のカウボーイ資本主義を礼賛する保守反動的政治思想小説として、もしくは冷戦期のアメリカの大義を称揚するプロパガンダ小説として嘲笑するのは、的外れであることも理解されてくるのではないだろうか?この小説は、人間の公正さ、理性、価値あるものを生産しようとする志や、それを可能にする勤勉さ、努力、忍耐力、独立自尊の自助の精神を、きわめてストレートにシンプルに寿いでいる。本論の冒頭で、一般読者はこの小説を「ベスト100」の第1位に選んだのに、知識人たちは、完全に無視したことについて言及したが、その理由のひとつが、この小説が「大人の文学」としては、あまりに児童文学風に真面目で健全素朴で伝統的に道徳的で人道的であり、臆面もなく向日的であるということが、考えられるのではないか。 |
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