書評    Almost Monthly Book Review
前へ戻る

■2001年10月に読んだ本から

下河辺美知子 『歴史とトラウマ----記憶と忘却のメカニズム』
作品社 2000.3.27 386pp.\3,200


「トラウマの記憶とは、思い出されることを恐れられている記憶であると言える。それは、忘れられていることを忘れよと要請された記憶である。政治的な力が介入するとすれば、それは、社会の常識という実態のないものを温存し、人間性という架空の価値を保存するためにこそ働いている力」(本書、317)である。本書のテーマの重さは、2001年9月11日以降、より一層、生々しく感じられるようになった。書評者には珍しく、あちこちマーカーで線をひきまくり、本をすっかり汚すような読み方をした。いきおい、この書評も本書からの引用が、やたら多いものとなっている。それは書評者の怠惰が原因ではないことを、断固としてことわっておく。

本書でも何度も言及されているジュディス・L・ハートマンが記すように、「心的外傷を研究することは、自然界における人間の脆さやはかなさを目をそむけずに見つめることであると同時に、人間の本性の中にある、悪をやってのける力と対決すること」(中井久夫訳『心的外傷と回復』3)である。「心的外傷とは権力を持たない者が苦しむものである。被害者は圧倒的な外力によって無力化、孤立無援化されている。外力が自然の力である時、これは災害である。外力が自分以外の人間の力である時、これを残虐行為と言う。通常のケア・システムは、自分は自分をコントロールでき、人とつながりを持て、自分がいることには意味があるという感覚を人々に与えるものであるが、外傷的な事件はこのケア・システムでは及ばない力を持っている」(46)ので、あげくのはてには「見るもけがらわしいもの」(3)になる。したがって当然、「苦しむ立場にある者の味わう全能感の欠如と無秩序の威嚇。これを回避しようとするベクトルは、宗教・政治など、文化の中のあらゆる領域で稼動している」(本書70)ことになる。おそらく、文化と歴史の深層は、トラウマから構成されていると言っていいのだ。言い換えれば、トラウマの抑圧、忘却、隠蔽の形式こそ文化であり、トラウマの忘却の反復と蓄積が歴史だと言っていいのだ。本書が取り上げる題材は、文学作品は言うまでもなく、映画や、歴史資料でもある公的文書から、20世紀の知を形成してきた数々の知識人の言説、現代日本の犯罪やポップ・ソングまで包括する幅広さである。本書の目的である「謎に満ちたトラウマという現象を、文化・歴史の理解へ適用する可能性をさぐること」(11)、言い換えれば、個人のトラウマばかりでなく共同体のトラウマを考察する果敢な試みは、下記のような過程から達成される。

第I部「トラウマ記憶と物語記憶」の機能は、本書全体が議論の前提としていて、かつ常に立ち返る基本的問題群を提示することである。第1章「トラウマ記憶」においては、トラウマという概念の詳細な説明がなされた後、トラウマと対峙し、「犠牲者としての自分以外の自己を再建する試み」(33)としての、トラウマの画像、記憶の中の出演者、当事者から「目撃者」に自分を変換させる試みとしての、「<トラウマ記憶>を物語というディスコースに変換すること」(43)の必要性と困難が確認される。その困難さへの誠実な(逆説的)挑戦の一例として取り上げられているのが、映画『ショアー』である。悲惨な情景も虐殺の場面もいっさいなく、生き残った人々のインタヴュー映像とその音声だけで構成されているこの映画の方法は、「ホロコーストの現実という画像に、当事者以外の音声で解説をつけてギャップをうめる、そこに理解という安定をもたらそうとする行為のすべて」(40)に対する監督クロード・ランズマンの抵抗であることが論じられる。

第2章「苦しんでいるのは誰なのか」が論じるのは、真の歴史教育の根幹として、「他者の置かれた状況、ことに苦悩の状態にたいする想像力を養い、自分たちの目にみえていなかったまったく未知の筋書きがあることに心の準備をさせる」(71)ために必要な心の働き「共感共苦(コンパッション)」についてである。著者は、ハンナ・アーレントのコンパッションの意味の歴史的変遷に関する洞察を紹介しつつ、このことばを、『ビリー・バッド』における無垢なビリーの死刑という受難を耐えなければならないヴィア船長の苦しみを目撃する読者の感じる苦しみを例にしながら説明する。

第3章の「物語記憶のポリティックス」は、精神分析学の知見の歴史学への応用の可能性が論じられる。フロイトが人間の本能として指摘した「自分のまわりの世界を安定させて、ある静止状況を出現させるという筋書き」(79)への欲望が、人間の物語りたいという欲望と絡んで、歴史は物語られ、形成されてきたと著者は言う。こうした「脈略への欲望」(79)は、安定した脈略を撹乱させる他者の排除のポリティックスがはたらく。それは、そのメカニズムを発見した精神分析学という学問が陥ることでもあり、社会や国家の自らの過去の言語化=歴史にまつわる危険でもあるのだ。この章は特に読み応えがある。

第II部「トラウマを語る声」は、「心に衝撃を受け、その処理能力が枯渇したときに身体に起こる症状の一つ」(121)である声帯の麻痺について論議される。「トラウマ記憶を再統合して自分の心の中で構造化する」(137)ための、語りなおしの作業の第一段階としての発声、声への回帰を提唱する。第4章の「治癒への回路としての声帯」で分析されるのは、1998年栃木県で起きた女教師殺人事件に代表されるような昨今の青少年による衝動殺人である。偏差値という一元的な評価軸だけで序列化される現代日本の若者の幼いときから蓄積されるトラウマから生じる「失声症」と暴力への衝動を、『ビリー・バッド』における反乱疑惑をかけられた善なるビリーの邪悪なるクラガートへの無言の一撃を例にして理解しようと試みる。

第5章の「声の殉教者・尾崎豊」は、トラウマという語れないものを語ろうとする「声」の挑戦例を示している。著者は、尾崎の歌唱に見受けられる日本語高低アクセントの違反に、「吐く音声と意味とのつながりを否定する効果」(148)を見る。それは「<父の法>という言語システムが意味をはめ込もうとするのを拒絶するための叫び」(148)であると解釈する。また彼のときに奇矯であった舞台上のパフォーマンスは、シニフィアンとシニフィエの乖離が前提の言語の牢獄にいる人間存在を承知の上の「音声記号をシニフィエという意味にぴったり一致させるため」(164)の行為だったと解釈する。思春期の抵抗・模索の具現のようなカリスマであった夭折した歌手の、その抵抗を、彼が歌手として、どう具現したかの論証として、本章は独創的である。著者のアンテナのはりめぐらし具合の広範囲さは、この章を可能にした著者の鋭い感受性の好例である。

第6章の「失声症の大統領」は、アメリカ独立革命の大立者ジェファソンが、喉がしめつけられて声が出ない症状と、公人でいながらプライバシーを尋常でなく守る傾向を保持していたという史実から、アメリカ国家の隠れた本質を探る刺激的な章である。著者の論は、こうである----「英本国対植民地という上下ハイアラーキーは、平等という概念の導入によって解消されるべきである。共和国の指導者たちはこのように主張したのだが、その主張は、今度はそのまま、共和国内での格差の均等化への要求としてはね返って来る」(173)ので、「社会的平等という名目のもとに、人々は神に代わって互いに監視しあうようになり、民主主義的監視体制は強化」(174)される。社会からの監視の目は内面化され、良心とも超自我となる。ジェファソンは、黒人混血奴隷のサリーという愛人を持ち、彼女との間に子供たちももうけていた。これは、二重の意味での葛藤を、アメリカ国家における公人としての彼に、もたらした。アメリカ国家の正統性を証明する唯一のものである理性、合理的精神の担い手である公人の合理的でない情熱と、人種の純潔性を土台にする国民国家たるアメリカ国家の基盤を崩す混血児の存在は、隠されねばならなかった。その重圧がジェファソンをして失声症に追いやったと----。著者は、この論をさらに展開し、これをアメリカ国家そのものの失声症と類推させる。それをテーマとする文学的事例としてスティーヴ・エリクソンの『Xのアーチ』を分析する。

第III部「共同体のトラウマ」の第7章「共同体はセラピーを必要としている」は、「共同体の起源には、排除という一撃が加えられている」(201)し、「共同体を立ち上げるのに抑圧されたもの、それは、自己内差異として共同体の内部に停留し」「共同体は自己の存在証明のために、その差異を恒常的に抑圧し続ける」(201)という著者の洞察をもとに、史上初の国民国家アメリカ合衆国の同質性の偽造と、自己内差異の処理=アメリカ国家という共同体成立の要であるトラウマの隠蔽の相を、クレオールという概念から考察する。「移動・越境・混交といったクレオール性をパフォーマンスして」(207)やってきた人々の共同体=クレオール国家アメリカは、「自由・平等」を旗印にしつつ、「独立して共和国の国民となった途端、そのクレオール性を隠蔽し、外から侵入するクレオール性を見張り」(207)続けるという二重性、二枚舌を持っている。こうしたアメリカ国家のトラウマのセラピーとしての、文学テキストの可能性が、ケルアックやサリンジャーやアップダイクやショパンの作品から探られる。

第8章の「父の声と国家アメリカ」においては、前章で論じられたクレオールの問題が、ジェファソンの混血の娘ハリエットを主人公としたバーバラ・チェイス=リボウの『大統領の娘』を題材として、より深く追求される。「異なる人種を共同体の構成員と認めることは、移民の国アメリカにとって、自由という理念を実践していることの査証」(238)だったが、人種の混交は史上初めての国民国家アメリカにとって脅威となる。だからこそ、ジェファソンは娘の存在を隠し、彼女の解放を拒否した。リンカーンによる『ゲティスバーグ演説』における奴隷解放宣言は、アメリカ国家の成り立ちそのものが人種の混在であることを公的に認めた。ハリエットは、63歳になって初めて、父の起草した『独立宣言』における父の声を聞き、「大統領の娘」「アメリカの娘」になる。本章は、チェイス=リボウの野心作の迫力ある解説ともなっている。

第9章「国民国家のヴォイス・トレーニング」の目的は、「アメリカ合衆国が、国民国家としての一体感を維持し、国民一人ひとりが、アメリカ国民という実感をもつために、声を発するという身体運動がいかなる機能をはたしてきたか」(244)を考察することにある。著者は、声が人間の身体内部から生じるので、他の人間にとっては意識を持った内部、人格として、発声者が立ち現れ、話された言葉こそ、人々を結び集団を形成するというW・J・オングの指摘に刺激され、『独立宣言』のジェファソンによる詠み上げ用原稿の演説する際の強調ともポーズともとれるマークに注目する。「独立革命は、理性、言語、理論によって達成されたとされてきた。しかし、それは、植民地側に『共感』が生まれ、心情に同意することによって」(277)成就した、つまり「センチメントにおいて一体となった」(278)となったからこそ可能となったことを指摘する。

第IV部「未来へのトラウマ」は、いわば、アメリカ精神医学界における現在の動向である従来の精神医学の言説の脱構築と、(10章「精神医学と共同体」)と、法の無根拠性と恣意性を指摘したジャック・デリダの法の脱構築(第11章「起源という暴力を記憶せよ」)の試みが紹介される。脱構築理論によって、「記号の指示機能にたいする根深い根本的懐疑」(312)が提出され、「シニフィアンの存在がシニフィエを捏造してしまう」(312)仕組みと、「内的差異を抑圧して外的差異を顕在化させる」(312)記号の暴力があらわになった。トラウマ記憶とその症状の関係は、シニフィエとシニフィアンの関係と同じであるのだから、この問題は、当然言及されねばならない。最終章における、「ある行為がそれに従って正統であると言われるようなすべての『権威』」(高橋哲哉「デリダ---脱構築」191)であるところの法についての議論は読者を興奮させるだろう。「起源を設定し、制度を打ち立てる瞬間とは、創設・創始・正当化のために法を設置する操作であって、そこには『力の一撃』(coup de force)というものが存在する」(326)と言うデリダが、この「力の一撃」を暴力と呼ぶことに著者は注目する。ヴァルター・ベンヤミンの暴力論を脱構築する過程で、自らの暴力への欲望を脱構築したデリダを見る著者の読みは圧巻である。「一つの起源の上にたてられた法の下で生きていくということは、その起源の出現の際に加えられた暴力に、自分も加担したかもしれないという懸念をもつこと」(340)であり、「日々暮らしていく現在という時間の中でも、われわれはその暴力を反復しているのかもしれない」(340)のだから、つまり、トラウマ記憶という過去は、トラウマ的未来につながっているのだから、「起源という暴力を記憶せよ」(342)と著者は最後に提言する。

こうして概観してみると、本書におけるこれら上記の論点の提出のされ方に、違和感を持つ読者もいるかもしれない。『現代思想』などの雑誌に掲載された論文の集大成でもあるので、本書の各部や各章の連結が論理的な流れを必ずしも形成していないということも原因であろうが、書評者は、こうした記述に下河辺氏の決意を感じる。本書の中で、著者はこう語る。「学問研究という行為は、真理の追及という表向きの動機の下に、もう一つの動機を隠しもっているように見える。それは、無秩序への嫌悪、・恐怖から逃れたいという思いである。人間は、本来、不安定な状況にあって全能感の欠如に『苦しむ者』である。そして、学問研究は、そうした状況を改善・除去するための方策の一つとして行われる。であるとすれば、それがどんなに立派で反駁の余地のない理論を構築しているように見えても、『苦しむ立場』を回避することを目指しているかぎり、それは学問における全体主義に陥っていく」(71-72)と。この文は、トラウマを学問対象にすることにまつわる二重の困難さを指摘する文脈で書かれたものだが、まさにこれは明察である。このような、研究者が陥りやすい陥穽=矮小さに閉じこもることの危険への下河辺氏の自覚は、当然、自らの論の記述にも向けられている。本書は、「脈略への欲望」(79)に屈して、「小利口に小奇麗にまとめる」ことはしない。実にさまざまな資料が言及され、個別に論じられるのがふさわしいような実に多くの示唆や洞察が、もたいぶったところのない無造作な趣と自由闊達さで、記述されている。本書の記述内容の、アメリカ文学研究でもありアメリカ文化研究でもあり、アメリカ政治研究でもあり現代日本文化論でもある、まさに学問のクレオールとも言うべき豊穣さ、異種混交性、骨太さは、本書のテーマに実にふさわしい。著者は、あえて脈略をつけず、分析対象の発生する声に耳をすます。そして、それを記述する。日本におけるソシャーナ・ヘルマン紹介の第一人者として、第10章でも言及されている先端的精神医学の症例記述方針である「記述の強調」(302)「無理論的立場」(302)から、著者が参考にしたであろう、この記述法は、何よりも、著者の研究者としての良心から生じているのだ。

最後に読後感を書く。個人の犠牲者にせよ、共同体にせよ、凍りついた記憶、「体験されている最中から忘却」されるトラウマ記憶の解放は、今後も果敢に試みられていくだろう。そこから得た知見や洞察は、何がしかの知恵を人間社会にもたらすのだろう。しかし、結局これからも、過去も人の心も踏み潰して人類は、歴史は、進むのだろう。ホロコーストを経験したユダヤ人もパレスチナ人虐殺を黙認する。アメリカ中枢同時テロで愛する人を殺された人間も、アメリカ帝国への報復を自爆してまで実行したテロリストの抱えていたトラウマにコンパッションなど金輪際持たず、アフガニスタン空爆を支持する。過酷な現実にさらされて生きていく大多数の人間は、トラウマの記憶を心の底に沈殿させたまま生きていく。生きていかねばならない。現在と未来しか考えない健忘症は、彼らの生きる術であり、日常の切実な要請だ。著者が引用したハートマンの書物の第1章のタイトルのことば「歴史は心的外傷をくり返し忘れてきた」を、人間の駄目さ加減の例とは、私はとらない。それは、人間の性懲りも無いたくましさの事例のひとつだ。たとえ皮肉な逆説的なものであろうと、人間存在にまつわる肯定的な何かを暗示するものだ。生き続けるのに利用できるなら忘却さえ利用するのが人間存在であるという事実は、私を明るい気分にさせる。


前へ戻る