Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第19回 性善説とか性悪説の問題じゃないのだよ、自分の選択なのだよ  [10/26/2008]


The man-worshipers, in my sense of the term, are those who see man’s highest potential and strive to actualize it. The man-haters are those who regard man as a helpless, depraved, contemptible creatures---and struggle never to let him discover otherwise. It is important here to remember that the only direct, introspective knowledge of man anyone possesses is of himself.

More specifically, the essential division between these two camps is: those dedicated to the exaltation of man’s self-esteem and the sacredness of his happiness on earth---and those determined not to allow either to become possible. The majority of mankind spend their lives and psychological energy in the middle, swinging between these two, struggling not to allow the issue to be named. This does not change the nature of the issue. (“Introduction to the Twenty-Fifth Anniversary Edition” of The Fountainhead)


(私の定義によれば、人間賛美派とは、人間の中に潜む最も崇高な能力を認めて、それを現実化しようと努力する人々のことである。人間憎悪派というのは、人間を、救いようのない堕落した卑劣な生き物として見なす人々である。ついでに、そうではない人間像を人間に発見させまいとやっきになる人々でもある。誰もが持っている人間に関する知識、つまり、人間とはいかなる存在であるかということに関して、誰もが直接に、自分の心から把握できることというのは、自分自身に関することだけである。このことを忘れずに心に留めておくのは、このさい重要なことである。

記憶にとどめておくべきことで、さらに特に重要なことは、ふたつの立場の間には本質的な隔絶があるということである。人間の自尊心を高揚させることと、この地上での人間の幸福の神聖さに献身する人々がいる一方で、そのどちらも可能にすることを許さないと決心した人々がいる。人類の大多数は、自分が生きる時間と心のエネルギーを、このふたつの立場の中間あたりに注ぐ。このふたつの立場の間を行ったりきたりしながら。自分が、どちらも選択せず中途半端なままでいるという問題をはっきり意識しないように努めながら。そんなことをしても、その問題の本質が変わるわけではないのに。)


★今回もコメントは短いです。先週土曜日10月18日に、「副島隆彦氏を囲む会」の定例講演会があり、人手が必要ということで、「オバサンが受付していいかな?若い綺麗な女性でないとまずいかな」と気にしつつも、お手伝いに東京に出かけました。翌日の日曜日は国会議事堂だの首相官邸だの日枝神社を見物し、皇居の東御苑を歩き回り、「2年前の皇居東御苑にはカラスはいなかったのに、なんで今はこんなにカラスがいるの?皇居がケガレチになってしまったのか?」と危惧しつつ、今では広い芝生になっている元大奥があった場所でバッグを枕に寝転がったら、眠ってしまい、ハッと気がついたら、「4時半に閉門ですから、そろそろ出たほうがいいですよ」と自転車に乗った係員の方に告げられ、必死に出口に急いで以来、脚が痛いというか、右膝の関節が痛いというか、くたびれたというか。

★この文章は、1968年に出版25周年を迎えたThe Fountainhead(New American Library)を記念して書かれた序文から引用したものです。man-worshipper「人間賛美派」は、いわずとしれたハワード・ローク派で、man-haters「人間憎悪派」というのは、エルスワース・トゥーイー派ですね。

★アイン・ランドがここで言っていることは明解です。「人間観とかいうけど、要するに自分のことを言っているのよ。それは無意識の自己評価なのよ」ということであり、かつ「man-worshipperとかman-hatersは、どちらにしても、旗印をはっきりさせて自分の生き方を選択しているので、どちらもそれなりにあっぱれだけど、問題は、どっちつかずに選択できずに宙ぶらりんが多いことで、そういう中途半端さって、なにか意味があるの?高い利子でもつくの?どうせ生きるのならば、自分が選んだことにエネルギー注いで生きるほうが納得いくんじゃないの?」ということです。

★最初の「人間観とかいうけど、要するに自分のことを言っているのよ。それは無意識の自己評価なのよ」という弁は、確かにそうだなと、私は私の実感から共感します。

★ガキの頃から現在に至るまで生きてきた日々を振りかえると、私のような馬鹿でも少しでも賢くなりたいと思い続ければ、人間というのは少しはマシになるもんだな、だから生きることができる限りは学び続け考え続けないと退屈だなと、私は思います。また、50年以上生きてきたということは、ある程度のまとまった時間内での世の中の動きというものを見てきたということでもありますから、まあ、いろいろあるが、世の中も少しずつだけど良くなっているな、という感慨があります。だから、私はman-hatersになりようがありません。個別に嫌いな人間というのはいますが、man-hatersにはなりようがありません。人間ってすごいなあ〜〜と思うことの方がはるかに多いです。

★私が無人島に行くはめになったら、持って行く本は決めています。岩波書店から出ている歴史学研究会編の『世界史年表』と『日本史年表』とThe Fountainhead(&その翻訳『水源』)の3冊(4冊か)は絶対に持っていきます。

★『世界史年表』と『日本史年表』を、テキトーに開き拾い読みしていると、気分は「時空間の旅人」です。『世界史年表』においては、見開き左右2ページに「東アジア・日本」と「南アジア・東南アジア」と「西アジア・アフリカ」と「ヨーロッパ」という地理区分ごとに起きた事柄が記述されています。時代が下ると、「ヨーロッパ」が、「ヨーロッパ・ロシア」と「南北アメリカ」になり、そこに「国際関係」が加わります。アイン・ランドが生まれた1905年には、1月22日が「血の日曜日」で軍隊が皇帝請願労働者に発砲していますし、6月27日にロシアで戦艦ポチョムキンの水兵が蜂起して革命に参じています。1933年にアメリカで雑誌News Week創刊みたいなことまで書いてある。同年1月に、現在再ブレイク中の『蟹工船』の作者の小林多喜二が築地署で虐殺されています。

★『日本史年表』の記述は、「西暦」「和暦北朝」「和暦南朝」「干支」で年代が分かれていて、そのときの天皇(もちろん、北朝も南朝も書かれている)、将軍の名前はもちろん、執事(官領とか内閣とか)も書かれています。事柄の記述は「政治」「社会・文化」「世界」に分かれています。1576年に織田信長が完成した安土城に移り、同時期に「とうもろこし」と「すいか」と「かぼちゃ」の種が南蛮渡来しています。なんとなく顔つきがハイカラだと思っていたが、出自が違ったのね〜〜かぼちゃ。

★どの時代にも人間がいっぱいに生きていて、いろんなことをしてきました。その蓄積が現在です。人間ってすごいですね、ほんとに。私たちは歴史の最前線にいるわけです。いいなあ〜〜何がいいんだかわかりませんが、嬉しくなりませんか。だいたい、こういう年表が編集されて出版されているということだけでも、すごいことです。私はman-hatersになりようがありません。

★man-hatersとは、過酷で悲惨な体験を人間に強いられ絶望して、絶望したまま生きていられる実に強靭な元man-worshipperか、長い長いスパンで人間存在を見るだけの教養がない人間ではないでしょうか。そういう人間は、自分自身の生も長期的視野で見ませんから、簡単にやる気をなくします。ですから、若い人に、man-hatersっぽい人が多いのは、当たり前のことです。彼や彼女も、まっとうに生き続き学び続ければ、man-worshipperになるでしょう。いい年になってもman-hatersでいるのは、教養のない(学校のお勉強ができないという意味ではないです)、かつ愛念のない人間です。世間は騙せても、自分自身は騙せないですからね。自分に対する無意識の(適切な)自己評価が、世界にも人類全体にも投影されるのです。自分自身を騙している人は、身体がその歪みを表現して,口元が歪んだり、笑顔が皮肉で寂しげになったりします。

★ところで、アイン・ランドが言うところのman-worshipperは、いわゆる性善説派とは違います。man-hatersも性悪説派ではありません。客観的に人間存在なるものが、賛美できるものなのか、しょーもないものなのか、どちらの類の存在かということは、アイン・ランドは問題にしていません。

★集団主義的発想を嫌ったランドですから、人類全般の性質が善なるものか邪悪なるものかという考え方は、当然のことながら、しません。性善説とか性悪説という問題設定そのものが雑駁な思考停止の産物です。良き人間もいれば、とんでもない人間もいるという個別の事例があるだけです。良き人間も邪悪なことをすることがあるし、とんでもない人間も良きことをするかもしれないという事例があるだけです。人間の本質に関する判断も十把一絡げ(a one-package deal)にできません。

★問題は、「私は、こっちの生き方をしたいから、そうする」という選択なのです。状況はいろいろ変化するけれども、「 人間の中に潜む最も崇高な能力を認めて、それを現実化しようと努力する 」ことや、 「 人間の自尊心を高揚させることと、この地上での人間の幸福の神聖さに献身する 」ことを目指すことを選ぶか、選ばないか、ということです。

★選んでいないつもりでも、選んでいます。選択することから逃げて状況に流されているつもりでも、それはあなたの選択の結果です。誰のせいにもできません。どのみち自分が選択していることならば、人生が刻々の自分の選択の蓄積ならば、はっきり自覚して選んだほうが、自分の選択の結果もより明瞭に見えやすいです。そうなれば、次の選択が、より適切になります。

★それにしても、man-hatersとして生きることを選択したとして、生きるエネルギーが出てくるのでしょうか?否定的なものに、人間はエネルギーや時間を注げるものでしょうか?人間に、man-worshipperとして生きること以外の選択肢など、あるのでしょうか?明るいほうに顔が向いて足が向くのが生き物の常ではないでしょうか? 私は、何度The Fountainheadを読んでも、エルスワース・トゥーイーという人物像は理解できませんが、この種の人間のサンプルは、実世間によく見かけます。憎しみや恐怖をエネルギーに生きることができるということも、これまた人間存在のすごさの証ですね。私は、核戦争で死ぬ寸前でも、「うっわあ〜〜すっげえ・・・」と思って死ぬかもしれません。地球が生んだ猿が地球を破滅させる武器を作るまで進化しちゃって・・・とか感心しながら。