Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第20回 合理的な女は大統領になりたくないとアイン・ランドが思う理由(その1)  [11/02/2008]


I do not think that a rational woman can want to be president. Observe that I did not say she would be unable to do the job; I said that she could not want it. It is not a matter of her ability, but of her values.

It is not an issue of feminine “inferiority,” intellectually or morally; women are not inferior to men in ability or intelligence; besides, it would not take much to do a better job than some of our recent presidents have done. It is certainly not an issue of the popular notion that women are motivated predominantly by their emotions rather than by reason---which is plain nonsense. It is not an issue of the false dichotomy of marriage versus career, with the corollary notion that “a woman’s place is in the home”; whether married or single, women need and should have careers, for the same reason as men. Women may properly rise as high as their ability and ambition will carry them; in politics, they may reach the ranks of congresswomen, senators, judges, or any similar rank they choose.

But when it comes to the post of the president, do not look at the issue primarily from a somewhat altruistic or social viewpoint---i.e., do not ask: “Could she do the job and would it be good for the country?” Conceivably, she could and it would---but what would it do to her? ( “About a Woman President” in The Voice of Reason: Essays in Objectivist Thought)


(合理的な女性ならば、大統領になりたいと思わないと私は思う。ここのところは注意していただきたい。私は言っていない。女性では大統領の職務を果たせないからだとは。私が言ったのは、合理的な女性ならば、それは<望まない>ということである。これは、その女性の能力の問題ではなくて、<価値観>の問題である。

知的にせよ、道徳的にせよ、女らしい「劣等性」なるものが問題なのではない。能力も知力も、女が男に劣ることはない。というより、女の大統領が我が国の最近の大統領たちの何人かがしてきたことよりは、まともなことをするのに時間がかかるということはないだろう。理性より感情に動機づけられることが圧倒的に多いのが女であるという一般的に流布している見解が問題なのでもない。このような見解に意味は全くない。結婚かキャリアか、という間違った二分法が問題でもない。この問題には、「女の居場所は家庭である」という見解がついてくるのが常であるが、既婚だろうが未婚だろうが、女に仕事は必要であるし、持つべきだ。その理由は男と同じである。できるかぎり自分の能力や志を高めることは当然していい。政治の分野なら、下院議員だろうが上院議員だろうが裁判官だろうが、それらに類したどんな立場にでも、自分が選んだのならば、そこに達するのはいいのだ。

ただし、大統領の職となると別である。この問題を、いくらか利他主義的な、もしくは社会的な観点からばかり見るのはやめよう。つまり、「彼女は職務を果たすことができるのだろうか?彼女が大統領であることは国のためになるだろうか?」と問うことはやめよう。おそらく、彼女はきちんと職務を果たすし、国のために役立つだろう。ただ、<大統領であることが、彼女にとって、いかなる利があるのだろうか?>


★アイン・ランドに関して、私からすると「面白いところ」のひとつが、彼女の女性観です。共感できるかどうかはさておき、私は、「この女性は正直だなあ!」とあらためて思った「女性観」です。今回から3回にわたって、このテーマで、ランドの文章を紹介させていただきます。

★1968年1月号の婦人雑誌McCall’s(洋裁というか作るほうの服飾雑誌の出版社として今も残っている)の特集のひとつは、「女傑16人」(sixteen prominent women)というものでした。アイン・ランドも、そのひとりに選ばれました。雑誌側は選ばれた女性たちにアンケートをしています。アンケートの質問のひとつが、「あなたがアメリカ合衆国の大統領ならば、何をしますか?」というものでした。その質問に関して、ランドは「私は大統領になりたいと思いません。女性の大統領に投票しません」と答えました。

★全米第一の大鉄道会社を実質上経営して一歩も譲らないフェミニズムの先駆的ヒロインDagny Taggartを早々と造形したアイン・ランドです。「被害者&犠牲者」としての自己像を内面化した貧乏臭いヒロイン像を、派手に蹴飛ばしたアイン・ランドです。1963年にベティ・フリーダン(Betty Friedan)の『女らしさの神話』(The Feminine Mystique)が出版され、66年には、全米女性機構NOW(The National Organization for Women)が結成されましたが、それよりもはるかに早く、アイン・ランドは「女性の劣等性」という神話から解放されていました。

★1970年にケイト・ミレット(Kate Millett)の『性の政治学』(Sexual Politics)が出版され、アメリカに第二次ウーマン・リヴ運動(第一次は、19世紀末から1920年の女性参政権発効まで)が巻き起こりました。女性のデモ隊がブラジャーを焼き捨てるパフォーマンスをして世を騒がせ、その波は日本にも波及しました。1968年には、フェミニズムの空気は、インテリの女性たちの間では、すでに濃厚に醸成されていたのです。ランドの愛読者の女性たちは、当然、明々白々なこととして、アイン・ランドを「女性解放主義者」だと思っていました。

★ですから、アイン・ランドの愛読者の女性たちは、「私は大統領になりたいと思いません。女性の大統領に投票しません」というランドの言葉に驚きました。彼女が主催する「客観主義者会報」(The Objectivist)に、「どーいうことですか?」という手紙が多く寄せられました。最初は無視していたランドでしたが、とうとう1969年1月号の会報に、自分の見解を掲載しました。引用文は、その記事の一部です。

★アイン・ランドは、子どものころから優秀でしたから、「女だからできない」と思ったことはありません。性別だの人種だの民族性だのは関係ない、すべて個人の資質と能力次第ということは、ランドにとっては自明の理です。また、実際に身をもって、そのことを証明した女性です。The Fountainheadにせよ、Atlas Shruggedにせよ、女性でしか描けない男性像を提示していますが、物語の骨太な構想力や思想闘争を寓話的に表出するための装置としての人物造形力は、「女性作家離れ」しています。

★だから、女が政治家になるのも、なりたければなればいいよ、できるわさ、仕事を持つほうが成長できるから、持ったほうがいいよ、凡庸な大統領よりも仕事できる女性はいるわさ、と断言しています。なのに、「でも大統領になっても、いいことないよ、特に合理的で優秀な女性にとっては・・・」と示唆しています。なぜか?それは、次回のお楽しみ。

★女性のみなさん、私たちはいい時代に生まれましたね。私が長じるにしたがって、世の中は性差別的ではなくなり、セクハラをする男は限りなく軽蔑され社会的に居場所がなくなる状態となり、女子学生は「女に生まれてよかった!」と晴れ晴れと言いようになりました。そのかわり、不勉強も、経済力のなさも、怠惰も、体力のなさも、「女であること」を言い訳にできなくなりました。まだまだ乳幼児や老親のケアや育児は一方的に押し付けられる傾向はありますが、男性も随分と関与するようになりました。赤ちゃんの世話を細やかにしている若いお父さんの姿を街でよく見かけるようになりました。

★私が大学生の頃に、家庭教師のアルバイトで教えていた筒井康隆ファンの男子中学生のガキが、「センセイは、昔だったら、魔女狩りで絶対に火あぶりでしょ」と私に言ったときは、「関係代名詞もわからん馬鹿が何を生意気言うか!!」と心の中で怒鳴りつけたものの、同時に、いや・・・ほんと、よかった、よかった・・・と、しみじみ思ったものでしたが。でも、1970年代は、まだまだ性差別は露骨だったな・・・

★先日、書店で林真理子氏作の『RURIKO』(角川書店、2008)という小説を立ち読みしました。読み始めたら、面白かったので購入してしまいました。1960年代日活アクション映画の名花「浅丘ルリ子」さんの伝記です。そこに、浅丘さんにとって最初の一本は小林旭さんだったと書いてありました(もちろん、小説の表現は、もっとロマンチックでしたが)。「うわあ〜〜こういうこと美人女優さんが公言しちゃ、まずいでしょう〜〜下品でしょう〜〜」と、私の後味は悪かったです。この後味の悪さは、断じて、私が旭さんのファンだから、ではありません。浅丘ルリ子さんが、私では絶対に達成できない優雅で美しい痩身の持ち主だからではありません。

★やっぱり、そういうこと大っぴらに言ったら、女性としておしまいでしょう〜〜相手は、すでに70歳とはいえ、奥様もおられるのだし〜〜「私の最初の一本はオジイチャンだったのよ」なんて話は、孫でさえ祖母から聞きたくないと思います。

★私が敬愛する(寄寓にも旭さんと誕生年月日が一日違いの)A画伯は、「良い綺麗な思い出は、口に出すのはもったいないです。他人に言うなんて損です。心の奥に大事にしまっておくと、それは楽しいですよ〜〜」と、婉然と微笑みながら、おっしゃっておられました。いかにも「おいしい秘密」をいっぱい持っていそうな微笑でありましたな。

★そんなこと言うのは感覚が古い? 古いとか新しいとかの問題ではなく、心の深さの話をしております。この感覚が理解できないと、アイン・ランドが「私は大統領になりたいと思いません。女性の大統領に投票しません」と言った感覚は、理解できないかもしれません・・・