Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第21回 合理的な女は大統領になりたくないとアイン・ランドが思う理由(その2)  [11/09/2008]


The issue is primarily psychological. It involves a woman’s fundamental view of life, of herself and of her basic values. For a woman qua woman, the essence of femininity is hero worship---the desire to look up to man. “To look up”does not mean dependence, obedience, or anything implying inferiority. It means an intense kind of admiration; and admiration is an emotion that can be experienced only by a person of strong character and independent value judgments. A“clinging vine”type of woman is not an admirer, but an exploiter of men. Hero worship is a demanding virtue: a woman has to be worthy of it and of the hero she worships. Intellectually and morally, i.e., as a human being, she has to be his equal; then the object of her worship is specifically his masculinity, not any human virtue she might lack.

This does not mean that a feminine woman feels or projects hero worship for any and every individual man; as human beings, many of them may, in fact, be her inferiors. Her worship is an abstract emotion for the metaphysical concept of masculinity as such---which she experiences fully and concretely only for the man she loves, but which colors her attitude toward all men. This does not mean that there is a romantic or sexual intention in her attitude toward all men; quite the contrary: the higher her view of masculinity, the more severely demanding her standards. It means that she never loses the awareness of her own sexual identity and theirs. It means that a properly feminine woman does not treat men as if she were their pal, sister, mother---or leader.(“About a Woman President”in The Voice of Reason: Essays in Objectivist Thought)


(この問題は、主に心理的なものである。人生や自分自身や根本的価値観に関して女が基本的にどう考えるかに関する問題である。女としての女にとって、女らしさの本質とは、英雄崇拝である。つまり、男性を見上げたい欲望である。「見上げる」とは、依存や服従や、何につけても劣等性を示唆するようなことを意味しない。それは、一種の真摯な賞賛ある。賞賛とは、強靭な人格と独立した価値判断の持ち主だけが経験できる感情である。「しがみつき、からみつく」蔦(ツタ)のような女性は、男の賞賛者にはなれない。男の搾取者でしかない。英雄崇拝とは、(こうあってほしい、ああであってほしいと)要求する美徳である。女は、その美徳にふさわしくあらねばならない。自分が崇拝する英雄にふさわしくあらねばならない。知的にも道徳的にも、ひとりの人間として、彼女は自分が崇拝する英雄に匹敵しなければならない。そのとき、彼女の崇拝の対象は、もっぱら、その英雄的男の男らしさである。彼女に欠如している人間的美徳を、その男が持っているから、崇拝するのではない。

だからといって、女らしい女は、どんな男にも、つまり、個別のそれぞれの男に対して、英雄崇拝感情を抱いたり、それを投影するというわけではない。人間としては、その男たちの多くは、実際のところ彼女より劣っているかもしれない。彼女の英雄崇拝は、男らしさという<形而上的>概念を求める抽象的感情である。このような感情を、彼女は、自分が愛する男に対して、充分に、かつ具体的に体験するのだが、それはすべての男に対する彼女の態度に影響を与える。このことは、すべての男に対する彼女の態度がロマンチックであるとか、もしくは性的な意図を含んでいるということではない。それどころか全く正反対である。彼女の男らしさに関する見識が高次になればなるほど、彼女が男に求める基準はより厳しくなる。つまり、こういう女は、自分が女であること、男が男であることに対する意識を失くすことはないということである。適切に女らしい女は、男に対処するときに、自分が彼らの友だちや妹や母、もしくは指導者であるかのようには振舞わないということである。)


★前回の続きです。今回は、アイン・ランドによる「女らしい女」の定義です。その内容は、世間一般の伝統的な「女らしさ」とは、もちろん違います。前回でも書きましたが、アイン・ランドは個人主義者ですから、男とか女とかの性別で、人間について考えません。男一般とか女一般という「集団主義的発想」はしません。「一般」なんてないのです。「一般的傾向」というものもないのです。優秀な男もいるし、優秀な女もいる。凡庸ながら努力を継続して向上したい男もいるし、同じくそうする女もいる。凡庸に開き直ってさぼる男もいるし、同じくそうする女もいる。駄目な男もいれば、駄目な女もいる。ただただ、個人の個別の事例があるだけです。

★しかし、それでも「女らしさ」というものは断じてある、とランドは思います。それは、「英雄崇拝」であるとランドは言います。人間性にせよ知性にせよ道徳性にせよ、賞賛に値する美徳を実現している男を見上げて崇拝したいのが、「女らしさ」だと言うのです。

★ただし、「ランド的に真に女らしい女」が、そういう「英雄」を求めるのは、英雄的男に依存したいからではありません。英雄的男に自分が不足している部分を埋めてもらいたいからではありません。「英雄みたいな強い有能な男に守ってもらってラクチンしたいわ〜〜」ではないのです。そういう女は男の寄生虫になるしか能がないのであって、要するに、男が自分にとって便利な道具であればいいのであって、別に男に賞賛すべき美徳などなくてもいいのです。美徳の持ち主でも、自分が便利に使用できなければ、しかたないのであります。美徳なんか食べることできませんわ、なのです。

★男性のみなさん、これでおわかりですね。あなたが、いくら真に男らしく頑張っていても、必ずしも、もてるわけではないということが。相当多数の女性は、「男らしい男」など求めておりません。「生活の安楽さを与えてくれる男」を求めております。美徳の実現を自分自身に求める質の人生を創る気さえないのに、なんで、そんなもの他人に求めるでしょうか?あなたが失業したり、病気になったら、あなたのお相手の女性はあなたに冷たくなるでしょう。そーいう女性を選んだのは、あなたですから自業自得です。類は友を呼ぶのです。

★ランドが思う「女らしい女」は、「英雄的男に出会ったら面白いな!その男とどうこうならなくたって、こんな男が世の中にいるんだから、私も頑張らなくっちゃ!と思えるもん。そういう英雄的男にふさわしい立派な女というのも、この世の中にいるはずだ。そういう立派な女がいる!と思うだけでも、私も頑張らなくっちゃ!と思えるもん。どうせ生きるのならば、私もそういう女になりたいわ!なれないかもしれなくたって、なりたい!そう思っているだけで退屈しないし頑張れるわ!生きる張りになるわ!」と思うようです。

★だから、 「賞賛とは、強靭な人格と独立した価値判断の持ち主だけが経験できる感情である。『しがみつき、からみつく』蔦(ツタ)のような女性は、男の賞賛者にはなれない。男の搾取者でしかない」 と、ランドは書いているのです。

★アイン・ランドが考える「女らしい女」というのは、あくまでも自分の人生の充実(=長期的視野に基づいた合理的自己利益にかなうこと)のために英雄的男を崇拝したいのであって、自分の魂の「砥石(といし)」になってくれる男を求めているのであって、別に結婚したいとか、そばにいて欲しいとか思っているわけではないのです。ドミニクが、『水源』の終わりごろに、ロークに生涯会えなくても構わない、だからといって自分のロークへの気持ちが変わるわけではないと思うようになったのは、こういうわけなのです。

★いまひとつ、こういう気持ちは、ピンとこないな〜〜という方は、原案・脚本・キャラクターデザイン・監督が今敏(こん・さとし)氏のアニメ『千年女優』(2002)をごらんください。きっと参考になるでしょう。このアニメは、もっともっと世に知られていい傑作です。アニメでなければ、もしくは特殊撮影技術が発展しなければ、映像化はできなかったであろう、とてもとても斬新なSFチックな恋愛物語です。映像世界全体に、切羽詰ったような、熱い疾走感が漲っております。魅入られますよ〜〜〜♪『千年女優』は、来年度担当の講義科目「メディアと芸術表現」に、絶対に使わせていただきます!

★物語内容は、こうです。平安時代にある女性が魔物の<呪い>を受けます。愛する男性がいるのに、その男性と結ばれることなく、再会できず、恋人を捜して追うしかないという<呪い>です。その女性は何度も何度も何度も生まれ変わるのですが、恋人に会えません。未来の宇宙旅行でたどり着いた惑星でも会えません。しかし、ヒロインは最後に気がつきます。「私が求めていたのは恋人ではなかった。追っかけている自分自身が好きなのだ。ならば、未来永劫、追いかければいいのだ」と。ヒロインは、こうやって<呪い>を蹴飛して、<祝福>にしてしまいます(ネタばれ、すみません)。

★つまり、『千年女優』のヒロインも気がついてしまったのです。魂の高揚に男はいらないと。「対象」がいるだけでいいと。自分の生活はテキトーに自分でナントカできるからいいと。いつも疾走して追いかけているような魂の高揚の契機となるような「対象」に出会うことさえできればいいと。

★『千年女優』のヒロインの場合にせよ、アイン・ランドの場合にせよ、徹底して自己完結した自己啓発のための恋愛においては、生身の男は、自分にとっての「対象」を投影できる視覚的媒介でしかありません。視覚的媒介ですから、どうしても、その男性は美しくないといけません。だから、アイン・ランドは「面食い」でした。夫も、愛人だった弟子も美男子でした。若き日のアラン・グリーンスパン氏は、師匠のアイン・ランドの愛人だったという説がありますが、私には信じられません。グリーンスパン氏は、若い頃だって、「視覚的媒介」になれるほどの男前じゃありませんでしたから。

★男は、女の魂と知性を高揚させるような質の男前であればいいのよ、あとは私が自分でナントカするからいいのよ〜〜とは、なんと清々しく自立した(自分勝手な?)姿勢でしょうか。テレビの人気番組『オーラの泉』で美輪明宏さんが言っておられましたよ。「独立心のある自信のある女性ほど、姿かたちの外見で男を選びます」って。ははは。身も蓋もないですね〜〜♪

★要するに、アイン・ランドが考える「女らしい女」とは、いわば「隙のない眉目秀麗な怖いほどの俊才の男の子に憧れて勉強する真面目な優等生の面食いの女の子」なのです。真にゴージャスな男に憧れて、その男を到達すべき星(スターだ!)と定めて、私だって負けやしないわ!と人生に挑む女です。はっきり言って、「少女趣味」です。イチゴがどーの、薔薇の花がどーの、サテンのドレスがどーのという幼稚通俗な次元ではない高度な「少女趣味」ではありますが、「少女趣味」です。

★「少女」とは、あくまでも、「私は、物事(男)の美しさしか見ない!それ以外の要素なんか無用!」と決めた頑固で偏狭な存在です。私が、アイン・ランドに関して好きな点のひとつが、彼女の、この強烈神聖真性確信犯的真摯な「少女趣味」です。この文章を書いたのは、1968年、つまりアイン・ランドが63歳のときです。63歳にして、このあからさまな、非現実的な、わがままな、残酷な少女趣味!優秀で自分で食ってゆける女にとって、「女だわん、私って!」と思えるのは、「眉目秀麗な怖いほどの俊才の男の子に憧れて勉強する真面目な優等生の面食いの女の子」を自分自身の中に見出す時だけなのでしょう。

★「男と同じなんて、しょーもな!下らない男ばかりでしょーが!でも、せっかく女に生まれたんだから、女やりたおしたいじゃないの〜〜でも、伝統的な女なんかアホくさいでしょ〜〜私は、並の男なんかぶっ飛ばすみたいな生き方をするの!でも、なおかつ女でいたいの!そうなると、抽象的な英雄崇拝ってのが、いいよね〜〜♪そう意識していれば、どこでそういう男を発見するか予測できないから、アンテナ張っているためには、男の「かーちゃん」か「お姉ちゃん」か「妹」か「センセイ」か「上司」になって油断してちゃいけないんだわ〜〜男を友だちにして、呼び捨てにするなんて女のすることじゃないわ!だいたい男から「友だち」にされるのは女として魅力がないからよ!やっぱり、男は男で、女は女よ!そういう緊張を楽しむことができないのは生命力の枯渇よ!男との遭遇に備えて女として、いつも身構えていてこその女よ!無印商品の色気のないパンティなんか身につけていちゃ駄目!80歳になっても、毎日が勝負パンツよ!」というのが、引用文の真意だと私は思います。違う?

★こういうランドの姿勢は、女をひとつの被差別集団として結集させて、政治的圧力団体にして、男中心社会が女に強いる理不尽な不正を撤廃させようとするフェミニズム運動とは、まったく別の問題系に属します。ですから、くれぐれも、社会運動系被差別民解放運動の観点からアイン・ランドを「反フェミニスト」として弾劾しないようにしてください。

★さて、では、このような英雄崇拝(したい)女ならば、アイン・ランドが考えるところの合理的な女ならば、どうして大統領になりたいとは思わないのでしょうか?その答えは、次回までお待ちください。黒人のバラク・オバマ氏がアメリカ合衆国第44代大統領になりました〜〜時代は進んでゆくのですね〜〜次は、女性大統領ね!そこんとこ、よろしく!