Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第27回 恋愛は人類にはまだ早い  [12/21/2008]


“You’d rather not hear it now? But I want you to hear it. We never need to say anything to each other when we’re together. This is---for the time when we won’t be together. I love you, Dominique. As selfishly as the fact that I exist. As selfishly as my lungs breath air. I breathe for my own necessity, for the fuel of my body, for my survival. I’ve given you, not my sacrifice or my pity, but my ego and my naked need. This is the only way you can wish to be loved. This is the only way I can want you to love me. If you married me now, I would become your whole existence. But I would not want you then. You would not want yourself---and so you would not love me long. To say ‘I love you’ one must know first how to say the ‘I.’ The kind of surrender I could have from you now would give me nothing but an empty hulk. If I demanded it, I’d destroy you. That’s why I won’t stop you. I’ll let you go to your husband. I don’t know how I’ll live through tonight, but I will. I want you whole, as I am, as you’ll remain in the battle you’ve chosen. A battle is never selfless.”(14 in Part II in The Fountainhead)

(君は、こんなこと聞きたくなかったと、思っている?でも、僕は君に聞いて欲しい。僕たちはいっしょにいるとき、互いに何も言う必要がなかったよね。全然、必要なかった。でも、これから僕が言う言葉は、僕たちがもういっしょにいられなくなったときだからこそ必要な言葉なんだ。ドミニク、僕は君を愛している。僕が存在しているのと同じくらいに自己本位に僕は、君を愛している。僕の肺が呼吸するのと同じくらいに自己本位に僕は君を愛している。僕は、僕自身の必要から呼吸している。僕の身体に酸素を送るために、僕が生き延びるために、僕は呼吸している。僕は、君に与えた。僕の犠牲ではなく、僕の憐れみではなく、僕の自我と僕のむき出しの欲望を君に与えた。これだけが、僕が望む君が僕を愛するやり方なんだ。今、僕が君と結婚したら、僕は、君の存在すべてになってしまう。そうなったら、僕は君が欲しくなくなってしまうよ。そうなったら、君は君自身を必要としなくなってしまう。そうなると、君はもう僕を愛さなくなってしまうよ。『私はあなたを愛している』と言うためには、人は、まず『私』の言い方を知らなければならない。君から、僕が君という一種の『降伏者』を得ても、何も獲得しないのと同じことだ。そんなもの空虚な残骸でしかない。もし、僕が君に、僕に降伏することを要求したら、僕は君を破滅させることになる。だから、僕は君を止めない。僕は、君を君の夫のところに行かせる。今夜、僕はどうやって過ごせるのか、耐えられるのか、ほんとうは僕にもわからない。それほど今の僕は苦しい。でも、僕は君を行かせる。自分自身が選んだ戦闘から逃げない君のような人間、そういう君という人間全体が、僕は欲しい。僕と同じような、そんな君という人間が欲しい。戦闘というものには、少なくとも自分というものがあるよね)

★このコーナーは、毎週日曜日に更新ということになっています。だから、日曜日の午前零時には更新されていなければなりません。つまり土曜日中には書いておかなければなりません。しかし、昨日の土曜日の午後に副島隆彦氏と佐藤優氏対談集『暴走する国家 恐慌化する世界---迫り来る新統制経済体制の罠』(日本文芸社 2008)がアマゾンから配達されて、読み始めたら、どうにも止まらなくなってしまいました。事実を伝え、かつ面白く、かつ啓発される本の書き手として、現代日本において、副島隆彦氏と佐藤優氏は最前線におられます。そのおふたりの対談なのだから、もう凡百の対談を痛快に冷酷に蹴飛ばす面白さです。

★ほんとに面白いと興奮してしまって、心臓の動悸が高まり、ワクワクと落ち着きがなくなって、他のことは手につかなくなってしまいます。砂糖壷の中に入り込んでしまった蟻のように、その快楽に溺れてしまいます。簡単なアンチョビ・パスタでさえ作る気にならず、お寿司でも買って食べとけばいいじゃないの〜〜もう今夜はさあ〜〜ということになります。というわけで、Ayn Rand Saysは捨て置かれました。すみません。

★この引用文は、『水源』の中盤あたりのストッダード裁判でハワード・ロークが敗北し、ドミニク・フランコンがピーター・キーティングと結婚し、それをロークに告げたときの、ロークの言葉です。ロークとドミニクは互いを深く愛しています。裁判の敗北のあとは、ドミニクがロークを慰め励ますというのが、凡百の小説の展開となるはずですが、アイン・ランドは、そんな退屈な方法は採りません。

★なんと、ドミニクは、自分が軽蔑するあまりに存在すらも意識できないほど忘れているような「卑劣小心軽佻浮薄馬鹿優等生」のピーター・キーティングと結婚するのです。自分が勤務する建築設計事務所の経営者の一人娘で絶世の美貌の持ち主の申し出を、キーティングが断るはずありません。彼には、誠実可憐な恋人キャサリンがいるのに。キャサリンが彼を信じて待っているのに。

★ドミニクは、なんで、そんな、ややこしいことするのでしょうか?男性というのは、嫌いな女だろうが軽蔑している女だろうが、「その気」になれば、テキトーに相手できるのかもしれませんが、女性というのは、嫌いな男や軽蔑している男とは、いっさい関わりたくないと感じる傾向が強いです。いったん「こいつ馬鹿で卑しい」と軽蔑すれば、無関心になり、そいつの名前まで忘れ、その存在すら忘れます。少なくとも、私はそうです。ただし、そいつにも人権はあると思うヒューマニズムは残りますが。

★ストッダード裁判の愚劣さに、ひいては世間(人間と人間が織り成す社会society)の愚劣さにドミニク・フランコンは、あらためて絶望します。愛するロークが、こんな程度の低い世間と関わっていかなければならないことに絶望します。ロークは天才的建築家であり、建築をこよなく愛し、仕事を愛しているのですが、すべからく「仕事」というものは、世間と関わらなければ実践できません。彼に設計を依頼する顧客がいなければ、彼は天才を発揮できません。彼自身は世間を必要としませんが、彼の才能が発揮される機会と場は世間を必要とします。ロークは、自分自身の生を生きるためには、つまり建築をし続けるためには、彼を理解できない世間と関わらざるをえないのです。ロークは建築に関する卓越した才能を持つがゆえに、建築に対する信仰に似た情熱を持つがゆえに、世間との苦闘を避けられません。

★ドミニクは、ロークを愛するがゆえに、ロークの闘いを自分も共有したいと思います。自分も苦しみたいと思います。ロークの苦闘が並のものではないのだから、自分が引き受ける苦しみも並のものであってはいけません。ロークとともにいることはドミニクにとっては至上の悦びですので、ロークの苦しみを自分も味わうためには、ロークとともにいるわけにはいかないのです。それでは、ロークだけが苦しむことになる。だから、軽蔑して歯牙にもかけていない男に自分をくれてやります。

★あ〜〜た、これは女性にとっては、とんでもない偉業ですよ!世の中には、カネやステイタスや生活のために「嫌いな男と性交して、嫌いな男のガキを生み、嫌いな男の親族とつきあい、嫌いな男の下着を洗う」ことができる女性がわんさか存在しているようですが、こういう女性とは、いわば「猛烈なセクハラを毎日毎刻毎瞬間受けていても平気」な女性ですから、英雄なのです。まさに英雄。英雄の必要条件のひとつは「天才的に鈍感であること」です。ドミニクは剛毅なほどに繊細なのに、あえて、その「天才的に鈍感であること」を自分に課すのですから、その「英雄度」は、とてつもなく高いです。

★ドミニクはキーティングと判事の自宅まで行き、さっさとキーティングとの法的結婚の手続きを事務的に冷淡に処理したあとに、ロークのアパートメントに行き、キーティングと結婚したと宣告します。いつも冷静沈着なロークは、ドミニクが予期していたよりも、打ちのめされますが、ドミニクに結婚を取り消してくれと懇願しません。ロークは、「男のプライドにかけて女に懇願などできない」と思うような小心で不正直なチンケな男ではありません。他人にも自分にも嘘はつけない男です。

★ロークがドミニクを好きな理由は、美しいと同時に、ドミニクが自分と同じ種類の人間だからです。自分の人生を引き受けてメイッパイ生きたいと思い行動する人間だからです。ロークは自分自身の価値観、道徳律を持っていますので、それを実践する自分に対して自尊心を持っていますから、同じ価値観、道徳律を共有する人間を尊敬し愛します。だから会っているときに、互いに黙っていても、互いの気持ちがわかりあえます。

★だから、軽薄な無思慮から、単なる錯乱した自虐趣味から、ドミニクがキーティングとの結婚を選んだわけではないことを、ロークは理解できます。ドミニクには、まだ世間や世界を恐れている弱さがあるけれども、ドミニクにはドミニクの闘い方があり、それはドミニク本人しか担えないものなので、ロークはドミニクの選択と決断を尊重し、別離を引き受けます。それができるのは、いずれはドミニクがその闘いに勝ち、自分のもとに戻ってくると信じているからでもあります。

★いえ、物理的に戻ってこなくてもいいのです。互いの互いへの愛情については、ふたりとも疑っていないし、互いへの敬意、信頼も揺るがない。かたときも互いの存在を忘れることがないし、だから離れていても、いつもいっしょにいるのと同じです。離れているから寂しいと思うのは、愛情が浅いのです。少ないのです。どんなときでも自分と共にいると感じられるほどに、相手の存在が大きく深く意識下に組み込まれるに至るまでが、真の恋愛です(と、思う)。

★映画『セーラー服と機関銃』の主題歌ではありませんが、「さよならは別れの言葉じゃなくて〜〜再び会うまでの遠い約束〜〜♪」であります。再会するのが、今世でなくたって、いいじゃないか、きっとどこかでまた会うよ。生命ってのは、魂ってのは、こんな時間や空間なんか目じゃないほどに、大きくて自由で豊かなものなんだから〜〜というようなことを人間に考えさせるのが、真の恋愛というものです。ほんとうに恋愛すると、人間は哲学者になります(と、思う)。

★1980年代の私は、学会で発表したあとは、その後の空虚さ充填のためにカラオケに行って、「薬師丸ひろ子」になったつもりで、必ずこの歌を大声張り上げて出ない高音は裏声出して歌ったものでした。1980年代当時の程度の低い私は、しょうもない下らない学会のしょうもない下らない学会発表でも、一生懸命でした。頭が悪いと、とんだ遠回りをしなくてはいけませんが、あの遠回りは必要な修行だったのでありましょう。あの空虚さを経験することが私の人生に必要だったのでしょう。今は、カラオケなんかに行く必要がないです。下らない無意味なことを懸命にして緊張するという空虚さから解放されましたから、って何の話か?

★私は、世におびただしく流通する恋愛小説とか恋愛映画とかは、とても退屈に感じる人間です。自宅でビデオやDVDで見ていても、恋愛映画系は、途中で寝てしまいます。性交抜き純愛系なんて特に退屈です。アホか、と思います。「互いに好きならば、さっさと気持ち打ち明けて、さっさとすればいいんじゃ〜〜気がすむまでやりまくればいいのだ〜〜!それしかないだろ〜〜何をもたついとんじゃ〜〜カッコつけてんじゃねーよ!!」と、ブチブチつっこみながら眠ってしまいます。ベストセラーの恋愛小説も読み始めはして見ますが、結局は読まずにBook Off行きか、学生さんにもらってもらいます。

★そんな無粋で即物的な私が、「あ〜〜これこそ、私が求めていた恋愛小説!」と思ったのが、この『水源』でした。「こういう観念的インテリ&性交しまくり&切磋琢磨系硬派な恋人たちに会いたかったのだ!」と、私は狂喜しました。47歳のオバサンの全細胞が活性化しました。それ以来ずっと、私の細胞はハイなままです。はい。

★しかし・・・こういう恋愛は、天才と天才の間にしか生じない恋愛かもしれません。現行の人類の程度では達成できないような類のものです。もしくは、自分の生をかけがえないものと考えるからこそ、他人の生もかけがえのないものと感じ考え、家族だろうが恋人だろうが夫婦だろうが友人だろうが、互いの自由意志による選択や決断に敬意を払うことができるような精神政治経済的風土の中だからこそ、育まれる恋愛です。自分のアホな欲望のままに動く人間のことを「利己主義者」と呼び、自分の人生を大切にしているからこそ社交に関心のない人間を「個人主義者」と呼ぶような、前近代的な頭の悪い貧乏臭い人々が、まだまだ大量に生息している日本は無理な恋愛かもしれません。

★いや、実は、恋愛なるものは、人類にはまだ早いのかもしれません。自分の生をかけがえないものと考えるからこそ、他人の生もかけがえのないものと感じ考え、家族だろうが恋人だろうが夫婦だろうが友人だろうが、互いの自由意志による選択や決断に敬意を払うことができるような精神政治経済的風土など、まだこの地上に実現していないのかもしれませんから。

★しかし、こーいう理想主義的な、人類離れした恋愛というものを発想する力が、人間に(アイン・ランドという天才に)あるということは、いつかは、こういう恋愛を人類一般が享受することになるということです。人間が想像したものは、いずれ実現するというではないですか。今度生まれて来るときには、あなたもハワード・ロークだ!あなたもドミニク・フランコンだ!しかし、デブのドミニクではなあ・・・

★ところで、ネット書店アマゾンのウエッブサイトに、『水源』のレヴューとして、「ハーレクイン・ロマンスみたいなもんだ」というような言葉を見つけました。私は驚きました。ええええ?『水源』と「ハーレクイン・ロマンス」なるものは似ているのか?「ハーレクイン・ロマンス」なるものは、それほどに面白いものなのか?そうか!知らなかった!ならば、読んでみよう!と私は思いまして、「ハーレクイン・ロマンス」なるものを求めたのですが、書店にもなくて、熱田神宮の近くの古書店で1冊100円で売っているのを見つけて数冊読んでみました。・・・どこが似ているのか?私は、ガッカリしました。

★まったく・・・根拠のないことを、キャバクラのお姉さんをからかうような軽薄な斜に構えた調子で、ブック・レヴューに書かないでいただきたいです。私みたいな生真面目な読者は、何でも真に受けて、貴重な時間を無駄にすることになります。みなさん、根拠のないことを、気楽に軽薄に無自覚な悪意のもとに書き散らすのは、匿名Blogだけにしておいてください。せめて「書評」ぐらいには、いい加減なことは書かないでください。質の良い本を本気で求めている人間は多いのですからね。

★「WEBマガジン出版翻訳」(http://shuppan.sunflare.com/)の編集者の方が、『水源』を読んでくださって、「『水源』を読んだあとは、他の小説が物足りなくなりますね。ステーキの味を知ってしまったあとに、お蕎麦を食べるようです」と、メイルに書いてくださいました。嬉しいですよね〜〜♪ほんとに、そうなのです。

★私は、あまり小説は読みません。虚構の他人の人生なんかどーでもいいです、基本的には。ましてや、「日本の純文学」なんて人生すら描かずに、a slice of lifeしか描いていない傾向があるので、その視野狭窄閉所蟄居貧血鉄分不足風味が退屈なんで読みません。しかし、エンターテインメント系小説は読みます。面白い才能が出てくるのはワクワクします。だけど、アイン・ランドの小説ほど面白く読ませて、かつ観念的なものには出会えません。情緒的にも知的にも私を満たしてくれる小説に出会ったのは、アイン・ランドの『水源』が初めてであり、今のところ「最後」です。会えてよかった、アイン・ランド!

★ものすっごく面白くて魅力的で強烈で頭が良くて心が深い友人(恋人)ができてしまったので、その友人(恋人)以外に、もう他の友だち(恋人)はいらない、この人だけでいい、ずっと片思いで構わないよ、と思えてしまうような友人(恋人)を得るのは、「この人が最初の友(恋人)であり、最後の友(恋人)だ!」と思わざるをえないような他人に出会うのは、幸運なのか災難なのか?

★幸運だろうが災難だろうが、遭遇するべくして遭遇するのでしょう。遭遇しないと前に進めないのでしょう。起きることはみな起きてふさわしいこととして、すべてを雄々しく迎え撃つのみですね。いや、すべてを朗々と飄々と淡々と迎え受け入れると言うべきか。