Ayn Rand Says(アイン・ランド語録) |
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心の中の基礎工事から始める(その3) [02/01/2009]If you are seriously interested in fighting for a better world, begin by identifying the nature of the problem. The battle is primarily intellectual (philosophical), not political. Politics is the last consequence, the practical implementation, of the fundamental (metaphysical-epistemological-ethical) ideas that dominate a given nation’s culture. You cannot fight or change the consequences without fighting and changing the cause; nor can you attempt any practical implementation without knowing what you want to implement. In an intellectual battle, you do not need to convert everyone. History is made by minorities---or, more precisely, history is made by intellectual movements, which are created by minorities. Who belongs to these minorities? Anyone who is able and willing actively to concern himself with intellectual issues. Here, it is not quantity, but quality, that counts (the quality---and consistency---of the ideas one is advocating). (“What Can One Do? 1972” in Philosophy Who Needs It) (あなたが、より良い世界を作るために闘うことに関心がほんとうにあるのならば、まず問題の本質が何か認識することから始めなさい。あなたの闘いは、主に知的な(哲学的な)領域に属するものであって、政治的なものではない。政治というのは、ある任意の国家の文化を支配する根本的な(つまり、形而上的で認識論的で倫理的な)思想の最終的結果であり、その思想の実践である。結果と闘い結果を変えるということは、原因と闘い原因を変えることなしには、無理である。あなたが、実行したいことが何かを知らずに、それを実践できるわけがない。 知的闘争において、あなたは誰も彼も転向させる必要はない。歴史は少数派に属する人々によって作られる。もしくは、より正確に言えば、歴史は、知的運動によって作られ、その運動は少数派に属する人々によって生み出される。この少数派に属する人々とは誰だろうか?数々の知的問題に関心を持つことができて、かつ、その関心を活発に持ち続けることができる人間ならば、誰もがそうである。大切なのは、数ではない。質である(質とは、つまり、人間が提唱する思想の質、およびその強固さである)。 ★前々回と前回からの続きです。「ひとりの人間に何ができるのか?」という、個人主義の提唱者アイン・ランドが何度も訊かれた質問の話です。第31回では、本気で自分に何ができるか自らに問う人間は、黙って自分ができることを始めて、無駄口はたたかないということが指摘されました。わざわざ、他人にそんなこと質問するような人間は、本当は自分から何もする気はないのだということが、指摘されました。 ★第32回では、疫病が蔓延している只中にいる医者は、たったひとりの医師に何ができるかなど自分に問わず、目の前の患者の苦痛を緩和することに集中するという例が提示されました。物理的な即物的な現実に対処するときには、できることから始めるしかないので、できることから手をつけるのに、なんで、精神的知的問題に関しては、天啓や奇跡がやって来て、綺麗に即座に解決されることを期待しがちなのか、あなたの心だって、あなたにとっての現実なのだから、即物的現実に対処するのと同じくらいの根気で対処しなさい、という話でした。 ★ものの考え方を変えるには、橋や道路の工事と同じ段階と時間とエネルギー(&技術も)が必要なのだということも、示唆されました。 ★今回のアイン・ランドの言葉を、より平たくパラフレーズすれば、以下のようになります----この世界をより良い場所に変えたいって?ほんとに、そう思っている?この世界って、人間の社会ってことだよね?惑星の軌道とか文明の栄枯衰勢のサイクルのようなことは、人間には何ともならないから、あなたが呼ぶ世界ってのは、この社会のことだよね?この社会をより良くするためには、すっごく多くの人々が動員される政治活動とかデモとかキャンペーンとか、そういうことをしないといけないと、あなたは思っているでしょう?そーいうことではないのだよ。この社会の文化を形成しているのは、人間の思想なのだよ。「集団的に、ひとつにまとまった心」という実体はないのだから、個人の思想の集積が社会を作っているのだよ。だから、本気で、あなたが、この社会を良くしようと思うのならば、まず、あなたの心から、あなたの思想から変えるしかないのだよ。そして、常に考え続けるしかないのだよ。そういうことができる人間ってのは少数なのかもしれないけど、少数でもいいんだよ。その小数派の人間が歴史を拓いてきたんだから。まずは、どんな社会であるべきか、そーいう根本的なことから考えて、きちんと思想を構築するしかないのだよ。まずは、あなたの心の基礎工事から始めよう〜〜 ★要するに、そういうことです。心の中に、自らが寄って立つ思想を基礎工事から始めて、柱を建てて、梁(はり)を渡し、棟木(むなぎ)を上げて、枠組を作ったら、煉瓦を積み重ね、煉瓦と煉瓦の間には泥を埋めて固める。その作業過程においても、風も吹けば雨も降るけど、その現実にまみれながら、台風が来たら倒壊するかもしれないけれども、できるだけニッチを見つけて、そこで自分の信条にかなうように物事を実践し、自分の心の中に作り上げたものを常に検証し、「転向」するとしても、何十年とかけるような、そんな慎重な精神活動をしつこく継続できる人間が、その数は少なくとも、社会を変えていくのだと、アイン・ランドは言うのです。 ★あ、そんなこと、当たり前?そうですよ、アイン・ランドの言うことは、もっともで、当たり前の平凡なことばかりです。しかし、「そんなこと、当たり前じゃん」と言って、ある言説の平凡さを指摘することと、その平凡なことを自分がクリアしているかどうかは、別のことです。若い学生さんあたりが、そういう区別ができずに、小賢しいことを軽薄に口走るのは、「若さ」という「馬鹿さ」ゆえに許されますが、まともなオトナが、そういう知的混乱を無自覚にやらかすのは、恥ずかしいことです。 ★あ、そんなこと、軟弱すぎる?そうでしょうか?基礎工事から始めて、着々とたゆまず、現実とつきあいつつ、自分の心の中に、大きな思想を構築してゆくことが、軟弱なことでしょうか?軟弱な人間に、そんなことができるでしょうか? ★世の中には、「物知り」はいっぱいいます。単に、「物知り」ではなく、情報や知識を集めて、それらに文脈をつけて整理して、図式化し、わかりやすく提示説明できる人も、比較的多くいます。そういうのは、ふつーの秀才の研究者の得意とするところであって、世間では、そういう脳のタイプの持ち主を「頭がいい」と、称えます。この種の「頭のいい人」たちの著作品は、しかし、1度しっかり読めば、私は読み返しません。情報を得ることができて、バラバラの事物の関係(文脈)がわかれば、OKだからです。 ★どうせ、1度しか読まないのならば、読んだらサッサとBook Offに持ってゆけば、私の住居もいかほどかスッキリするかと思うのですが、商売柄、やはり所有しておきたいし、所有しておくしかないのですよ。50歳過ぎて、図書館の中をうろうろしたくないです。文献のコピーなんかしたくないです。私には、秘書を持つような甲斐性はないですからね。甲斐性はないですが、「他人の本」に気を使いたくないです。「あたいのもんだい!」と、黄色や緑やオレンジのマーカーでメチャクチャに線を引いて台無しにしたいです。それぐらいの贅沢はしたいです。 ★しかし、折にふれて、10年おきとか、そういうスパンで、何度も読み返すことをせざるをえない本というものがあります。どこがいいとうまく説明できないのですが、欠点ははっきりいっぱいあるのですが、「この書き手には、本質が見えている」とか、「この書き手の書いていることは真実だ!」などと、わけもなく確信してしまう書き手がいます。「この書き手の言葉は、どういうわけか、心に突き刺さってくる。他の書き手にはないパワーがある。このパワーの源泉はなんだろう?」と、不思議に思わされる書き手が存在します。10年に1度めぐり会えれば、僥倖としかいいようがないような書き手です。 ★私にとっては、出会わなかったならば、今の私自身はない、と断言できる書き手は、今までのところ、日本人ならば、丸山眞男氏(初期の頃の数編の論文)であり、山本七平氏であり、小室直樹氏であり、副島隆彦氏です。アメリカ人ならば、私にとっては、Mark Twain(1835-1916)であり、Henry Louis Mencken(1880-1956)であり、Ayn Randです。彼らと彼女の言葉は、生々しいです。 ★女性がアイン・ランドだけだって?それは、しかたありません。女性の書き手の場合、Hannah Arendt(1906-75)みたいに、思考が緻密でやたら真面目に細かく書くので、「ズバリと大掴みに書いちゃ駄目なんだろうか?」と思わせるか、Mary McCarthy(1912-89)やSusan Sontag(1933-2004)みたいに、瑣末な美意識を発揮して「どうでもいいことを大仰に言うんだなあ〜〜しょーもな・・・」と思わせるか、どちらかが多いのですよねえ・・・どちらも、所詮は「優等生」か、「斜に構えた優等生(=メイン・ストリームからはずれないお転婆)」というのが、女性の書き手に多いので、正直な私は退屈になるんであります・・・すみません。 ★ともかく、高度に知的で、かつ生々しい言葉を持つ、これらの書き手は、心の中の基礎工事から始めて、密度の濃い時間をかけたからこそ、自分の言葉を獲得した人々だと思います。自前で考え続ける脳の筋力がある人々だと思います。だからこそ、私のような無知な読書量も貧しく、TVばかり観て喜んでいるような程度の人間の脳と心にさえも、その言葉は、響いてくるのだと思います。その言葉は、読者の心を変えるのだと思います。 ★ところで、本ウエッブサイトの掲示板に興味深い情報を、ハンドルネームchizuruさんという方が書いてくださいました。chizuruさん、ありがとうございます。大前研一氏が、『「知の衰退」からいかに脱出するか?』(光文社、2009)の中で、アイン・ランドについて言及しておられるという情報です。私は、この大前氏の御本を、まだ読んでいないのですが、どうやら、私が推測する限り、「文化生産物にも賞味期限というものがあって、文学や古典音楽が教養の一環である時代は、終焉しつつあるのではないか、ちょっと昔のアメリカ人のビジネスマンは、大学卒業したら新聞と雑誌しか読まない程度の日本のビジネスマンに比較すれば、文学や古典音楽の教養もあって、パーティなんかではそういう話題も出たのだが、アメリカでは教養というものの中身が変質しつつあるようだ、今のアメリカのビジネスマンは、文学といっても、せいぜいアイン・ランドぐらいしか読んでいない」という内容のことを、大前氏は、記述しておられるようです。 ★アイン・ランドしか読んでいない現代のアメリカのビジネスマンは無教養だと言いたいのか、文学や古典音楽の話をしなくなった現代のアメリカのビジネスマンでも、つまり賞味期限の切れた文化生産物には目もくれないような、時代の風に敏感な人々でも、アイン・ランドは読んでいるのだから、アイン・ランドの作品は小説以上の意味がある、と示唆しているのか、それとも、単に事実を指摘したのか、大前氏によるアイン・ランド言及の文脈は、今のところ、私にはわかりません。2月6日に帰国したら、すぐに読もう。 ★しかし、どっちにしても、アイン・ランドのことに言及していただいて、私は嬉しかったです。批判でも悪口でも、アイン・ランドに言及してもらうと、私は嬉しいのですよ〜〜♪ ★最近、友人のひとりから、あることを耳にしました。彼女の著作が、ある学会誌が採用掲載した大学院生の書いた論文の中で、無知に基づいた明らかな誤読をされて、理不尽な批判の的になったというのです。私の反応は、「羨ましい〜〜他人の論文の中で引用されるなんて、いいじゃないの〜〜批判でも何でも、取り上げられたんだから、いいじゃないの〜〜気が向いたら、次に書く論文の中で、その馬鹿院生の論文をコテンパンに叩けば、それでいいじゃないの〜〜どうってことないじゃないの〜〜♪」というものだったので、優秀な研究者である彼女の不興を買いました。まともな人間ならば、ある文章の中にある著作が批判されていても、鵜呑みにはしないのだから、いいのだよ。まともじゃない人間なんか関係ないし。 ★「英語学」という何の役に立つのか全然わからない学問分野で、大昔は「変形生成文法」とか言っていて、今はリベラル系社会批評家商売をしているNoam Chomskyというオジイサンが、なんか、アイン・ランドのことを「もっとも邪悪な作家のひとり」とか言ったそうです。ちゃんと、読んだのかな〜〜アイン・ランド研究者として、私は、このオジイサンの言葉の出典を探して論破すべきなのですが、その闘志がわきません。なぜならば、この人物の著作の翻訳を数冊読んだことが私にはあるのですが、中身について何も憶えていないからです。つまり、私にとっては、その言葉には力がなかった。典型的な秀才頭の言葉が上滑りな「大学教授」なんだろうな。ならば、わざわざ読み直すこともない。 |